地獄は極楽の対として描写される。地獄はよく知られるようになったのはこの往生要集の記述にある。お経の内容としての流布になるのか、絵巻物などにも描かれた。
しかし一方で極楽はとなるとこれもまた経の説く内容で絵画になるものkら想像を得ているが、その内実は果たしてどんなものであったか。これについても浄土思想から馴染みのあるところで極楽浄土となる。
仏説阿弥陀経をもとに説明があるところから、その極楽なるものを目指し到達するが仏教の説くところ、と、思ってきて、ふっと、極楽と浄土は同じか違うのか、極楽浄土の略した言葉で極楽ということがあるから、極めて楽というのはなんなのかと思い始めてーー
ここで浄土宗から浄土真宗へと展開する日本仏教の念仏の教えが、はたと見えてきた。はたまた親鸞の発想を得ることになるからこれは気づきとして発見のことになる。
浄土に念ずる思いであるから、極楽はそれをそのまま表現するに違いないとわかって、念仏のことも合点がいった。
観想なのである。
はたと思ったのは、次である。
往生要集に引かれた次の言葉である。漢文で想起する意味内容になる。
>あるいは自心を起して極楽国に生じて、蓮華のなかに結跏趺坐し、蓮華の合する想をなすべし p-957
> 願はくは、衆生とともにかの国に生れんと。
もし相好を観念するに堪へざることあらば、あるいは帰命の想により、あるいは引摂の想により、あるいは往生の想によりて、一心に称念すべし。
その極楽について、極楽浄土となると、極めて浄土をねがう、と解せるところ、極めての意味内容にも、極略 というのを知るべきである。
極略か、それは観想となる。
>もし極略を楽ふものは、念ふべし。 かの仏の眉間の白毫の相は、旋転せること、なほ頗梨珠のごとし。 光明あまねく照らしてわれらを摂めたまふ。 願はくは、衆生とともにかの国に生れんと。
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