噺にもよく出てくる話題に「間男」がありますが、徳川期には、不義密通はご法度で、密通の者は男女ともに死罪、要するに死刑とされていました。
とはいうものの、この法には裏があり、実際には金でカタをつけることが多かったようです。
間男のほうから命乞いがあったときには、相手の男に大判1枚の首代を支払えば、どうやら命は助かったらしいン。
太田南畝が文化年間に出した『金曽木(かなそぎ)』という書物にも、「江戸には姦夫の償を金七両二分といふ。大阪にて五両と云もおかし」とあります。これが「間男七両二分」という言葉の由縁ですね。
七両二分とは何とも中途半端な金額ですが…。これは、享保年間の当時、大判よりも小判のほうが品位もよかったんで、十両大判一枚を小判に換算すると、小判十枚にはならず、七両二分くらいの価値になってたらしいんですよ。
江戸で七両二分。上方ではこれよりも安くて五両。この東西の違いが、物価水準によるものなのか、それとも貞操観念の差によるものなのか…は、よく知りません。
いずれにしても、このように法律のみならず、江戸と大阪では、損害賠償水準みたいなものさえ、地域性がはっきりしていたんですね。
(次回に続く)
とはいうものの、この法には裏があり、実際には金でカタをつけることが多かったようです。
間男のほうから命乞いがあったときには、相手の男に大判1枚の首代を支払えば、どうやら命は助かったらしいン。
太田南畝が文化年間に出した『金曽木(かなそぎ)』という書物にも、「江戸には姦夫の償を金七両二分といふ。大阪にて五両と云もおかし」とあります。これが「間男七両二分」という言葉の由縁ですね。
七両二分とは何とも中途半端な金額ですが…。これは、享保年間の当時、大判よりも小判のほうが品位もよかったんで、十両大判一枚を小判に換算すると、小判十枚にはならず、七両二分くらいの価値になってたらしいんですよ。
江戸で七両二分。上方ではこれよりも安くて五両。この東西の違いが、物価水準によるものなのか、それとも貞操観念の差によるものなのか…は、よく知りません。
いずれにしても、このように法律のみならず、江戸と大阪では、損害賠償水準みたいなものさえ、地域性がはっきりしていたんですね。
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