今日は岩手県最大の被災都市。陸前高田へ。
昭和30年1月1日 高田町、気仙町、広田町、小友村、米崎村、矢作村、竹駒村、横田村が
合併し、陸前高田市が設置される。
今回津波被害を受けなかったのは、横田のみ。
川の駅 よこた。
これから入る陸前高田市内は、トイレはまったくないので
ここでトイレ休憩です。
ここで、陸前高田市観光物産協会 實吉(みよし)さんと合流し、
陸前高田市内を視察します。
實吉さんのご自宅は、築100年をこえる家屋ながら家は無事でした。
が、震災後3か月は水道が出ず、苦労されたそうです。
しかし、妹さんを亡くし、青森県境近くで荼毘にふすまで、
ガソリンがなく、朝5時からお昼近くまで並んで、一人20リットル買えるのみで
数日並び、やっとクルマをだし、青森県境近くまで行けたそうです。
震災直後は生きるのが精いっぱいでしたが、
今の方が悲しみが強いそうです。
陸前高田の町並みは壊滅的な被害で、
とても遠くから、海が見えます。
3・11以前は沢山の町並みがあり、この位置から海は全く見えなかったと思います。
一番高い建物が千昌男さんがオーナーだった、キャピタルホテル1000
古川沼前にあったホテルは、地盤沈下で今も水につかり解体中。
曲がってしまった欄干。
瓦礫の山。TVや新聞で見ると、小さく見える瓦礫も
実際見ると、その何十倍かあります。
今一番の問題は瓦礫。
この瓦礫が無くならないうちは、復興は難しいそうです。
バスの背丈を超す瓦礫。
瓦礫は岩手県で476万t、処理に11~13年かかると言われています。
岩手県立高田病院
橋がなくなっています。
私が訪れた時は、街の瓦礫は瓦礫置き場に置かれ、一面ほとんどなにもなく、
瓦礫を片付ける方や、工事の方がいるだけで、
道行く人も3人ほど、見かけただけ。
車も少し通っているという状態でした。
トイレなんて、ないはずです。
気仙小学校
気仙中学校
奇跡の一本松は行程表では車窓からとなっていましたが、
気仙川対岸でバスから降ろしてもらえました。
高田松原は以前は綺麗な砂浜があり夏は、海水浴客でにぎわっていましたが、
地盤沈下で砂浜はなくなりました。
奇跡の一本松は、潮につかり、液状化で枯れてしまいそうです。
下枝が伸びて瓦礫が引っかからなかったことと、堤防が近かったのが残った理由だそうです。
博物館・図書館・中央公民館
公民館は避難場所でしたが、避難場所が被災。
消防署
陸前高田市役所 正面玄関
實吉さんにお話を聞きます。
4階まで津波に襲われ、屋上に上がった方は助かりました、
庁舎内にいた方は、助からなかったそうです。
津波で流れてきた、クルマが庁舎の中に。
同じ旅仲間の方がお経を唱えていました。
市役所から、少し北にいくと、デパート・マイヤ。
よく報道写真にありました。
市役所のお向かいの市民会館
これらの公共の建物は今年度予算がついたので、取り壊されるそうです。
本当に何にもなくなってしまいます。
市役所の前の瓦礫
高田バイパス近くの、海に近いアパート
5階の窓が破られているので、そこまで津波に襲われています。
野球場は80cmの地盤沈下で海の中に、
地図で見るとたくさんの建物がありました。
鉄筋コンクリートの建物を残し、すべて津波に持っていかれました。
黄色が津波の浸水域です。
實吉さんは「大津波が襲った たった30分くらいの間に、
20000人近くの貴重な命がなくなるなんて、
原爆でも落ちるかしなければ、そんな事ってないことです。
人生には上り坂・下り坂そして まさかが…
あの時、私もまさか大津波が街を壊滅状態にしていったなんて信じられなかった。
3・11の2日前にも、震度5の地震があった。
その時の津波は50cm。
だから、今回もたいしたことないだろうと思ってしまった。
それがいけなかった」と。
想定に、とらわれてはいけないと。
そして、家族で避難場所の確認もして下さいとのことでした。
実は被災地に、旅行で足を運んでいいものか?と、思っていました。
しかし案内人の實吉さんは、
是非来て・見て、物産を買って、食べて、ほしいと。
TV・新聞・雑誌・ネットなどではなく、
実際その場所に立って見てほしいと言われました。
しかし、やはり旅行で来て…と、不愉快に感じる方もいらっしゃると思います。
申し訳ありませんと、言うしかありません。
いわて花巻空港から名古屋へ帰ります。
ターミナルビルが新しくなっていました。
(2009年に滑走路東側にオープン)
今回もセントレアではなく、県営名古屋空港へ。
この旅行は、八戸から三陸海岸を南下し陸前高田まででしたが、
この先最大の死者・行方不明者を出した、宮城県
福島第一原発のある福島県
津波・液状化被害を受けた、茨城県・千葉県とあります。
私ごとですが、私の息子は
福島第一原発の事故が本当に収束するまで
福島に定期的に向かうことになります。
(今の職場を異動すれば、また別の人が)
もう震災から1年以上たったので、復興した。
と、思っている方もいらっしゃると思いますが、
今回見てきたように、今なお続く厳しい状態。
消えない瓦礫の山、まだまだ復興には程遠く、
家族や故郷を失い まだ辛い思いをされている方は
たくさんいらっしゃると思います。
そして まだまだ支援の手は必要です。
あらためまして昨年の大震災で、亡くなったり行方不明になった方々の
ご冥福をお祈りし、被災された皆様方にお見舞い申し上げます。
今は小さな子供さんたちが 大きくなるころには、
また住みやすい街ができていることを、願っております。
未来の大人の為に、
だれもが希望を持ち、心穏やかに住めるふるさとをつくることができますように。
遠く離れ何もできませんが、今回見聞きした事を忘れず、
これからも応援し、いつも思いをはせていきます。
そして、いつか又訪れて、復興していく街を、見てみたいと思っています。
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昭和30年1月1日 高田町、気仙町、広田町、小友村、米崎村、矢作村、竹駒村、横田村が
合併し、陸前高田市が設置される。
今回津波被害を受けなかったのは、横田のみ。
川の駅 よこた。
これから入る陸前高田市内は、トイレはまったくないので
ここでトイレ休憩です。
ここで、陸前高田市観光物産協会 實吉(みよし)さんと合流し、
陸前高田市内を視察します。
實吉さんのご自宅は、築100年をこえる家屋ながら家は無事でした。
が、震災後3か月は水道が出ず、苦労されたそうです。
しかし、妹さんを亡くし、青森県境近くで荼毘にふすまで、
ガソリンがなく、朝5時からお昼近くまで並んで、一人20リットル買えるのみで
数日並び、やっとクルマをだし、青森県境近くまで行けたそうです。
震災直後は生きるのが精いっぱいでしたが、
今の方が悲しみが強いそうです。
陸前高田の町並みは壊滅的な被害で、
とても遠くから、海が見えます。
3・11以前は沢山の町並みがあり、この位置から海は全く見えなかったと思います。
一番高い建物が千昌男さんがオーナーだった、キャピタルホテル1000
古川沼前にあったホテルは、地盤沈下で今も水につかり解体中。
曲がってしまった欄干。
瓦礫の山。TVや新聞で見ると、小さく見える瓦礫も
実際見ると、その何十倍かあります。
今一番の問題は瓦礫。
この瓦礫が無くならないうちは、復興は難しいそうです。
バスの背丈を超す瓦礫。
瓦礫は岩手県で476万t、処理に11~13年かかると言われています。
岩手県立高田病院
橋がなくなっています。
私が訪れた時は、街の瓦礫は瓦礫置き場に置かれ、一面ほとんどなにもなく、
瓦礫を片付ける方や、工事の方がいるだけで、
道行く人も3人ほど、見かけただけ。
車も少し通っているという状態でした。
トイレなんて、ないはずです。
気仙小学校
気仙中学校
奇跡の一本松は行程表では車窓からとなっていましたが、
気仙川対岸でバスから降ろしてもらえました。
高田松原は以前は綺麗な砂浜があり夏は、海水浴客でにぎわっていましたが、
地盤沈下で砂浜はなくなりました。
奇跡の一本松は、潮につかり、液状化で枯れてしまいそうです。
下枝が伸びて瓦礫が引っかからなかったことと、堤防が近かったのが残った理由だそうです。
博物館・図書館・中央公民館
公民館は避難場所でしたが、避難場所が被災。
消防署
陸前高田市役所 正面玄関
實吉さんにお話を聞きます。
4階まで津波に襲われ、屋上に上がった方は助かりました、
庁舎内にいた方は、助からなかったそうです。
津波で流れてきた、クルマが庁舎の中に。
同じ旅仲間の方がお経を唱えていました。
市役所から、少し北にいくと、デパート・マイヤ。
よく報道写真にありました。
市役所のお向かいの市民会館
これらの公共の建物は今年度予算がついたので、取り壊されるそうです。
本当に何にもなくなってしまいます。
市役所の前の瓦礫
高田バイパス近くの、海に近いアパート
5階の窓が破られているので、そこまで津波に襲われています。
野球場は80cmの地盤沈下で海の中に、
地図で見るとたくさんの建物がありました。
鉄筋コンクリートの建物を残し、すべて津波に持っていかれました。
黄色が津波の浸水域です。
實吉さんは「大津波が襲った たった30分くらいの間に、
20000人近くの貴重な命がなくなるなんて、
原爆でも落ちるかしなければ、そんな事ってないことです。
人生には上り坂・下り坂そして まさかが…
あの時、私もまさか大津波が街を壊滅状態にしていったなんて信じられなかった。
3・11の2日前にも、震度5の地震があった。
その時の津波は50cm。
だから、今回もたいしたことないだろうと思ってしまった。
それがいけなかった」と。
想定に、とらわれてはいけないと。
そして、家族で避難場所の確認もして下さいとのことでした。
実は被災地に、旅行で足を運んでいいものか?と、思っていました。
しかし案内人の實吉さんは、
是非来て・見て、物産を買って、食べて、ほしいと。
TV・新聞・雑誌・ネットなどではなく、
実際その場所に立って見てほしいと言われました。
しかし、やはり旅行で来て…と、不愉快に感じる方もいらっしゃると思います。
申し訳ありませんと、言うしかありません。
いわて花巻空港から名古屋へ帰ります。
ターミナルビルが新しくなっていました。
(2009年に滑走路東側にオープン)
今回もセントレアではなく、県営名古屋空港へ。
この旅行は、八戸から三陸海岸を南下し陸前高田まででしたが、
この先最大の死者・行方不明者を出した、宮城県
福島第一原発のある福島県
津波・液状化被害を受けた、茨城県・千葉県とあります。
私ごとですが、私の息子は
福島第一原発の事故が本当に収束するまで
福島に定期的に向かうことになります。
(今の職場を異動すれば、また別の人が)
もう震災から1年以上たったので、復興した。
と、思っている方もいらっしゃると思いますが、
今回見てきたように、今なお続く厳しい状態。
消えない瓦礫の山、まだまだ復興には程遠く、
家族や故郷を失い まだ辛い思いをされている方は
たくさんいらっしゃると思います。
そして まだまだ支援の手は必要です。
あらためまして昨年の大震災で、亡くなったり行方不明になった方々の
ご冥福をお祈りし、被災された皆様方にお見舞い申し上げます。
今は小さな子供さんたちが 大きくなるころには、
また住みやすい街ができていることを、願っております。
未来の大人の為に、
だれもが希望を持ち、心穏やかに住めるふるさとをつくることができますように。
遠く離れ何もできませんが、今回見聞きした事を忘れず、
これからも応援し、いつも思いをはせていきます。
そして、いつか又訪れて、復興していく街を、見てみたいと思っています。
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