1941年12月8日 山本五十六率いる日本海軍、真珠湾の米軍基地を奇襲攻撃。
史上最大の裏切りの幕が開く。
⑴五十六と米国との関わり
●山本五十六や米内光政は高級倶楽部水交社で日米海軍サークルを作り上げていた。この水交社は、戦後、フリーメーソンに買収された。
●海軍省軍務局第二課を経て大正8年5月20日米国駐在となって横浜を出港した。米国ではボストンのハーバード大学イングリッシュEに籍を置き英語力を身に付けた。(2年間)
●大正末から昭和の初めに掛けては再び渡米し、日本大使館付武官として2回目の米国在勤をしている。
●山本は、聖書や「ナショナルジオグラフィック」(アメリカの高級写真誌)を駐在前から愛読し、アメリカに憧憬を抱いていたと周囲も認めていた。
山本が骨の髄からの親米派であったことは上記の通り。
⑵山本の戦時主張
日独伊3国同盟に対し、米内光政、井上成美らとともに最後まで反対したが、最後は成立し、山本は黙認した。
「全く狂気の沙汰。事態がこうなった以上全力を尽くすつもりだが、おそらく私は旗艦「長門』の上で戦死する。そのころまでには東京は何度も破壊され最悪の状態が来る」と語った。
この頃の山本の憤懣は想像に余りある。
その後、アメリカとの開戦が避けられなくなると、真珠湾攻撃を強硬に主張し始める。
⑶真珠湾攻撃の事実、経過
●日米開戦の最後通牒が遅れ真珠湾攻撃が”卑怯な欺し討ち”になった事で米国人の世論は開戦派が以前の3%から90%に跳ね上がっている。
日本の外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。
「奇襲を成功させるため」という言い訳はできるが、結局は宣戦布告は開戦に間に合わなかった。
戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が帰国するなり吉田茂外相にこの最後通牒遅延の責任を明らかにする様進言したが、吉田はこの件をうやむやに葬り去ってしまった。
吉田茂も日本を敗北に導いた元凶の一人フリーメーソンであった。
当時の日本大使館員達は戦後何れも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。
●言うまでもないが、真珠湾攻撃は、いつ何時あるのか、米大統領ルーズベルト、英首相チャーチルなど、完全に認識していた。
この点について、アメリカ側の無数の報告、書籍にも記されており、真珠湾犠牲者の米政府を相手取った裁判沙汰にもなっているので、深くは切り込まない。
●真珠湾で米国が被害を受けた戦艦は何れも1910~20年代に就任した旧式艦であり、しかも真珠湾に沿って攻撃し易い様に一列に並べて停泊してあった。
さらに空母3隻について、レキシントンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはウェーキに矢張り飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガは米国本土西海岸にいた為に無事であった。
真珠湾攻撃の12月8日は山本長官が米国側と綿密に調整していたことがうかがえる。
●不徹底な攻撃で米国を助ける
真珠湾攻撃で受けた米国太平洋艦隊の実際の被害状況は当初発表されたほど大きなものはではなかった。
戦艦八隻の内アリゾナとオクラホマを除き残りの6隻はその後全て水深15mという浅い海底から引き上げられ修理、復旧した後何れも戦線へ復帰して大活躍しているのである。
この時第三次攻撃を敢行し、艦隊に対するもっと徹底した攻撃と、陸上のハワイ空軍基地の格納庫、補給庫、給油施設、武器弾薬貯蔵庫、更には米国海軍基地の補給、修理施設、工場郡、燃料タンク郡を破壊しておれば太平洋の戦局は大いに変ったものとなったであろう。
ハワイが米国の太平洋艦隊の最も重要な海軍基地であった事を考えるならば、この攻撃不徹底はいかにも奇異な物であると言わなければならない。
ハワイの燃料タンクに貯蔵されていた重油450万バレルを爆撃しておれば米国本土からの補給は数カ月間にわたって不可能となり、米国の太平洋艦隊は身動きが取れなかったのである。
山本五十六はハワイを徹底攻撃する気は最初から無かった。日本が米国を奇襲攻撃し「卑怯な日本」という既成事実を作ればそれでよかったのである。
また、2400人という米側死者は、米国内世論を盛り上げる上では必須のものであったのだろう。
リメンバーパールハーバーに限らず、リメンバーアラモ、リメンバーメイン号など、アメリカが開戦前にわざと兵士達を見殺しにしたり、見かけ大きな被害を出し、国内世論を発奮させたことは数限りなくある。
戦後も911や、トンキン湾など、自作自演のものまで加えるととても羅列しきれない。
⑷ミッドウェーも山本が強引に決行
真珠湾攻撃の時もそうであったが、ミッドウェー攻略作戦もまた山本長官の強引な主張によって計画されたものであった。
だがこの計画に対して東京の海軍軍令部は強い反対論を唱えた。
その第一の理由は占領後のミッドウェーの戦略的価値が疑わしいと云う物である。
ミッドウェーはハワイから僅か千八百キロしか離れていない上にハワイの陸上基地から攻撃機が殺到し、直ぐに奪還されるに違いないし、ミッドウェーを占領しても奇襲以来基地を強化し続けていた米軍への脅威にはならず、米国民の志気に影響を与える事は無く、従って山本が言うように米国側から和平交渉を提案する事は有り得ないというのである。
また、日本の偵察機の行動半径は1120キロ(ハワイに届かない!)に過ぎないので広大な太平洋の真ん中で有効なる偵察任務は果たせないと反論した。
ところが山本長官は敵の空母勢力を撃破すれば自ら米豪間は分断されるので、先ずミッドウェーで敵の空母を誘き出しこれを必ず撃破して見せると豪語したのである。山本長官の主張は頑なにミッドウェー攻撃一点張りであった。
ミッドウェーが米国最大の海軍基地ハワイの近くであり、戦略的に日本が不利な事は一目瞭然である。にも関わらず、山本長官がミッドウェーに固執し一歩も譲らなかったのはルーズベルトとの間に秘密の協定があり、日本の連合艦隊を此処で破滅させる約束をしていたからに違いない。
山本の真の隠された狙いは日本の連合艦隊を破滅に導く事であった。
米国は充分に航空戦の練習を積み、山本長官の差し出した獲物に向かって殺到したのである。
山本長官の作戦に対し大本営海軍部は大反対であった。
だが山本長官は全く耳を貸そうとしなかった。
最後は山本長官とは腐れ縁であった永野修身軍令部総長の決裁でミッドウェー作戦は認可された。
かくして圧倒的に優勢だった海軍は、無勢の米海軍に叩きのめされたのだった。
ミッドウェー海戦で首尾よく日本の空母部隊を破滅させた山本長官は次のガダルカナル、ソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行い、自らは米国側と通牒の上、逃亡計画を実行する。ブーゲンビル上空での戦死狂言である。
⑸山本五十六は戦死していなかった___ヤコブ・モルガン著 忍野昭太郎訳『山本五十六は生きていた』
●疑問だらけの死体検案書
こうして昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察の為と称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。宇垣参謀長等を乗せた2番機も粗同時に離陸したが、此れを護衛するのは第204航空隊の零戦僅か6機だけであった。
此の日山本長官は何故か正式な連合艦隊司令長官の軍服では無く、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身に纏い、護衛機の数を増やす事にも強く反対したと云う。
山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰掛け、軍刀を握り締めた儘であったとされているが、其の死には深い謎が付き纒う。
大本営海軍発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)に依れば死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス昭和18年4月20日海軍軍医少佐田淵義三郎」として著名捺印がある。
推測されるのは、捜索班が事故機を発見した時、長官の身替わりとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を座席に縛り付け毒殺した。従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。
その後、山本長官を「機上死」であると捏造する為、遺体に拳銃か鋭利な刃物で人工的な死後損傷を加えた。
事実、田淵軍医が検死をしていた最中長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺連合艦隊参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、此れ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。
人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、全ては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」という大本営発表となるのである。
⑹エピローグ
大戦での日本人死者310万人といわれる___そして戦後日本は延々と米国に貢ぎ続ける、まさに山本五十六、米内、吉田達の思惑通りの隷米国家となってしまった。
史上最大の裏切りの幕が開く。
⑴五十六と米国との関わり
●山本五十六や米内光政は高級倶楽部水交社で日米海軍サークルを作り上げていた。この水交社は、戦後、フリーメーソンに買収された。
●海軍省軍務局第二課を経て大正8年5月20日米国駐在となって横浜を出港した。米国ではボストンのハーバード大学イングリッシュEに籍を置き英語力を身に付けた。(2年間)
●大正末から昭和の初めに掛けては再び渡米し、日本大使館付武官として2回目の米国在勤をしている。
●山本は、聖書や「ナショナルジオグラフィック」(アメリカの高級写真誌)を駐在前から愛読し、アメリカに憧憬を抱いていたと周囲も認めていた。
山本が骨の髄からの親米派であったことは上記の通り。
⑵山本の戦時主張
日独伊3国同盟に対し、米内光政、井上成美らとともに最後まで反対したが、最後は成立し、山本は黙認した。
「全く狂気の沙汰。事態がこうなった以上全力を尽くすつもりだが、おそらく私は旗艦「長門』の上で戦死する。そのころまでには東京は何度も破壊され最悪の状態が来る」と語った。
この頃の山本の憤懣は想像に余りある。
その後、アメリカとの開戦が避けられなくなると、真珠湾攻撃を強硬に主張し始める。
⑶真珠湾攻撃の事実、経過
●日米開戦の最後通牒が遅れ真珠湾攻撃が”卑怯な欺し討ち”になった事で米国人の世論は開戦派が以前の3%から90%に跳ね上がっている。
日本の外務省と大使館の責任はまことに大きいと言わざるを得ない。
「奇襲を成功させるため」という言い訳はできるが、結局は宣戦布告は開戦に間に合わなかった。
戦後ポルトガル駐在公使だった森島守人が帰国するなり吉田茂外相にこの最後通牒遅延の責任を明らかにする様進言したが、吉田はこの件をうやむやに葬り去ってしまった。
吉田茂も日本を敗北に導いた元凶の一人フリーメーソンであった。
当時の日本大使館員達は戦後何れも「功労者」として外務次官や駐米、国連大使となり栄進した。
●言うまでもないが、真珠湾攻撃は、いつ何時あるのか、米大統領ルーズベルト、英首相チャーチルなど、完全に認識していた。
この点について、アメリカ側の無数の報告、書籍にも記されており、真珠湾犠牲者の米政府を相手取った裁判沙汰にもなっているので、深くは切り込まない。
●真珠湾で米国が被害を受けた戦艦は何れも1910~20年代に就任した旧式艦であり、しかも真珠湾に沿って攻撃し易い様に一列に並べて停泊してあった。
さらに空母3隻について、レキシントンはミッドウェーに飛行機を輸送中であり、エンタープライズはウェーキに矢張り飛行機を輸送しての帰路で不在、サラトガは米国本土西海岸にいた為に無事であった。
真珠湾攻撃の12月8日は山本長官が米国側と綿密に調整していたことがうかがえる。
●不徹底な攻撃で米国を助ける
真珠湾攻撃で受けた米国太平洋艦隊の実際の被害状況は当初発表されたほど大きなものはではなかった。
戦艦八隻の内アリゾナとオクラホマを除き残りの6隻はその後全て水深15mという浅い海底から引き上げられ修理、復旧した後何れも戦線へ復帰して大活躍しているのである。
この時第三次攻撃を敢行し、艦隊に対するもっと徹底した攻撃と、陸上のハワイ空軍基地の格納庫、補給庫、給油施設、武器弾薬貯蔵庫、更には米国海軍基地の補給、修理施設、工場郡、燃料タンク郡を破壊しておれば太平洋の戦局は大いに変ったものとなったであろう。
ハワイが米国の太平洋艦隊の最も重要な海軍基地であった事を考えるならば、この攻撃不徹底はいかにも奇異な物であると言わなければならない。
ハワイの燃料タンクに貯蔵されていた重油450万バレルを爆撃しておれば米国本土からの補給は数カ月間にわたって不可能となり、米国の太平洋艦隊は身動きが取れなかったのである。
山本五十六はハワイを徹底攻撃する気は最初から無かった。日本が米国を奇襲攻撃し「卑怯な日本」という既成事実を作ればそれでよかったのである。
また、2400人という米側死者は、米国内世論を盛り上げる上では必須のものであったのだろう。
リメンバーパールハーバーに限らず、リメンバーアラモ、リメンバーメイン号など、アメリカが開戦前にわざと兵士達を見殺しにしたり、見かけ大きな被害を出し、国内世論を発奮させたことは数限りなくある。
戦後も911や、トンキン湾など、自作自演のものまで加えるととても羅列しきれない。
⑷ミッドウェーも山本が強引に決行
真珠湾攻撃の時もそうであったが、ミッドウェー攻略作戦もまた山本長官の強引な主張によって計画されたものであった。
だがこの計画に対して東京の海軍軍令部は強い反対論を唱えた。
その第一の理由は占領後のミッドウェーの戦略的価値が疑わしいと云う物である。
ミッドウェーはハワイから僅か千八百キロしか離れていない上にハワイの陸上基地から攻撃機が殺到し、直ぐに奪還されるに違いないし、ミッドウェーを占領しても奇襲以来基地を強化し続けていた米軍への脅威にはならず、米国民の志気に影響を与える事は無く、従って山本が言うように米国側から和平交渉を提案する事は有り得ないというのである。
また、日本の偵察機の行動半径は1120キロ(ハワイに届かない!)に過ぎないので広大な太平洋の真ん中で有効なる偵察任務は果たせないと反論した。
ところが山本長官は敵の空母勢力を撃破すれば自ら米豪間は分断されるので、先ずミッドウェーで敵の空母を誘き出しこれを必ず撃破して見せると豪語したのである。山本長官の主張は頑なにミッドウェー攻撃一点張りであった。
ミッドウェーが米国最大の海軍基地ハワイの近くであり、戦略的に日本が不利な事は一目瞭然である。にも関わらず、山本長官がミッドウェーに固執し一歩も譲らなかったのはルーズベルトとの間に秘密の協定があり、日本の連合艦隊を此処で破滅させる約束をしていたからに違いない。
山本の真の隠された狙いは日本の連合艦隊を破滅に導く事であった。
米国は充分に航空戦の練習を積み、山本長官の差し出した獲物に向かって殺到したのである。
山本長官の作戦に対し大本営海軍部は大反対であった。
だが山本長官は全く耳を貸そうとしなかった。
最後は山本長官とは腐れ縁であった永野修身軍令部総長の決裁でミッドウェー作戦は認可された。
かくして圧倒的に優勢だった海軍は、無勢の米海軍に叩きのめされたのだった。
ミッドウェー海戦で首尾よく日本の空母部隊を破滅させた山本長官は次のガダルカナル、ソロモン海戦で日本軍敗北の総仕上げを行い、自らは米国側と通牒の上、逃亡計画を実行する。ブーゲンビル上空での戦死狂言である。
⑸山本五十六は戦死していなかった___ヤコブ・モルガン著 忍野昭太郎訳『山本五十六は生きていた』
●疑問だらけの死体検案書
こうして昭和18年4月18日、ブーゲンビル島ブインの航空基地視察の為と称して山本長官は午前6時ラバウル東飛行場を一式陸攻で離陸した。宇垣参謀長等を乗せた2番機も粗同時に離陸したが、此れを護衛するのは第204航空隊の零戦僅か6機だけであった。
此の日山本長官は何故か正式な連合艦隊司令長官の軍服では無く、生まれて初めて着る草色の略装である第三種軍装を身に纏い、護衛機の数を増やす事にも強く反対したと云う。
山本長官の遺体は機外に投げ出された座席に腰掛け、軍刀を握り締めた儘であったとされているが、其の死には深い謎が付き纒う。
大本営海軍発表の「死体検案書」(死亡診断書)と「死体検案記録」(死亡明細書)に依れば死亡日時は「昭和18年4月18日午前7時40分」である。傷病名は「顔面貫通機銃創及び背部盲貫機銃創」であり、末尾には「右証明ス昭和18年4月20日海軍軍医少佐田淵義三郎」として著名捺印がある。
推測されるのは、捜索班が事故機を発見した時、長官の身替わりとされた男(恐らくは風貌の似た人物)を座席に縛り付け毒殺した。従って発見時には顔面の創も背部盲貫機銃創も存在しなかった。
その後、山本長官を「機上死」であると捏造する為、遺体に拳銃か鋭利な刃物で人工的な死後損傷を加えた。
事実、田淵軍医が検死をしていた最中長官のワイシャツを脱がせようとしたが、渡辺連合艦隊参謀から突然大声一喝され、「脱がすな、此れ以上触れてはならぬ!」と怒鳴られ制止されているのである。
人工的な死後損傷であったとする証言も数多く存在するが、全ては黙殺され、渡辺中佐の命令下、虚偽の「死体検案書」と「死体検案記録」は作成され、「機上壮烈なる戦死」という大本営発表となるのである。
⑹エピローグ
大戦での日本人死者310万人といわれる___そして戦後日本は延々と米国に貢ぎ続ける、まさに山本五十六、米内、吉田達の思惑通りの隷米国家となってしまった。