BLOG 思い遥か

日々新たなり/日本語学2020

死生観

2021-10-11 | 日本語文章

死について恐れる、不安を持つ、考えをめぐらすというようなことはなかった。わたしの中にはおさないころ近親者の死ということもあるが、17歳の終わりに病気をして18歳になるまでの3か月をふせっていたということにその後にがんの煩いまで、今からでも生と死のいわば原体験がある。
生きる感覚を庭におりた素足に持つ、17歳、大地に足をつける一歩一歩、その気に意味を求めた、生きているとはどういうことか。

三木清の人生論ノート、冒頭の文章がある。
1937年に冒頭の一章が発表、西田幾多郎、和辻哲郎らとも並び称される日本を代表する哲学者と、並べているが、まったく方向が違う、三木 清(1897- 1945)。
高校生になって、すぐにも全集に触れた。思い起こせば西田哲学、善の研究には公民館講座の聴講があったし、さらに和辻の風土が興味深く、ついて回った。

この解説は、放送を聞いたわけでないしテキストがあればまだしもの感で、三木清が理解しにくいという証左となる。
>「人生論ノート」の冒頭で、三木は「近頃死が恐ろしくなくなった」と語る。人間誰もが恐れる「死」がなぜ恐ろしくないのか? 死は経験することができないものである以上、我々は死について何も知らない。つまり、死への恐怖とは、知らないことについての恐怖であり、死が恐れるべきものなのか、そうではないのかすら我々は知ることができないのだ。そうとらえなおしたとき、「死」のもつ全く新しい意味が立ち現れてくる。
https://www.nhk.or.jp/meicho/famousbook/64_jinseiron/index.html
NHKテレビテキスト「100分 de 名著」より

三木清の言説はちょっとひねってあるので、その真意を汲むには考えをめぐらすことになる。次が読み解けるか。
>それだから死に對する準備といふのは、どこまでも執着するものを作るといふことである。私に眞に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する。
>しんじつ我々は、我々の愛する者について、その者の永生より以上にその者の爲したことが永續的であることを願ふであらうか。
死を、いわば、裏返して、生を語っている。つぎは言い過ぎだが・・・・・
>死は觀念である。それだから觀念の力に頼つて人生を生きようとするものは死の思想を掴むことから出發するのがつねである。すべての宗教がさうである。
そして独特の修辞法となる。
>絶對的な傳統主義は、生けるものの生長の論理でなくて死せるものの生命の論理を基礎とするのである。
>そこで死者の生命が信ぜられるならば、それは絶對的な生命でなければならぬ。この絶對的な生命は眞理にほかならない。
わかるかなぁ、生命と真理に至ると、罪が出てくる。
>すでにペトラルカの如きルネサンスのヒューマニストは原罪を原罪としてでなくむしろ病氣として體驗した。ニーチェはもちろん、ジイドの如き今日のヒューマニストにおいて見出されるのも、同樣の意味における病氣の體驗である。病氣の體驗が原罪の體驗に代つたところに近代主義の始と終がある。ヒューマニズムは罪の觀念でなくて病氣の觀念から出發するのであらうか。


https://www.aozora.gr.jp/cards/000218/files/46845_29569.html
青空文庫より

三木清

死について

 近頃私は死といふものをそんなに恐しく思はなくなつた。年齡のせゐであらう。以前はあんなに死の恐怖について考へ、また書いた私ではあるが。
 思ひがけなく來る通信に黒枠のものが次第に多くなる年齡に私も達したのである。この數年の間に私は一度ならず近親の死に會つた。そして私はどんなに苦しんでゐる病人にも死の瞬間には平和が來ることを目撃した。墓に詣でても、昔のやうに陰慘な氣持になることがなくなり、墓場をフリードホーフ(平和の庭――但し語原學には關係がない)と呼ぶことが感覺的な實感をぴつたり言ひ表はしてゐることを思ふやうになつた。
 私はあまり病氣をしないのであるが、病床に横になつた時には、不思議に心の落着きを覺えるのである。病氣の場合のほか眞實に心の落着きを感じることができないといふのは、現代人の一つの顯著な特徴、すでに現代人に極めて特徴的な病氣の一つである。

 實際、今日の人間の多くはコンヴァレサンス(病氣の恢復)としてしか健康を感じることができないのではなからうか。これは青年の健康感とは違つてゐる。恢復期の健康感は自覺的であり、不安定である。健康といふのは元氣な若者においてのやうに自分が健康であることを自覺しない状態であるとすれば、これは健康といふこともできぬやうなものである。すでにルネサンスにはそのやうな健康がなかつた。ペトラルカなどが味はつたのは病氣恢復期の健康である。そこから生ずるリリシズムがルネサンス的人間を特徴附けてゐる。だから古典を復興しようとしたルネサンスは古典的であつたのではなく、むしろ浪漫的であつたのである。新しい古典主義はその時代において新たに興りつつあつた科學の精神によつてのみ可能であつた。ルネサンスの古典主義者はラファエロでなくてリオナルド・ダ・ヴィンチであつた。健康が恢復期の健康としてしか感じられないところに現代の根本的な抒情的、浪漫的性格がある。いまもし現代が新しいルネサンスであるとしたなら、そこから出てくる新しい古典主義の精神は如何なるものであらうか。

 愛する者、親しい者の死ぬることが多くなるに從つて、死の恐怖は反對に薄らいでゆくやうに思はれる。生れてくる者よりも死んでいつた者に一層近く自分を感じるといふことは、年齡の影響に依るであらう。三十代の者は四十代の者よりも二十代の者に、しかし四十代に入つた者は三十代の者よりも五十代の者に、一層近く感じるであらう。四十歳をもつて初老とすることは東洋の智慧を示してゐる。それは單に身體の老衰を意味するのでなく、むしろ精神の老熟を意味してゐる。この年齡に達した者にとつては死は慰めとしてさへ感じられることが可能になる。死の恐怖はつねに病的に、誇張して語られてゐる、今も私の心を捉へて離さないパスカルにおいてさへも。眞實は死の平和であり、この感覺は老熟した精神の健康の徴表である。どんな場合にも笑つて死んでゆくといふ支那人は世界中で最も健康な國民であるのではないかと思ふ。ゲーテが定義したやうに、浪漫主義といふのは一切の病的なもののことであり、古典主義といふのは一切の健康なもののことであるとすれば、死の恐怖は浪漫的であり、死の平和は古典的であるといふこともできるであらう。死の平和が感じられるに至つて初めて生のリアリズムに達するともいはれるであらう。支那人が世界のいづれの國民よりもリアリストであると考へられることにも意味がある。われ未だ生を知らず、いづくんぞ死を知らん、といつた孔子の言葉も、この支那人の性格を背景にして實感がにじみ出てくるやうである。パスカルはモンテーニュが死に對して無關心であるといつて非難したが、私はモンテーニュを讀んで、彼には何か東洋の智慧に近いものがあるのを感じる。最上の死は豫め考へられなかつた死である、と彼は書いてゐる。支那人とフランス人との類似はともかく注目すべきことである。

 死について考へることが無意味であるなどと私はいはうとしてゐるのではない。死は觀念である。そして觀念らしい觀念は死の立場から生れる、現實或ひは生に對立して思想といはれるやうな思想はその立場から出てくるのである。生と死とを鋭い對立において見たヨーロッパ文化の地盤――そこにはキリスト教の深い影響がある――において思想といふものが作られた。これに對して東洋には思想がないといはれるであらう。もちろん此處にも思想がなかつたのではない、ただその思想といふものの意味が違つてゐる。西洋思想に對して東洋思想を主張しようとする場合、思想とは何かといふ認識論的問題から吟味してかかることが必要である。

 私にとつて死の恐怖は如何にして薄らいでいつたか。自分の親しかつた者と死別することが次第に多くなつたためである。もし私が彼等と再會することができる――これは私の最大の希望である――とすれば、それは私の死においてのほか不可能であらう。假に私が百萬年生きながらへるとしても、私はこの世において再び彼等と會ふことのないのを知つてゐる。そのプロバビリティは零である。私はもちろん私の死において彼等に會ひ得ることを確實には知つてゐない。しかしそのプロバビリティが零であるとは誰も斷言し得ないであらう、死者の國から歸つてきた者はないのであるから。二つのプロバビリティを比較するとき、後者が前者よりも大きいといふ可能性は存在する。もし私がいづれかに賭けねばならぬとすれば、私は後者に賭けるのほかないであらう。

 假に誰も死なないものとする。さうすれば、俺だけは死んでみせるぞといつて死を企てる者がきつと出てくるに違ひないと思ふ。人間の虚榮心は死をも對象とすることができるまでに大きい。そのやうな人間が虚榮的であることは何人も直ちに理解して嘲笑するであらう。しかるに世の中にはこれに劣らぬ虚榮の出來事が多いことにひとは容易に氣附かないのである。

 執着する何ものもないといつた虚無の心では人間はなかなか死ねないのではないか。執着するものがあるから死に切れないといふことは、執着するものがあるから死ねるといふことである。深く執着するものがある者は、死後自分の歸つてゆくべきところをもつてゐる。それだから死に對する準備といふのは、どこまでも執着するものを作るといふことである。私に眞に愛するものがあるなら、そのことが私の永生を約束する。

 死の問題は傳統の問題につながつてゐる。死者が蘇りまた生きながらへることを信じないで、傳統を信じることができるであらうか。蘇りまた生きながらへるのは業績であつて、作者ではないといはれるかも知れない。しかしながら作られたものが作るものよりも偉大であるといふことは可能であるか。原因は結果に少くとも等しいか、もしくはより大きいといふのが、自然の法則であると考へられてゐる。その人の作つたものが蘇りまた生きながらへるとすれば、その人自身が蘇りまた生きながらへる力をそれ以上にもつてゐないといふことが考へられ得るであらうか。もし我々がプラトンの不死よりも彼の作品の不滅を望むとすれば、それは我々の心の虚榮を語るものでなければならぬ。しんじつ我々は、我々の愛する者について、その者の永生より以上にその者の爲したことが永續的であることを願ふであらうか。
 原因は少くとも結果に等しいといふのは自然の法則であつて、歴史においては逆に結果はつねに原因よりも大きいといふのが法則であるといはれるかも知れない。もしさうであるとすれば、それは歴史のより優越な原因が我々自身でなくて我々を超えたものであるといふことを意味するのでなければならぬ。この我々を超えたものは、歴史において作られたものが蘇りまた生きながらへることを欲して、それを作るに與つて原因であつたものが蘇りまた生きながらへることは決して欲しないと考へられ得るであらうか。もしまた我々自身が過去のものを蘇らせ、生きながらへさせるのであるとすれば、かやうな力をもつてゐる我々にとつて作られたものよりも作るものを蘇らせ、生きながらへさせることが一層容易でないといふことが考へられ得るであらうか。
 私はいま人間の不死を立證しようとも、或ひはまた否定しようともするのではない。私のいはうと欲するのは、死者の生命を考へることは生者の生命を考へることよりも論理的に一層困難であることはあり得ないといふことである。死は觀念である。それだから觀念の力に頼つて人生を生きようとするものは死の思想を掴むことから出發するのがつねである。すべての宗教がさうである。

 傳統の問題は死者の生命の問題である。それは生きてゐる者の生長の問題ではない。通俗の傳統主義の誤謬――この誤謬はしかしシェリングやヘーゲルの如きドイツの最大の哲學者でさへもが共にしてゐる――は、すべてのものは過去から次第に生長してきたと考へることによつて傳統主義を考へようとするところにある。かやうな根本において自然哲學的な見方からは絶對的な眞理であらうとする傳統主義の意味は理解されることができぬ。傳統の意味が自分自身で自分自身の中から生成するもののうちに求められる限り、それは相對的なものに過ぎない。絶對的な傳統主義は、生けるものの生長の論理でなくて死せるものの生命の論理を基礎とするのである。過去は死に切つたものであり、それはすでに死であるといふ意味において、現在に生きてゐるものにとつて絶對的なものである。半ば生き半ば死んでゐるかのやうに普通に漠然と表象されてゐる過去は、生きてゐる現在にとつて絶對的なものであり得ない。過去は何よりもまづ死せるものとして絶對的なものである。この絶對的なものは、ただ絶對的な死であるか、それとも絶對的な生命であるか。死せるものは今生きてゐるもののやうに生長することもなければ老衰することもない。そこで死者の生命が信ぜられるならば、それは絶對的な生命でなければならぬ。この絶對的な生命は眞理にほかならない。從つて言ひ換へると、過去は眞理であるか、それとも無であるか。傳統主義はまさにこの二者擇一に對する我々の決意を要求してゐるのである。それは我々の中へ自然的に流れ込み、自然的に我々の生命の一部分になつてゐると考へられるやうな過去を問題にしてゐるのではない。
 かやうな傳統主義はいはゆる歴史主義とは嚴密に區別されねばならぬ。歴史主義は進化主義と同樣近代主義の一つであり、それ自身進化主義になることができる。かやうな傳統主義はキリスト教、特にその原罪説を背景にして考へると、容易に理解することができるわけであるが、もしそのやうな原罪の觀念が存しないか或ひは失はれたとすれば如何であらう。すでにペトラルカの如きルネサンスのヒューマニストは原罪を原罪としてでなくむしろ病氣として體驗した。ニーチェはもちろん、ジイドの如き今日のヒューマニストにおいて見出されるのも、同樣の意味における病氣の體驗である。病氣の體驗が原罪の體驗に代つたところに近代主義の始と終がある。ヒューマニズムは罪の觀念でなくて病氣の觀念から出發するのであらうか。罪と病氣との差異は何處にあるのであらうか。罪は死であり、病氣はなほ生であるのか。死は觀念であり、病氣は經驗であるのか。ともかく病氣の觀念から傳統主義を導き出すことは不可能である。それでは罪の觀念の存しないといはれる東洋思想において、傳統主義といふものは、そしてまたヒューマニズムといふものは、如何なるものであらうか。問題は死の見方に關はつてゐる。


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