先生、そこまちがってるよ

ちがってねえよ。
ちょっとあってねえだけだよ。

ベル

2006年08月31日 23時37分42秒 | 【チラシの裏】
やあ、どうも。
マイノリティ フレーバー・くすぶりです。

先日、ケータイのメールで『お』と打つのに
5回もカチカチせねばならんのは試練であると感じる
と泣き言をかましたところ、
ベル打ちなる方法があるとの情報をお寄せいただいた。

情報提供者はどうやらマイノリティ ロードのろくでなし、
もとい、
管理人と近い年齢であるらしいので、
そこから推察すると
自動的にくすぶりとも年齢が近いということになる。

ということは、
ベル打ちなる不可思議な単語は
きっと、ポケベルの打ち方、ということではなかろうか、
との結論に達した。

思い起こせば10年前。
なにやらくすぶりの周りではポケベルが大流行であった。

他所は知らんが、
とにかく、くすぶりの周りでは大流行であった。

今では立派な高卒マイノリティであるが
かつては
選良養成機関に属していたころもあった。

くすぶりがエリートなら、
周りはもっとエリートである。

その未来の選良どもですらハマるのであるからして、
その流行ぶりは推して知るべしであった。

なんの因果か、
その当時からすでに
流行るとキライになる
という、
非常に迷惑な思考回路であったので
ついぞポケベルには手を出さなかったが。

というわけで、
ベル打ちと言われても何のことかさっぱりわからず、
ケータイの設定の変更もめんどくせえので
未だにそのままである。

くすぶりの記憶が確かならば、
各行と各音の組み合わせで文字を入力するような方式であったような気がするが
説明書を取り出すのが困難な状況である今、
確認のしようがない。

いっそのこと、
キーボードで打てるようにしてくれれば
すべてが完璧に解決するんだが。

ともかく、
情報ありがとう。
今度おじゃまします。

え~、
それから。
連絡。

Mr.T、肺に穴が開く。
原因は不明。
命に別状はないとのこと。
運動はいかんがタバコはよいらしい。
現在、自宅療養中。

連絡、おわり。

おい。
おまえと同じ匂いだってよw

携帯の中の君の声

2006年08月29日 00時52分49秒 | 【チラシの裏 ☆】
ケータイは携帯するからケータイであり、
携帯しなければただの洒落た子機である。

バッグの中で放置プレイに興じていて
知らない間に電池が切れている
などというのでは、
それはもはやケータイではなく物体である。

ケータイをケータイたらしめているものは
その名のとおり携帯性であるが、
くすぶりの場合、
ケータイを携帯せず、
携帯はもはやただの固定電話と成り果てている。

メールは楽しいが、キライだ。

「お」と打つのに5回もカチカチせねばならんのは
めんどくせえを通り越して
もはや試練であるとさえ感じることがある。
加えて、
類稀なる遅筆なので
書き終わる頃には初めに言いたかったことを忘れ、
電池までもがその生涯を終えようとする。

拍手を打ち、
ナンマイダを唱え、
迷える子羊にムチをくれながら、
今日もナイスな言葉が浮かんできますように
と天上の神々に祈りを捧げる。

真っ白な画面にメンチを切り、
神の啓示を受けるまでひたすらああでもねえ、こうでもねえ、と
カチカチやるのである。

電池の寿命にハラハラしながらカチカチやり、
神様が怠惰なのか、
それともくすぶりの信心が足らんのか、
なかなか言葉が浮かんでこないときは
書き終わる頃には内容が別物に変わり果てていることがある。

迷える子羊を路頭に迷わせたのが神様の逆鱗に触れたのか、
はたまた、
神道特有の『神様だって間違える』というアレなのか、
ゴーストのささやくままに書いていると、
途中で言葉が消えるというハルマゲドンまで起きてしまう。

そのうちに新しいメールが届き、
せっかく3時間もかけて書いたメールはものの見事にボツである。

しくしくと泣いているがそんなことは言えんので、
また新しいお返事の作成に取り掛かるのである。

さて、
いくらメールがキライだからといって、
昨今のお付き合いにはメールは切っても切り離せないものらしく。
近くに住んでいれば会えばいい話ではあるが、
こと遠距離になるとそうもいかない。

日毎、最終の新幹線で現地へとび
夜毎、ブッチギリの癒し系ヴォイスで愛を語らい、
毎朝、始発の新幹線で帰ってくる

などという離れ業をやってのけるにはゼニと体力が必要であるが
あいにくとそのどちらも持ち合わせていないので
必然的にメールということになる。

電話ですればすべてが解決する気がするが、
お互いニートではないのでそうもいかん。

というわけで、
今日も電池に因果を含めつつ
ケータイをカチカチやるのである。

遅筆に加え、プレッシャーもあるので
さらに完成が遅くなる。

これは、まあ、アレなんだが、
どうやら、
くすぶりのメールを気に入ってくれたらしく。

君のメールは君の声がする。
ドキドキする。

とのお言葉を頂いた以上、
くすぶりの誇りにかけてメールを打たねばならん。

プレッシャーに弱く、胃腸も弱いが、
こと言葉に魂を捧げた身であるので、
こればかりは書くのが遅えの、お腹が痛いのと
泣き言をたれるわけにはいかず、
腹をくくらねばならん。

前にも書いたが
本当に人の縁とは不思議である。

お正月に偶然知り合った人と
まさかこうなるとは夢にも思っていなかった。

あたしは君の声が好きやから。
君の声で話を聞くのが好きやから。

そう言ってくれた人とこうなるなんて
想像すらしていなかった。

今までさんざんろくでなしの生き方をしてきたから、
何があっても
これは贖罪である、と耐えてきた。

まだまだ償いは終わっていない。
だから、
しんどいことが報われたとは思ってない。

でも、
がんばったから、
そのご褒美かな、って。
そう思う。

人のこころを傷つけてきたクズが
ようやく、
少しだけ、
誰かのこころにあったかいものを渡せたのかな、って。
そう思う。

前を向いてがんばっているのに、
それがなかなか実を結ばない。

そう、自信をなくしかかっている人に
くすぶりは、
今なら断言できる。

積み上げていったら、
絶対、
絶対に、
誰かに届くから。

だから、
もう少し、
歩いてみようよ、って。


NO SMOKING

2006年08月25日 01時44分31秒 | 【チラシの裏】
何の因果か、
最近では禁煙がもはや治療の領域であるらしい。

病気であるから治療をせねばならんのであるからして、
ということは、
愛煙家であるくすぶりは病人である。

見世物小屋の如きガラス張りの喫煙室でゼニを煙に変えていると、

ほら、あれがタバコ喫みとかいうキチガイよ

などと指を指されながら軽蔑されているうちはまだよかった。

料簡の狭いクズどもから蛇蝎の如く忌み嫌われようと
罪人ではないので謝罪をする必要もなく、
もちろん賠償をする必要もない。

体に悪いからやめたほうがよい、などと言われても

片腹痛いわ、このクズが

と返答を返していればよかった。

狂牛病が怖いからアメリカ牛は食わねえが、
どんな薬が使われているか皆目見当のつかん野菜を、

野菜は体によい、

とか言いながら食っている輩に
体に悪い云々をのたまわれる筋合いはない。

しかし、
もはやそのようなレジスタンスの時代は終わっていたようだ。
何の因果か、
お上から病人指定をされたのである。

健康という名の錦の御旗を掲げ
権利という名の剣を振りかざす迫害者どもに、
納税という名の木刀で抵抗を続けるレジスタンスであったが、
どういう具合か、
病人を治療せよ、との詔勅が下されたらしく
気がつけば
レジスタンスからテロリストへと変わっていた。

レジスタンスでもなく
パルチザンでもなく
あろうことかテロリストである。

体に悪いからやめろ、
から
体が悪いから治せ、
と圧力のベクトルが変わっていたのである。

やめろ、
と言われても
やめねえ、
と言うが
治せ、
と言われると
治さねえ、
と言うかどうか。

非常に迷う所ではある。

くせえのもよくわかっているし
周りにリスクを背負わせることもわかっているので
吸わねえやつの近くでは吸わねえことにしているが、
それにしても
とうとう病人である。

あんまりにもあんまりである。

わけのわからん薬を大量にぶちまけたコンビニの弁当を食い、
出来合いの冷凍食品なんぞで腹を満たし、
薬まみれの野菜を摂っているやつらに
健康について説かれるのである。

タバコの税金が上がると
非喫煙者どもは喝采を浴びせ、
調子に乗ったクズは
欧米ではもっと高いのだからもっと税率を上げろ、
などとトロくさいことを言う。

死者にムチを打つのも、
嫌いなやつが死者なら余分にムチをくれるような外道である。

天下御免の錦の御旗を前に
レジスタンスはテロリストの汚名を着せられ
もはや座して死を待つばかりの身と成り果てた。

お白州に連れ出され死罪を言い渡されるのではなく
路傍にて打ち首と相成るしか
もはや我々には残された道はないのだろう。

正義の御名の下においていずれ死ぬる身なれば
この際言ってしまおうと思う。

アルコールの税金をもっとあげろ、と。

酒なんぞなくても1ミリも困らんので、
酒にかかる税金をもっと高くしろ、と
この際だから言ってしまう。

酔っ払いのクズどもが巻き起こす迷惑は
はっきり言って、
遠慮しながら生きている喫煙者のそれより
はるかに迷惑の度合いが大きい。

自販機は壊すわ、
道端でゲロを吐くわ、
夜中に大声で叫ぶわ、
からんで来るわ、
エレベーターの中でクソをしてくわ、
小便を撒き散らしてくわ、

本当に、
酔っ払いはタチが悪い。

制御不能の酔っ払いなぞ
絶滅してくれても一向に構わん。

タバコの税金が上がったとき
くたばれ、と言われたが、
酒の税金が上がったときは
クソッタレ、と罵ってやった。

相手が嫌がっていることは
空気を読んで遠慮しましょうね

なぞとガキを諭すように言ってくれるが、
なぜこのセリフを酔っ払いのクズどもに言わないのかが不思議である。

食い終わったあとの一服までもが
正義の御名の下に粛清されるのに、
飲み終わったあとにクソを垂れていく輩を
世は粛清してくれない。

おかしい。

世の風潮として
喫煙者はテロリストだが
酔っ払いはテロリストではない。

イヤだと思っているのは同じであるが、
他所様の健康、という錦の御旗があるのとないのとで
こうも扱われ方が違うのである。

換気扇の下。
クソ寒い夜空の下。
見世物小屋の如き喫煙室。

テロリスト呼ばわりされ、
縮こまり、
目立たぬように、
肩をすぼめて生きているというのに、
制御不能の酔っ払いのクズどもは
今日も大手を振って歩いているのである。

アメリカ牛を避けながら、
農薬まみれの野菜を食っているのと同じで
なんだか最近、
片手落ちというか、
片腹痛いことが多過ぎる。

目の前にあることしか理解できんのは、
わかりやすい所しか見ないのは、
なんか

おかしい。


邂逅

2006年08月20日 22時12分55秒 | 【チラシの裏 ☆】
人の縁とはとかく不思議なもので
どこで誰と会うかわからず、
めぐりめぐって誰にたどり着くかもわからんもので。

くすぶりでございます。

先日も、
バディを転がしてバイトへ行き
ナイスな笑顔でアルコールを分解せしめ、
華麗なフットワークで地獄の厨房を北の楽園、
もとい、
南の島のパラダイスの如き快適な風景に変えてきた。

そこで
何年かぶりに同級生の親父に会った。

あれ?
前の人妻とはどうなったんです?

とは聞けず

前のほうがいい女でしたね

とも言えないので、

お久しぶりでございます。

とまあ、
一応アレなご挨拶をかまし
しばらくお話をした。

仲がよかったのはガキのころまでで、
中学も終わりの頃になれば
片や選良養成高校志望、
片やろくでなし製造高校志望。

その他諸々、諸事情により
自ずと距離は離れていったが
その経緯は知らないらしく
未だにお友達であると信じているらしかった。

こういった場合、
ホントのことを言うと
各方面からあらゆる制裁を下される可能性があるので、
相手に花を持たせ、
機嫌を損ねないようにせねばならん。

ウソは大嫌いだが
この際仕方がない。

あのバカ、もとい、息子さんはどうしてるんです?

と聞けば、どうやら音楽をやっているらしい。

へえ~、この年になってまだ音楽ですか。
並の神経ならできませんよね。
よく不安になりませんよね。

と、てめえの価値観を押し付けるのは
とっても失礼なことなので

そうですか。
すごいですねえ。

とだけ答えておいた。

【バカだ、バカだ、とは思っていたけどそんなに】すごい【バカだとは思っていなかった】ですねえ

という意味合いなんだが、
全部を言うと厨房から出刃が飛んでくるので
ぐっとこらえて【 】は省略しておいた。

しばらく会ってないよなあ?

と言われたので

そうですねえ。
中学をおりてからは全然ですねえ。

と答えておいた。

中学の終わりごろですかね、
あんまりムカついたんで便所でフクロにしたんですけど、
それ以来、
口もきいてないですねえ。

なんてホントのことを言ってしまったら、
厨房から煮えたぎった油が飛んでくるので
ぐっとこらえた。

息子のバンドさあ、
インディーズのチャートでさ、
1位になったんだってさ。

とうれしそうに言った。
うれしそうな顔をしている父親、というものほど大好きなものはないので

女のヒモになんかなってないで
さっさと働けばいいんですけどねえ

と言うのはやめておいた。

音楽のことはまるでわからんのだが
インディーズであろうが何であろうが
とにかく1番はスゴイことなんだろう。

よくわからんが、
とにかくすげえもんだな。

言いたいことをグッとこらえて
相手に花を持たせるのが正しいお勤めであるので
これも修行の一環である、とてめえに言い聞かせて
お話のお相手をした。

まさかここで知り合いの親父に会うとは思ってもいず、
しかもその知り合いというのが
かつててめえがフクロにしたやつだなんて
想像すらしていなかった。

人の縁とはとかく不思議なもんである。

会いたい人に会うことはできず、
会いたくねえやつとは頻繁に会ったりする。

きっと何かしら意味があるんだろうけど、
やっぱり、
会いたい人に会いたいよね。

他にわがままは言わないから、
それだけが叶えばいいなあ、ってね。

生来の天邪鬼だから、
大丈夫じゃねえときほど大丈夫だと意地を張る。

ホントはね、
1ミリも大丈夫じゃねえんですよorz



キミの声が好きやから、と言ってくれたあの子。

今日、帰っちまいますた。・゜・(ノД`)・゜・。

年末か。

長いよ、もうorz


誇り

2006年08月16日 23時52分56秒 | 【チラシの裏】
昨日のアクセス数が
なんと過去最高値を記録した。

今までで一番アクセスが多かった記事が
『靖国は戦争装置』
という記事だっただけに、
8月15日にこそくすぶりは何かやらかすに違いない
と思っていただいた結果なのかもしれない。

8月いっぱいはまあムリだと思っていたけど、
15日だけは、
その日だけはあの話題を取り扱うのはやめようって思っていたので、
肩透かしを食らった感じの人も多かったかもしれない。

さて、任期切れを目前に控えた小泉が靖国に参拝をした。

靖国に対する信念なぞ毛ほどもない小泉が参拝したところで
べつに快挙でもなんでもないのだけど、
あれが8割がたパフォーマンスであったにせよ
とにかく

国民の代表が8月15日に参拝をした

というのは快挙であった。

『富田メモ』の時も思ったのだけど、

『代表』や『象徴』が、8月15日に参拝をする

というのは
好き嫌いなんぞで左右されるものではないと思う。

嫌いだから、
嫌いなやつがいるから、
だから参拝しねえ

というのは
どう考えても納得がいかん。

246万余柱が、
国家のために、我々のために命を捧げてくれたことに対して

嫌いだから

とか

あいつがいるから

とか
そんなくだらねえ、ガキのわがままの如きたわごとで
『代表』や『象徴』が

8月15日に護国の英霊に祈りを捧げる

という行為を拒否するのであれば
まったくもって示しがつかんと思うのだが。

鎮魂、慰霊、祈り、とは
心の問題である。

心の問題であるので、
家にいようが
仕事場にいようが
靖国にいようが

どこにいようが
祈りを捧げることの尊さは同じである。

ただ、
それとはべつに

『あの日にあの場所へ行かねばならん』

という責務がある者がいる。

『代表』と『象徴』である。

心の問題なら、
追悼の念の無い者が行ったところで
意味なんかねえじゃねえか

と言われるかもしれない。

そうではない。

『代表』や『象徴』が、
ああ、
めんどくせえな、

首相、天皇が靖国に行くことの最も大きな意味は
国民に範を垂れること、
国家の規範を示すことにあると思う。

本気で祈れ、と言ったところで
そんなアホな話はない。
確認のしようもない。

祈る、祈らん、の問題ではない。

祖国と、
そこに暮らす国民と、
そして何より家族のために命を捧げてくれた英霊に対し、
国家がどういう姿勢で向き合っているか、

ということを示すことにある。

嫌いだから、
嫌いなやつがいるから、
なぞというくだらねえ与太を飛ばしてそれを拒否するのであれば
もはやその地位にいる資格なし、と自分で言ってしまっているのと同じである。

『富田メモ』の真偽のほどはわからん。
どうやら本物らしいんだが。
あれが本物であろうと偽者であろうと
そんなことはどうでもいい。

好きであろうが嫌いであろうが
行かねばならんのである。

個人、という概念があるのかは知らんが、
とにかく
好きだ嫌いだ、という個人的な思いで
その責務を果たされないのであるならば
正直、
とても疑問に思う。

A級戦犯についてもそうだ。

正しく言うなら

『A項該当戦犯』

と言うべきなんだが、
まあ、
もう未来永劫あの呼び名が変わるとはとても思えんので、
この際
そんなことはどうでもいい。

忘れてはならんのは、
国内法上、罪人ではない、と国会で決議されているということである。

日本は民主主義の国である。
決まったことを、
やっぱりイヤだから変える、というのも
決議がなければできんのである。

もう1度罪人に戻したければ
その是非を国会で問わねばならんのである。

それすらせず、
口を開けば

罪人、罪人、戦犯、戦犯、アジアの人々、アジアの人々。

イヤだから、という理由で
決も採らずに過去の決議が覆されるのであれば
それはもはや蛮族の国である。

極東裁判の是非は当然ある。

どう考えてもリンチ裁判にしか見えんのだが、
当時の国際条約が現在ほど発達していなかった、という面もあるし
なにより、
戦に敗れる、とはこういうことなのである。

何をされても文句も言えない。

これが戦に破れ、
国家が滅亡した時に与えられる運命である。

原爆の使用など連合国の行為は対象とされず、
証人のすべてに偽証罪を問わなかった。
罪刑法定主義・法の不遡及も保証されなかった。

罪刑法定主義、とは
ある行為を犯罪として処罰するためには
犯罪とされる行為の内容、
それに対して科される刑罰を
あらかじめ明確に規定しておかなければならない

とする原則のことであり

法の不遡及、とは
実行時に合法であった行為を
後に定めた罰則によって、さかのぼって処罰することや
実行時よりも後に定められたより厳しい罰で、
それを処罰することを禁止する

という近代刑法における原則のことである。

かような裁判が
果たして『裁判』たり得るのかは
はなはだ疑問だが、
それでもやはり
受け入れなければならんのが戦に敗れた国の運命なのだろう。

昭和天皇の誕生日に起訴され、
今上陛下の誕生日に処刑されたA級戦犯。

法治国家においては
法の定める刑の執行が完了した時点で
罪人から前科者へと立場が変わる。

刑の執行が既に済んだ者を
その後も罪人扱いすること自体、
法治国家にそぐわない野蛮な行為である。

であるにもかかわらず
死んだ後も、
未来永劫、罪人扱いである。

しかもそれを
政治家が
票のためか何かはしらんが
軽々と口にする。

非常に納得がいかん。

彼らがいったい何をやってきたか、
当時の国際情勢、
日本のおかれている立場をきちんと理解した上で
罪人である、と評価するのは構わんが
残念ながら
そうではない場合がほとんどである。

大方は
学校で言ってたから、
とか
ニュースでやってたから、
とか
中国様がそうおっしゃった、
とか
朝鮮様がそうおっしゃった、
とか
そんな程度が多い。

そんな程度の認識で
戦犯だのアジアがどうだの言うのは
正直、
どうなんだろう。

A級戦犯の処刑後の扱いについて知っているだろうか。

処刑された7人の遺体は横浜の久保山火葬場で火葬され、
遺骨は米軍により

東京湾に捨てられた。

海に捨てられたのである。

これが、

戦に敗れるということなのである。




極東裁判が
公正な裁判とする意見よりも
魔女狩り同然であったとする意見が目立つのは
戦争犯罪はどこの国でも犯しているものであり、
勝者が敗者を裁くこと自体
卑劣な復讐劇に過ぎないからと言われている。

アメリカの原爆投下も、
日独に対する無差別空爆も、
ソ連のポーランド侵攻も、
ベルリンにおけるレイプも

すべて不問

とされ不公正だとの意見が大勢であるが
何を言っても
行き着くところは

戦に敗れたから

ということであろう。

61年前。
連綿と続いてきた日本という国は消滅した。

それはいったい誰の責任であるのだろうか。

東条らA級戦犯が、
北の将軍様の如く国家を私して独裁国家を作り上げ
アジア全域を暗黒時代に叩き落し、
あまつさえ日本をも滅亡させた

などと幸せなことを思っているのであれば
もう、
何をかいわんや、である。

責任、とはいったいなんであるのか。

国民を死なせたことであるのか。

であるならば、
アメリカも同じである。

戦に敗れたことであるのか。

であるならば、
彼らは処刑されたことでその責任を果たしている。

責任とは

いったい何であるのだろうか。

我々の多くは
あの時代に何がおき、
どう移り変わっていったかということに
あまりにも無知でありすぎはしないだろうか。

歴史に真実なぞ存在しない。
あるのは事実だけである。

その事実が、
あまりにも利用されすぎて
あまりにも捻じ曲げられすぎて
もう、
見えなくなってしまっている。

日本にも、
中国にも、
朝鮮にも、
どこの国にも言い分はある。

かなうことならば
事実が明らかにされてほしいと思う。

政治的な思惑であったり、
思想的な意図であったり、
そういうものが排除された事実が
明らかになってほしいと思う。

ただ
今のままでは
未来永劫
事実は闇の底である。

中国や朝鮮の体制がどう変化したところで
大差はないだろう。
誰あろう、日本人自身が
考えることを放棄しているのだから。

中国や朝鮮が
靖国やら何やらいろいろと因縁をつけてくるが
それは
彼らの、彼ら自身の国益のために因縁をつけてくるのであり、
そんなことはどうでもいい。
好悪はあるが、
是非の問題ではない。
どこの国でも
国益のために動くのであるから。

他のどの国でもない、日本自身が
どう考えていくかであろう。

顧みることを放棄し
ただひたすら過去の全てを否定し続け
言われるがままに土下座をし続けるのならば
それは
我々のために命を捧げてくれた英霊に対する
裏切りである。

くすぶりのおじいは特攻隊員である。

中国や南方を転戦し
特攻隊員となった。

意味をつけてくれ、とまでは言わん。
ただ、
中国や朝鮮が文句をたれてくるから、
政教分離がどうとかの、
公人だの私人だの、
戦犯が云々、
そんなクソくだらねえ理由で
天皇や首相が8月15日に参拝を見送るのだとしたら
こんなひどい話はない。

正義も真実も必要ない。

欲しいのは

誇りである。



忘却

2006年08月15日 23時29分34秒 | 【チラシの裏】
やあ、どうも。

とうとう機械にまでダメ出しをされた
プアガイ・くすぶりです。

本日も命懸けで働いてきますた。

盆休みということもあってか、
おかげさまで大層忙しかった。

心を亡くす、と書いて
忙しい、と書くように
ホント
忙しいといろいろなことを忘れる。

どういう具合か、
ある日を境に物忘れが激しくなり
おかげで忙しさ増量中(当社比)な今日この頃である。

アジアのろくでなし
もとい、アジアの良心どもが
どのようにして
そもそも問題ですらなかったものを問題に仕立て上げ、
問題が大問題となり、
挙句の果てに国際問題にまでなってしまったか
といった流れはかなり明確に覚えているのだけど、
そうではないことは
ものすげえ勢いで忘れていく。

エレベーターに乗ったはいいがボタンを押すことを忘れ、
動かねえ箱の中で延々と到着を待ちわびたり、
送ったはいいが迎えに行くことを忘れたり、
メシを作ったはいいが食うのを忘れたり、

とまあ、
あげればキリがない。

その昔、
自転車にまたがり近くの自販機までタバコを買いに行った。

サイフを持って行くほどのことでもねえので
ゼニを握り締め、
ウキウキしながらお出かけをかました。

当時は移動手段として
自転車、という概念はなく
もっぱらクルマか歩きであった。

自転車もなかなかいいじゃねえか、などとたわごとをほざき
風になって自販機を目指した。

根が町人であり、
生息地域がお商売屋さんなので
どんなことがあっても
目的地の玄関に横付けをかますことはできない。

この場合は自販機であるが、
入り口だろうと自販機だろうと
必ずちょっと離れた場所にクルマなり自転車なりを置き、
そこから行くのがスジである。

自転車にまたがり風になって移動し、
自転車から降りて風からただのろくでなしになった。

厳かに自販機の前に立ち、
文句もたれずによう働くなあ、などと自販機を褒め
おもむろにゼニを投入し
念願のヤニを購入した。

本日も雲一つないよい天気である。



さて、
お家に着いてから
ひどい忘れ物をしたことに気付いた。

手には、正確無比に吐き出されたつり銭があるが
肝心のタバコがない。
そしてあろうことか自転車までない。

さすがに大笑いであった。

風になってタバコを買いに行ったはいいが、
自転車から降りればただのろくでなしであるので、
つり銭を握り締め
ウキウキしながら歩いて帰って来ちまったのであった。

急いで戻ってみると、
自販機の中にはタバコが置き去りにされ、
少し離れた場所では自転車が放置プレイに興じていた。

この人でなし、と罵られたが
ろくでなしではあるが人でなしではないので
そこは強行に抗議し、
認識の違いを正した後、
どうもすみません、と謝罪した。
そして、
しっかりとタバコを握り締め
ふたたび風になって帰ってきたのであった。




今気付いたんだけど、
忘れる、って字も
心を亡くす、って書くんだね。

忙しかったり
忘れていたりすれば
だんだんと心を亡くしていくんだろうか。

思いやることもできないほど忙しく、
思い出すこともできないほど忘れてしまえば
たしかに
心を亡くしていくんだろうね。

思い出が消えていくというのは、
思いが消えていくというのは、
やっぱり
さみしいことだよね。

いろいろなものがなくなっていく。

そこからうまれたものまでをも消してしまうのは
たしかに
こころないことなんだろう。

こころのない人間のことを人でなしという。

ろくでなしではあるが人でなしではない。

これは幸いである。



61年目。

思いは

繋がっているのだろうか。



over rev 

2006年08月14日 21時35分01秒 | 【チラシの裏】
勝利を、さもなくば死を

お暑うございます。

くすぶりでございます。

ゼロか100か

というスタンスは
何事につけてもマイナスにしか作用しないのだが、
どういう具合か
こういう傾向が強い。

生まれつきでないことは確かである。

その昔、
くすぶりがガキであったころ、
それはもうテキトーな性格であった。

いつの頃からかはわからんが
気付けばそれとはまったく逆の、
『デッド オア アライブ』な性格になっていた。

普通、
こういう具合に変化をすると
前にも増してイヤな野郎になるもんなんだが、
どういう訳か、
その点に関してだけは
前にも増していい奴になっている。

ゼロか100か、という考え方は
極度のストレスと不安と緊張を強いるもんなんだが、
かつて、
神も仏もねえ時代を送ったせいか、
それすらも抑圧してしまう傾向が強い。


さて、
今日もまた思ったのだけど。

100点じゃなくてもいいんじゃねえかなあ、って。

そう思った。

95点を許せるやわらかさを身につけよう、ってね。

そうしないと、
やっぱり
しんどい。

今よりもっと笑っていたいから、
だから
少しずつやわらかくなっていこう、って。


いや、
ホントはね、
笑えるネタを書こうと思っていたのだけど、
どういう具合かこんなサイトを見つけ、
しかもやってみたら
これまたものすげえ結果になっちまいやがったので
かようなネタと相成った。

最近なんだか鬱々したネタが多いから
なんだかなあ、って思っていたのだけど。
まあ、
仕方ねえ。

鬱度チェック

SCLストレス度チェック 

強迫性チェック

鬱病認知尺度

だうなーランド様より>

なんだかリンク先の名前を見ただけで
激しく鬱になってきちまいそうな雰囲気だが、
いや、そんなんじゃなくてw

べつに
『うつ病について』とかで検索していたわけではなくて、
『強迫観念』について
どんなもんか調べようとしてたらたまたま見つけただけでorz

あ~、そこそこ。

ほら、ひかない、ひかないwww

ほらほら、くすぶりは元気ですよwwwww


やっぱり、
やるからには結果を出したいし、
目標は達成したいと思う。

それは
数字で表すことができる事ばかりじゃなく、
仕事のことであったり、
人との関係であったり、
自分のこころのバランスであったり、
目指すべきものであったり、
克服すべきものであったり。

ただ、
そうやって出た結果と
どういう風にバランスを取ったらいいか。
その距離感がやっぱり難しいなあって。

そう思う。

どこまでが諦めで、
どこからがそうでないか。

わからんもんだ。

まあ、
ゆっくりやっていけばいいよね。




さて、
気になる結果だけど。

すごいよwwwww

ひくと思う、きっとwwwww

ではお待ちかね。
結果発表であります(イェーイwww

<あなたのうつ病度診断結果>

軽症うつ病が疑われます。
一度専門化に診てもらったらいかがでしょう

<あなたのストレス度診断結果>

ストレス総合得点は30点中 13 点です。
*ストレス初期症状得点は10点中 3 点です。
*ストレス慢性症状得点は13点中 7 点です。

中程度のストレス状態です。
本格的なストレス状態の始まりの可能性があります。

<あなたの強迫性チェック診断結果>

強迫観念度得点は14点中 10 点です。
あなたの強迫観念度は病的です。

強迫観念度得点は13点中 4 点です。
あなたの強迫行為度はかなり病的です。

<あなたのうつ病認知尺度診断結果>

総合得点は 121 点です。
危険域です。

以下の項目で一番得点の高い項目があなたの性格傾向です。
 ○「否定的自己認知」得点は 39 点です。
   危険域です。
 ○「対人認知」得点は 41 点です。
   危険域です。
 ○「強迫的思考」得点は 41 点です。
   危険域です。


>病的
>かなり病的
>危険域
>危険域
>危険域
>危険域

ヒドスwwwww

たしかに100点じゃなきゃイヤだと思うことはよくある。

でも
これで満点を取るのは
正直、
どうなんすかwww

しかしまあ、
いくら機械とはいえ
なんか、こう、
アレだなw

まあ、
かえって楽になったかな。

こうまではっきり出てくると
治さなきゃいけない所がよくわかる。

そういう意味では
よい発見であった。

ただねえ、

やっぱ、

病的、ってwww

さて、
キミの結果はどうだったかな?



The Lord of the Henagi : THE RETURN OF THE KING

2006年08月11日 17時17分08秒 | 【チラシの裏】
柳沢 代表復帰渇望

(もうムカつくから中略)

闘志を内に秘めることが多く、
控えめのコメントが目立つ柳沢だが
「見ていて楽しかったです。連動していたし、あそこでやりたいという思いはある」
と本音を隠さなかった。

主力FWとして君臨したジーコジャパン時代は、
満足する活躍ができなかった。
特にW杯ドイツ大会では、
直前の負傷などもあって2試合無得点に終わった。
クロアチア戦(6月18日)ではゴール前で絶好機を外し、非難の矢面に立った。

「忘れたい過去のことです」

いまだに、当時のことを聞かれると言葉を濁す。

(以下略。あとはソース先で確認してください。)

>忘れたい過去のこと

>忘れたい過去のこと

>忘れたい過去のこと

The Lord of The HENAGI : THE RETURN OF THE KING
~ ヘナギ物語 王の帰還 ~


え?

帰ってきたいの?

何しに?







足の外側で蹴るために、かな。




琴線

2006年08月03日 23時55分47秒 | 【靖国とA級戦犯】
巻き舌で流暢な関東弁をしゃべる次郎長はどうかと思う。

くすぶりです。

さて、
なんの因果か、
ここ数日、訪問者数が増加し、
閲覧数は飛躍的に伸びている。

どういうカラクリかは知らんが、
こういう時に打って出なければ商売人の名が廃る、
と思い込み
怒涛のガブリ寄りを決めちまおうと思ってみた。

が、
そう思ってみたものの、
元来が商売に向いていない性格の上、
悪人ではないが
いい人でもないろくでなしが、
そうそう簡単にいい記事など書けるわけもなく、
調子こいてすんませんでした、と
早々に謝る羽目になった。

顧みれば、
十月の間、変わらずに来て、
その評価として『1号』『2号』という奇特な方が現れたのである。

くだらん見栄なぞ出さず、
変わらずにきたから評価をしていただいた。

やっぱり、
調子こいちゃならんのである。

変わらねばならんことはもちろんあるけれど、
変わらずにいるというのも、
それはそれで価値のあるものであろう。

成長を諦めることと、
変化をしないということは、
似ているようでやっぱり違う。

お商売であれ、
生き方であれ、
成長しながらもなお、変わらないもの
というものは、
やっぱり、
やってみる価値はあるはずである。

やってみなけりゃわからねえ

と言い続けていないと、
ついつい逃げてしまうので、
思い出すたびにてめえに言い続けないといかん。

さて、
1号、2号、V3
という壮大なヲタネタだが、
元ネタが仮面ライダーではない時点で
もはや誰にもわからんと思うので、
たぶん、
V3は欠番になる可能性が高い。

次の4様にいたっては、
思想、信条、及び属性的に受け入れられない可能性が多々あるはずであり、
これもまた、
壮大なオヤジネタで終わる可能性が高い。

いつもそうだが、
言ってから気付く、という
まあ、いつも通りのアレであったwww

誰に気を使うわけでもないけれど、
まあべつに、
これはこれでネタとしてよかろうがい、ってな具合で。

そもそも、
韓流禁止の写真をプロフィールに掲げておきながら
4様を名乗れと言うのも壮大な皮肉である。

出てこなけりゃそれまでなので、
今ここでムニムニ言ってても詮無いことではあるけれどw

まあ、
少しでも楽しんでもらえるように
記事に専念する。

極右がねwwwww


待ってるよ、V3wwwww

待ってるよ、4様wwwww

さて、
話はガラッと変わるが、

霊魂や神様といった概念を否定する思想において、
靖国とは一体なんであるのか。

端から信じていねえんだから、

けっ、ばっかくせえ

と放っておけばいいものの、
あそこまで固執、執着するのは不思議ではある。

肉体が滅べばそれまでであり、
すべてが消滅する。

ということは、
海を隔てた島国が、
慰霊だの鎮魂だの追悼だのを騒いでおっても、
普通であればどうでもいいはずである。

にもかかわらず、
アレである。

これはまあ、昔から疑問ではあったが、
つい最近、この疑問が解決した。

平和を愛するアジ(以下略)な人々からは
きっと蛇蝎のごとく忌み嫌われているであろう
日本一の正論、もとい、右翼雑誌『正論』で
目からウロコな記事を読んだ。

反日メディアのクズや鳥越、もとい、アジアの良心から見れば
くすぶりは正しいネット右翼であるので、
その責務に応えて、
ここにお勉強の成果、というか
仕入れた情報を書き散らすことにする。

もとより右だ左だなんぞに毛ほどの興味もないが、
くすぶりが右翼であるかどうかは、
読んだ人が判断すればいいと思っております。

革命を起こす気なぞなく、
カチコミをかます気概もなく、
ましていわんや、
今の天皇家に、
くすぶりの情熱を傾けるほどの『心意気たるカリスマ性』なぞ、
残念ながら寸毫も見られない中で

ただ、

『ない』ことが『ある』
『ある』ことが『捏造』
『ウソ』が『ホント』
『ホント』が『無反省』
『テポ丼』と『謝罪汁』

というのは、
いささか納得いかんので、
チラシの裏に書きなぐる運びと相成った。


~以下敬称略

小泉の靖国参拝が日中間の『政治的』な障害となっている。

が、
普通に考えれば、
日本から見ればこれは『宗教的』な障害であるはずである。
政教分離云々が出てくる、ということは
これが多分に『宗教性』を帯びた“問題”だからであろう。

この、
生きている人間と死者の霊魂を軸とした『宗教的』な問題が
なぜ『政治的』な問題となるのか、ということだが。

中国政府、つまり、中国共産党の指導理念というものは
一切の宗教的行為の正当性も認めない

『唯物主義の無神論』

であるという。

彼らの世界観においては、
宗教の存在意義や正当性が完全に否定され、
神様や魂の存在もまったく認められない。

唯物主義者から見れば
人間の精神というものは肉体という

『物質的基礎』

があってこそのもので、
人間が死んでその肉体が消滅すると、
その人間の精神もそのまま永遠に消え去ることになる。

よって、
死後の魂なぞというものはあるわけがない。

かような世界観において、
生者と死者との関係は完全に断絶している。

肉体を持つ人間は存在し、
肉体が消滅した人間は端から存在しないから、
関係性は存在しなくなる。

魂なぞというものは存在しないから、
死者に対する『お参り』も『慰霊』もまったく意味のない行為であり、
そのような行為に何らかの意味があるとは
考えることはできない。

端から存在していない『魂』なぞというものに対して
なぜ『慰霊』などというものが必要なのか

ということである。

かような背景から見れば、
大半の日本人とはまったく違うものの見方をしていることになる。

彼らの世界観においては、
靖国参拝に託された、
死者の魂に対する慰霊、という宗教的な意味も
哀悼の意を捧げるという宗教的な心情も

けっ、ばっかくせえ

と排除されてしまう。
そして残されるのは、
そこに、

『現実的、政治的な意図がある』

ということだそうだ。

生きている人間の行為には、
そこになんらかの現実的な動機や理由がなければならない。

日本国総理大臣という政治指導者の行った靖国参拝は、
当然、
なんらかの政治動機に基づく政治行為でなければならない

となるそうである。

『魂』、『英霊』云々は、
彼らにとっては端からありえない虚構であるから、
小泉はただ単に『魂』や『英霊』のために参拝しに行くわけがない。
小泉がいくら哀悼云々を抜かしたところで、
それはただの方便である。

となるそうな。

『A級戦犯合祀問題』

というものがあるが、
彼らの世界観からすれば
『合祀』云々を問題にすることはおかしな話で、
彼らはそもそも『魂』の存在を認めていない。
ということは、
戦犯の魂が合祀されていようがいまいが、
どうでもいいことである。

だが、
そうはならないところが現実である。

彼らは魂というものと、
その宗教的意味を認めていない。
よって、
多くの日本人と同じように、

『靖国に戦犯の魂が祀られている』

と認識しているわけではない。
どういうことかといえば、
つまり、

侵略戦争の指導者が今なお靖国神社なる場所で

『記念』

あるいは

『表彰』

されている、となる。

人間が死んだ後、
生きている人間とは異質の、『魂』になる

という概念を端から持っていないから、
靖国に祀られている戦犯は、
今なお、戦争指導者のままである
と認識していることになる。

そうすると、
彼らの目から見た小泉の参拝というものは、
生きている小泉と、
魂である戦犯との

『宗教的な関係性』

ではなく、
小泉という現在の政治指導者と、
東条ら過去の戦争指導者との

『政治的な関係性』

である、となる。

したがって、
小泉という現在の日本の指導者が靖国参拝をかますことによって、
過去の戦争指導者たちを

『記念』

あるいは

『表彰』

することになり、
戦犯ら過去の戦争指導者と政治的関係を持つことは
すなわち、

侵略戦争に対する容認と美化

であり、

戦犯らの推進した戦争政策に対する
共感と賛意の表れにほかならない、

ということになる。

小泉が戦犯らと政治的関係性を持つことによって、
小泉及び彼の率いる日本政府と、
過去の『侵略戦争』との連続的関係性が現実に生じてきた

と解釈されているわけである。

、だそうだ。

そして、
中国指導部から見れば、
A級戦犯を『美化』する靖国参拝などというものは、
中国政府に対する

『重大なる挑発』

以外の何物でもない。

極悪非道の日本軍をブチ負かして、
人民を地獄から解放したのは

『民族の英雄としての共産党』

というのが
彼らの政権を支える思想的な支柱である。

その『神話』の中では、
A級戦犯こそ英雄を輝かしめる『悪魔』であり、
『悪魔の断罪』とは、
英雄が勝利した証でもある。

『悪魔』は未来永劫、煉獄の炎に焼かれていなければならない。
そうしてこそ、
彼ら中国共産党指導部の正義と神話は維持されるのである。

かような流れにおいて、
戦犯が合祀されている靖国に参拝するということは、

『悪魔』の名誉回復であり、
日本軍国主義に対する美化であり、
『悪魔』を打ち負かした英雄の歴史的な功績にケチをつける

ということであるから、
絶対に許すことができない

ということになるそうだ。

正論9月号

靖国特集

魂の存在が理解できない胡錦涛世代の世界観

評論家●石平(せき・へい)

より


さて、

なるほどなあ、と思ったのだけど
どうだっただろうか。

目からウロコであった。

もちろんこんな簡単なことじゃなく、
もっともっと複雑に絡み合ってはいるのだろうけど、
こういう見方もなかなかおもしれえもんだな、と。

ただ、
思想的に相容れない、
というものは往々にしてあるもので、
こと信仰に基づいた文化というものは、

あの国がいいって言ってくれねえからやめる、

とか

あの国がファビョってるから小細工をかまして先送りする、

とかそういうものではないと思うんだけどね。

信仰は時に思想を硬直化させ、
往々にして柔らかさを奪い取るものである

というのは、
くすぶりが外人を見て感じた率直な感想であった。

明文化された教義があればあるほど、
『話にならねえ』
という事態は多々あり、
『異教徒』との間で感情的な対立に発展していくのは
この目で見、
この身で体験した。

そこで思ったのは、
日本の『宗教観』って、
ほんと、いいなあ、って。

うまくは言えないけど。

普段、
信心深い外人と接することもなく、
まして
宗教論争なんぞをかましたことがない人には
わからないことかもしれないけれど、
ほんと、
日本の宗教観って、
いいもんですよ。

やさしい。
すべてに。

これをすごく感じた。

靖国『問題』云々なんて、
個人的にはすげえくだらねえ話だと思っているけど、
朝日のおかげでかような事態となっちまいやがったので、
もしもこの先、
その『問題』を考えることがあれば、
朝鮮がああ言ってる、とか
中国がこう言ってる、とかじゃなくて、
自分の内に根ざした、
ごくごく当たり前の宗教観で
それを考えてみるのもいいんじゃないかなあ、って。

そう思いますね。

幼少のみぎり、
本気で出家を考えた。

信仰は人の救いでなければならないはずだ。

魂というものがあるのなら、
それを安んずるものであってほしい。

政治という、
欲にまみれたドロドロの現実で琴線を汚すことは、
冒涜である。