倉敷界隈(かいわい)

「今の倉敷」と「今の私」の記録です。

この子たちの未来

2009年11月28日 19時23分25秒 | 写真

 この話は以前にここに書いたと思うので、何度かここを見てくださっている方には申し訳ないのですけど、犬の名前とケーキ屋さんの話をもう一度。

 うちにわんこがいて、名前はショコラという。この子の一歳の誕生日にケーキを買いに行った。もちろんその記念日にかこつけて自分たちが食べるためである。いつも行く美味しいケーキ屋さんで誕生日ケーキを頼んだ。それにはプレートがのっかってて名前を書いてくれる。

『お名前はどういたしましょうか?』

「ショコラでお願いします。」

『男の子さんですか、女の子さんですか?』

「・・・、犬です。(^_^;)」

(おねえさん)にっこり…。

 なんてやりとりが、店のおねえさんと買いに行った子どもの間であったわけです。それを私はこのブログに、「最近の店員さんはマニュアル通りでないと対応できないのかなぁ。ショコラなんてすぐ犬だってわかるだろうに。なんで男の子か女の子かなんて訊くのか…。」と書いたわけです。

 あれから数年経って、私の考え違いだと気づきました。おねえさんには悪いことしちゃったなって思ってます。だって今はショコラって名前の子が本当にいる。ショコラだけでなく、まろん、シフォン、ここあ、びすこ、しいたけ(マジ)…なんてたくさん出てくる。食べ物系だけじゃない。びーなす、ぴんく、きんぎょ、らばぁず、ぴろり、らびっと、じゅごん、とんび、ぴろりん、しっぷ…と意味のある文字から、本名とは別にニックネームにしたらいいやんと思えるものまで盛りだくさん。ハム太郎、きてぃ、ぴかちゅう、ぴっぴってつけても、確かに著作権違反には問われないだろうけど、つけられた子どもたちが大人になっても満足してくれるだろうかと思っている。林檎とかいて「あぽー」ちゃんとか、聖水とかいて「みい」ちゃん、ストレートに「いちご姫」と名付けた親御さん、大切な子どもが可愛くて仕方ないのはわかるけど、子どもの時より大人の時の方が長く、若い時より、おじさん、おばさん、じいちゃん、ばーちゃんの期間の方が長いんだから、そんな年齢でも使いやすい名前の方がよかろうと思うけど、親の愛情の方が勝ってつけたんだろうなぁと思う。

 薬屋に勤めている人が処方箋の名前を見て「お腹いっぱい」と言うぐらいだから、もうこの名前たちは当たり前になりつつあるのだろう。ケーキ屋のおねえさんがショコラと聞いて性別を訊いたのも当然のことだったんだなと、今は理解できてきた。

「ショコラが犬の名前と聞いて、おねえさんが(店の奥に)『お名前はショコラちゃん、犬です。』って言ったんだけど、そう言えばホッとしていた感じ。」

 改めてその時の様子を尋ねた時、子どもがそうつぶやいた。おねえさんも大変だったんだなぁと今になってわかったんです、私。

 図書館に行った時、子どもたちが先生に連れられて帰るところだった。こう言う時はみんな手をつないで歩いている。大人は気づかないけど、ほんの少しの段差でも子どもにとっては大変。転けてしまうものだ。まして、手をつないで離しちゃダメって言われていたらなおさらのこと。子どもにはその場に応じて臨機応変になんて無理だからね。

 転んだ子どもをおばあちゃんが心配そうに見ていた。子どもは元気なものだ、自分で立って置いてきぼりにならないように急いでいた。先頭の先生は若い女の人だったけど、後ろの先生は男の子(人)。時代は変わるなぁ。名前も仕事も、する人も。変わらないのは親が子どもにかける愛情だけか。後はその愛が空回りしないようにするだけ? 子どもを自分のものと思っている間は空回りし続けるに違いない。子どもが中学生や高校生になっても空回りがおきてしまう。自分が若かった時は、「親=十二分に成長した立派な大人」と思っていたけど、15才の子どもの親は親歴たった15年。15才の親と15才の子どもがお互いに成長しきってないのは当たり前なのかも知れない。15才だけど30才ぐらいに成長できている人がいるなら、自分はきっと頭を下げるだろう。この子たちもそんな成長をして欲しいな。これからの人たちなんだからね。

日記@BlogRanking


自分の世界に棲む人

2009年11月25日 21時12分40秒 | 写真

 さっき家人と散歩しながら話した。今は結婚した子どもたちと一緒に住んでいるけれど、もう少ししたらあの子たちも独立して出て行くだろう。そうしたら二人きりの生活になる(犬付きだが;笑)。では自分たちに何が必要だろうか。

 二人がくつろぐ部屋がいるよな。いわゆるリビング。TV見て、転がって、こたつがあって…。私はパソコンを使うからそれを置く部屋、最近は音楽に凝ってるから、音が聴ける部屋がいるな。昔と違って大きな(あるいは高級な)ステレオは要らないから、6畳一間あれば十分か。家人は家事をこなした後に転がって身体を休める部屋(リビングでもいいけど、3畳か4畳半でもいいから昼寝部屋みたいな小さな部屋)があったらいいななんて話した。それ以外は一体何が要るか? 子どもや孫が泊まりに来た時に一部屋あったら便利だけど、他には何も思いつかなかった。小さな部屋と自分の好きな少しだけの物、二人の生活なら後は何も要らない。車だって二人ぼっちなら買い物用の小さな軽四で十分。高価な機械もたくさんの服も分厚い本も要らなくなった。好きな本は図書館で借りて読むだけでいい。今まで買った本を読んで、不要になったら人にあげてもいい。服も、最新のファッションでなくてもいいや。ユニクロかしまむらで十分なんじゃない? なんてシンプルな生活。「起きて半畳 寝て一畳」とまではいかなくても、こんな生活ってひょっとしたら理想に近づいたのかもね(笑)。

だけど、ひとつだけシンプルになったらいけないなと思うこともある。

 巷では、ダンナが定年までは我慢して、退職金もらったら離婚するんだなんて奥さんもいるらしい。子どもが成人したら別れようとか、とうの昔に別れちゃった人もたくさんいる。自分ひとりだと身軽で、気楽で、楽かも知れない。お金がある程度あればひとりがいいと思う人もいるのかも知れない。だけど私はひとりの世界が素敵だとは思ってない。長い時間一緒にいた人、一緒の体験をしてきた人、同じ時間を過ごしてきた人は何にもまして大切だと思っている。私が携帯を嫌いな理由は、その世界に生きて周りとの関わりが希薄になる人がいるからだ。携帯が通信のための道具ではなく、携帯を通じてしか世界が見られない人や携帯を通じてしか生きる楽しみ、人とつながる面白さを体験できなくなる人が多いからだ。人間って、生きて、直接会って、面と向かって話して、一緒に何かをして生きないと面白くない。そう思っていいる人は少なくなったのかも知れないが、私はそう思っている。

 写真の人はどうなのだろうか。一心不乱に画面を見ながら指を動かしていた。ただ急いで連絡したいだけだったのかも知れない。そんなことはわからない。だけどこう言う人を見るたびに、ある芸能人が言っていた言葉を思い出す。

『私、携帯電話がないと生きていけません。飛行機に乗る時に携帯電話の電源を切ってくださいって言われるじゃないですか。仕方なく切るんだけど、不安でイライラしてイヤで堪りません。だから飛行機が着陸したらとにかくすぐ電源を入れます。(入れていいって言われてなくても?) こっそり電源を入れます。だって携帯電話がないと裸で生きているみたいだから。自分が生きているって気がしないから。』

 人の前でここまではっきり言わない人もいるけど、似たような人が多いのかなと思う。

 知り合いの人は、携帯電話代が月に3万から5万だそうだ。数ヶ月滞納してその電話会社から止められると別の電話会社と契約する。働いてはない。生活保護のお金をそうやって使っている。それでもお金が無くて携帯電話代が払えなくなったら、ここには書きにくい仕事をしてお金を得ている。どこかの芸能人が薬の依存症みたいだったけど、同じような依存症の人はたくさん周りにいる。もっと違う人生の楽しみ方があってもいいのになと思う。

日記@BlogRanking


昔の女

2009年11月22日 22時42分43秒 | 写真

 これは一体誰だろう。いつの写真だろうか。誰が撮ったのだろうか。本当に皆目わからないのである。

 デジカメ創生期から、、、そう、あのカシオのQV-10から使ってきた自分にとって、VGAのデジカメにはひどく愛着がある。時代が800万画素へ、130万画素へ、そして2M,3M,5M…と進化してきても、1万円以下で買えるトイカメラについ目がいってしまっていた。液晶もなく、固定焦点で日付情報さえ記録されないカメラ。それでもなぜか心惹かれつい買ってしまって…、その度に後悔していた(笑)。

 補色系CCDから原色系に変わり、高画素+AF+ズームで4万円の時代に、ボロCMOSのVGA~130万画素カメラなんてかなうわけがない。常識で考えてもすぐわかるのに、アルカリ電池だけで気軽に写せるポケット用カメラやメモ用カメラが欲しかった。高級な数万円のカメラとは別にね。このカメラもそんなトイカメラのひとつだった。部屋を掃除していてがらくたの底から出てきた。

 捨ててもいいのだけど、まぁ使えるかどうか見てみようか…。そう思って電源を入れると、、、、なんと電池が生きていた。シャッターも切れる。中には32Mのスマートメディア。これでも当時は4,5千円したんじゃないかなぁ。多分手持ちのスマメが使えるからと買ったおもちゃなんだろう。まさか画像は入ってないだろうけど、、、そう思って中を覗いて出てきたのがこれ。一体誰だ。どこだ、ここは。誰が撮ったかも知れない。そもそもこの制服はどこの学校? 部屋は? 学校にこんな部屋があるのか? カメラの形式から考えて多分10年ぐらい前の写真。その頃は子どもが中学生か。美術部で使うからとデジカメを渡したこともあったような気がする。当時高級だったカメラを持たせたわけがない。ではこのおもちゃカメラだったのか。それなら子どもの友人? 訊けばわかるのだがそれは止めておくことにした。

 この若い女の子、名も知らない彼女は写真の中では永遠にこの姿のまま。もう二十歳を超したおねえさんだろう。うちの子が結婚しているぐらいだ、この子もそうかも知れない。今はキレイな大人の女になっているだろうか。それとも全く違った姿になっているだろうか。

 家人と私の共通の友人に文(あや)ちゃんと言う人がいた。半透明のピンク縁のメガネをかけた可愛い子。私が初めて「メガネがこんなに似合う人もいるんだ…」と思った彼女、同窓会名簿が来た時に物故者に名前が載っていた。2人の記憶の中には16才の彼女の姿しかないのに、今は冷たい土の中。悲しいのかつらいのかわからない。16歳の時の笑顔、顔、制服姿しか想像が出来ない。一体これは現実なのか、それとも夢なのか。彼女が死んだというのが現実感のない言葉の羅列にだけ感じられる。

 ふと思った。この彼女、今どうしているかなんて思わなくていいんじゃないかと。

 この写真に閉じ込められている彼女が真実であり、それ以外の彼女は別人。この中だけで生きている彼女でいい。だからこれが一体誰なのか、いつの写真なのか、誰がどこで撮ったのかを知る必要はない。そう思った。

 彼女は昔の女。そして永遠の女の子。未来永劫この写真の中だけで生きている少女。今世界に広がっているインターネットという電脳世界の中の全ての写真の人たちも、ネットの中に閉じ込められて永遠の命を得た仮想の人間。それでいい。それが何が悪い。現実の彼女とは違う写真という生き物。決して死なない、別れることもない、老いることも醜くなることもない永遠の14歳。

 この写真をどうしようかと思った。捨ててしまってもよかった。単なる電気信号だ。消せば永遠に失われる。顔が写っていたらそうしたかも知れない。幸か不幸かその顔は見られなかった。だからここで生きていてもらうことにした。いい写真だよ、これ。うん、間違いなく傑作に違いない。

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祈る人

2009年11月08日 20時17分46秒 | 写真

 人シリーズ第2弾、「祈る人」

 家人がだいぶ前から伏せっている。治らない病気ではない。だからそれは安心している。しかし1人が伏せっただけで生活は一変してしまう。家人のしていたことをしようとすると、朝5時台に起きて夜中の1時過ぎて寝る事になる。時には3時近くなることもある。仕事を休むわけにいかないので、まともに寝られるのは土・日だけになる。と言っても土・日にも朝は5時台に起きないといけないし、仕事を自宅に持ち帰ってせざるを得ないから休みという気はしない。でも疲れた時にソファに横になれるのだから普通の日とは雲泥の差だ。たった2週間ほどでこれだけ疲れた。況んや何年も(時には何十年も)介護し続けた人がどれだけまいっているかは想像に難くない。

 今日町内にマスクが配られた。外国製の高級なマスクだ。インフルエンザが流行ってますからどうぞお使いくださいとのこと。5枚しかない。余り役には立たないかな。自分はそう思っただけだけど家人は違っていた。

 『町内には800軒以上の世帯があるのよ。それに全部配っているの。すごいお金でしょ。(うん、それがどうしたの?) このお金、町内会費から出ているんだけど、あの議員さんの会社を通じて買うことになっているの。すごいお金でしょ。』

 なるほど。病で伏せって困っている人もいるけど、病気で儲けることも出来るわけだ。世の中うまくやる人はたくさんいるものだ。

日記@BlogRanking


振り返る時

2009年11月01日 00時25分32秒 | 写真

 いつもは思い出さないのだが、時折ふと思い出して食べたくなるものがある。チキンラーメン。昔から変わらないお湯をかけて作るやつ。赤塚のマンガに出てくる小池さんが食べているのはこれだよね。似たようなラーメンを作って訴訟沙汰になった会社もあったんじゃなかっただろうか。以来お湯をかけて作るラーメンはこれしかなかった。

 私はこれを食べるとお腹が痛くなり、気のせいかも知れないけど吐き気がする。それはいつも同じ。それにもかかわらず時折食べたくなる。家人に買ってきてもらい(いつも5袋パックのを買ってきてくれる)、一袋食べて不調になり、やっぱり自分のお腹にはあわないんだなと再確認するのだが、数ヶ月後にまた同じ事を繰り返してしまう。子どもの頃食べた味は決して忘れることが出来ないのだと思う。

 同じような行動を出前一丁でもやってしまう。実は今日いつもの行動に出てしまった。やはりちょっと胸が悪い。毎度のことなのに出前一丁を見ると同じ事をしてしまう。自分には合わないと言いながら、このふたつが永遠の名作と認めているのでもある。

 冬になったら食べたくなるものがある。えびす饅頭。えびす通り商店街のはずれにあるからこの名前なのだろう。特別に変わった味でも形でもない。だけどここを通る度に欲しくなってしまう。初めて買った時は、、、覚えてないけど65円?だった。おつりをもらうのが鬱陶しくて、いつも小銭入れに5円を入れていた。あんこは余り好きではないけど、えびす饅頭だけはそうは思わなかった。夏にこれを食べる人が少ないからだろう、いつも初夏には店を閉めて秋に再開する。一年を半年で暮らすいい身分。私の思いはやっかみにとれるよな(笑)。

 最近いつ行っても人が並んでいる。みんな待ち焦がれていたのか。私は人が並んでいなかったら買うことにしている。偏屈? 並んでまで何かしたくないと思ってしまうんだよ。

 おっとこのまま終わったら悪口ブログになってしまう。上のふたつのラーメン、文中で認めた通り永遠の名作だと思う。私のお腹がおかしいのだろう。年とったからと言い訳しておこうか。ただ残念なのは、出前一丁のごまラー油のパッケージが変わってしまっていたこと。昔の平行四辺形の透明袋から緑の不透明長方形袋に変わってしまっていた。理由はあるのだろうがこれは悲しかった。

日記@BlogRanking