こんばんは。
今夜も軽るめの更新です。
タイトルは結構ボリューム感ありそうな感じなんですけどね(笑)。
今はぱっと思い立った時に書くという気持ちが最優先です。
大阪城の石垣の件、どんな理由で聳え立つ程高かったか、もうおわか
りになりましたか?
そう、答えは西国の大名に徳川幕府の権威を見せつける為でした。
大阪冬夏の陣で天下人の決着はついたものの、まだ豊臣恩顧の諸大名
が西日本各地に点在していた為、必要以上に高くしたのがその真相の
様です。
確かに徳川氏拠点の江戸城外堀石垣と比べると数倍の高さがあります。
初めてその前に立った時、随分高い石垣だなとの第一印象を持ちました。
石垣から真下を覗き込むとそれは更に実感出来ます。
まさにこれなんですね、徳川幕府が狙ったのが…。
約400年後に生きる自分も感じる位ですから、二代将軍徳川秀忠公の
戦略は見事に的中していたと言えます。
実はこの素朴な驚きが、大阪城の更なる驚きと発見に繋がる訳です。
その事は追い々記載させて頂くとして(笑)、ここ迄なら誰でも知ってるよと
いう方も多いと思います。
でもそう多くの人がご存じないのが、この大阪城で徳川将軍が亡くなっ
ている事実です。
第14代徳川家茂公なのですが、彼は僅か13歳で就任して長州征伐の
為、指揮を執るべく大阪城に滞在中の時でした。
まだ21歳の若さ…
西国大名への権威の象徴である大阪城での死が、徳川幕府の崩壊に
繋がっていくのは何とも皮肉です。
歴史ってほんのちょっとした出来事で動き出していくんですね。
今夜はここ迄…関連する画像を添付しておきます。

大阪城東外堀(極楽橋付近) 第一印象、石垣高いなと感じさせた場所

大阪城(大手門付近の石垣)西外堀

大阪城(当時の儘現存する六番櫓)西外堀

江戸城外堀と門 明らかに石垣低いです