空(間)論

ロハス・デザインという言葉が注目されています。人にとっての快適な空間デザインを考える不定期ブログを筑波から発信します!

より優れた「空間」を喜ぶ本能

2006年02月11日 | Weblog
 ファミレスで、ぼくの行きつけのココスが、こんど全面改装になった。こんどは仕切りが多くある。仕切りには押し縁でガラスがはめられている。押し縁を留める釘の、ちいさな光る頭が並んで見えている(安直な仕上げだな。でも、大方こんなものだ)。
 どうせ打つなら、きちんと並べて打つ。透明に透けて見える硝子の向こう側と、2本ずつペアになって、それで、デザインにも見える。

「デザイン」を感じると、「必要で打った」ということを忘れさせる。1本だけ打ち忘れがあると、かえって気になる。きちんと並べることが美を産む。必要でそこに在るものは、「必要」が実は美の元になる。では、何でも必要なら美しいのか? それならなにも、デザイナーに頼むことはない。行き当たりばったり、釘でも膏薬でも貼ればいい。
 インテリアで気をつけることといえば、あまり雑多な物が入り込まないことだ。釘やビスの頭が見えているのは本来なら見苦しい。必要なものは必要として美しく存在させるとよい。

 茂みに花をつけるのは、虫たちに来て欲しいからである。きちんと刈り込んだ植え込みの、緑の葉の茂みにあって、白の花はもともと異質である。同じ純白でも、ティッシュペーパーなんかが引っ掛かっているのは見たくもない風景だ。
 なぜ、花ならいいのか。花は必要で咲いている。白い色をして虫さえ来てくれればいいのに、5枚の花びらは5枚、きちんと並んでいる(きれいに並ぶ必要もなさそうに思うが……)。虫はこれを美しいと喜ぶのだろうか? でも、虫はきれいに揃っている花ほど健康な蜜が吸えると知っている(たぶん)。だから、花のほうも真面目に、きちんと揃った花弁をつける。その結果、「まあ美しい!」と感激するのが虫でなく人間であっても、花にしてみれば、きっとどうでもいいことだ。虫たちが「美しい」と感じるかどうかは知らないけれど、ぼくらはそれを美しいと見る。そんなふうに僕らはできていて、その本能だか本性だか知らないけれども、より優れた「空間」というものを喜ぶ。

 虫たちが花に認める価値と、人が認める価値とはたぶん異なる。虫には蜜を採るという目的があって、人には眺めるという目的がある。不揃いだったり枯れていたりしては美しく(好ましく)ない点は、双方一致だろう。畢竟、ぼくらが空間のことを考えるときには、その空間のどこに、どんな点に価値を認めるか、ということになる。
 釘の頭はやはりもう少し改善の余地がある。本当なら押し縁自体も視覚的にはないほうがよい。押し縁を使うとしても、釘の頭を見えなくするには、押し縁をぱちんとはめ込むようにすればよいだろう。そうすると、そういう形に押し縁も、押し縁のつく側も加工する必要がある。少し手間を喰う。つまり、施工コストが上がる。そのせめぎ合いだ。