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先生、そこまちがってるよ

ちがってねえよ。
ちょっとあってねえだけだよ。

誡子書  全文・訳

2006年04月14日 21時49分27秒 | 【三国志】出師の表・誡子書【原文】
いやあ、ネタがない。

ほんとないすorz

ここで小噺をば、ってわけにもいかんしね。

あんまりないんでとりあえず『誡子書』を放置しておく。
すごく好きな漢文なので。

ええと。
くすぶりの作品には必ず名前が彫ってあるのだけど、
その名前はここから借りた。

『澹:タン』

誡子書
     ~諸葛亮~

夫君子之行、
 『それ君子の行いは』
静以修身、
 『静もって身を修め』
倹以養徳。
 『倹もって徳を養う』

非澹泊無以明志、
 『澹泊(タンパク)にあらざればもって志明らかならず』
非寧静無以致遠。
 『寧静(ネイセイ)にあらざればもって遠きを致すなし』

夫学須静也、
 『それ学はすべからく静(セイ)なるべく』
才須学也。
 『才はすべからく学ぶべし』

非学無以広才、
 『学ぶにあらざればもって才を広むるなく』
非志無以成学。
 『志あるにあらざればもって学をなすなし』

滔慢則不能励精、
 『滔慢(トウマン)なればすなわち精を励ますことあたわず』
険躁則不能治性。
 『険躁(ケンソウ)なればすなわち性を治(オサ)むることあたわず』

年与時馳、
 『年は時とともに馳(ハ)せ
意与日去、
 『意は日とともに去り』
遂成枯落、
 『ついに枯落(コラク)をなし
多不接世。
 『多く世に接せず』

悲窮盧守、
 『窮盧(キュウロ)を悲しみ守るも』
将復何及。
 『またまたなんぞ及ばん』

はい、意味いくよ。

優れた人間の行いは
穏やかな心で欠点を直し、足りないところを補い
つつましやかな行いで優れた人格を養う。

無欲でなければ志はたたず
心穏やかでなければ目標を達成させることはできない。

『学ぶ』ということは心穏やかでなければならず
才能は『学ぶ』ことから生まれる。

『学ぶ』ことをしなければ才能は開花せず
志がなければ『学ぶ』ことはできない。

傲慢で思い上がっていては己を奮い立たせることはできず
さわがしく短気であれば己を制御することはできない。

年は時と共に駆け抜け
思いは年と共に去り
とうとう枯れ落ちて
世と接することもなくなってしまう。

そうなって貧困にあえぎ悲嘆にくれるのも
自業自得である。


かくあるべし、ってね。

心穏やかであること。
おごらず、謙虚な心持ちで『学び』続けること。
そして自分を磨き続けること。

心の置くべき場所であったり
生き方であったり
とらえ方であったり。




出師の表:全文 読み下し文

2006年04月06日 00時51分22秒 | 【三国志】出師の表・誡子書【原文】
臣亮言
 <臣亮言す>

先帝創業未半而中道崩殂。
 <先帝創業未だ半ばならずして中道に崩殂せり。>
今天下三分益州疲弊。
 <今天下三分し益州は疲弊す。>
此誠危急存亡之秋也。
 <此れ誠に危急存亡の秋なり。>
然侍衛之臣、不懈於内、
 <然れども侍衛の臣、内に懈らず、>
忠志之士忘、身於外者、
 <忠志の士、身を外に忘るるは、>
蓋追先帝之殊遇、欲報之陛下也。
 <蓋し先帝の殊遇を追ひ、之を陛下に報いんと欲すればなり。>
誠宜開張聖聴以光先帝遺徳、
 <誠に宜しく聖聴を開張し以て先帝の遺徳を光らかにし、>
恢弘志士之気。
 <志士の気を恢弘すべし。>
不宜妄自菲薄引喩失義、
 <宜しく妄りに自ら菲薄し、喩へを引き義を失ひ、>
以塞忠諫之路也。
 <以て忠諫の路を塞ぐべからず。>
宮中府中倶為一体、
 <宮中府中は倶に一体と為り、>
陟罰臧否不宜異同。
 <陟罰臧否するに宜しく異同あるべからず。>
若有作姦犯科、及為忠善者、
 <若し姦を作し科を犯し、及び忠善を為す者有らば、>
宜付有司論其刑賞、
 <宜しく有司に付して其の刑賞を論じ、>
以昭陛下平明之理。
 <以て陛下の平明の理を昭らかにすべし。>
不宜偏私使内外異法也。
 <宜しく偏私して内外をして法に異にせしむべからず。>

侍中侍郎郭攸之・費褘・董允等、
 <侍中侍郎郭攸之・費褘・董允等は、>
此皆良実志慮忠純。
 <此れ皆良実にして志慮忠純なり。>
是以先帝簡抜以遺陛下。
 <是を以て先帝簡抜して以て陛下に遺せり。>
愚以為宮中之事、事無大小悉以咨之、
 <愚以為へらく宮中の事、事大小と無く悉く以て之に咨り、>
然後施行、必能裨補闕漏有所広益。
 <然る後に施行せば、必ず能く闕漏を裨補し広益する所有らんと。>
将軍向寵、性行淑均、堯暢軍事。
 <将軍向寵は、性行淑均、軍事に堯暢す。>
試用於昔日、先帝称之曰能。
 <昔日に試用せるとき、先帝之を称して能と曰ふ。>
是以衆議挙寵以為督。
 <是を以て衆議寵を挙げて以て督と為す。>
愚以為営中之事、悉以咨之、
 <愚以為へらく営中の事、悉く以て之に咨らば、>
必能使行陣和睦、優劣得所。
 <必ず能く行陣をして和睦し、優劣所を得しめんと。>

親賢臣遠小人、此先漢所以興隆也。
 <賢臣に親しみ小人を遠ざくる、此れ先漢の興隆せし所以なり。>
親小人遠賢臣、此後漢所以傾頽也。
 <小人に親しみ賢臣を遠ざくる、此れ後漢の傾頽せし所以なり。>
先帝在時、毎与臣論此事、
 <先帝在りし時、臣と此の事を論ずる毎に、>
未嘗不歎息痛恨於桓霊也。
 <未だ嘗て桓・霊に歎息痛恨せずんばあらざりしなり。>
侍中・尚書・長史・参軍、此悉貞良死節之臣。
 <侍中・尚書・長史・参軍は、此れ悉く貞良死節の臣なり。>
願陛下親之信之。
 <願はくは陛下之に親しみ之を信ぜよ。>
則漢室之隆、可計日而待也。
 <則ち漢室の隆んなること、日を計りて待つべきなり。>

臣本布衣、躬耕於南陽。
 <臣は本布衣、南陽に躬耕す。>
苟全性命於乱世、不求聞達於諸侯。
 <苟くも乱世に性命を全うし、聞達を諸侯に求めず。>
先帝不以臣卑鄙、猥自枉屈、
 <先帝臣の卑鄙なるを以てせず、猥りに自ら枉屈し、>
三顧臣草廬之中、
 <臣を草廬の中に三たび顧み、>
諮臣以当世之事。
 <臣に諮るに当世の事を以てす。>
由是感激、遂許先帝以駆馳。
 <是に由りて感激し、遂に先帝を許すに駆馳を以てす。>
後値傾覆、受任於敗軍之際、奉命於危難之間。
 <後傾覆に値ひ、任を敗軍の際に受け、命を危難の間に奉ず。>
爾来二十有一年矣。
 <爾来二十有一年なり。>

先帝知臣謹慎。
 <先帝臣の謹慎なるを知る。>
故臨崩、寄臣以大事也。
 <故に崩ずるに臨みて、臣に寄するに大事を以てす。>
受命以来夙夜憂歎、
 <命を受けて以来夙夜憂歎し>
恐託付不効以傷先帝之明。
 <託付の効あらず以て先帝の明を傷つけんことを恐る。>
故五月渡濾深入不毛。
 <故に五月濾を渡りて深く不毛に入る。>
今南方已定兵甲已足。
 <今南方已に定まり兵甲已に足る。>
当奨率三軍北定中原。
 <当に三軍を奨率して北のかた中原を定むべし。>
庶竭駑鈍攘除姦凶、
 <庶はくは駑鈍を竭くして姦凶を攘ひ除き、>
興復漢室還于旧都。
 <漢室を興復して旧都に還さん。>
此臣之所以報先帝而忠陛下之職分也。
 <此れ臣の先帝に報いて陛下に忠なる所以の職分なり。>
至於斟酌損益進尽忠言、
 <斟酌損益し忠言を進め尽くすに至りては、>
則攸之・褘・允之任也。
 <則ち攸之・褘・允の任なり。>
願陛下託臣以討賊興復之効。
 <願はくは陛下臣に託すに討賊興復の効を以てせよ。>
不効則治臣之罪、以告先帝之霊。
 <効あらずんば則ち臣の罪を治め、以て先帝の霊に告ぐべし。>
若無興徳之言則
 <若し興徳の言無くんば則ち>
責攸之・褘・允等之慢、以彰其咎。
 <攸之・褘・允等の慢を責め、以て其の咎を彰らかにせよ。>
陛下亦宜自謀、以諮諏善道察納雅言、
 <陛下も亦宜しく自ら謀りて、以て善道を諮諏して雅言を察納し、>
深追先帝遺詔。
 <深く先帝の遺詔を追ふべし。>
臣不勝受恩感激。
 <臣恩を受けて感激に勝へず。>
今当遠離。
 <今当に遠く離るべし。>
臨表涕零、不知所言。
 <表に臨みて涕零ち、言ふ所を知らず。>


臣、亮、言(もう)す。

先帝創業未(いま)だ半(なか)ばならずして、中道に崩殂(ほうそ)せり。
今、天下三分し益州は疲弊す。
此れ誠に危急存亡の秋(とき)なり。
然れども待衛(じえい)の臣、内に懈(おこた)らず、
忠志の士、身を外に忘るるは、
蓋(けだ)し先帝の殊遇を追い、
これを陛下に報いんと欲すればなり。
誠に宜しく聖聴(せいちょう)を開張し、
以(もっ)て先帝の遺徳を光(かがや)かし、
志士の気を恢弘(かいこう)すべし。
宜しく妄(みだ)りに自ら菲薄(ひはく)し、
喩(たと)えを引き義を失い、
もって忠諌(ちゅうかん)の路(みち)を塞ぐべからず。
宮中府中、倶(とも)に一体と為(な)り、
臧否(ぞうひ)を陟罰(ちょくばつ)するに、
宜しく異同あるべからず。
若(も)し姦(かん)を作(な)し科を犯し、
及び忠善を為す者有らば、
宜しく有司(ゆうし)に付して、
其の刑賞(けいしょう)を論じ、
以て陛下平明の理を昭(あき)らかにすべし。
宜しく偏私(へんし)して、内外をして法を異にせしむべからず。

侍中・侍郎(じちゅう・じろう)
郭攸之(かくゆうし)、費褘(ひい)、董允(とういん)等は、
此れ皆良実にして志慮(しりょ)忠純なり。
是(ここ)を以て、
先帝簡抜(かんばつ)して以て陛下に遺(のこ)せり。
愚(ぐ)、以為(おも)えらく
宮中の事は、事大小と無く、
悉(ことごと)く以てこれに諮(はか)り、
自然(しか)る後に施行せば、
必ずや能(よ)く闕漏(けつろう)を裨補(ひほ)し、
広益する所有らんと。
将軍向寵(しょうちょう)は、性行淑均(しゅくきん)、
軍事に曉暢(ぎょうちょう)す。
昔日に試用せられ、先帝これを称して能と曰(い)えり。
是れを以て衆議、寵(ちょう)を挙げて督(とく)と為す。
愚、以為(おも)えらく
営中の事は、事大小と無く、
悉く以てこれに諮らば、
必ずや能く行陣(こうじん)をして和穆(わぼく)し、
優劣をして所を得しめんと。

賢臣に親しみ、小人を遠ざくる、
此れ先漢の興隆せし所以(ゆえん)なり。
小人に親しみ、賢人を遠ざくる、
これ後漢の傾頽(けいたい)せし所以なり。
先帝在(いま)しし時、
毎(つね)に臣と此の事を論じ、
未だ嘗(かつ)て桓・霊に嘆息痛恨せずんばあらざりしなり。
侍中・尚書・長史・参軍は、
此れ悉く貞亮(ていりょう)死節の臣なり。
願わくは陛下これに親しみこれを信ぜよば、
則(すなわ)ち漢室の隆んなること、
日を計りて待つ可(べ)きなり。

臣は本(もと)布衣(ほい)、南陽に躬耕(きゅうこう)す。
苟(いや)しくも性命を乱世に全うせんとし、
聞達(ぶんたつ)を諸侯に求めず。
先帝、臣の卑鄙(ひひ)なるを以てせず、
猥(みだ)りに自ら枉屈(おうくつ)し、
臣を草盧の中(うち)に三顧し、臣に諮(と)うに当世の事を以てせり。
是に由(よ)りて感激し、
遂に先帝に許すに駆馳(くち)を以てす。
後、傾覆(けいふく)に値(あ)い、
任を敗軍の際に受け、命(めい)を危難の間(かん)に奉ず。
爾来(じらい)二十有一年なり。

先帝、臣が謹慎を知る。
故に崩ずるに臨んで臣に寄するに大事を以てせしなり。
命を受けて以来、
夙夜(しゅくや)憂歎(ゆうたん)し、
付託(ふたく)の効あらずして、
以て先帝の明を傷(そこな)わんことを恐る。
故に五月、瀘(ろ)を渡り、深く不毛に入れり。
今、南方已(すで)に定まり、兵甲已に足る。
当(まさ)に三軍を奨率(しょうすい)し、北のかた中原を定むべし。
庶(こいねが)わくは
駑鈍(どどん)を竭(つく)し、
姦凶(かんきょう)を攘除(じょうじょ)し、
漢室を興復(こうふく)し、旧都に還(かえ)さん。
此れ臣の先帝に報いて、
陛下に忠なる所以の職分なり。
損益を斟酌(しんしゃく)し、
進んで忠言を尽くすに至りては、
則ち攸之(ゆうし)、褘(い)、允(いん)の任なり。
願わくは陛下、臣に託するに
賊を討ち興復するの効(こう)を以てせよ。
効あらずんば則ち臣の罪を治め、
以て先帝の霊に告げよ。
若(も)し徳を興すの言無くんば、
則ち攸之、褘、允の咎(とが)を責め、
以て其の慢(まん)を彰(あらわ)せ。
陛下も亦(また)宜しく自ら謀り、
以て善道を諮諏(ししゅ)し、
雅言(がげん)を察納(さつのう)し、
深く先帝の遺詔(いしょう)を追うべし。
臣、恩を受けて感激に勝(た)えず。
今、遠く離るるに当り、
表に臨んで涕泣(ていきゅう)し、云う所を知らず。


出師の表:vol.5

2006年04月05日 23時47分22秒 | 【三国志】出師の表・誡子書【原文】
まだ終わらねえよw
楽しいからかまわんのだけど。

223年
劉備は病没する。
死に際し孔明に対しこう言い残す。

~~~~~~~~~~
君才十倍曹丕
 <君の才曹丕(ソウヒ)に十倍し>
必能安国、
 <必ず能(ヨ)く国を安んじ、>
終定大事。
 <終に大事を定めん。>

若嗣子可輔、
 <若(モ)し嗣子輔(タス)くべくんば、>
輔之。
 <之を輔(タス)けよ。>

如其不才、
 <如し其れ不才ならば、>
君可自取。
 <君自ら取るべし。>

君の才能は曹丕の10倍である。
きっと国を安定させて、
最終的に大事(=中国統一)を果たすだろう。

もし後継ぎ(=劉禅)が補佐するに足りる人物であれば、
補佐してくれ。

もし後継ぎに才能がなければ、
君が自ら皇帝となりなさい。
~~~~~~~~~~

これに対し孔明は
涙を流してこたえる。
~~~~~~~~~~
臣敢竭股肱之力、
 <臣、敢(ア)えて股肱の力を竭(ツク)し、>
効忠貞之節、
 <忠貞の節を効(イタ)し、>
継之以死
 <之を継ぐに死を以てす>

私は手足となって働き
忠義を尽くし
命懸けで働くでありましょう
~~~~~~~~~~


劉備の跡を継いだ息子、劉禅:リュウゼンは
父に似ずまことに凡愚であった。

先の敗戦により国費、物資は欠乏し、優秀な指揮官はほぼ全滅。
南方では反乱が起き、新皇帝は凡愚。

孔明に託された蜀は魏打倒どころでなく、
その存在そのものが危機を迎えていた。

先主・劉備に受けた恩に報いるため
孔明はこの瀕死の蜀の立て直しから始める。

内政を整備し公平に努め、国力の増加に再度取り掛かる。

先主・劉備の死より4年。
準備を整えた孔明はいよいよ北伐を決意する。

出陣にあたり、その決意を記した書を上奏する。

自分を登用してくれた先帝である劉備に対する恩義を述べ、
若き皇帝である劉禅を諭し、
自らの報恩の決意を述べた上奏文。

古来、
この表を読んで涙しない者は忠臣にあらず
と言われてきたほど、
孔明の蜀に対する忠臣ぶりが如実にあられている。

『出師の表』

である。

先主の挙兵以来ともに戦ってきた優秀な指揮官は死に絶え
国力は衰退し
物量も
人材も
運用能力も
雲泥の差がある魏に対し
戦いを挑むのである。

時代の流れは魏に傾き
勝算は少ない。

しかし
やらねばならんのである。

先主への恩に報いるために
先主の大義のために
孔明は
強大な魏に戦いを挑むのである。

当代一の英雄が築き上げた大帝国へ戦を仕掛けるのである。

国力差、10倍。

悲壮な決意を胸に孔明は立つ。



次回、出師の表全文を記し最終回とする。

あああ。
やっと終わるよ。
長かった。

出師の表:vol.4

2006年04月05日 22時23分09秒 | 【三国志】出師の表・誡子書【原文】
いっこうに本文に到達しない。

いったいどうなってるのかorz

興味のな(以下略)


孔明を加えた劉備は蜀を建国し、
今まで以上の物量と
それを運用する能力を手に入れることとなった。

魏と戦えば確実に負けていた劉備が
局地的ではあるが、
それなりに互角に戦うことができるようになる。

打倒魏、漢室復興、の大義を掲げた蜀は国力の増加に努める。

運用、つまり頭脳を手に入れた蜀は着々と力を付けていき
魏と戦うことができるだけのものを積み上げていく。
振り切れかけていた天命の流れを
わずかではあるが引き戻したのである。

しかし
この流れを劉備自身が押し戻してしまう。
最大の敵、魏ではなく
手を組むべき呉へ総力戦を仕掛け、
完膚なきまでに叩き潰されてしまうのである。

戦乱を生き抜いてきた優秀な指揮官を数多く失い
積み上げてきた物資を消滅させたのである。
蜀の国力は滅亡寸前にまで追い込まれることになった。

こうして失意のうちに劉備はこの世を去ることとなる。

臨終の間際、孔明を呼び寄せた劉備はあることを託す。

蜀の大義は魏を打倒することである。
この大義のために息子に力を貸してくれ。
もしも息子がその器でなければ
君が代わりに皇帝となって魏を倒してくれ。

と。

後世、
“名文中の名文”とされた『出師の表』を書き上げ
忠臣の鑑と評され
数多くの伝説を残すことになる、
大宰相・諸葛亮の誕生である。

出師の表:vol.3

2006年04月05日 21時49分49秒 | 【三国志】出師の表・誡子書【原文】
なぜ出師の表を書くのに
こんなとこから書いているのかたまらなく不思議なのだが
今さらやめられないのでスルーしておく。

興味のない人。
確実に時間の無駄なので早いとこお帰りにな(以下略)
いや、ホントwww

新しい理念を生み出し
それを活用するシステムを作り上げ
運用することに秀でた魏は版図を広げ強大化していく。

統一の流れは魏に確実に傾いていく。

その流れに猛然と反旗を翻した国が蜀:ショクであった。

“漢の皇帝”の末裔を名乗る劉備:リュウビには
志もあり、カリスマ性もあった。
それにひきつけられるように
様々な人材が彼の元に集まることになる。

万夫不当:バンプフトウ
1万人の兵士に匹敵すると言われた猛将や
後世、神にまでなる偉大な武将など
優秀な『野戦司令官』が彼のもとに集まり
魏へ戦いを挑んでいくのである。

しかし相手は当代一の英雄であり、運用の天才であった。
劉備は敗戦を重ねていく。

天下にその名を轟かすほどの指揮官が配下にいたが、
彼らは最前線でこそ輝く人材であり、
それらを大局的に動かすことができる人材に欠けていたのである。

優秀な『野戦司令官』を運用することができる
優秀な『頭脳』の必要性を痛感した彼は
一人の青年のもとを訪れる。
配下に加わってくれるよう説得するためである。

20歳も年下の一介の青年のもとに3度も通い礼を表し、
自分の志を訴え、協力を仰いだ。
後に

『三顧の礼』サンコ ノ レイ

最大限の礼、として有名になる。

劉備はついに“天才”との呼び声の高かった青年を
配下に迎えることに成功する。

彼の名は

諸葛 亮:ショカツ リョウ

字を

孔明:コウメイ

という。

孔明を配下に加えた劉備は
弱小勢力の頭領から蜀の皇帝へと上りつめていく事になる。

出師の表:はじめにvol.2

2006年04月05日 02時03分36秒 | 【三国志】出師の表・誡子書【原文】
前回に引き続き
今回もまた出師の表であるw

知らない人には理解されず
興味のない人には1ミリもおもしろくないこの話題。

きっと
ものすごい勢いで人気は落ちるだろうけど
ここまできたら
今さら後には退けないwwwwww

400年続いた統一国家:漢は
安定により様々なものを生み出し、
民衆に
『漢民族』
という、中国史上の根底を形成することになる
『民族としての自覚』
を初めて芽生えさせた。

新しい概念を生み出した漢は
その役目を終え
大陸は再び分裂する。

幾たびもの淘汰の結果、3カ国が生き残ることとなった。

前王朝を“継ぎ”、大陸のおよそ7割を統治する『魏:ギ』

2割を統治する『呉:ゴ』

残りのわずか1割を統治する『蜀:ショク』

この魏・呉・蜀の攻防の時代がいわゆる
『三国志』である。

『徳治主義』を掲げた漢の跡を継いだ魏は
その支配理念に未だかつてないあたらしい理念を掲げる。

『能力主義』

である。

法治主義が浸透し、
『人徳者による支配』が数百年続いた結果、
『徳が高いこと』がすなわち絶対の正義であった。

人格を練り上げ、心身を鍛え上げた『選良』こそが
評価の対象であり、支配者に求められることであったのだ。
そして
それが『当たり前』になってしまうほど
漢の統治期間は長く、安定していた。

『徳』はもはや、
社会システム、社会思想の根幹を為していた。

その常識を真っ向から否定する思想。
それが

『能力主義』

である。
例えば、

内政の整備に優れた者
軍事に関する運用が得意な者
外交交渉が得意な者

などなど。

練り上げられた優れた人格の上に、能力が備わる

という概念を完全に否定し、

強盗や親殺しなど『人間のクズ』でも構わない。
人格は一切問わない。
才能のある者を優遇する。

という
前代未聞の理念を掲げた。

旧態依然とした理想主義者は必要ない。
社会が混乱した今必要なのものは
『唯、才である』
と。

それまでの常識を否定するやり方に
もちろん大きな反発はあったものの、
この国が掲げた新しい思想は
各地から
優秀な人材を招くことになった。

常識を否定した『非常識なシステム』は
新しい体制を生み、魏は増大を続けていく。

豊富な物量と人材。
それらを運用していくシステムがあったからこそ
魏は強大であり続けた。

この強大な魏に対しその正当性を認めず、
前王朝:漢の復興を大義に掲げたのが蜀である。

“漢の皇帝の末裔”を『錦の御旗』にした蜀の皇帝、劉備:リュウビ
は魏打倒を目指し奮闘する。


出師の表:はじめに

2006年04月04日 23時23分09秒 | 【三国志】出師の表・誡子書【原文】
突然だが

出師の表:スイシ ノ ヒョウ

について書くことになった。

興味のない人は
このあたりでお帰りになられたほうがよいですよw

『竹島問題について解説するように』
という圧力を拒否したら、

『出師の表についてやるように』
という要請があったためである。

もとより中国史、ことに古代史はたまらなく好きなので
否も応もなく
喜んでその圧力に屈することにした。

確かに人気は落ちるだろう。
しかし
やらねばならんのである。

そもそもブログなぞ
200%趣味丸出しの世界である。
自己完結、自己満足の世界である。

正義や真実を求める方も
もちろん居られるだろうが、
くすぶりにいたっては
もう完全に、

趣味である。

趣味の領域にたまたま『半島』が入っていただけで、
決して
正義感や大義のために近代史を書いていたわけではない。

おもしろいから、である。

義憤に駆られて、というのも否定はできないけれど、
そういうことは人様にいちいち言うことではないので
そのあたりはスルーしておく。

さて。

趣味の世界に突入するwwwwwwwww

~~~~~~~~~~~~~~

<紀元前221年>
『秦:シン』という王国が中国史上初の偉業を成し遂げる。

大陸の統一

である。

秦王は統一を記念し、
それまで各地で使われていた最高位:『王』をしのぐ
新たな称号を創り出した。

『皇帝』

が生み出された瞬間である。

秦王は唯一絶対の支配者:皇帝となった。
あの有名な始皇帝の誕生である。

統一の偉業を成し遂げた秦王国は
『貨幣』や『単位』の統一といった新システムの構築を進め、
法体系の整備など中央集権化に尽力する。

『法による統治』

を絶対の理念とした秦王国は
それまであいまいであった各地、各国の法体系や罰則を見直し、
非情なまでの統一法治国家を建設していく。

しかし、
およそ800年間続いてきた従来のシステムからの急激な移行には
想像以上の反発があり
農民の暴動や旧王家の再興を掲げた反乱により
『秦帝国』となった20年後、
早くも滅亡することになる。

<紀元前202年>
秦の跡を継ぎ、新たな統一帝国が誕生する。
『漢:カン』である。

秦の非情なまでの『法治主義』は
王朝の短命化という副作用を招いたことから
漢はその支配理念を

『徳治主義』

とする。
支配者層に求められるものが『人徳』となったのである。

法の運用、法による支配を行う支配者層に必要なものは
知識ではなく『人徳』である

とし、
国家の最高位の学問は、『人徳』の形成を説いた

『儒学』

となった。

統一国家のパイオニアであり、
パイオニアであるがゆえに短命で終わった『秦』

その『秦』がつくりあげた統治システムを柔軟に吸収し、
新しいシステムをつくりあげた『漢』は、
途中、15年間ほどの中断はあるものの
都合400年にわたって国家を運営していくことに成功する。

『漢民族』や『漢字』といった言葉でおなじみの
あの『漢』である。

統一国家による安定は様々な文化を生み出す。
中でも有名なのは
『製紙法の発明』
である。
紙の作り方の発明である。

それまでの、
毎日が戦争
といった時代は去り
国力は増加し
文化や芸術が開花していくのであった。

そんな漢も時代が下るにつれ、
皇帝の幼年化や補佐する家臣の劣化、
権力者による国家の私物化などが進むことになる。

平和の代償

つまり
人間の劣化である。

徳治主義の理念はいつしか形骸化し、
うわべだけの人徳者が増え、
政治システムに矛盾が出始める。

平和な時代が続けば
重視されるものが『血統』になっていくことは
今も昔も変わらない。

経済活動の変化や
支配者階級の質の変化
社会システムの変化など。

建国時の概念のままでは対応できなくなってきた事態は
大きな矛盾を生み出し、
農民の暴動となって噴き出すことになる。

その矛盾を解決することなく
漢は統一国家の役割を終えることになった。

大陸は400年ぶりに戦乱の時代を向かえ、
様々な実力者による激突の結果、
3カ国に分裂することになった。

三国時代の幕開けである。