古い記憶、良きころと思う。そしてこのときには背景となる出来事が進行していた。ひとつに南京の記念館をたずねたら噂通りの閉鎖中、閉館だった。パスポートがあれば入館できるとの話もあったのだが門扉でUターンをして宿舎に帰ってきた。改修していたのだろう。後年、リニューアルしたのを見学したが愛国教育に様変わりしていた。
何度目かの訪中に北から南へと風景がわたしの中で変わった。このときのあとにも幾度も来たのだが、国内緊縮政策が始まった。
よく尋ねられる、来たのはなんどめですか、と。訪問客へのあいさつ言葉に過ぎないのだが、ある種の冷やかしでもあって、まじめに答えるのにも、そうですねぇ、この地にはまだ3回目か、4回目かと、ぼやかしながら、こちらではすべて個人ファイルでデータがとられていると知りつつ対応している。1979年からの大学交流で、84年からの外国人専家になる、日本語教育のための訪中歴である。
サイト検索で、大江氏は北京の後、南京に回ってきたのであった。
受け継がれる中日文学交流 「歩く人が多くなれば - 『人民中国』http://www.peoplechina.com.cn › maindoc › html
このタイトルはもともと、中国社会科学院の招きに応じて、訪中は5度目となる大江健三郎先生が、2006年9月10日、北京大学付属中学で行った講演のものである。遡ること1921年 ...
寛容のテーマ
2006年09月14日
大江健三郎の座談会に、末席に入れてもらって、聴講しようとしたら
始まる時間が分らなくて、入り口がわからなくて、うろうろ
3人で騒いでいたら副院長が気付いて招き入れてくださったのは
メインテーブルのサイドだった
日本人はどう見ても、大江さんを含めてわたしたちで4人かな
座談会をするということで、こんなにまじかに会うことが出来て光栄でした
というのも恥ずかしいくらいに、熱心な討議があった
大江さんは自分の文学テーマで、寛容性をもって、解決が出来ることを望むと言っていた
被害者の寛容に受け入れられている自分を、加害者としての、侵略、虐殺などの戦争行為を受け止めるには、課題があるともいった
中国の学者たちが大江さんの ヒロシマノートを例に、証言の記録をすることを、それが事実の風化を前にした記録性のあるものとして重要視していた
大江さんは静かに、寛容をテーマにして、解決できる問題を討論する研究会を提唱していることを紹介して、自分はそれを見守りたいと言っていた
中国の研究者が大江さんの業績に合わせて、課題の解決に当たることを表明していた
大江さんは寛容を持った人間の尊厳を伝えていた
座談会に参加できてよかった
学生たちが大江さんのような眼鏡をかけたら
といってくれたのだが、どういう意味だろう
大きな眼鏡がかっこよかったのかな
次に来るテーマと格闘中の日々
資料がないから、1冊の文献を持ってきて
学習意欲と誤用は、その要因と対策にかんがえをめぐらす
60分の原稿をまず作る
今日は一緒に来た学生の誕生日だ
おめでとう、サプライズは何かな
実習生の毎日、だんだんとしなければならないことが目に見えてくる
朝7時のバスで教室へ8時に入る
2006年09月15日
大江健三郎とは誰であろうか・・・
2006年09月15日
うわっ!うらやましいです!
大江さんの『ヒロシマ・ノート』は中学生のときに読みました。
大江さんの「寛容性」の考え方は、コミュニケーション論でも大きなヒントになると聞いたことがあるので、勉強したいなぁと思っています。
思いつつ著作等に手をつけられていないので、恥ずかしい限りですが(汗