私にとって「何かわからないこと」よりも「何がわからないのかわからないこと」の方がキツイのですが、もしかするとあなたもそうですか?
昨年4月から住む場所もかわり新しい局面に入って、環境や状況の変化だけではない何かわからない気の重さがあった。で、2015年、霧が急に晴れ、あっぱれゾウの居場所がわかるようになった・・・ということは無いのだけれど、この気の重さを払う手がかりは少しづつ集まってきているように思う。
ひとつは自分の世界観の問題です。自分がどのような世界観を環境が変わった今持っているのかということ。近年(放置してきたことはわかっています)世界観が形作られてないなと。もうひとつは昨年4月から公の仕事をになっているけれど、形のはっきりしない世界観の中で、自分の担う「公」の役割もともに見失われていること。自分が何のために働き、その働きはどのように世間さまに役立っているのか。大きくはこの二つ、世界観と公観(おおやけかん、と名づける)がないとどうもわたしは悲観的になるようです。ということで、わたしの問いはゾウの形でわたしのそばに立っているということがわかりました。ゾウよ、あばれることなかれ。ゾウは人を踏み潰すためではなく、友達になるためにいると信じて。
昨年4月から住む場所もかわり新しい局面に入って、環境や状況の変化だけではない何かわからない気の重さがあった。で、2015年、霧が急に晴れ、あっぱれゾウの居場所がわかるようになった・・・ということは無いのだけれど、この気の重さを払う手がかりは少しづつ集まってきているように思う。
ひとつは自分の世界観の問題です。自分がどのような世界観を環境が変わった今持っているのかということ。近年(放置してきたことはわかっています)世界観が形作られてないなと。もうひとつは昨年4月から公の仕事をになっているけれど、形のはっきりしない世界観の中で、自分の担う「公」の役割もともに見失われていること。自分が何のために働き、その働きはどのように世間さまに役立っているのか。大きくはこの二つ、世界観と公観(おおやけかん、と名づける)がないとどうもわたしは悲観的になるようです。ということで、わたしの問いはゾウの形でわたしのそばに立っているということがわかりました。ゾウよ、あばれることなかれ。ゾウは人を踏み潰すためではなく、友達になるためにいると信じて。