kasaiさんの江戸甲府物語

江戸時代の甲府の様子を庶民の生活を中心につづる。

第76回 行き倒れ

2015-05-12 09:58:45 | 説明

 
行き倒れ


 江戸時代も人の往来が盛んでした。大名行列をはじめ、商用の旅、寺社参詣の旅など人の往来がさかんな時代でした。旅行する場合、旦那寺の発行する往来手形を所持する必要がありました。「そうだったのか江戸時代-古文書が語る意外な真実」(油井宏子、柏書房)という本に往来手形の例が載っています。この往来手形には、名前と住所、年齢が記載されています。

 旅の途中で事故や病気などで亡くなる人もありました。往来手形を所持していれば、名前と住所がわかりますが、この往来手形を持たずに旅をする人がいました。往来手形を持たずに旅先で死亡した場合は、身元がわからず無縁仏として埋葬されます。

 明和9年(1772)の御用留には旅の途中で亡くなった記事が載っています。
3月晦日に阿弥陀海道宿(大月市)から1人の病人が駕籠に乗せられて宿送りで甲府の八日町に送られてきました。下山村(山梨県身延町)万之丞方迄送り届けてほしいということです。阿弥陀海道宿は甲州街道の宿場の1つで、笹子峠の東側にあります。ここまで来て病気になりました。病人は甲府城下に入ると、入り口の町である城屋町から、金手町、八日町と町送りで送られました。
病人は八日町に着いたときに死亡しました。死人は城屋町で預かり、役所(甲府勤番)に届けるとともに、すぐに下山村まで飛脚を出しています。4月2日に飛脚が帰り、下山村では万之丞という者がいないという報告をしています。また、役所からも見分の役人が来て病死であることが確認されています。3日に板垣村の寺院に借り埋葬されています。5日に阿弥陀海道宿役人、城屋町から八日町までの町役人などが役所に呼ばれて事情を尋ねられています。12日の記事に「城屋町にて相果て候旅人所持の宿取帳面、信州小県郡和田村茂右衛門と名これあり、右茂右衛門、柳町宿五郎兵衛御呼出しこれあり」とあります。右茂右衛門と柳町宿五郎兵衛は以前に病人が泊まった宿屋でしょうか。
4月24日の記事に、「阿弥陀海道より送り出し候死人一件今日召し出され落着仰せ渡され候」とあります。御用留には亡くなった人の名前が記載されていません。わからなかったのでしょう。

 明和9年(1771)の御用留にはもう1件の病死人の記事があります。6月29日に柳町1丁目の旅籠茂右衛門の所に止宿した旅人濃州中津川の忠助という者が、病気で死亡しました。忠助は6月26日の夜宿泊し、翌朝出立時に病気になり、29日に死亡しました。この間、医者を呼び治療しています。忠助の死亡は町年寄りと役所に届けられ、役所からは検使の役人が出向いています。病死であることが確認され、中津川に連絡の飛脚が出でいます。忠助の死骸は旅籠茂右衛門の旦那寺に借り埋葬されました。
しかし、中津川宿では忠助という者はいないという返事がきました。身元不明になります。忠助の人相書きと所持の品物のリストの書付を町触れとしてまわしましたが、結局わかりませんでした。7月19日に、役所から忠助所持の雑物を売り払いかかった費用に当てるように言い渡されています。

 享和元年(1801)5月24日に甲府の下連雀町の三の堀の土手の上で行き倒れの者が発見されました〈享和元年御用日記〉。意識がはっきりしているので事情が分かりました。紀州の奥熊野室郡長嶋浦の百姓甚作という者で、正月に伊勢参宮を行って、その後信州善光寺へ参詣する途中で病気になったものです。甲府で倒れているので、東海道を江戸まで行き、それから善光寺を目指したのでしょうか。30日以前から病気になりましたが、甲府まで来たところ病気が重くなり倒れたということです。食事などを与えましたが食べることができなかったので医師に診察させましたが、病気が重く「変症難斗」という状態でした。近所の町名主から町年寄に報告され、町年寄はこれを受けて役所に報告しています。行き倒れ人の看護の費用は町方の負担で、町方から費用負担御免の願書が提出されています。この願書を受けて役所で検討した結果、倒れていた場所の三の堀の土手は町分ではないという理由で、この行き倒れ人は牢屋に収容されています。つまり、犯罪人ではありませんが役所の管轄場所に収容されたわけです。27日に甚作は病死しましたので、東光寺村〈甲府市〉の帰命院に埋葬されました。伊勢参宮の帰りの途中で病死した例です。


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