ごきげん練習帳 〜自分トリセツの作り方〜

自分と人生を楽しむための”セルフ・コーチング”ノート

スピリチュアリティへのドア

2015年01月28日 | ●セルフコーチング

 

 

今日はある方から、
その方が、いかにしてスピリチュアリティに気づくようになったか、
という話をお聞きすることがありました。

 

仮にAさんとしましょう。

Aさんは、とても優秀な方でした。
ですから、こうしたい、と思うことは、
たいてい、実現してきました。
国家的なレベルというほど難しいことまで、です。


ところが人生のある大きな目標だけは
何度かトライしたのですが、
その時にはどうしても達成することができなかったのです。

 

それまで、自分で決めたように人生を生きることで
「自己実現」をしていると考えていたAさんは、
次々と、高い目標を達成することで、
考えた通りの自分になってきていました。

 

ところが、そこではじめて、
自分で決めた目標を達成することができなかったのです。
それはAさんにとって、
それ以上の自己実現ができないことを意味しました。

 

そのため、自分が達成したい目標が
どうやっても達成できないのであれば、
もう、生きている意味がない、と考えるようになり、
Aさんは生きる意欲すら失ってしまったと言います。


そして、その後、Aさんはまるで廃人のようになり、
ほとんどアルコール中毒になり、 
うつ病にまでなったのだということでした。

 

それまで、Aさんは、
「知性」で「感情」も「身体」も、
すべてコントロールできると考えていました。

ところが、いくら知性で頑張ってみても、
どうしようもない物事にぶち当たり、
人間は「知性」だけではどうにもならない、
感情や身体など、他の要素も含んだもっと全体的な存在であると、
知ることになったのでした。

 

 

そんな廃人同然となったAさんを救ったのは、
ある方の言葉だったそうです。 

 

それは、
「あなたは、あなたを支えてきた人たちに対して、責任がある」
という意味の言葉だったそうです。

 


Aさんは、
「自分を支えてくれた人に対して責任がある」という言葉から、
自分は初めて、「生かされていた」と感じると同時に、
他人は騙せても、どうしても騙せない最後の人の存在に
思い至りました。

 

世の中のすべての人を騙せても、騙せないたった一人の人・・・

それは、自分自身の中に宿る本当の自分、
いわば「真我」と言われる自身の本質のようなものだと感じたと言います。

 

そこに気づいたとき、
知性でも感情でも、体でもない何かが
自身の本質に宿っていて
それによって人は生かされている、
そんなふうに、自然と考えるようになったのだと
Aさんは振り返って言いました。

 

知性でも、感情でも、体でもない、何か・・・
そして、それにより生かされている何か・・・

それは、 おそらく、体が消滅しても、
知性で考えなくても、
感情がどうであろうと、
なくなることなく存在するものなのかもしれません。

 

Aさんは、それを「魂」とか"Spirituality"と呼ぶのだと
思うようになったということでした。

そう思うようになった背景には、
Aさんがスピリチュアリティについてや、
その他、知性だけの領域に止まらないものについての本を読んだり、
体を使って行動したりするようになったことも大きく影響しています。 

 

そして、Aさんは、それに気づくとともに、
それはどんなに騙そうとしても騙せないものとして、
向き合うことを決めたのでした。

 

 

 

この話を聞いて、私は幾つかのことを思いました。

 

まず一つは、
Aさんが、本当に限界の限界まで
頑張ってこられたのだな、ということでした。

だからこそ、知性ではコントロールできないものの存在を
文字通り、身を以て体得することができたのだと思います。

中途半端なことでは、
Aさんが優秀すぎるゆえに、
そこまでの限界を見ることがなかったと思います。

 

そして、そこまで全てをかけた上での挫折の体験を持つAさんには、
とても大きなミッションがあるのだと感じました。

人生で起きる物事には、必ず意味があると思うからです。

 

 

また、 Aさんの頑張りがうつ病という結果にまでなった理由の一つには、
Aさんが、自分の力のコントロールが及ばないことに対して
頑張った、ということがあると思います。

そこに他人が絡むことについては、
どんなに自分が頑張っても、
結果をコントロールすることはできません。

 

ある一定の点数をとれば合格、というようなものであれば、
自分だけの頑張りで結果を得ることが可能です。
ところが、自分がどんなにすごい点を取ったとしても、
他者が1点でもそれを上回れば自分が負ける、というような
勝負や競争のような物事は、
自分だけではどうにもなりません。 

他人の評価で決まるようなものもそうです。

コントロールできるのはあくまで自分だけ。
他人は変えられないのです。

 

そうした物事を目標にしてしまうと、
それはもう、安寧とは無縁になります。

Aさんは、変えられないことを変えるということを
目標にしていたと考えられます。 

果てしない、膨大な闘いだったことと思います。

しかも、それはAさん自身の利益のためではなく、
公共の利益のためだったのです・・・。 

本当にお疲れ様だったなあと、そう感じます。

 

 

そして、そんなに傷ついたAさんが、
また元気になって帰ってきてくれて嬉しいな、と思います。


それは、前述したように、
これほどの壮絶な体験をしたAさんには、
それを体験せざるを得ない、
神様のシナリオが準備されているのだと思うからです。

まさにAさんの言う「真我」を開花させて、
本来のミッションを果たしていく、
その仕事が、Aさんには待っているのだと思うのです。



 

魂、あるいはスピリチュアリティというものは、
あると思って見ないと
見えるものではないと思います。

 

これは、スピリチュアリティに限ったことではありません。

人は見たいように見て、聞きたいように聞いています。
事実とは、結局、その人にとって現象にすぎません。

 

であれば、いかにして、見ようとするか、聞こうとするか。

そのきっかけこそが大事であり、
それはたいがい、楽しいことではないのだと思います。

 

 

そして、スピリチュアリティの視点から物事を見る、
(それは、たいてい、それまでと真逆から見ることになりますが) 
ということが起きた時、
たぶん、人生の意味がわかったようになり、
自分のこの生でのミッションが見えてくるのかもしれません。 

 

Aさんのこれからの物語がとても楽しみです。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 



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