「空間の拡がり」とは視界をさえぎることだ、と言った。
空間の拡がり、とは考えてみれば自分の眼から見た奥行きへの視界のことだ。同じ視立体角なら、遠いほど大きい拡がりとして感じる。実際に視展開面積は大きくなる。しかし、感覚が感じるのは展開面積が広くなったと言うことよりも、全てのものがより小さくなって見えるということによる。遠景へ去るほど、物が小さく見えるのだ。
図は室内の左の壁から延長するようにして、ガラスから透けて外部へ建仁寺垣のような塀になって延びている。視覚の奥行きへの展開を助けている。竹垣が池から立っていれば、池に竹垣を逆さに映すだろう。
この竹垣に一部さえぎられた先の風景は、竹垣のずっと先にある拡がりとしてよく感じる。室内の壁から垣根を伝って勢いよく視線が延びるのである。感覚が活きている。併せて、舗石の目地が前庭の広さを感じさせる。
これは実景であって、実際のとおりに感覚して快い広がりであると感じている。このとき、垣目や石目地や池、池に生える竹、それに中景の森が遠くに見える山までの視定規として働いている。この竹垣の高さはこの部屋の天井高とほぼ同じ高さで延びていたのだ。
もしも、原野に立って乏しい視定規しかなければ、拡がりというものを実際ほど感じないことになるのだろう。それはなぜかを少し考えてみよう。『生物から見た世界』(ユクスキュル/クリサート共著 新思索社刊)という本がある。それによれば、
「昆虫の視覚空間は、その眼が球状に作られているために、それぞれ1つずつの視覚エレメントに対応する外界の領域は、距離が遠ざかるとともに広がり、それにともなって、外界のより大きな部分が、1つの場所によってカバーされることになる。その結果すべての対象物は、眼から遠ざかれば遠ざかるほど小さくなり、ついには1つの場所の中に消えてしまう。というのは、その場所が最小の空間を表わす容器であり、その内部では区別というものは存在しないからである。」
また、人の眼については、
「……レンズの筋肉が完全に弛むと、眼の焦点は10メートルから無限大へセットされる。10メートルの周囲の内部では、人間の環境世界の事物は、このような眼の筋肉運動によって、遠近が判断される。乳児の場合には、その視覚空間のすべてを包括している最遠平面は、この10メートルの距離で閉じられている。成年においても、視覚空間は6キロから8キロメートルの距離で閉じられ、そこから地平面が始まる。
ヘルムホルツは少年のとき、ポツダムのある教会の前を通り過ぎた。すると彼は教会の回廊の上に数人の労働者がいるのに気がついた。そこで彼は母親に、あの小さな人形を取ってちょうだいとたのんだ。教会と労働者はすでに彼の最遠平面にあったので、それらはただ小さく見えただけで、遠いところにあるとは思えなかったのである。だから彼が、母親ならその長い手で人形を回廊からおろすことができると思ったのは当然のことだった。母親の環境世界にあっては、教会はまったく異なる次元をもっていて、回廊には小さな人間でなく、遠く離れた人間がいるということが、彼にはわからなかったのである。」
空間の拡がり、とは考えてみれば自分の眼から見た奥行きへの視界のことだ。同じ視立体角なら、遠いほど大きい拡がりとして感じる。実際に視展開面積は大きくなる。しかし、感覚が感じるのは展開面積が広くなったと言うことよりも、全てのものがより小さくなって見えるということによる。遠景へ去るほど、物が小さく見えるのだ。
図は室内の左の壁から延長するようにして、ガラスから透けて外部へ建仁寺垣のような塀になって延びている。視覚の奥行きへの展開を助けている。竹垣が池から立っていれば、池に竹垣を逆さに映すだろう。
この竹垣に一部さえぎられた先の風景は、竹垣のずっと先にある拡がりとしてよく感じる。室内の壁から垣根を伝って勢いよく視線が延びるのである。感覚が活きている。併せて、舗石の目地が前庭の広さを感じさせる。
これは実景であって、実際のとおりに感覚して快い広がりであると感じている。このとき、垣目や石目地や池、池に生える竹、それに中景の森が遠くに見える山までの視定規として働いている。この竹垣の高さはこの部屋の天井高とほぼ同じ高さで延びていたのだ。
もしも、原野に立って乏しい視定規しかなければ、拡がりというものを実際ほど感じないことになるのだろう。それはなぜかを少し考えてみよう。『生物から見た世界』(ユクスキュル/クリサート共著 新思索社刊)という本がある。それによれば、
「昆虫の視覚空間は、その眼が球状に作られているために、それぞれ1つずつの視覚エレメントに対応する外界の領域は、距離が遠ざかるとともに広がり、それにともなって、外界のより大きな部分が、1つの場所によってカバーされることになる。その結果すべての対象物は、眼から遠ざかれば遠ざかるほど小さくなり、ついには1つの場所の中に消えてしまう。というのは、その場所が最小の空間を表わす容器であり、その内部では区別というものは存在しないからである。」
また、人の眼については、
「……レンズの筋肉が完全に弛むと、眼の焦点は10メートルから無限大へセットされる。10メートルの周囲の内部では、人間の環境世界の事物は、このような眼の筋肉運動によって、遠近が判断される。乳児の場合には、その視覚空間のすべてを包括している最遠平面は、この10メートルの距離で閉じられている。成年においても、視覚空間は6キロから8キロメートルの距離で閉じられ、そこから地平面が始まる。
ヘルムホルツは少年のとき、ポツダムのある教会の前を通り過ぎた。すると彼は教会の回廊の上に数人の労働者がいるのに気がついた。そこで彼は母親に、あの小さな人形を取ってちょうだいとたのんだ。教会と労働者はすでに彼の最遠平面にあったので、それらはただ小さく見えただけで、遠いところにあるとは思えなかったのである。だから彼が、母親ならその長い手で人形を回廊からおろすことができると思ったのは当然のことだった。母親の環境世界にあっては、教会はまったく異なる次元をもっていて、回廊には小さな人間でなく、遠く離れた人間がいるということが、彼にはわからなかったのである。」