「前田敦子はキリストを超えた」
やり過ぎタイトル本出版へ。
そういえば、昔「山口百恵は菩薩である」というのを聞いたことがあるのですけど、
あれも本だったかな。でも、超えちゃいけないでしょ、超えちゃ(笑)
「前田敦子はキリストを超えた」
やり過ぎタイトル本に各方面から批判の声(J-castニュース)
たぶん、前田敦子さんのファン、といってはいけないと思うんですが、
キリストと比較してしまえるあたり、
ファンの匂いが充満しているではないですか。
ご本人は真剣にそう思っているのかもしれないけれど、
評論の対象である前田さんはどのような感想をお持ちなのでしょう。
たぶん、前田さんにも多大なご迷惑がかかると思うんですけれども。
だいたい、評論する対象を、何かと比較するってどういうことなんだろうと思います。
既存のイメージに頼る、その評論の薄っぺらさ。
誰の名前にも頼らずに、その人物評を浮かび上がらせてこそ評論、とは私見であります。
仏教関係用語が、日常の比喩になっている日本では(お陀仏、往生、餓鬼、坊主などなど)、つい使ってしまいますけれど、これはちょっとやり過ぎでしょう。
中身を読んでいないので、「キリスト」の意味するところはわかりませんが、「救世主」と言いたいのかな。しかし、キリスト教における「救世主」は黙示録で説かれる終末論にかかわる恐ろしさを含んだ絶対的存在(この世界を一掃してしまう存在)であるので、それを一個人と比較して、しかも(絶対的存在を)超えたと表現してはいけない、、、となんちゃってキリスト教徒の私でも、ひっかかります。違う意味かもしれませんが。
かと言って、「~~は弥勒菩薩を超えた」と言われても、「なぜ弥勒菩薩?」とひっかかりますよね。
こういう安易な比較・言葉の使い方は評論家として、ちょっと致命的ミスだったかもしれません。厳密に扱うべき言葉(少なくとも世界レベルでは、かなり神経を使うべき言葉)を安易に使う態度や、新しい現象や概念を説明するのにありきたりな比喩表現を使う姿勢は、言葉を武器に戦う評論家の態度ではないです。
その一方で、明らかに比喩表現であって、本気で「キリストを超えた存在だ」と言っているわけではないのに、これほど大騒ぎしてバッシングしなくても、、、と思います。
タイトルを見て「あ~この評論家はダメだな」と切って捨てて無視するのが大人なのでは?
(↑一番、評論家にはこたえるはず)
まろうさぎさんがおっしゃること、
なるほどなあと思って、じっくり読ませていただきました。
評論家さんだからと、
宗教学者さんより下位に置く気持ちは毛頭ないのですけれど、
でも、並べておく人物の名前が革命家でも政治家でも宗教者でもないところに
強い違和感を覚えてしまいますよね。
キリスト教は宗教の名の下に、勢力を拡張するために
武力で征服してきた歴史もあるではないですか。
でも、さすがに21世紀になってきて、そういう覇権主義はかつてのようではないと思います。
(と自信なさげにいう)
しかし、比ゆ的に名前をあげるなら、
今回のような使い方をするにはまだインパクトがあると思うのです。
インパクトのある人物として、ではキリストではなく、
ムハンマドはなぜあげなかったのか?
原理主義者の報復が怖いからでしょう?
とある地方大学の教授が、反イスラム主義と言われる小説の翻訳をしたから殺害された、
と噂される事件がありましたよね。
この評論家はキリスト教関係で自分が危険な目にあわないと踏んでいるからこそ、
こういう暴挙に出たのだろうなあと思います。
いずれにしても、この著者は信用をなくしましたよね。
それにしても前田さんはいい迷惑だと思います^^