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先生、そこまちがってるよ

ちがってねえよ。
ちょっとあってねえだけだよ。

【雑学】学校では教えてくれない強制連行の仕組み2

2005年12月12日 09時05分39秒 | 【亜細亜ヲチング】アジアの人々NEWS
さて。

前回、

1939年から45年までの7年間、
日本国内の労働力不足を補うため
朝鮮半島から労働者を戦時動員した
『強制連行』には

3段階

あった、ってことをやったよね。

今回はその3段階がどういうものだったかをやっていきます。
意外と「へぇ」な感じかも。

~~~~まず第1段階~~~~ 
1939年(昭和14)の募集とは

1939年9月に始まった「募集」は、
日本国内の企業が朝鮮総督府の許可を得て、
指定された地域で労働者を募り、
応募した人達が集団で内地に渡航する、というスタイル。

日本政府はそれまで、
労働者の需給バランスや治安上の理由から、
就職先や滞在費を持たないなど
生活の見通しがたたない朝鮮人の内地への渡航を制限していた。

しかし、
日中戦争の長期化で日本の青年が軍隊に取られ、
労働力が足りなくなってきたため、
日本企業が朝鮮で労働者を募集することを解禁した。

募集は条件を示して希望者を募る方向で行われた。
無理やり引っ張ってきたわけではない。
募集に応じた労働者は

約14万7000人

~~~~次に第2段階~~~~
1942年(昭和17)の官斡旋

1942年3月に始まった「官斡旋」から強制連行と言われるんだけど。
「官斡旋」と「徴用」の決定的な違いは、

罰則の有無

ここ大事。罰則があるかないか、ね。

企業が朝鮮総督府に必要人数を申し入れ、

総督府が人数を道(日本でいう県)に割り当て、

道は郡(市)に、

郡は邑(町)や面(村)に

それぞれ割り当て人数を下ろしていくやり方。

邑や面は、日本へ送るのに適当と考えられる人を説得した。

日本行きを拒否することは出来たし、

拒否しても罰則はない

それから
官斡旋で働きだした仕事場は

辞める事も出来た。

・・・強制じゃないじゃん。

官斡旋では、
予定企業に就職後、逃げ出して先輩の企業に就職したケースも多い。
この場合、
前渡し金や食費、未払い賃金など
金銭的な精算をすれば犯罪にもならず
食糧の配給ももらえた。

この官斡旋に応じた労働者は

約30万人

~~~~そして第3段階~~~~
1944年(昭和19)9月の朝鮮人への徴用

朝鮮人への、と書いたのは
それ以前の1939年(昭和14)7月の時点ですでに

日本人(内地人)は徴用されていたからね。

当時、面長(村長)、郡守は原則、朝鮮人で、
警官の半数近くが朝鮮人だった。
衆議院や貴族院に朝鮮人も議席を有していたし。

そんな中で
拉致や人狩りが公然とあったとしたら、
黙っていると思う?
まず間違いなく

暴動

が起きるでしょ。
でも不思議なことに
終戦まで治安は維持されてたんだよね。

朝鮮の人口に占める日本人の割合は
大正期では約1パーセント。

1931年(昭和6)で
2.5パーセント
しかない。
圧倒的多数に囲まれて生活していた日本人。
そんな中でねえ。

徴用は拒否出来ないんだから
強制連行と同じじゃないか

ってことも聞くんだけども。

日本人はもっと前から徴用されてるんだけどね。
このあたりはスルーなんだろうね。
1939年から徴用された日本人がいるのに
1944年から徴用された朝鮮人のことばっかりねえ。

徴用される条件は同じなんだよ。
でも、朝鮮では
猶予期間が6年もあった。
<募集>は自由意志だし
<官斡旋>は辞めることすらできた。
その間、日本人はいきなり強制からスタートorz

戦時中の日本では
青年男子は徴兵されて戦場へ行き、
残る国民は国家総動員法に基づく国民徴用令により
徴用されて工場で働いた。

徴兵や徴用は日本国民の義務だった。
そして、
朝鮮人はその当時、
日本国民だった。
戦争になれば労働力を補充するため
どこの国でも戦時動員を行う。

戦争遂行の為に植民地住民を徴用することは
欧米諸国も実施していて、
それは国際法違反ではなく、
東京裁判でも問題にならなかったんだけどね。

法律の手続きに則って行われた戦時動員を、
あたかも不法行為であるかのように

「強制連行」

って言うのはねえ。

この徴用で動員されたのは

約22万人

さて
次回は『強制連行』に隠されたカラクリを暴露しちゃおうかな。

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