異説万葉集 万葉史観を読む

日本書紀の歴史に異議申し立てをする万葉集のメッセージを読み解きます。このメッセージが万葉史観です。

石川郎女をめぐる大津皇子と草壁皇子 最終回

2013-02-23 | 番外・志貴皇子とムササビ寓話
 周辺がドタバタしていて、アップができませんでした。志貴皇子の歌に関する編集は奇妙なことばかりです。今回は、志貴皇子歌の編集上のメッセージをまとめます。異説万葉集の連載はとりあえず、これで休ませていただきます。近々、新しい展開の報告をするつもりです。

 とりあえず、最終回です。

 大津皇子とからむ山田守りの歌は、たんなる恋の歌ではありません。気になるのが、一連の石川女郎の歌の最後に、正体不明の石川女郎の所属がでてくることです。巻二相聞の石川女郎の歌の並びは次のようになっています。



  [資料]石川郎女の巻二関連歌題詞 数字は歌番号、いずれも巻二に収録されています。

   107「大津皇子、石川郎女に贈れる御歌一首」
   108「石川郎女、和へ奉れる歌一首」
   109「大津皇子、竊に石川郎女に婚ふ時、津守連通、
      その事を占へ露せば、皇子の作る御歌一首」
   110「「日(ひ)並(なみし)(草壁)皇子尊、石川女郎に贈り賜ふ御歌一首
      女郎、字を大名兒といふ」

   126「石川女郎、大伴宿祢田主に贈る歌一首
      即ち佐保大納言大伴卿の第二子、母は巨勢朝臣と曰ふ」
   127「大伴宿祢田主、報へ贈れる歌一首」
   128「同じき石川女郎、また大伴田主中郎に贈る歌一首」
   129「大津皇子の宮の石川女郎、大伴宿祢宿奈麻呂に贈れる歌一首
      女郎、字を山田郎女と曰ふなり
      宿奈麻呂宿祢は大納言兼大将軍卿の第三子なり」


 ここに載せた一連の石川郎女は実在が疑われるのですが、二か所に簡単な人物紹介があります。一一〇番歌と一二九番歌です。一一〇番歌は石川郎女を「大名児」、一二九番歌の石川郎女を「山田郎女」と注をつけています。

 注がなければ、読者は、この石川郎女を同一人物と受けとるはずです。ふつうに考えて、別人と受けとる理由がありません。そこに異なる別名が注記されています。編集的に明確な意図があるはずです。それが、巻二の一二九番歌と巻十秋雑歌の鹿鳴を詠む二一五六番歌の山田守らす子の歌の関連づけなのかもしれません。

 もし、これが万葉編者の意図だとしたら、編者はこれで何をいいたかったのでしょうか。


 二一五六番歌は、山田を番する賤しい身分の子に、尊敬語をつかっています。たんなるシャレかもしれませんが、シャレだとしたら、賤しい子どもを持ちあげたというより、高貴な人を貶めたと考えたほうが自然です。もし、高貴な人物をシャレで貶めたのなら、読者にイメージできなければ意味ありません。

 読者は、二一五六番歌をみて、山田を見張り番する子ども、賤しい身分なのに尊敬語をつけられた田んぼ番が、だれなのか想像をはたらかせることでしょう。だれもが知っている高貴な人物です。

 そう思って、高貴な作者が並ぶ巻一、巻二をみると、そこに一二九番歌です。ここには、石川郎女が大津皇子の宮に仕えています。題詞に「侍」とあるのは「まかだち」を訓むそうです。どういう役目なのかは定かではありませんが、侍女といった立場だったのでしょうか。



  ◆大伴氏からメッセージ



 志貴皇子のムササビの歌から誘導された巻十の秋雑歌の部立ての「山田守らす子」が指し示す石川女郎の歌群の構成について、簡単に触れます。ここは大津皇子と草壁皇子の中心歌群ですが、志貴皇子のムササビの歌をとおしてみると、大津にたいして大きな示唆をあたえています。

 どんな構造になっているのか、整理します


 ∩巻二の石川郎女歌群∪歌の贈答関係


   基本構造

   107「大津皇子→石川郎女」
   108「石川郎女→大津皇子」
   109「大津皇子の石川郎女関連単独歌」
   110「草壁皇子→石川女郎」=返歌なし


   126「石川女郎→大伴田主(大伴安麻呂第二子)」
   127「大伴田主→石川女郎」
   128「石川女郎の大伴田主関連単独歌」
   129「石川女郎→大伴宿奈麻呂(大伴安麻呂第三子)」=返歌なし




   最終贈答関係Ⅰ

   107「大津皇子」→石川郎女→126「大伴安麻呂」
   108「大津皇子」←石川郎女←127「大伴安麻呂」
   109「大津皇子」→石川郎女→128「大伴安麻呂」=単独歌
   110「草壁皇子」→石川女郎→129「大伴安麻呂」=返歌なし




   最終贈答関係Ⅱ

   107「大津皇子」→126「大伴安麻呂」
   108「大津皇子」←127「大伴安麻呂」
   109「大津皇子」→128「大伴安麻呂」=単独歌
   110「草壁皇子」→129「大伴安麻呂」=返歌なし



 大伴安麻呂は、旅人の父、家持の祖父です。天武天皇と、天智の嫡子である大友皇子が争った壬申の乱では、大伴氏は一門そろって天武側(乱の段階では大海人側)に立ちました。安麻呂は大伴氏の中心メンバーのひとりです。生まれた年月日は定かでありませんが、亡くなったのは和銅七年(七一四)です。志貴皇子とほとんど同時代を生きています。

 壬申の乱で活躍した一門としては、大伴氏が筆頭と考えられます。壬申の乱後しばらくは、大伴氏が軍事氏族の筆頭だと考えてよさそうです。ただ、大伴氏は持統朝になってからは必ずしもパッとしませんでしたが、天武朝での大伴安麻呂はそれなりの力をもっていたと考えられます。

 大津と草壁にからむ石川郎女の歌群が、安麻呂の二男と三男に関連しています。安麻呂が大津の死と何らかの関わりがあるという案内とみていいようです。ただ、大津の死と安麻呂がどのような関係にあったのか、具体的には分かりません。今後、しらべる価値はありそうです。(2013/02/23 了)