―ほしいものはにんげんのし―

2017-06-09 | うた

人は己の首を絞めながら生まれてくる。

意外に知られていないがそうである。

だから叫び声を上げる。わずかな喉の隙間から。

 

常に己の首を絞めている。

苦しいからその絞めつけている手を少しでも緩めようともがく。これが人生。

苦しい時は己の手で己の首を強く絞めている時なのだ。

絞めている力を上手にコントロールできるようになる。これが知恵と学び。

ならば絞めている手を解けばよいのか。それでよいのか。

そうではない。無防備にさらされた首は、今度は他者から絞められる。

これが人間のやっかいな人間関係というやつ。

さらせば絞められ、暗闇の影にうずくまればより苦しい。

己の首を己で絞めている。これが人間の生。道。

絞めている手に気付くこと。これがまず第一歩。

その為には見ること。鏡で見ること、簡単だ。

己の手は腰にあるか?いやいや、首を絞めている様が見えるだろう。

己を絞めつける手を緩めることができるのか。

それが分かれ道。苦しい道かしんどい道か、他者を踏みにじる道か楽しい道か。

忘れてはならないのは、己の首を絞める手が己にあるということ。常に。

他者を陥れているつもりで実は、

己の首を激しく絞めつけている。もう苦しいよう、助けてよう。

でも(意味もなく)憎い相手を傷つけたいよう、攻撃したいよう。

でも苦しいんだよう。助けてよう。

苦しいんだよう。苦しいことに、気付いているかな?

それとも己の首を絞めているのは、やはり他人のせいだと思うのかな。

 

己の首を己で絞めている。

より絞めつけるか、

緩める道を探せるか。

いつも苦しくて不幸な顔をしているあの人は、いつか己の首を絞めつけずに生きていけるのかな。

 


2017-06-03 | うた

どれだけ注意されても

どれだけあらゆるところから指摘されても

絶対に分からない己の姿。

鏡に映しても見えない。もう見えない。

見ようとしないのではなく、本当に

見えない。

見ないのではなく、見えない。

 

あの犬共は特異なのだと思ったが、

行く先々であのような犬共がいた。

そのような巡りあわせかと思うほどだったが、

そうではなく、世界はそんな愚かな人間共ばかり。

そうなると、

他人の家に石を投げない自分は果たしてまともな人間ではないのではないかという考えが出てくる。

他者がそこを通れば、吠え、威嚇し、大地を叩く・蹴る。

目が合えばケンカを売られているものと認識するが故に、

人間以外の動物は不用意に相手の目を見つめないようにしているが

人間は逆。常にケンカを売り、愛して愛してとバットで他人の家を殴る。

何が暴力で

何がしつけで

何が体罰で

何がまともな行動なのか。その判断はつくか?今すぐつくか?己はつくか?

 

道徳とはケンカをする道を言う。これが道。争うのが道徳。

ケンカをすることに疲れたら、停止する。これは静寂でも平和でもない。

人間が増え過ぎたから、ケンカする相手も増えた。だからケンカは絶え止まない。

必ず隣人とはケンカする。さあ、殴り合ってケンカしろ。

美しい現代の道徳をしてみせろ。

 

どうしたらケンカの頭は、まともになるか?

やはりそれは、後ろ手に縛られて、外界とのシャットアウトだろう。

しばらくはその状態のままブウブウと唸るだろう犬共は。

少し経てば、自分のまぬけさに気付くかな?