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大阪 なにわ七幸めぐり 四天王寺

2020年02月12日 | ・神社・仏閣「大阪」






≪なにわ七幸めぐり7≫
≪四天王寺≫(家内安全)


最後の場所は、四天王寺 

ここは、何度も来ている所 

鳥居をくぐり、西大門から入ります 



転法輪(てんぽうりん)
転法輪とは古代インドの戦車の車輪を形どったもので「お釈迦様の教え」の意味がある。
参詣者はこれを手のひらで軽く右(時計回り)に回転させ、仏の尊い教えが車輪のように回転して遠くまで広がる様を表している。



五重塔があります 




聖徳太子の心を今に伝える
日本仏法最初の官寺
幾多の罹災に遭っても人々の信心の力で復興


推古天皇元年(五九三)、聖徳太子によって創建された日本仏法最初の官寺、 四天王寺。崇仏派の蘇我氏と排仏派の物部氏が戦った際、蘇我氏側に立った太子が、戦勝すれば四天王を安置する寺を建立し衆生救済につとめると祈願し、勝利のあと本寺を建立し誓いを果たしたと伝わります。
境内中央にある中心伽藍は「四天王寺式伽藍(がらん)」といわれる寺院配置で、南から北へ中門、五重塔、金堂、講堂が一直線に並び、周囲を回廊が囲んでいます。これは六~七世紀の中国や朝鮮半島の様式を今に伝える貴重なもので、日本では最も古い伽藍の形式といわれ、法隆寺式伽藍(五重塔と金堂が東西に横並びになっている)と対になって紹介されます。
奈良時代の講堂の倒壊をはじめ、石山本願寺の合戦にて織田信長の焼き討ち、大阪夏の陣での焼失、昭和九年の室戸台風での五重塔崩壊、最後に昭和二十年の大阪大空襲では境内南側のほぼ全域が焼失するなど、四天王寺は幾度も罹災しますが、その都度、多くの人々の寄進の力でよみがえりました。
また太子は四天王寺の建立にあたって「四箇院(しかいん)の制」という制度を導入しました。四箇院とは、敬田院(きょうでんいん)、施薬院(せやくいん)、療病院(りょうびょういん)、悲田院(ひでんいん)から成り、敬田院は寺院そのもの修行と教育の道場(つまり学校)、施薬院はや薬草を育てて人々に配る施設(つまり薬局)、療病院は傷ついり病気になった人達を治療する施設(つまり病院)、悲田院は親を失った子供や養ってくれる子供を亡くした老人のための社会福祉施設にあたります。その理念は1400年経った今日にも引き継がれ、敬田院は学校法人四天王寺学園として仏教教育を実施し、悲田、施薬、療病院は社会福祉法人四天王寺福祉事業団に継承発展させています。

●聖徳太子の存在を身近に感じられるお寺

聖徳太子が最初に建立された官寺(聖地)として、「太子信仰」とともに歩んできた四天王寺。太子を祀る聖霊院(しょうりょういん)・太子前殿・奥殿をはじめ、大工技術の始祖ともいわれる太子の偉業を顕彰する番匠堂(ばんしょうどう)や太子が極楽浄土へ導くと伝わる引導石、太子の伝説が描かれた「太子絵伝」の奉納された絵堂(毎月22日ご開扉)、西の休憩所(和労堂)には中央に太子像がお祀りされています。あるいは、太子の誕生を祝う生身供(1/12)や、太子二歳まいり(2/22)、命日を偲ぶ聖霊会舞楽法要(4/22)など、聖徳太子の存在が身近に感じられるゆかりのお堂・史跡や行事が数多くあります。

●浄土信仰や霊場巡りとも結びつきの強い聖地

また四天王寺は、彼岸の中日に石の鳥居の真ん中に夕日が沈む光景が眺められることから南無阿弥陀仏の「浄土信仰」とも結びつきが深く、多くの参拝者で賑わう春と秋の彼岸には、夕日を拝んで極楽浄土を観想する「日想観(じっそうかん)」という法要が伝統行事として引き継がれています。
さらに、空海・最澄をはじめとする数多くの高僧が参拝されている事から、日本における巡礼全般の聖地として、四天王寺は宗派や時代を超えて広く信仰を集め、今日に至っています。HPより

今年のご朱印めぐりは、すべてスマホ撮影です

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