この命、つむぎつづけて

「この命、つむぎつづけて」という本を出版しました。スモン薬害被害者で、障害者です。スモン、絵、旅の事などつづります。

沖縄ハイビスリゾートに行ってきました!

2010年11月24日 | 


沖縄北部にある今帰仁村というところに、私の弟がハイビスリゾートという
カフェとペンションを今年の二月に開いたのです。


http://www.hibis-resort.com/top.html


左側の二階がカフェとテラスで、奥の右側が四部屋のペンション(ベッド&ブレックファスト)です。


弟とその奥さんが数人のかたの助けを受けながら基本的に二人で経営しています。


遠い沖縄に住むのは一大決心だったと思いますが、その決心を貫き通した弟夫妻に拍手!!


5月には家族一同6人で出かけ、今月は友人たちと四人で行きました。


近くには有名な「美ら海水族館」があり、感激感激



60年代のプレスリーから始まってビートルズなど、当時夢中になって聞いた音楽をいつも流して


屋外のテラス席もたくさんある素敵なカフェです。

テラスに出るとすばらしい渓谷が眺望されて沖縄には珍しい景色です。


近くには今帰仁城跡があって、古い石垣が何とも言えない素敵な景観です。



ここではピッツアとパスタがとてもおいしくて、沖縄の北部には
こんなおいしいピッツアを食べさせるところは少ないと思われます。


一緒に行った三人の友達もマスターである弟が教えてくれるいろいろな場所に行ってみて
あらためて沖縄の北部の魅力を感じたようです。


夕食は出ませんが、近くのおいしいレストランをいろいろ紹介してくれて


それがまた、おいしいところばかりです。


1. その近くでとれるおいしい「アグー豚」のお店。


2.沖縄固有のいかにも沖縄らしい定食をだしてくれるお店
そこには沖縄そば、ゴーヤチャンプルー、豚足を似たテビチ定食、沖縄風味噌汁 
おいしかった!その上安い!

3.お寿司など魚系のものをだしてくれる名護のこぎれいなお店。
ここで一番おいしかったのが「焼きウニ丼」
なんともかんとも、数年前に山口県で食べたウニ丼と双璧のおいしさでした。


この小さなペンションは、普通のツインのお部屋が二部屋と
後の二部屋はロフト付きのお部屋なのです。

ロフトは、広くて、もちろん立って歩けますし、二つのベッドの他に
もう一つベッドを増やせるようになっています。
そして、ロフトの下の部屋にはソファーベッドがあり
そこもベッドメイクして貰って泊まれるのです。

ですから大人が四人でも一部屋に泊まれるし、子供連れの
家族も充分とまれるようになっているのです。


小さなホテルやペンションではトイレとお風呂が一緒になっているところも
多いのですが、ここはトイレとお風呂がちゃんと別々になっています。
それはとっても良い感じでした。

なによりも、マスター夫妻が親切であたたかく、みなに接して
食べるお店、行く観光地などを教えてくれるのが素晴らしいところで


兄弟と言っても大人になってからの男と女の兄弟は
あまりつきあいが深くないところがあるのですが、
こんなに楽しい弟とのおしゃべりも久しぶりな感じで、感動的でした。


沖縄の野菜が毎朝の食事に出るので
友人たちとこれは何?これは?ときいていましたところ、


帰りに名護のJA(農協)で買っていくと良いよと
教えてくれて、たくさん買い込んで買ってきました。


海ぶどう、シークワーサー、ドラゴンフルーツ、スターフルーツ、そのほかにも
みんな買い込んできてそのJAから自宅に宅急便で送ってもらえるのです。


友人たちも喜んで買い込んでいました。


嗚呼、楽しかった。


皆さんも良かったらぜひどうぞ!!


 


 


23 サンマルコ広場へ

2010年07月31日 | 

サンマルコ広場にでると、警察か軍隊かが行進している、みんな自動小銃をかかげて、日本では見られない行進だ。
今日は何かのナショナルデーだということで大きなサンマルコ広場が人でいっぱいだった。


なんだか分からなくても、異国情緒で見てしまうのが、旅というものだろうか。


ひとしきり見物すると、インフォメーションまで海岸沿いをあるいて、ヴァポレットという水上バスに乗り放題の切符を買いに行った。


三日券で imob venezia というチケットだ。いくらだったか忘れてしまった。それと教会カードというカード加盟教会は行き放題というチケットで9ユーロのを買った。


10年も前にイタリアに来たときはイタリア語しか話さない人が多かったと思うのだけれど、このインフォメーションにいるイタリア人の若い人は、英語もドイツ語もフランス語も話すし、それらの言葉を縦横に使いこなしている。そのうえ、ひとりひとりに親切で、感心してしまった。


まずは買ったばかりのヴァポレットの券を使ってみようと1番の船に乗る。ここでも杖をついている私を見るとみんな親切に揺れる船で席をゆずってくれる。ありがたく座らせていただく。


ヴァポレットを乗り継いでいった教会のあたりで絵を描こうと思ったけれどあつくて暑くて日向でかいてはいられない。


あまり強い日差しにとにかく目が開いていられない。しかたなく橋の上から写真を撮って撤退。


あたりの細道に入って、あちこちのEちゃんと歩いてみる。どこにもつながらない路地が、あちらこちらへとのびている。そっと入ってみるが、すぐに行き止まりになる道ばかりだ。


運河から橋をわたって、人のうちの前を通っていくと、また運河に突き当たる。
そこは、橋もない突き当たりで、日だまりと、猫が寝ているだけだった。


この写真に至っては、向こう側にあいている穴をとおると向こうには又運河。


手前もまた運河。


その穴は人のうちの中をうがっている。


ヴェネツィアのひとたちは小さな土地を私有することでなくお互いに使い合いながら生きてきたのかなと、詠嘆する。
洗濯物も道の上にあるひもにかけるのだろう。


ぶらぶらして海岸沿いの道へでて、そこを歩くが、午後3時ごろの遮熱はすごい、途中で友人はぼうっとして熱射病のような症状を示す。早く日陰に入りたいがまったく日陰がない。やっと次の寺院に着く。そこはさすがに石の家の中に入るので、日陰はひんやりしている。


 


 


 


 


 


 


 


 


 


22  フィレンツェからヴェネツィアへ  2009

2010年06月03日 | 


ついに10日近く滞在したフィレンツィエとお別れして、初めてのヴェネツィアに行く日が来た。フィレンツェの駅までパトリツィアが車でおくってくれて、両方のほっぺにチュッチュッとヨーロッパ風のご挨拶をしてお別れした。彼女が手作りしたパンやお菓子を持たせてくれ、別れに慣れているのか、それとも別れでしんみりするのがいやだったのか、彼女はさっときびすを返して、歩いて行った。


列車に乗るときにいつも困るのが、重い荷物を三段ほど上のフロアに載せなければならないこと。日本のプラットホームと、イタリアとの違いは、プラットホームが低いところにあって列車の乗り口が高いのがイタリア、ホームがすでに高くしてあって、電車とホームがあまり段差がないのが日本だ。わたしは、いつものように荷物を持ち上げてくださりそうな人をさがしていたが、良さそうな人がいたので「すみませんが、荷物を上に載せていただけますか」とお願いすると、快く乗せてくれた。ここはローマのように有料の赤帽がいるわけではなかった。


列車に座るとき日本だと二人は横にならんで席をとるが、ヨーロッパは、たとえば窓際に向き合った席を取ってくれる。この日もそうだった。横に座ったのは、若い男性のグループ。少し話してみるとイタリア出身のカナダ人だと言う。両親がイタリアの南の方Baliの近くにあるMateraというところの出身で、家が貧しく、母は16歳で国を出てカナダに渡り、父も22歳で国をでたそうだ。


帰ってからテレビでちょうどマテラについての番組があったが、昔はサッシという洞窟住居に大勢が住んでいたところらしい。家畜も一緒に、トイレも風呂も水もないところでものすごく貧しかったようである。疫病もはやり、その洞窟住居から人々がいなくなっていたが、世界遺産に登録されたことをきっかけに内部をお金をかけて直して芸術家やお金持ちがまた住み始めたそうだ。多分彼らの両親が移民した頃がもっとも貧しい時代で、戦争には負け経済的にもどうしようもない頃にカナダに移民として渡った両親だったのだろう。


今はマテラにおじさんがいて、そこを見てからイタリアを旅していると言っていた。息子たちが観光に来られるぐらいになって良かったと思った。



イタリアに来てほとんど雨が降らなかったのだが、この日は少し肌寒く、時々雨が降っていた。上写真のような田園地帯を通っていると突然橋にかかり、まどから下のような水上の建物が忽然として見えてくる。
これから一週間弱のヴェネツィア滞在は本当に不思議の国を旅するようだった。


いよいよヴェネツィアにつき降車するときには、さっきのカナダ人の若者に頼んで荷物を降ろして貰った。そして駅から港まではまた10段ほどの階段があった。割合緩い階段だったので、これぐらいなら荷物を下ろせるかと思ってよいしょとばかり2~3段降ろそうとすると立派なカメラを沢山持った男性が飛んできてくれて、さっさと降ろしてくれた。


ありがとう!この旅でどんなに沢山の人に重い荷物を運んで貰っただろう。こちらが、お願いすればもちろんのこと、向こうから助けてくれたことも多々あった。ありがとう!!


そして、初めてのヴェネツィアで、水上タクシーをチャーターして贅沢に二人で乗った。きれいで大きな、10人ほども乗れそうなモーターボートで、ホテルの名前を言うと60ユーロ(8000円ぐらい)だという、まあとにかくはじめは、このあたりの事がなんにも分からないから乗ってみよう。


凄いスピードでぶっ飛ばすボートは開放感があった。サンマルコの駅から次々と建物を見ながらいくのは爽快だった。



ところが、このボート、ホテルの前の船着き場まで行ってくれると思いきや、あそこがホテルだからと少し前の船着き場で降ろされてしまった。やはりお上りさんと、馬鹿にされたらしい。


普通なら荷物をひっぱって、がらがら行けばいいのだが、ここはヴェネツィア、途中に一本橋を渡らなければならない。ちいさな橋だが船を通せるようにここの橋はすべて真ん中が高くなってる階段のある橋だからまたまた私にとっては壁がたちふさがっているのである。


すると、日本語の上手な男性が自分から荷物を持ってくれて、また橋を渡ることができた。何度もどこかの国の若い青年に荷物を持ってもらえて、嬉しかった。この日はやっとホテルについてゆっくり出来た。


 親切な観光客、不親切な地元の人、・・・・・まっ、いろいろだね。


21 再開  フィレンツェから小さな旅 プラトーへ・・・2   2009

2010年05月19日 | 


プラトーで食事したのはとても古く50年はやっているという噴水の横のレストラン。


友達と二人でラザーニャとリゾをたのんで、分け合ってたべた。高い天井があったが、外に開けてあるレストランだったので風が吹いて気持ちが良かった。ゆっくり休んで3時からのドーモに行ってみた。



フィリッポ・リッピの描いた宗教画がたくさんあった。彼の絵はすばらしい。



こんな小さな街のドゥオーモにもこんなに美しい絵がある。イタリアの底の深さ、文化の広がりを感じる。


暑い暑い35度以上もあると思われる街をあちらこちらと、街の人々がシエステをしているのに、休みもせずに開ききった皮膚から古い文化を吸い込みながら歩き回った。


歩いているうちにフィレンツィエの町中よりも安いものが売っているのを見つけて喜んで自分や家族のおみやげにしたり、混んだローマやフィレンツィエとちがったお店もあって楽しむことができる。


そのうちに疲れて足を引きずるようになった。仕方なくまた電車に乗って Frenze Rifredi  にもどった。駅に降り立ってみてどこかにタクシーはいないかと、あちこち見て回ったが何処にもいない。どこかからタクシーを呼べないかと少し歩いてみたがやはり解らなかった。このあたりが、イタリア語を少しかじったぐらいでは複雑なことの表現ができない悲しさである。


仕方が無いので足を引きずって歩いて歩いて、家まで戻った。こんな事ならはじめからフィレンツェまで帰ってタクシーに乗るのだった。


家に帰ってその話をするとPatoriziaは電話をすれば迎えに行ってあげるのにと言ってくれた、しかし時すでに遅し。足をさすりさすり湿布薬を貼りまくった一夜だった。


20 再開  フィレンツェから小さな旅 プラトーへ 2009

2010年05月19日 | 

イタリア旅行記が中断してから半年以上もたってしまいました。ごめんなさい。


実はイタリアにいたとき細かい字で一生懸命書いていた小さなノートが二冊、どこかに見えなくなってしまっていたのです。ごちゃごちゃした机の周りや本棚をさがしたのですが、どこかに見えなくなっていました。まるでノートが自分から隠れてしまったように。


それが、何回も探した机の引き出しの奥から数日前に出てきてくれたのです。わっよかったぁ。


どこかへ旅行したりしたときいつもスケッチブックと絵の具一式それと小さなノートをいつも持って歩いています、そのノートがどこかに隠れていたものが出てきたのですから本当にうれしくて、また、もう少しのあいだ、ちょうど一年前のオハナシですが最後まで続けようと思います。よかったらみてくださいね。


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Firenze Rifrediの次の駅Firenze Castello


フィレンツェから電車ですぐのところに”PRATO・プラトー”という小さな小さな古い街がある。前の晩からPatriziaに地図を貸して貰って場所を研究して、そこへ行くには今いる家から20分ほど歩いたところにある小さな駅ーFIRENZE RIFREDIーから電車にのればすぐだろうと言うことになった。いつものようにフィレンツェの駅までバスに乗ってそこから電車に乗ってももちろん良かったのですが、地図を見ていたらなんだか気持ちが良くなって歩くことにしてしまった。あとで私は後悔することになるのだが、朝はまだ足が痛くなっていなかったのだから仕方が無い。


歩き出すとしばらくして、あっこれは遠いかもしれないと、すぐ後悔したが、日本みたいに流しのタクシーがあるわけでなく仕方なく杖をついて25分ばかりもあるいて、やっと駅に着いた。


とてもきれいなイタリアの近距離電車


 


青い空 プラトーの駅 まるで真夏のようです。


11時頃、プラトーについて街を歩き始める。ここには大きな城とドゥオーモがある。まずお城に入ってみよう。


あまり大きな城ではないが存在感のあるステキなお城だった。お城と言っても多分ここは人の住む場所でなく敵が攻めてきたときここに立てこもって戦うところだったのではないか。ここの上に上がって教会の絵を描いた。暑くて暑くてたまらなかった。


プラトーの小さな教会


一時になると、係の人が城じゅうをまわって、一時でクローズになるからと言う。しかたなくそこを出て食事するところをさがしたが入ったレストランも昼休みだと断られ、次に行ったレストランでやっと食事にありつくことが出来た。


ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー続くーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー


 


19   2つのイタリア料理店

2009年12月22日 | 

この日はすてきな一日だった。


東京にいたときからインターネットのブログで見ていたフィレンツェの町中のレストランを探してサンタマリアノベッラ駅のあたりをうろうろした。


そのイタリア料理のお店のシェフは日本人で、前にシェフをしていたイタリアの田舎のレストランで三つ星をとったという人でフィレンツェのそのレストランに移ってきて日が浅いというところだった。


そのレストランの名前は「ベルコーレーBelcole]


小さなお店で、すこしランチには早めだったのか、入っていってもだれもいない。呼びかけながらまっていると、イタリア人の男性がやっと出てきた。中はとてもきれいな店だった。


そこでランチを選んでたべてみると、やはりおいしかった、飾り付けや味の細かいところなど、イタリア人のイタリアンとはどこか違う感じがした。日本食に通じるものがあるような感じで、やはり日本人の繊細な味付けはイタリアンを作っても違ってくるのだなと思った。


シェフである彼は後で出てきて挨拶をしてくれた。おいしい繊細な料理だった。


そしてその晩はホームステイしたおうちの、パトリツィアとロベルト(夫妻?もと夫妻?)に御礼の宴をしたいと言って、わたしとEとでレストランでのパーティを提案した。


彼らが選んでくれたのは、トスカーナの丘が上ったり、下ったりして、オリーブ畑を赤い夕陽がそめている狭い道をスピードを出しながらどんどん、どんどんはしっていった先にある、フィレンツェ郊外のフィエーゾレの丘が遠くに望めるCampagna(カンパーニャ=いなか)のレストラン。暖かいときは外でたべられる椅子とテントのあるお店だったが、突然風が吹き荒れ、雨が降りしぶきわたしたちの行く手を阻んだ。


中に入って座った窓側のテーブルと椅子にすわると、夕暮れの丘が見えた。何度も感じた事だが、トスカーナの丘陵地帯は本当に美しい。丘の稜線が幾重にも幾重にも重なり、普通の緑いろと、葉裏の白がまじったオリーブの木々が混じり合い。何とも言えない存在感がある。そこに豪雨がふって、また雨がやみ、空気の匂いさえ新鮮になるような雨だった。


そこで食べたものは、いかにもフィレンツィエの素朴な料理らしかった。大きくて分厚いステーキ、いろいろな野菜をあげたフリッターなどとてもおいしくいただいた。
ヨーロッパを旅するならやはり、ワインが飲めないと寂しいと思った。お料理とワインはそれで一体となっているようだった。水を飲んでいる私達二人はなんだか、仲間はずれのようだった。


レストランの名は「TRATTORIA I RICCHI」



写真をとっても、自分が眼で見たようには写らないけれど丘のつらなりはわかるでしょうか。


白っぽいのがオリーブの木、黒っぽいのは糸杉。



向こうに見えるのはフィエーゾレの街


帰る途中、車を止めて貰った場所で遠くを望むと、ずっと向こうに明かりの付いたフィレンツェの街とドゥモが見えた。


それにしても、あんな狭い石垣の道を車で行くのになぜ、あんなにイタリア人はぶっ飛ばすのだろうか。


18 メルカート(市場) でお昼

2009年11月25日 | 

フィレンツェの町中の一番大きなメルカート(市場)に行った。
10年前にも行ったが、今回行ってみて、人は沢山いるが前よりお店が少なくなっていたりして、なんとなく違うなあとおもったら、あとでフィレンツェ人に聞くと、「あそこは今は観光客に占領されていて、一般の人はほとんど行かない」と言われてしまった。


ちょうどお腹がすいて、一階にあるバールで食事をしたいと思って友人といってみることにした。


ところがそこには、なんと言うことだろう。歩くことも出来ないほどのたくさんの人が周りを囲んでいて、中国人、日本人、ドイツ人と外国人ばかり。押し合いへし合いしていろいろなメニューを取り合っている。



やっとのことで、席をみつけてEちゃんに座っていて貰って、わたしはランチを買いに直ぐ前のカウンターに。凄い混雑の中をむりやり歩いてカウンターに近づいていく。おっと、中国人の観光客が強気で押し返してくる。やっと自分の番になって、トマト味のペンネと、トマトと、キュウリのインサラータ(サラダ)とデザート、ミネラルウオーターを頼んで支払い。それぞれひとりぶんずつ買えば足りるので、二人分で10ユーロと安い。
また押し合いながら席までたどりつく。食べてみるとなんと意外とおいしい。イタリアでは小さなバールでもおいしくないものは少ない。


イタリア料理は日本人の口にあうから嬉しい。 チーズや生ハムもたくさん売っている。


今日ここへ来たのは、その夜ホームステイしているお宅で日本食をごちそうすると約束していたので買い物をするためだった。日本食専門のようなマーケットがフィレンツェにあるというので、探したのだが、結局わからず仕舞いで残念。日本人の店員さんがいる乾物を売っているお店があって、そこでキノコを買ってお土産にした。ここでも日本食品の店を聞いてみて、教えてくれたので、あとで行ってみたががやはり分からなかった。もしかしたらつぶれてしまったのか。


そこで、二階へ行って八百屋でまずネギを買った、それから一階では魚屋においしそうなボンゴレ(あさり)が日本より沢山でやすかったので、アサリの酒蒸しをつくろうと考えた。ネギはできたらすき焼きのようなものができないだろうかと思ったのだがさてどうなるか。ここには他には欲しいようなものは無いようだった。

食事が終わって、残りの買い物をしに外に行ったが、やはり日本食品が売っているというおみせは見つからない。あっちだこっちだと歩いてみたが分からない。みんなが指さす方向は一致しているのに、それらしい店はやっぱり無かった。


そこで仕方なく駅に近いところにある中国人が経営しているスーパーマーケットに行った。そこでやっと豆腐や醤油らしきもの、を買った。それから緑色の名前のわからない野菜も買ってみた。肉はマンマのパトリツィアが牛肉の薄切りを買ってきてくれることになっていた。

その夜は、日本人から見てもどう見てもすき焼きには見えないしろものを作った。ねぎは堅く、中国のとうふもとても堅く、肉は薄切りではあったが、日本の牛肉とは味わいが全くちがっていたし、タマネギもいれたし、中国味の醤油とさとうを入れ、大失敗だったのは、日本酒がなかったのでワインを少し入れた。するとすっぱいすき焼きができあがった。それを、イタリア人のロベルトと、パトリツィアとは、ナイフとフォークを使って、黙って食べてくれた。だしも入らずまったく残念だった。


しかしアサリの酒蒸しは、オリーブオイルと、白ワインで、まったくイタリア料理にもあるとおりにできあがり。とてもおいしく食べていただいた。
ほうれん草のようにゆでておしょうゆで食べるようにした青いものは、そこそこの味で食べてもらえた。


日本からだしの素や、日本酒と醤油程度は持って行けば良かったのだが、二回も旅行が延期になっているうちにすっかりわすれてしまっていたのだった。


この日も、すっかり足が痛くなって、あまりに暑く、最後にバス停の前にあるバールでジェラートをたべてから帰った。ふうっ。


 


 


17 休養十分 今日はメディチ家の礼拝堂へ

2009年10月22日 | 


          サンロレンツォ教会とメディチ家礼拝堂


一日中休養した次の日、やっと体調がもどって、またフィレンツェの街を歩けるようになった。今日の目標はサンロレンツォ教会とそのあたりを歩くこと。
まず前回10年前に来たときには入る時間がなかったメディチ家の礼拝堂を見に行く。日本からわざわざ予約を入れておいて見に行った。


サンロレンツォ教会の後ろ側に寄り添うように立っている小さな建物だ。(というよりこの教会の一部なのだろう。)この建物が出来たのは17世紀で、その頃には長い間繁栄を誇ったメディチ家もようやく権力をうしなっていた。それだからこそ今までの力を誇るように大理石や多くの宝石をつかって豪華さを見せつけるように作ったという自分たちのための礼拝堂。広くはないが驚くばかりの鈍い光に囲まれた空間だった。


そしてもう一つ、ミケランジェロの設計と彫刻にかざられたメディチ家の二人の当主、ロレンツォ二世とジュリアーノの墓が向き合っている新聖具室という部屋。
墓はミケランジェロの曙と黄昏、昼と夜と題された彫刻がある。あのミケランジェロに墓を彫刻で飾ってもらえるというのはどれだけの権力と名誉なのだろうか。



   メディチリッカルディ宮の外壁と馬をつないだ金具


次に行ったところはメディチ・リッカルディ宮、ここは前に行ったときに見たゴッツォリ作の「東方三賢王の礼拝」という壁画があまりに素晴らしかったのでぜひまた行きたいと思ってやってきた。荒く削っただけの全くごつごつした黄色の石でできた建物の中にこんなふうな素晴らしい絵があるのかと思うが、いくらメディチ家の宮殿だと言っても、民の前にあまりにも豪華な生活をみせつけると、民の怒りで王といえども街を追われるということを経験したメディチ家の人々は外観は全く美とか豪華さからかけ離れた建物をつくったのだという。この建物は15世紀から16世紀にかけてメディチ家のすまいだったところだという。


三賢王の礼拝堂と言われるところに階段をあがって入っていくと、思いの外に小さな部屋に四面を細かく全面に描かれたものが見える。
色も全く落ちていなくて、すばらしい色合いだ。写真もとっては行けない。おしゃべりさえにらまれるような雰囲気。なのに、ドイツ人の一家がガイドに連れられて入ってくる。静かに見たいのにガイドは全くまじめに仕事をやっている。うるさい。私達のおしゃべりはにらんだ部屋の係員も、ガイドに仕事には黙ってみている。よくぞ、この色をそのままに残している。光もあまり入らないところが良いのだろうか。画家のゴッツォリ自身の顔や、メディチ家のロレンツォ王などの顔が似せて描かれているという。そう言うものを見つけ出すのも面白い。これから後も、にらむ係員とともにこのフレスコ画の美しい色が残ってくれることを祈りたい。



 宮殿の中庭ーベンチにある忘れ物の様なコートも彫刻




今日もものすごく暑い。宮殿の外壁あたりのちょっとした日陰には沢山の観光客が座り込んでいる。私達もここに座り込んで休憩してから絵を描いた。
ちょうどサンロレンツォ教会がよく見える。真っ青な空、なんて良い気持ちだろう。このあたりはフィレンツィエのサンタ・マリア・ノベッラ駅からも歩いてすぐの良い場所である。沢山の観光客が歩いている。直ぐそばにはスマートなお巡りさんもいる。このようにあちこちに歩いて、そこで絵を描いているわたしの幸せを思ったりした。



 


16 フィレンツェ・ホームステイ先で休養

2009年09月29日 | 


ホームステイ先のマンションの寝室の窓から見た夕陽


 


イタリアに着いて一週間以上が過ぎた。ある日は私はいつものように疲れ切ってしまい。体中の関節にはまるでウニの針が入っているように痛み、関節でないところには牛乳が詰まっているような気がした。頭がぼーっとして体中がじんじんする。そんな日には、「今日は休憩!」と割り切っていちにち家でゆっくりするしかなかった。


Eさんは、「今日は一人で出かけてきても良いよ」とわたしが言っても、心優しいから、家で洗濯したり、荷物を整理したり、一緒に昼寝をしたりしてつきあってくれる。昼ご飯は、彼女が近くのパン屋にでかけて六分の一ぐらいに切ったピッツアや、チーズやズッキーニののったパンを買ってきてくれておいしくいただいた。
またまた暑い日だった。こんな風にすぐに疲れて休憩になってしまう私だから大事なホームステイの日々も風のように飛んで行ってしまう。


二三日まえから黒髪で色が浅黒くてまるでアジア系の混じっているような感じのアレクサンドラという若い女性が同じ家にいる。とてもシャイな感じで、あまり話をしない。Eさんが積極的に話しかけて、ナポリの出身だということがわかった。パトリツィアにもいろいろ聞いてみると、すでに大学を卒業して、マスターで修復を研究しているということがわかった。ここフィレンツィエの大学に通っているようだ。つまりはわたしたちのホームステイ先の先輩らしい。


しかし、イタリア人にしては本当にめずらしくなにもしゃべらない。ミラノでの姪の洗礼式に行っていたのではじめから会えなかったようだ。そこで風邪をひいてきたらしく咳をしたり、具合悪そうにしているので例の新型インフルエンザではないかと多少不安でもある。


それにしても何か屈託のある人物らしく、大学で日本語の勉強をした人なのに、そのことを私達に言わないでとパトリツィアには言ったそうである。私達のイタリア語が下手なのはわかっているからか、食事などで一緒になってもほとんど話しかけて来ない。日本語の勉強をしたということがわかってからはEさんが日本語でも話しかけて見たのだがほとんどわからないようだった。専攻したというわけではなく、私達が大学で第二外国語をちょっとかじったけどすっかり忘れているような、そんな感じなのだろうか。忘れているのが恥ずかしいから日本語のことは言わないでと釘をさしたのだろうか。わたしも大学の時にドイツ語の授業を一年間だけ第二外国語でとったがいまではなにも覚えていない、そんな風なのだろうか。数日一緒にいた後、アレクサンドラはナポリの実家に帰るからといって出かけていった。不思議な印象をのこしたイタリア人だった。


外国語と言えば、お店にはいって話をするとき、ちょっとイタリア語を使うと、向こうはこれはイタリア語を話せるんだと考えるのか、わーっとすごい早さでイタリア語でしゃべられてしまったりして、あわてて「イタリア語そんなにわからない」というと「イタリア語がいいの?英語が良いの?」と聞かれ、しかたなく「英語」と答えるとそれから英語をすらすらと話してくれる人が多い。11年前に来たときよりも若い店員さんなど英語を話す人がとても多くなった様な気がする。


それでも懲りずに、話せることは一生懸命イタリア語で話した。とてもうれしそうにイタリア語でゆっくり話してくれる人もいた。さっき話したアレクサンドラにもイタリア語がもう少しうまく話せれば、変わった人だなんて思わないで交流できたのかもしれない。イタリア語の実力不足は如何とも仕様がなく残念だった。


洗濯をして、イタリア語で言いたいことを言う練習をして(辞書を引いて、一度書いておくと後で言いやすい)、そしてほとんど昼寝をして今日はおしまい。夕食にはパトリツィアがお腹の弱い人のためにといって、トマトソースであえただけの油をつかわないスパゲッティを作ってくれた。ありがたいマンマだ。彼女は本当に料理が上手だ。そして心がこもっている。これがホームステイの良いところだろうか。もっとイタリア料理を習ってくればよかった。


15 ミケランジェロ広場からのフィレンツェのながめ

2009年09月10日 | 



これで今日の小さな旅は終わりに近づいた。このあとフィレンツェにもどって、有名なダビデ像のコピーがたっているミケランジェロ広場に行きフィレンツェとその周りの町々をながめた。



12年前に行ったときに描いた絵もここに載せておこう(一番上)。当時と今とほとんどかわっていないのが印象的だ。
日本だったら10年でどれほどちがっているだろうかと思った。


14 サン・ジミニャーノの散策

2009年09月10日 | 


これはサン・ガルガーノの遺跡においてあった14世紀のサン・ジミニャーノの街の全景である。こんなに沢山の塔が立つ街だったのだ。


サン・ガルガーノに行った後、私は近くにあったサンジミニャーノかシエナにぜひ立ち寄りたかった。しかし今回はパトリツィアとロベルトが連れてきてくれた旅だったのでわがままは言えない。Eちゃんは去年すでに行ったから無理もいえないし、そこでサン・ジミニャーノにできたら寄りたいのだけれど・・・・と頼んでみた。すると、夕方も近くなるし、短時間ならということでここサンジミニャーノによってもらうことが出来た。
上の絵の一番右下のところにあるサンジミニャーノに入る城壁の入り口がこの写真である。
イタリアの古い町はほとんどそうなのだろうが、この町も道が狭くて、遺跡の保存や、観光のためもあってか車が入れないようになっている。これよりもずっと下の方に車を止めて、二人のイタリア人には、ここで待っているから30~40分くらいで行ってきなさいといわれた。彼らにとってはもうめずらしいという事もないのだろう。この町は坂の街でもあり、地図の右下からずっと左上にむかってただただ上っていくようになっている。


わたしは登山用のアルミシャフトの杖をもって歩き出した。今回の旅では、この杖にさんざんお世話になった。ローマでのはじめの二日ほど、杖を持って歩くのを忘れたら、疲れて疲れて、その後遠出は杖を持って歩くようにしたら左右のぶれがなくなってよろよろ転びそうになっても杖が助けてくれることを思い出してずっと使うようになった。それに杖を持っていると周りの人がとても親切にしてくれる。東京では、荷物もあって日常的にはあまり杖を使わないのだが、実際歩くのに不自由で転んでばかりいる障害者の身としてはEちゃんと杖は、わたしにとっての二つの強力な支援の魔法だった。


さて、どんどんと緩やかな石畳の坂を上っていく。
お天気がものすごく良くてありがたいのだが
体は、石畳からの強い照り返しで、焼けている感じである。



こうして上っていくと途中にはしゃれたレストランやカフェ、お土産屋さんが並ぶ。
そちらこちらに塔のある家が見えてくる。結構沢山の観光客が散策している。


ここは高いところなので、遠く広がるイタリアの丘陵地帯がすばらしい美しさでみえる。
しかし写真ではもう一つとらえられなくて、伝えきれないのが残念である。


どうにもこうにも、暑くてたまらずやっとたどり着いたのがこの教会のあたり。向こうの右側にある壁が教会の入り口である。ここについて日陰に入ったらもう動けない。Eちゃんがジェラートとジュースを買ってきてくれてやっとの事で休憩をとる。多分ここははじめの絵ではまだ半ばほどにあるドウォーモのあたりだと思うが、もう時間が無くなってしまった。20分あまりがたっている。往復で40分はかかるだろう。
この暑いさなかにパトリツィアたちを待たせてはいけないと。ここから上はあきらめて戻ることにした。


塔の上までは登りきれなかったが、ここまで連れてきてもらえた事に感謝しよう。


これで今日の小さな旅は終わりに近づいた。このあとフィレンツィエにもどって行った。良い一日だったなあ。田園のイタリアを堪能した。


13  トスカーナからサン・ガルガーノへの小旅行

2009年09月06日 | 


 


ある日パトリツィアとロベルトが私達二人をドライブに連れて行ってくれた。行き先は「サン・ガルガーノ」聞き慣れない名前だ。
フィレンツェから高速道路に乗った。マスコミなどでも言われているようにたしかに高速道路はどこにも料金を徴収するところもなく無料のようだし、それほど混雑しているところもなく車は走っていく。


途中急激に山の方へ上っていくので、もう着いたのかと思ったら、ロベルトが道を間違えたらしかった。でも、どこかもわからない小さな街でも古い建物が続いていてとても魅力的だった。そこでも一度止まって、見て歩きたかった。そしてまた車は走っていく、ところがまたも道を間違えてしまった。私達を連れて行ってくれた二人もよくわからないらしい。地図もあまりくわしいものは持っていないようだし、だんだん二人の間が険悪になっていく。二人でイタリア人らしくがんがん言い合ってこちらが不安になってしまいそう。あまりにも山道をぐるぐる回るのでEは車に酔ってしまって、ひととき車を止めてもらって休憩を取ったりした。


フィレンツィエからシエナを通り過ぎ、だいぶ行ったところに、サン・ガルガーノがあった。遠くの山の上に塔のある古い街が見える、周りは畑ばかりで、麦畑だろうか、そのなかにヨーロッパで特徴的な糸杉が並んで立っている。


 



フィレンツェやローマなどの都市とその遺跡に興味を持って魅せられてきたが、イタリアの田園の良さが迫ってくる。空気が良い。暑さにまけそうだった体の外側と内側にさわやかな空気が吹き通っていく。なんとまあ人間的な場所だろう。



遺跡から道をへだてて大きめのバール兼宿屋のような建物がある。パニーノを買って、お昼を食べる。日本で言えばおにぎりなのだろうが、イタリアのお弁当はパニーノに生ハムプロシュートとチーズとトマトがはさんである。毎日のように食べたが、飽きなかった。イタリアの食べ物は日本人には食べやすいものが多い。


 車の後ろに乗って一緒に行ったパトリツィアの愛犬ベッキーもやっと外に出られてうれしそうに水を飲んでいた。



バールから道をへだててサン・ガルガーノの修道院が見える。ここにもすばらしい糸杉の並木が、私達を修道院へと導いてくれる。
近づいていって驚いた。この建物には屋根がない。しかしその屋根のないことがなにか、むしろ真っ青な空とつながってしまっているような。しかし寂しいような涼しいような、ある種の滅びの美の様なものを感じる。どこに行っても何かが語られているような。耳を傾けたいような、不思議な心持ちだ。


もとはキリスト教の一派の修道院だったらしいその建物は12世紀後半に建てられ、しかしながらだんだんと衰退して、よほど貧乏だったのか屋根に鉛が使われていたと言うことでそれを売り払ってしまい、17世紀の後半には現在のような形のままに、放置されてしまったということであった。




この感じ、うち捨てられてしまっていた時期があった数々の遺跡に行ったときに感じるある感動が、わたしを旅に誘うのだと思う。体も悪いし、足も痛いのに、なぜこのような遠くまで、人は行きたいと思うのだろうかと考えるとき、わたしの答えはそれかもしれない。ある、名前はつけられないが得体の知れない心を動かすもの。それが旅に行きたいと思わせるものかもしれない。


はじめから自分で行こうと考えたわけでもなく、ホームステイ先の家族が偶然連れて行ってくれたこの場所が、わたしに沢山の感動をくれた。


そして、この修道院から見える小高い丘の上に、もうひとつサンガルガーノの教会が見える。


1181年頃、かつては騎士階級だった聖ガルガーノが信仰をきわめようと隠遁生活を始めたとき、周りが反対しようとした。しかしガルガーノは自分の決意を示そうとして刀を岩に突き刺した。そのとき不思議なことに突然岩の中に刀がつきささって抜けなくなった。その剣がつきささった岩は保護されながらそのままそこに存在していてそのことが単なる逸話でなく事実だったと言うことを表していると言われている。その記念としてこの教会は1185年にたてられたそうである。



小さな教会であったが、印象の強い場所だった。なにしろ800年も前の信仰の証の奇跡が現実として残っているのだから。


そしてこの場所の帰りに寄ったのは塔の街サンジャミニャーノそのお話はこの次に。


 


12  フィレンツェのまち、ウフィツィ美術館

2009年08月26日 | 


絵はウフィッツィ美術館の中から見たドゥーオモとベッキオ宮殿。


 


Muzeo Uffizi ウフィツィ美術館に行った。毎日ぶらぶらと街を歩き、おいしそうなものを食べ、疲れてはバールにはいって休憩という旅。だんだんと休憩の回数が増えてくる。ウフィッツィ美術館は大変混雑しているというので、日本から予約していった。今回予約していったのはローマのボルゲーゼ美術館、バチカン美術館、そしてフィレンツェのウフィッツイ美術館、メディチリッカルディ宮殿、メディチ家礼拝堂などである。あまりの混雑に長時間並ばなければならないような予測が立つときはクレジットカードとPCがあればほとんど世界中のものが日本から予約できる。


ウフィッツィ美術館は10年前に行ったので二回目だったが、すばらしいものは何回見てもすばらしい。あまり熱心に見過ぎると疲れてしまうので、前に見たものは飛ばして見ようなどとEさんと話し合っていたのだが、とんでもない、それは傲慢な発言だった。おもわずそれぞれの絵に目が引きつけられてしまい、結局午前九時半から午後1時半まで3時間じっくり見て回ってしまった。


またまた疲れ果てて休憩したくなる。前回来たときには閉鎖中だった美術館内のカフェでお昼にする。このカフェはウフィッツィの日当たりの良い屋上にあって、ステキなパラソルの下で食事やお茶が出来る。ベッキオ宮殿や、ドゥーオモやいろいろな尖塔が見えるすばらしいところ。ここでお食事して、絵を描いて、大収穫。


私の感じではこのカフェはシニョーリア広場に面していて、多分たくさん彫刻がおいてあるロッジアのランツィの屋根の上だと思う。沢山の美術品と歴史ある建物に上下左右から囲まれた贅沢な場所である。こういうところにいると感じるだけでわたしはわくわくしてしまう。生きてここにまた立つことが出来たことに静かな深い喜びを感じる。ここに来ることを許してくれた夫への感謝、足の悪い私をひっぱってここまで連れてきてくれた親友Eちゃんの友情への感謝。すばらしい天気、青空、イタリアにまで感謝!



左からベッキオ宮殿の尖塔、ドゥオモ(サンタ マリア デル フィオーレ)のクーポラ、サンティッシマ アンヌンツイァータ教会の尖塔(?)


余談だが、アンヌンツイァータ教会のアンヌンツイオーネという言葉は受胎告知の意味である。最高に神聖なる受胎告知教会というのが、サンティッシマ アンヌンツイァータ教会のことらしい。イタリアはバチカンもあるカトリックの本山だから、こういう名前がとても多い。昨年からイタリア語を習っているので、ついこういう事に気がいってしまう。イタリア語は動詞の変化などがとても複雑で難しい。



1997年に描いたウフィッツイ美術館からの眺め(一番上の絵の反対側)
アルノ川向こうの高台


ダビンチの受胎告知、ラファエッロのひわのマリア、ボッティチェッリのプリマヴェーラ、ミケランジェロの聖家族、ティツィアーノのウルビーノのビーナス
数え切れないほどの傑作に圧倒され、疲れ切ってしまった。「ウルビーノのビーナス」は前回公開されていなかったのでここで見ることが出来て幸せ。


しかし、足が痛くて、いたくて、帰りはとても歩けない。三時間も休憩無しに歩いたのだから、わたしの弱足は耐えられないことになっていたのだ。
Eちゃんに頼んで、外にでて少し歩いたところでタクシーを捕まえてもらう。


 


 


11  チャリティー・パーティーへの参加

2009年08月13日 | 


フィレンツェに着いたその夕方に、パトリツィアは私達に「地域のチャリティーパーティー」に参加する?と誘ってくれました。
「もちろん!」ということでおめかしして、パトリツィアとロベルト、それからパトリツィアの友人と五人で車に乗って郊外へ行きました。

着いたところは、トスカーナの丘の上とおぼしいところ。一面の芝生、そして「ベッド&ブレックファースト」という看板、建物が何棟かあって、そして中庭には白いテントが張ってある。それから芝生のなかにはプールがあって、黄色い花はヒトツバエニシダ、ポピーのはな、紫の名前を知らない花、そして近く、遠くに糸杉の木がつらなり、葉の表は濃い緑で、葉の裏は薄い緑色のオリーブの木、そしてそしてブドウの木が並んでいます。木の名前は聞いたのだが失念してしまったが中庭のテントの横にはサクランボぐらいの大きさの実が沢山なっている木があった。



はじめは建物の裏に集まってみんなでワインを飲む。みんな楽しそうに飲んでいるけど、わたしはお水を飲んでいた。


ワインを飲めないような人は、ヨーロッパに行っても、なんとなく物足りない生活を送ることになる。


次にテントの下に行って今度は椅子に座ってお食事。みんなお皿をもってよそってもらいに行って、自分の席で食べる。チャリティーだから、この日の夕食は有料のはずだったが、皆さんが一人60ユーロずつだしていた中で、私達ふたりは30ユーロずつにしてもらった。食事はパスタや煮込み、チーズ、ソーセージ、ハム、ケーキ、など食べたことのないような味のものもあるおいしい楽しい経験だった。


イタリア語もすこししか出来ずに、はじめて会った日本人にみんなとても楽しく接してくれた。出来ないイタリア語と、向こうも出来ない英語とで、いろいろなことを話した。


そして次は本日の特別イベントがフィレンツェで一番有名だという女性ファッションデザイナーによるファッションショー。モデルは「街の人々」で、背の小さい人、大きい人、男の人も女の人も、ステキな服を着て目の前を踊りながら通り過ぎてゆく。


日本人なら恥ずかしがるところだろうが、全くそんなところはなくお腹の出たおじさんも楽しげに踊っている。


昼間は34度もあってあつくてたまらなかったが、夕方になるとどんどん温度が下がって、気持ちよく過ごせた。長袖のカーディガンを持っていたがそれでも寒いような夜になった。楽しくおしゃべりして、飲んで、笑って、食べて、帰り着いたのは夜中の12時半過ぎだった。
普通のイタリア人の楽しい社交に参加させてもらって良い経験をした。


何より感じたのは、トスカーナの丘陵地帯の美しさ、その美しさを維持している住人たちの努力だった。
フィレンツィエからそう遠くない場所なのにこれだけ美しい景観を保っている人々だからこそ、集まってこうしたチャリティーのパーティーもできるのだろうと思った。


10 イタリア・ホームステイってどうかな?

2009年08月06日 | 

イタリアでホームステイしたと言うと、どうやって見つけたの?食べ物は口にあったの?といろいろ聞かれるので、ちょっとお話してみましょう。



前にお話しましたが、今回イタリアに行ったのは三度目の正直でやっと行ったのです。一度目は2007年の11月に行くはずでした。この時は一緒に行ったEさんがはじめはひとりで行くつもりでインターネットでしらべて、ゲートウエイ21という留学手配の専門のところを見つけたのです。そこでは語学留学とそれに伴うホームステイを紹介していたのだが、私たちは語学の勉強でなく、ホームステイだけを紹介してもらったのです。わたしはその手続き中に、お願いわたしも連れて行ってと頼み込んで、同行をゆるしてもらったのです。


ところがEさんの家族が病気になって、この時は行かれなくなり、半年延期しようということで2008年の4月に予定しました。ところがところがまたまた今度は私の父が94歳で3月のおわりから危篤状態になり、4月10日にいくのは無理だろうと一週間ほど前に私一人キャンセルしました。この時は、Eさんにはいつどうなるかわからない人生だから、ひとりで行ってちょうだいと言って彼女は一人でのイタリアホームステイに行って来たのです。


そのときステイしたフィレンツェのパトリツィアさんが、Eさんに、
「来年は今年来られなかったユリコも一緒に来なさい。仲介のゲートウエイ21を通さないでいいから。わたしたちはもう友達だから」と
言ってくれたのでした。そして思いがけないことに、ゲートウエイ21は2008年の秋に沢山の留学希望の人たちの払い込んだお金を使い込んで倒産してしまったのです。


そして2009年5月に私達はやっと二人で出かけることが出来たのです。


仲介会社が倒産したけれども、ホームステイを受け入れるところはたくさんあるようです。でも、行ってみなければわからないのが難しいところですね。わたしの知人でホームステイをしたことがある人で、途中でホームシックになって帰って来たひともいますし、一人で三週間行ってきたEさんは全くいちどもホームシックなどにはならなかったと言っていました。


私が一人で行ったら、はたしどうだったでしょうか?二人で行ったら、まったく早く帰りたいなどとは考えませんでしたが。