旧熊谷市内の消えた城館の双璧と言えば久下氏館跡と市田氏館跡です。
『埼玉の館城跡』には、ほぼ隣接状態のように地図に記載されています。
『埼玉の館城跡』p.136の地図を参考に場所を推定すれば、市田氏館跡は、
権八地蔵脇の土手から降りる道を直進し、旧中山道に当たった交差点の右側、
堤防沿いの集落内、久下氏館は権八地蔵脇を土手に上がって反対側の河原ということになります。
久下氏館跡は川床に沈み、市田氏館跡は場所がはっきりしない。
久下氏館推定地とされる場所は、たしかに私が中学生の頃には、
荒川の氾濫によってできた残存河沼がありました。
そこで、今日は、主に久下氏館がどこにあったのかについて考えてみたいと思います。
① 元荒川の締め切りと荒川の和田吉野川流路への付け替え。
まず確認しておきたいことがあります。荒川は江戸期の関東郡代伊奈氏による利根川東遷に関連して、
河川の付け替えを行ったということです。
現在の荒川は和田吉野川の付け替えられたため、水量が大幅に増え、現在の大河川になりましたが、
従前の荒川は水量のさほど大きくない河だった。
かつての荒川である元荒川は、現在、熊谷の水産試験場の水源である荒川伏流水を源泉とする細流です。
元荒川は現在の久下地区の北部を流れています。
② 熊谷氏と久下氏の所領争いは小河川元荒川を境界とする争いだった。
私が中学生の頃、現地に入って調査を行ったところによれば、
元荒川には熊久橋という橋が掛かっております。
熊久橋・・・・つまり、熊谷と久下の境界を示す橋の意味ですが、地元には
「熊久橋の境界をめぐって熊谷次郎直実と加藤清正が争った」という口碑が残っております。
熊久橋の場所は久下地区を通過する旧中山道が元荒川と交差する場所です。
直実と加藤清正が同時代人であるはずもありませんから内容は誤伝です。
久下直光が加藤清正の名前にすり替わったということは言うまでもありません。
この所領の境界が元荒川だったのです。
③ 市田という地名
さて、これで現在の元荒川以北が熊谷氏、以南が久下氏所領であったことが凡そ理解できます。
では、ここに突如割り込んでくる市田氏とは何者か。
まず、市田の地名を考えてみましょう。地元の地理に詳しい人ならばわかることですが、
市田村は現在荒川対岸の旧大里村と合併した市田村が念頭に浮かびます。
実は、市田氏館跡は元荒川締め切り、和田吉野川付け替え以前の市田村にあったのです。
市田村が現在の荒川によって分割されたのは、ほかならぬ和田吉野川と荒川の流路付け替えによってです。
つまり、調査者は現在の荒川流路と江戸期以前の荒川流路の違いをおさえる必要があるわけです。
③ 元荒川川向うの久下氏と市田氏
新川とは、荒川付け替えによって新たに成立した荒川を指すことは言うまでもありません。
また、忍名所図会では市田氏を久下氏後裔である述べております。
両者の館跡は新川堤防によって地理的に分断されていますが、実際には隣接に近い状態で
存在したのではないかということです。
④ 二つの三島神社と久下氏館
久下氏は三島神社を信じ、領内に二つの三島神社を祀ったといわれています。
それは、現在は住民のいなくなった新川村と、久下村に祀られました。
久下村の三島神社の方は、現在、久下神社となっています。
新川村の三島神社は堤外(川の流れている側)に祀られていたため「外三島」、
久下村の方は堤内(川の流れていない側)にあったため
「内三島」と呼ばれていたそうです。もちろんこの内外関係は、付け替え後に成立したものです。
ここで重要な資料となるのが『忍名所図会』です。
忍名所図会は手稿本で、国立国会図書館版と埼玉県立文書館版があります。
現在はPDFが公開されており、PCで閲覧可能です。
どちらを参照していただいても構いませんが、巻の2に久下直光の館跡の記載があり、
旧中山道から川沿いに入った場所、すなわち、新川村の三島明神の隣接地として描かれています。
久下氏の館跡は小丘上にある三島神社に隣接した耕地が久下氏館跡となるわけです。
そこで、外三島神社ですが、ご神体は久下神社にうつされて、廃社となりました。
私が現地を訪れたのは、1985年頃ですが、鳥居は深く土砂に埋もれ、上部が50センチほど
露出するのみですが、社は残っていました。
現在はどうなっているかわかりません。もし探訪をご希望の方のために簡単な場所についてお示します。
熊谷方面から見た場合ですが、久下小学校の前に荒川土手に上る分岐道があります。
その道を直進し土手に上ります。
現在、改修が進み土手を登る道、降りる道がのこっているかわかりませんが、
土手の反対側には旧新川集落に向う小道があります。
歩いて3~5分ほどの地点に、右手に塚のように盛り上がった篠やぶと社殿を取り囲む、
小さな森が残っているはずです。その付近を捜してみてください。
探訪当時の、写真については10月25日以降からアップロードを始めたいと思います。
外三島神社の場所についてのご質問があれば質問ください。
現状可能な範囲でお答えいたします。
『埼玉の館城跡』には、ほぼ隣接状態のように地図に記載されています。
『埼玉の館城跡』p.136の地図を参考に場所を推定すれば、市田氏館跡は、
権八地蔵脇の土手から降りる道を直進し、旧中山道に当たった交差点の右側、
堤防沿いの集落内、久下氏館は権八地蔵脇を土手に上がって反対側の河原ということになります。
久下氏館跡は川床に沈み、市田氏館跡は場所がはっきりしない。
久下氏館推定地とされる場所は、たしかに私が中学生の頃には、
荒川の氾濫によってできた残存河沼がありました。
そこで、今日は、主に久下氏館がどこにあったのかについて考えてみたいと思います。
① 元荒川の締め切りと荒川の和田吉野川流路への付け替え。
まず確認しておきたいことがあります。荒川は江戸期の関東郡代伊奈氏による利根川東遷に関連して、
河川の付け替えを行ったということです。
現在の荒川は和田吉野川の付け替えられたため、水量が大幅に増え、現在の大河川になりましたが、
従前の荒川は水量のさほど大きくない河だった。
かつての荒川である元荒川は、現在、熊谷の水産試験場の水源である荒川伏流水を源泉とする細流です。
元荒川は現在の久下地区の北部を流れています。
② 熊谷氏と久下氏の所領争いは小河川元荒川を境界とする争いだった。
私が中学生の頃、現地に入って調査を行ったところによれば、
元荒川には熊久橋という橋が掛かっております。
熊久橋・・・・つまり、熊谷と久下の境界を示す橋の意味ですが、地元には
「熊久橋の境界をめぐって熊谷次郎直実と加藤清正が争った」という口碑が残っております。
熊久橋の場所は久下地区を通過する旧中山道が元荒川と交差する場所です。
直実と加藤清正が同時代人であるはずもありませんから内容は誤伝です。
久下直光が加藤清正の名前にすり替わったということは言うまでもありません。
この所領の境界が元荒川だったのです。
③ 市田という地名
さて、これで現在の元荒川以北が熊谷氏、以南が久下氏所領であったことが凡そ理解できます。
では、ここに突如割り込んでくる市田氏とは何者か。
まず、市田の地名を考えてみましょう。地元の地理に詳しい人ならばわかることですが、
市田村は現在荒川対岸の旧大里村と合併した市田村が念頭に浮かびます。
実は、市田氏館跡は元荒川締め切り、和田吉野川付け替え以前の市田村にあったのです。
市田村が現在の荒川によって分割されたのは、ほかならぬ和田吉野川と荒川の流路付け替えによってです。
つまり、調査者は現在の荒川流路と江戸期以前の荒川流路の違いをおさえる必要があるわけです。
③ 元荒川川向うの久下氏と市田氏
新川とは、荒川付け替えによって新たに成立した荒川を指すことは言うまでもありません。
また、忍名所図会では市田氏を久下氏後裔である述べております。
両者の館跡は新川堤防によって地理的に分断されていますが、実際には隣接に近い状態で
存在したのではないかということです。
④ 二つの三島神社と久下氏館
久下氏は三島神社を信じ、領内に二つの三島神社を祀ったといわれています。
それは、現在は住民のいなくなった新川村と、久下村に祀られました。
久下村の三島神社の方は、現在、久下神社となっています。
新川村の三島神社は堤外(川の流れている側)に祀られていたため「外三島」、
久下村の方は堤内(川の流れていない側)にあったため
「内三島」と呼ばれていたそうです。もちろんこの内外関係は、付け替え後に成立したものです。
ここで重要な資料となるのが『忍名所図会』です。
忍名所図会は手稿本で、国立国会図書館版と埼玉県立文書館版があります。
現在はPDFが公開されており、PCで閲覧可能です。
どちらを参照していただいても構いませんが、巻の2に久下直光の館跡の記載があり、
旧中山道から川沿いに入った場所、すなわち、新川村の三島明神の隣接地として描かれています。
久下氏の館跡は小丘上にある三島神社に隣接した耕地が久下氏館跡となるわけです。
そこで、外三島神社ですが、ご神体は久下神社にうつされて、廃社となりました。
私が現地を訪れたのは、1985年頃ですが、鳥居は深く土砂に埋もれ、上部が50センチほど
露出するのみですが、社は残っていました。
現在はどうなっているかわかりません。もし探訪をご希望の方のために簡単な場所についてお示します。
熊谷方面から見た場合ですが、久下小学校の前に荒川土手に上る分岐道があります。
その道を直進し土手に上ります。
現在、改修が進み土手を登る道、降りる道がのこっているかわかりませんが、
土手の反対側には旧新川集落に向う小道があります。
歩いて3~5分ほどの地点に、右手に塚のように盛り上がった篠やぶと社殿を取り囲む、
小さな森が残っているはずです。その付近を捜してみてください。
探訪当時の、写真については10月25日以降からアップロードを始めたいと思います。
外三島神社の場所についてのご質問があれば質問ください。
現状可能な範囲でお答えいたします。