映画や演劇の世界で「原作モノ」を扱うのはとても難しいことだと思う。
映画化や舞台化が決まるような場合、原作となった小説やマンガにはすでにそれぞれの固定ファンがたくさん付いてしまっていることのほうが多く、それぞれのファンたちは各自自分なりの「原作の世界観」というものを持っている。そして、その世界観に反する形で映画化や舞台化がなされた場合、反感を持ってしまうことのほうが多いからだ。
とはいえ、読者が求める「原作の世界観」を再現するだけなら、脚本家や演出家が「原作者とは別に存在」する意味がない。読者が読者なりに「原作の世界観」を持っているのと同様、脚本家や演出家にも(そしてたいていの場合、映画化や舞台化を取り仕切っている「プロデューサ」と呼ばれる人にも)彼らなりの「原作の世界観」というものがあり、それを再現し世に問うために映画化や舞台化を行なっているのだから。
ただ、だからと言って脚本家にしろ演出家にしろ(そして「プロデューサ」にしても)原作者の意図を蔑ろにしてまで自分が解釈した「原作の世界観」をごり押ししてしまってはダメだと思うし、原作の読者も通常納得してはくれないだろう。あまり好きな言葉ではないが、「原作者がいちばん伝えたかったであろう」と解釈される部分は堅持可能な、ある一定のところに「落としどころ」というのがあって、その範囲内でオリジナリティを発揮しなければならないと思う。
その点、成井豊という脚本家・演出家(以下、キャラメルサポータの一人として親しみと尊敬を込めて「成井さん」と記す)は優れた才能を持っていると感じたのが、『ペイチェック』をモチーフにしたとされる『キャンドルは燃えているか』という舞台だ。物語が展開する場所や登場人物あるいは場面設定など、原作の『ペイチェック』とはずいぶん違っているし、お話の一つの重要な「道具」として出てくるのも原作とは違って「普通のタイムマシン」という、言ってみれば何のひねりもないありふれたものだったが、原作で最も言わんとしている(と私が感じた)部分については忠実に再現し、その上でオリジナリティにあふれた作品に仕上がっていた。
正式に「原作モノ」として製作された、映画『ペイチェック』が「SFぎらいの監督」と「SF色を一掃した脚本」によって台無しにされたのとは大きく違っていた。
そういう評価があったればこそ、一昨年の冬に上演された『スキップ』という北村薫氏の小説を「原作」にした舞台には大きな期待を寄せていたし、実際私の期待以上の出来であったと思っている。原作だけだと「感動して通り過ぎてしまうだけ」であった『スキップ』という小説を、「また真理子先生に会いに行きたい」と思わせる作品に仕上げてくれたと思っている(実際に何度も「会いに」行ったし)。
そして、2005年冬。成井さんと演劇集団キャラメルボックスは、再び「原作モノ」に挑戦した。
原作は、梶尾真治氏の『クロノス・ジョウンターの伝説』。この中の「吹原和彦の軌跡」をベースに『クロノス』という舞台を創りあげた。
漢字の使い方や語句の細かいニュアンスに若干でもこだわりのある方はすでにお気づきであろうが、今回も(よい意味でも悪い意味でも)「原作をそのまま舞台化」したわけではない。あくまでも「ベースに」し「創りあげた」のだ。
では、私の評価はどうか。正直言って『キャンドルは燃えているか』や『スキップ』のような高評価は無理だ。
吹原和彦の気持ちになると、今回の脚本で加えられた脚色では共感できないからだ。原作ははっきり言って切ない。いや、あまりにも切な過ぎる。短編3作(文庫版では番外編がさらに1作)で構成される『クロノス・ジョウンターの伝説』の中でも最も切ないのがこの「吹原和彦の軌跡」なのだが、主人公の「二人」の関係性にリアリティを持たせようと脚色した部分が、かえって「吹原和彦の必死さの度合い」を半減させ共感を失わせてしまったのだ。
私から見ればあの「二人」の関係性がこの「吹原和彦の軌跡」における最も重要なポイントだと思う。一言で言えば「ただの・・・なのに、こんなにまで・・・」という関係性だ。ところがキャラメルボックスの『クロノス』では、「あぁこういう間柄だったら当然これくらいはしようと思うだろうな」というありふれた関係にまで引き摺り下ろしてしまった。そこが残念でならない。
観劇仲間に聞いてみたところ、女性の場合はおおむねこの脚色について歓迎する傾向にあるらしい。女性の多くは吹原和彦の立場ではない「彼女」の立場でこのエピソードを見ているからだと思われる。でも、自分は原作のこのエピソード「吹原和彦の軌跡」を「吹原和彦と同じ立場で応援」しながら読んでいた。自分だったら、自分が同じよう立場になったら「大好きなあの人のために」同じことが出来るのだろうか、と。
そう。今の自分はまだ、「シックブーケの『彼女』と会って1年後の吹原和彦」には追いついてはいないのである。
映画化や舞台化が決まるような場合、原作となった小説やマンガにはすでにそれぞれの固定ファンがたくさん付いてしまっていることのほうが多く、それぞれのファンたちは各自自分なりの「原作の世界観」というものを持っている。そして、その世界観に反する形で映画化や舞台化がなされた場合、反感を持ってしまうことのほうが多いからだ。
とはいえ、読者が求める「原作の世界観」を再現するだけなら、脚本家や演出家が「原作者とは別に存在」する意味がない。読者が読者なりに「原作の世界観」を持っているのと同様、脚本家や演出家にも(そしてたいていの場合、映画化や舞台化を取り仕切っている「プロデューサ」と呼ばれる人にも)彼らなりの「原作の世界観」というものがあり、それを再現し世に問うために映画化や舞台化を行なっているのだから。
ただ、だからと言って脚本家にしろ演出家にしろ(そして「プロデューサ」にしても)原作者の意図を蔑ろにしてまで自分が解釈した「原作の世界観」をごり押ししてしまってはダメだと思うし、原作の読者も通常納得してはくれないだろう。あまり好きな言葉ではないが、「原作者がいちばん伝えたかったであろう」と解釈される部分は堅持可能な、ある一定のところに「落としどころ」というのがあって、その範囲内でオリジナリティを発揮しなければならないと思う。
その点、成井豊という脚本家・演出家(以下、キャラメルサポータの一人として親しみと尊敬を込めて「成井さん」と記す)は優れた才能を持っていると感じたのが、『ペイチェック』をモチーフにしたとされる『キャンドルは燃えているか』という舞台だ。物語が展開する場所や登場人物あるいは場面設定など、原作の『ペイチェック』とはずいぶん違っているし、お話の一つの重要な「道具」として出てくるのも原作とは違って「普通のタイムマシン」という、言ってみれば何のひねりもないありふれたものだったが、原作で最も言わんとしている(と私が感じた)部分については忠実に再現し、その上でオリジナリティにあふれた作品に仕上がっていた。
正式に「原作モノ」として製作された、映画『ペイチェック』が「SFぎらいの監督」と「SF色を一掃した脚本」によって台無しにされたのとは大きく違っていた。
そういう評価があったればこそ、一昨年の冬に上演された『スキップ』という北村薫氏の小説を「原作」にした舞台には大きな期待を寄せていたし、実際私の期待以上の出来であったと思っている。原作だけだと「感動して通り過ぎてしまうだけ」であった『スキップ』という小説を、「また真理子先生に会いに行きたい」と思わせる作品に仕上げてくれたと思っている(実際に何度も「会いに」行ったし)。
そして、2005年冬。成井さんと演劇集団キャラメルボックスは、再び「原作モノ」に挑戦した。
原作は、梶尾真治氏の『クロノス・ジョウンターの伝説』。この中の「吹原和彦の軌跡」をベースに『クロノス』という舞台を創りあげた。
漢字の使い方や語句の細かいニュアンスに若干でもこだわりのある方はすでにお気づきであろうが、今回も(よい意味でも悪い意味でも)「原作をそのまま舞台化」したわけではない。あくまでも「ベースに」し「創りあげた」のだ。
では、私の評価はどうか。正直言って『キャンドルは燃えているか』や『スキップ』のような高評価は無理だ。
吹原和彦の気持ちになると、今回の脚本で加えられた脚色では共感できないからだ。原作ははっきり言って切ない。いや、あまりにも切な過ぎる。短編3作(文庫版では番外編がさらに1作)で構成される『クロノス・ジョウンターの伝説』の中でも最も切ないのがこの「吹原和彦の軌跡」なのだが、主人公の「二人」の関係性にリアリティを持たせようと脚色した部分が、かえって「吹原和彦の必死さの度合い」を半減させ共感を失わせてしまったのだ。
私から見ればあの「二人」の関係性がこの「吹原和彦の軌跡」における最も重要なポイントだと思う。一言で言えば「ただの・・・なのに、こんなにまで・・・」という関係性だ。ところがキャラメルボックスの『クロノス』では、「あぁこういう間柄だったら当然これくらいはしようと思うだろうな」というありふれた関係にまで引き摺り下ろしてしまった。そこが残念でならない。
観劇仲間に聞いてみたところ、女性の場合はおおむねこの脚色について歓迎する傾向にあるらしい。女性の多くは吹原和彦の立場ではない「彼女」の立場でこのエピソードを見ているからだと思われる。でも、自分は原作のこのエピソード「吹原和彦の軌跡」を「吹原和彦と同じ立場で応援」しながら読んでいた。自分だったら、自分が同じよう立場になったら「大好きなあの人のために」同じことが出来るのだろうか、と。
そう。今の自分はまだ、「シックブーケの『彼女』と会って1年後の吹原和彦」には追いついてはいないのである。
さぁて、枢月圭と鈴谷樹里はどうなるんでしょうかっ?!
そして、クロノス・ジョウンターはっ?!
そして、曲はっっっっっっ?!
……おたのしみに。
みなさん、今年もよろしくお願いします。
まず最初に。この作品で、原作の吹原に共感できるかどうかは、ひとえに「似たような恋愛経験があるか?」にかかっていると思います。
自分の場合、経験があるので想いっきり原作の吹原に共感できてしまったのです。
ふらんけんさん:
たしかに「関係性が希薄」だと思います。原作のスタイルが、主人公の感情の描写に終始しているからです(「短編の制約」からではないと思います)。だから、そのまま舞台化するのは他のスタイルの小説以上に大変なのだと思います。
riskyさん:
「彼女の気持ちをおいてきぼりにしてる」というのとは違うと思います。
原作はあくまでも「吹原の内面」を中心に描写しているため、結果として作者としてはまわりの人間の心の動きは意図的に捨象しているように思えます。
読者それぞれが、その時々のまわりの人間の心の動きを補完しながら読むのがいいのだと思います。吹原と相対したとき自分はどう考えるのか(自分以外の誰かがどう考えるのか)を投影しながら。
虹さん:
「男の視点と、女の視点の違い」というのとも実は違うと思っています。
「吹原の立場に立って読むか」「吹腹以外の登場人物の立場に立って読むか」あるいは「作品の外側から客観視して読むか」によるのだと思います。
もちろん、それた3つの立場それぞれに経った場合に「男の場合と女の場合でそれぞれに一つの傾向が見られる」ということはあると思います。
『クロノス』でも、原作とは違う意味で泣いたんですけどね。
ミートさん:
まぁ、言葉で言い尽くせるものではないですが、ある程度言葉にする努力をしないと、相手との間の感性の違いがわかりませんからねえ。横浜公演が終わったときに、ミートさんがどんな言葉でこの『クロノス』について語ってくれるのかを楽しみにしています。
相手を思いやるには「相手を知ること」が大切で、相手を知るには「言葉や言葉以外で、相手と自分の間の違いと似たところを明確に理解しようと努める」ということが大事だと思いますから。
相手の内面に迫る努力なしに「相手を思いやろう」としても、単なる同情に終わってしまうことのほうが多いですから。
私はクロノス・・・うーんなんていうのかな…
なんとも思わなかったわけではないですが、言葉に表せないですね。(横浜でもクロノスみてということですかね)では。
原作を読んだ時、「残された彼女はどうなるんだ?!」と一番に思ったので、ちょいと感覚がズレますかね。
そこは男の視点と、女の視点の違いでしょうか。
舞台を観て、二人の設定に関わりなくすっと納得がいった感じです。だから号泣したのかも。
「スキップ」の時も、原作より舞台で納得した私ですからf^_^;。
で、『クロノス』に関してですが、私は好印象でしたよっ。原作の方は、あまりにも彼女の気持ちをおいてきぼりにしてるような気がして・・・。芝居の方が、吹原さんと彼女の気持ちのやり取りがちゃんと見えたから。その分、原作のビターな切なさが薄れたのは事実かもしれませんけど(^^;)。
短編の制約である以上、関係性が希薄すぎると感じていたのだよ。
しかし、菅野は次に観る時にどんな体型で現れるのだろうか(笑)