この命、つむぎつづけて

「この命、つむぎつづけて」という本を出版しました。スモン薬害被害者で、障害者です。スモン、絵、旅の事などつづります。

石川セリと都はるみ

2007年01月24日 | つれづれ
ある友人に石川セリが武満徹の歌を歌ったCDがとてもすばらしかったと教えてもらいました。

「翼」~武満徹ポップ・ソングズ のなかに「三月のうた」(谷川俊太郎作詞)など

さっそくCDをさがして注文しました。

きくのが楽しみです。

石川セリのうたはいままでほとんど聴いたことがなかったのですが、

井上陽水さんの奥さんだそうです。



そのお返しに、わたしが教えてあげたのが

都はるみの「枯木灘残照」 歌人の道浦 母都子さんの作詞  弦 哲也作曲

すばらしい曲なのです。

詞が短歌で、人生を物語る歌です。

聴いてみてもらえるといいなあ。

ロンドン航空機テロ未遂逮捕当日全便欠航ヒースロー空港迷子体験記その3

2007年01月09日 | 
  ウエストミンスター寺院ー外からちょっと観光。テムズ川のほとりにあった。

そういう思いがけないことでロンドンに二晩滞在できることになった。マドリードでプラド美術館に行けなくなったかわりに次の日には甥の夫婦と共に大英博物館と英国美術館に行けることになったのである。

ちいさな子供二人は偶然夏休みに子供を見てくれる幼稚園に行く日で、若い夫婦ははじめて夫婦だけでロンドン観光をしたと言っていた。四人で地下鉄に乗ってのロンドンは楽しかった。美味しいイタリアンを食べて、晩ご飯にはお寿司まで食べさせてもらった。
ロンドン空港迷子の一幕だった。

グラナダ行きの便は7時出発でふつうより早く5時前にはつくように出かけようと言うことになり、朝の3時に起きてすぐに出発。何しろヒースローですべての便が止められていたのでこのスタンステッドという郊外の空港も大混雑だ。今回の旅行は世界中が夏休みなのだろう、どこへ行っても並ぶ並ぶ並ぶ。

空港はセキュリティーのレベルが最高の「レッド」と言うことで大変な厳戒態勢だった。チェックインしてから搭乗するまでに靴まで脱いで男女別に並び金属探知器のゲートをくぐってからもボディータッチまでされた。ちゃんと脇の下から、足首まで体中をさわられた。

こんなことは初めて。荷物はビニールの入れ物に、財布とパスポートハンカチのみ。わざわざ甥の奥さんのめぐみさんが作ってくれた、グリンピースの入ったおにぎりは、入り口でこれは何かと言われたのでジャパニーズフードと言ったが、係官にさっと捨てられた。水はもちろん、ボールペンなども捨てられていた。没収である。あのおにぎりは惜しかった。食べたかった。飛行場に着いたら、すぐに食べれば良かったのだ。残念。

こうしてやっと満席のローカル飛行機に乗ってグラナダについた。グラナダは厳戒のロンドンとは全く違って、のんびりとしたものだった。飛行機のタラップからおりたら、真っ青な空でその下を歩いて入国のカウンターまで行く。そこでは一人のにこにこしたおじさんが、子供と、外国人にだけ入国のはんこをぺたりと押してくれて、入国書類も書かず、すいすいと入国。あまりの違いにびっくりであった。しかし、南国のグラナダに来て、いままでの緊張がいちどにゆるんだ。

    グラナダの街ー暑い夏でも外で食べていました。

このあとグラナダで4日間、アルハンブラ宮殿を見てスケッチをし、フラメンコのショーを見て、パラドールというお城の中のホテルに泊まり、のんびりとした旅をして、そのあと建築科の学生だった頃からのあこがれのガウディの建築を見にバルセロナに3日間滞在した。

バルセロナでは夫と私ふたりで3回もスリにねらわれたが、幸い被害はなく、最後まで楽しんだ。そして最終日、バルセロナからまたあのロンドンを経由して今度は無事に東京まで帰った。終わってみれば、けがもなく、泥棒にも遭わず、いい経験をした旅だったかな。

今回の旅でわかったことは、現代の旅では携帯電話は必ず持っていった方がいいと言うこと、いまは数千円で空港で貸し出している。そうすればせめて何かがおこったときに誰かに連絡ができる。公衆電話はその国のコインがいるし、かけ方もよくわからない。

それからできれば小さなPCも持って行けたら便利だ。飛行機やホテルの予約などそれがあればせめて英語を読めれば自分でできる。電話をかけて相手の言うことを理解するのは難しい。

もう一つは、世界はテロなどの危険性が昔よりずっと増えているってことがわかった。それでどうするかは、自分で考えることだと思うけど。
それから、親切にしてもらうってことはうれしいってこと。やっぱりこれが一番かな。

ロンドン航空機テロ未遂逮捕当日全便欠航ヒースロー空港迷子体験記その2

2007年01月04日 | 
  ロンドンの道で、甥の乗用車 ガソリンはリッター200円だそうだ。


というところでもう一つ思い出したことがあった。ロンドンにたった一人私たちの知人がいた。それは夫の姉の息子、つまり甥が日本の会社のロンドンの支店で働いていると言うことだった。しかし、その人の住所も電話番号もわからない。そう思って見上げたところに日本へクレジットカードで電話できるという電話があった。

「ありがたい」

日本は夜中の1時頃と思われたが、すぐに義姉のところに電話した。ところが留守。そうか、相手だって、夏休みだ。もうひとりの姉のところにも電話してみる。「残念だけど電話番号はしらないわ」・・・・・・・

いやいや、参りましたね。いったいここでわたしたちはどうしたらいいのだろう。
「日本へ帰るか、ヒースロー空港へスペイン行きのチケットがとれるまでとどまるか、それとも当面ロンドンにホテルを借りて、チケットがとれるのを待つか、思い切ってロンドン10日間の旅にきりかえるか。」いまならこうして数え上げられるが、このときは疲れ切っていて、あたまもボーっとしてどうしてよいやら考えつかない。

ふとみると向こうにインフォメーションセンターがある。窓口もあまり込んでいない。あそこへ行って相談してみようか。とやっとのことで腰を上げて、またも荷物をごろごろ引っ張ってそちらの方へ行ってみる。「あー、つかれた。前にテレビでやっていた。外国の空港に行って、自国に帰れなくなって空港内を何日もさまよう人みたいになるのかしら。」と思いながら動物園の象のようにぼんやりと歩く。

すると。その「インフォメーション」の前に一人の黄色いベストをきたBAA(空港会社)の職員がいてにこにこしながら、まるで迷子の浮浪者のようなわたしたちを見ている。

「メイ アイ ヘルプ ユー?」とむこうから聞いてくれたではないか。これはうれしい。うれしさのあまり、目の前で黄色い星がぴかっと光ったように感じた。空港職員はたくさんいたが、みんな「この忙しい私に話しかけないで」とばかりにさっさと歩いていた。

青い目、薄い色の短い髪、元気そうな、我々からみると外人の概念そのもののようなしかし、優しそうな人である。そこで大喜びで寄っていき、飛行機がキャンセルになってしまったが何が起こったのだろうと聞いた。このときはじめて彼によって「イギリスでテロリストが16人以上も飛行機を爆破しようとして、今日10日に捕まった。それで現在飛行機がほとんどキャンセルになっている」ということを知った。

そうか、それで私たちがこういう目に遭っているのか。「わたしは、なんとか友人に連絡を取ろうとしているが電話番号がわからない。調べてもらえないだろうか。」というと。彼はにこにこしてベストを尽くそうといいながら、いろいろなところへ電話をかけてくれた。何しろ、わかっているのは甥の会社名だけである。日本では大会社でもイギリスではどうか。言ってみると、「僕のテレビはその会社のものだ」というわけで、ついにその会社の電話を探し出してくれた。

その会社の本社には甥はいなくて、出先機関にいたのだが、そこもちゃんと探し出してくれた。そっちへ電話して、BAAヒースロー空港のものだがミスター西村はいるかという。そしてこっちを向いて、「ヒー イズ カミング!」とうれしそうに言ってくれ、甥には「あなたの友人のミスター・アンド・ミセス・タナカがあなたと話したいと言っている」と言って携帯電話を夫に渡してくれた。そしてついに甥の登場。

夫は甥の洋平君に事情を話すと、「こんなに急で申し訳ないが、助けてくれないか」と言っている。全くその通り、良い言い方だ。すると洋平君はすぐさま「車に乗って20分で行くから空港の外にでて待っていてくれ」と言ってくれた。
文章の先生は使い古されたフレーズを使ってはいけないというけれど本当に地獄で仏にであったとはこのことである。

電話をかけてくれたBAAの職員氏に何度も感謝して、固い握手をしてお別れした。しかし肝腎な彼の名前を聞いてくるのを忘れてしまった。それだけあわてていたと言うことだろう。イギリス人がこんなに親切だと言うことは本当に驚いた。この欠航騒ぎでものすごくがっかりしたが、このイギリス人と甥の一家の親切が心にしみた。

空港の外に出ると、甥はすぐに来てくれた。会社にいたのですぐに会社の車で来てくれたと言うことだった。彼の会社もまた家も空港のすぐそばにあったというのもうれしい驚きであった。

洋平君は、会議をしていたらヒースロー空港職員という人から電話だと呼ばれて、いったいなんだろうといぶかしみながら電話にでるとミスター・アンド・ミセス・タナカがあなたと話したいと言っていると言われ、「えっ、もしかして取引先の人かなにかがロンドンに来る予定を忘れて、出迎えにいかなかったのかってドキッとしましたよ。」と言った。私たちは年若い甥の夫婦に快くむかえてもらって、おぼれていたものが浮き輪を投げてもらってやっとつかまったような心地だった。

私たちが甥を見つけられた幸運は、たとえばヒースロー空港におりたって、「洋平くーん助けてー」と叫んで彼が返事をしてくれたような確率だったと思う。甥も「そんな親切なイギリス人がいるなんて聞いたこともない」とにやりとしていたが、しかしどの国にもよい人もいれば悪い人もいる。親切は人を本当に救う。わたしたちはもっとも困ったそのときに二人のもっとも心の美しい人たちに出会えた幸運な人間だったのだ。

そして車は彼の家に着いた。四階建てくらいのマンションの二階である。4ベッドルームでトイレも3つあり、広い居間に台所も広いというすばらしい家だ。どうにかなるまで泊まって行けと言ってくれて、わたしたちは彼らの一番いい寝室とベッドを明け渡してもらって、ゆっくりと寝かせてもらえる幸運に恵まれたのであった。迎えてくれたのは3歳の男の子と一歳の女の子、心も体も相当消耗していた私たちを歓迎してくれた。こんなに急に来たのに夕飯をごちそうになりほっとして体の力が抜けた。

そうでなければ今頃はヒースロー空港の石の床に直にすわっていたことだろう。実際テレビにはそういう状態が映っていた。

そこでゆっくり話をして「ロンドン観光に切り替えますか?」という話も出たが、とにかくスペインにいけるかどうかインターネットで調べてみた。われわれが乗ろうとしたBA―IBERIAの共同運行便はやはり木、金、土、といっぱいかキャンセルで、とれても日曜の便と言うことだった。

そりゃそうでしょう。10日のイベリア航空のカウンターや、空港の混雑を見れば、きっとみんなチケットがとれずにあのままあそこで寝たのではないだろうか。1日分キャンセルがでれば、たとえ次の日の便が飛んでも玉突き状に人々は余ってしまうわけだ。そこで出張などで旅慣れている洋平君にロンドンの別の空港、スタンステッド空港からでる便を調べてもらうと、ちょうどマドリードの次に泊まる予定のホテルをとってあるグラナダへの便が3万円ぐらいでとれそうだと言うことがわかった。とにかくイギリスを出ようと言うことで予約できるうちで一番早い、土曜日12日のグラナダ行きの便をとってもらった。ところがさてとってもらってみると目の前で1万円の値上がりで片道4万円となってしまった。需要が急に増えたのだろう。資本主義の論理だなあ。

予約していたロンドンーマドリードーグラナダの便に乗らずに、グラナダ直行のチケットがとれて、やっとスペインに行けることになった。
甥の洋平君一家がいなかったら、わたしたちふたりはいったいどうしていたのだろう。あのまま何時間もイベリア航空のカウンターの順番を待ち続け、結局とれずに空港で眠ったのか、空港近くのホテルがやっととれてもそこで電話のかけ方さえ知らずにぼうぜんとして日本へ戻る算段でもしたのだろうか。

ロンドン航空機テロ未遂逮捕当日全便欠航ヒースロー空港迷子体験記その1

2007年01月03日 | 
去年2006年の夏にロンドン経由でスペインに行ったときの全便キャンセル事件をおもいだして文章にしたので皆様に読んでいただこうと思います。
海外旅行に行くと言うことはいつもこういうことが起こる可能性があるということをみなさまにも感じておいていただこうと思って。

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2006年8月10日、BA0006便は昼前にロンドンに向けて成田空港を飛び立った。
 夏休みも最高潮のお盆前とあって成田は大混雑。チェックインでさえ、延々と並んでやっと切符を手にいれるという状態であった。
 我々夫婦は、前回計画して9・11の後の世界情勢の悪さにおそれをなして中止してしまったスペイン旅行へと、ついに出発したのだった。前回中止した時の事情といえば、まずその前の年にはインドネシアのボロブドールというジャワ島の遺跡にいこうとして、5日まえに経由地だったバリ島のテロ大爆発で、中止を余儀なくされ、このスペイン旅行も世界的にあまりの危険にやめたのであった。

あれから5年、こんどこそ行くぞ、何もありませんようにと祈りながらの、張り切っての出発であった。50代後半、体力はまだ大丈夫、いつも妻を引っ張って歩く頼りがいのある夫と、口ばかりは達者だが、体力全然なし、でも世界中どこにでも行ってみたいという妻というコンビである。

今回は、久しぶりのヨーロッパで、またあの狭いエコノミーに10時間以上も座っているのはかなわんというわけで、エコノミーよりちょっといいという、この辺が中途半端ではあるが庶民の悲しさ、いすはエコノミーより広いが、食事はエコノミーの座席を選択しての旅なのであった。
 悲しさとは書いたが、実はちっとも悲しくはない、エコノミーに10万円足して乗ったうれしい広い座席で、体の節々の痛みに悩まされることもなく、何とか楽にロンドンへ着けそうな旅であった。 

さて、長い飛行機の旅も着陸直前、途中下車のロンドンへもうすぐ到着というところになって、日本人の乗務員からの放送があった。イギリスの警察からの命令で乗り継ぎの人たちはふつうトランジットの空港では入国書類は書かず、荷物も受け取らなくていいのであるが、今回はすべての荷物を受け取って、それをもう一度セキュリティーチェックされなければならない。ということであった。この時点ではなにも理由はわからない。何か、事件でもあったのだろうか、という程度の感じだった。

 あったのだろうかどころではなかったのである。

というわけでヒースロー空港の第一ターミナルビルでカバンを取り出した。
といってもこれが実は体力なし、脚力なし、腕力全くなしの私としては、夫は大きなカバン、わたしはごく小さなカバンしか持たず、それもあの飛行場の、カバンがぐるぐるまわる機械のまえではボーッと立っているだけでいつも夫がカバンを取り出してくれるので大きなことはいえないのではあるが。

気を取り直した私たちは、第4ターミナルビルをさがしに重いカバンを引きずりながらごろごろと歩いていった。ツアーではなく個人旅行なので添乗員もいないし、頼る人は誰もいない。自分たちですべてをやらなければならないのである。

これがまたわかりにくい空港で、やたらと広いのである。あっちへ行き、またこっちへ行きやっと第4ターミナルビルを見つけて掲示板の前に立った。私たちの乗る予定の飛行機はと見ると、電光板の上になにか手書きの紙が貼り付けてあり、IBERIA航空のマドリード行きはとみると、「キャンセル」と書いてあるではないか。「えーっまさか」とおもいながら近くにいた係員に聞くと、向こうのイベリア航空のカウンターに行けという。そのあたりは大混雑である。そのなかを、またも荷物をひっぱりながら探して歩く。すると、長い列ができていて、これがイベリアの列だと教えられる。最後尾はどこかと行ってみるが、行けども行けどもその列が続き、いろいろな顔の人が並んでいる。白い人、赤い人、浅黒い色の人、黄色い人、イスラム系のネッカチーフをかぶった人もいる。大げさに言えば1キロも並んでいるようだ。やっと最後尾を探して、仕方なく並んでは見たが、列は、遅々として進まない。

なぜか、まわりに日本人は一人もいない。英語を話している人もいない。となりのスペイン語をはなしている女性たちに、スペイン語会話の本を開いてそこに乗っているままに、「ペルドン、アブラ・イングレス?」(すみません、英語しゃべれますか?)と聞いてみた。ところが周りじゅうのひとが声をそろえて「ノ!」というではないか。うーんどうしようもない。

飛行機会社ではおおきな水のボトルを人数分配りだした。これは長くなるかもという感じである。しかたがないので夫と私が一人は列に並んで、もう一人が得意の?英会話を駆使して情報を集めてこようと言うことになった。まわりは大混雑である。アラブ系の人たちの中には、もう列からはずれて座り込んでいる人もいるし、中にはおおきな旅行カバンをあけて中身を広げている人もいる。わたしももう立っているのがつらくなってきた。

皆が並んでいる途中のところに黄色い空港職員のベストを着ている人がいた。次の飛行機はいつでるのかと聞くと、「今日は木曜だが日曜の飛行機までたぶんチケットはない」というではないか。そして紙を渡してくれて、「列に並んでいるより、ここへ電話しろ、その方が早い。もし乗らないなら、お金は返します。もしこの列に並んでいても四時間はかかるよ。」ということであった。

あわてて夫と話をして、ここに並んでいても無駄という結論に達し、とにかく言われた番号に電話しようと言うことになった。
ここはロンドン、私たちの行く先はスペインなのでユーロは持ってきていたが、ポンドのコインなどは持っていなかったのだ。
しかも、このときにいた二階は大混雑で歩くこともできない状態だったので、一階のロビーにおりてみた。両替窓口に行って、10ユーロ札を出して電話がかけたいというと、コインと、テレフォンカードに換えてくれた。

しかし素人の悲しさ、電話のかけ方がまずわからない。電話がかかっても相手の英語を全部正確に理解できるほどヒヤリングはできない。ということは、航空会社に電話したって、どうしようもない。という三拍子そろった悲しさである。ここでまず、ものすごい疲労感を感じた。

さあどうしよう。