kasaiさんの江戸甲府物語

江戸時代の甲府の様子を庶民の生活を中心につづる。

第94回 安政東海地震/甲府城下の被害01

2015-09-15 09:07:14 | 説明
安政東海地震/甲府城下の被害01


 嘉永7年11月4日(安政元年:1854年12月23日)朝に安政東海地震が発生し、東海地方に大きな被害を与えました。山梨県でも富士川流域、甲府盆地南部、富士山北麓で大きな被害を受けました。被害状況に関する古文書も多数残っています。東海地震が迫っていると騒がれていますが、この安政東海地震の再来のことです。なかなか地震が発生しないせいか最近はあまり話題になっていません。
 また、山梨県は過去の地震による被害はほとんどないという誤った認識があるようです。

 甲府城下でも被害を受けています。被害の状況は、嘉永7年坂田日記、「嘉永7年寅11月4日大地震の記」、「嘉永7年寅11月4日五つ半時地震にて潰家数並人別取調」、「嘉永7年寅11月8日大地震町々御救米割合帳」などの資料に残されています。

 坂田日記にはこの地震の様子を次のように記載されています。
11月4日 
1.今五つ時大地震。八日町1丁目西側、山田町1丁目、魚町2丁目3丁目、柳町2丁目、上連雀町所々の屋敷共押し潰れ。そのほか町々潰れこれあり。その後、昼夜小地震数度これあり候。自分屋敷内魚町通り長屋6間不残潰れ
1.今九つ時過ぎより、長門守様地震にて潰れ候町々御見分これあり候
11月5日 昼夜度々地震。
 「嘉永7年寅11月4日甲府大地震の記」(甲州文庫)には当時の様子が次のように記述されています。
 嘉永7年寅11月4日朝五つ時大地震。市中一統大騒動。潰れ家、潰れ土蔵あまたこれあり、別て八日町1丁目、魚町2丁目3丁目、柳町2丁目3丁目、大損の建家は勿論、土蔵などは無事なるは1つもこれなく、前代未聞の大変に候。
 右同日夜までに36度ばかりも震いもうしそうろう。翌5日も同様。夕申の下刻またまたよほどの大地震、それにて所々なおまた大損し、それより引き続いて15日頃まで同様、その後も当分少しづつ昼夜とも震いもうさず1日もこれなく候。右に付き4日夜から15日頃まで、一統宿中あるいは畑中へ小屋掛いたし罷有候。

 藤岡屋日記(江戸の問屋)というものがあります。これは近世庶民生活資料第6巻として活字化されて三一書房から発行されています。これには、6日の甲府注進として次のように記述されています。「一昨4日朝五つ時、八日町1丁目表通り震い潰れ、2丁目中程まで同様、魚町3丁目中程まで、同2丁目西側大半潰れ、山田町1丁目少々、ただし怪我人はこれなく様子。それより柳町1丁目中程大半潰れ、同2丁目3丁目4丁目少し宛潰れこれあり候。連雀1丁目中程まで荒増潰れ、片羽町より西のほうは無難。金手より東方も無事。山田町より南にかかり連雀まで大地震に御座候。魚町5丁目、桶屋町などもよほど潰れ家御座候」
 前日の5日に柳町問屋注進として第1報が届いたことが記述されていますので、6日の注進も同じく柳町問屋からの注進であると思います。

 これらの記録をみるとも当時の甲府城下の中心部(下府中)が大きな被害を受けたことがわかります。
 「歳云録抄」(若尾資料)という日記には具体的な記録が記述されています。次のように記述避されいます。「家々の棚より壁落る音、家蔵の倒れる音夥しく、歩行立つことを得ず。しばらくする内にようやく震れ止み、上下を見渡すに家蔵の崩れし土煙にして一体にくらく月夜の如し。・・・・昼夜震れ続き、家々に仮小屋を立ててこれに住むこと10日あまり・・・」

 被害件数は資料により異なりますが、11月7日の坂田日記には被害町数25町、被害軒数375軒、被害人数2292人という記録があります。同日記の11月8日には、総人数2037人とあります。また、12月8日の記事には、潰候家持家数として218軒とありますので、11月7日の被害件数375軒は貸し屋を含んでいることがわかります。
「嘉永7年寅11月4日五つ半時地震にて潰家数並人別取調」には、上下府中で被害軒数341軒、被害人数2067人(皆潰1502人、半潰れ535人)、けが人5人、即死3人と記載されており、下府中の三の堀内部町は250軒、下府中の掘り外町は42軒、上府中は49軒の被害となっています。

 これらの被害は下府中に集中しており、二の堀内部の甲府城の被害はありませんでした。被害が大きかった町は下府中では、柳町の81軒、八日町の48軒、山田町の32軒、魚町30軒、下府中では、横沢町の20軒、相川町の13軒です。下府中では商業の中心部が被害を受けたことになります。

被害救済について
 被害者の救済については次のように坂田日記にあります。
【11月5日】
「1.今日、山の手御役所へ地震にて潰れ候町々名主総代として召しだされ、御救い米被下に付き潰れ屋取調べ書き出し候よう申し渡しこれあり」
  被害調査が始まりました。町単位の調査で、町名主が担当しています。
【11月7日】
「1.同役より使いをもって、地震に付き御救い米下され候間、潰れ屋そのほか半潰れの分家数人数取調帳印形の儀申し越し候間調印いたす。」
  被害人数がまとまりましたので、町年寄りが承認の署名と判を押します。
【11月8日】
「1.同役方より使いをもって、今日山の手御役所へ地震にて潰れ候者惣代召しだされ、去る4日市中大地震にて建家、土蔵並び庇そのほか潰れ屋、または大破の向きも多分これあり、難渋致すべく、これにより、このたび男1人に付き玄米5升、味噌百目、塩5合宛て、女1人へ玄米3升、塩味噌とも下される。且つ又、小破のものへは、右半減の割合をもって下され候間、ありがたき旨おうせ渡される。・・・お目付け小屋において、右お救い米今日被下候段申しこされ候・・・・」
 被害者に御救い米が支給されることが申し渡されています。玄米、味噌、塩が支給されています。支給量は男1人に付玄米5升、女人に付玄米3升です。被害が小さい者(小破)はその半分です。当時1日の米の消費量は5合ですので、5升は10日分となります。 

 その後、各町の家持から拝借金の申請が提出されています。却下と申請が繰り返され、最終的に潰れ屋1軒に付き米2石の申請になりました。安政2年6月29日、柳町の本陣へ28両、脇本陣へ14両、徒歩役13人馬役13疋の者へ29両1分永7文の拝借金、本陣と脇本陣は3ヵ年述べ10ヵ年返済、徒歩役馬役は7ヵ年返済です。
 


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