※これから不謹慎なことを言いますが、与太者の世迷言と思って聞き流しておいてください。
いいわけといえば、幸ちゃん。(↑) 青島です。
文學の森社刊『月刊俳句界』の「俳句研究所」での研修期間がこの号で終わりました。
本当に所長の大牧先生にはお世話になりましたと菓子折りでも持っていきたいところなんですが、この連載を読んでいて「添削」について考えさせられました。
俳句の指導に添削は付き物で、わたくしも向学心から「俳句研究所」のコーナーに投句しておりました。
この一年間、すごい為になることが多かったです。言葉の詰め方とか、発想の進め方とか、なるほどと膝を打つ大牧先生の添削には頭が下がりました。
でも、「俳句研究所」のコーナー以外の『俳句界』の記事や、ほかの総合誌での添削コーナーを読んでいて、「添削も諸刃の剣やな~」と……。
よく親しい俳句仲間の方々と話しているときに
「NHKの
『NHK俳句』って番組の添削コーナー。あれ、たまに『原句のほうが良くない?』って思うことない??」
こういう人がいます。それ、なんだかわかるんです。
わたくしも、添削されて「なんだかなー」と頭を抱えてしまったことがありまして。
俳句を始めて間がないころ、あるカルチャーセンターの俳句教室に通っていたことがあります。わたくしが熊本の天水町の蜜柑山の景色(山里の風景)を俳句に作って投句したところ、その教室の先生は「これ、山の景色よりも海のほうがいいよ」と、無理やり不知火町の蜜柑山の景色(漁村の風景)にすり替えられたんです。
「添削するとこうなる」と指導された結果ですが、それはあんまりだろうと。
その先生は不知火町の出身で三角みかんの蜜柑山に親しんできたからそういう添削になったのかもしれませんが、いくら天水の河内みかんを知らないからと言って、河内みかんの蜜柑山を、三角みかんの蜜柑山にしていい道理があるはずはありません。
添削というのは、あくまでも作った作者の描写や語法にとどめておくべきであって、句意全体を引っくり返すようなことをしてはいけないんだと思ったわけです。
んで。あらためていろんなところでの添削コーナーを眺めていると、
「うわー。いくら季語が動くって、動かしてるんじゃなくって、蹴返しとるやん!」
みたいな添削がちらほらと目についたりもすると。
それでですね。
『俳句界』二月号の「俳句研究所」で、わたくしの句、
丸鍋が最後の敵の如く来ぬ
が、
寄鍋が敵のごとくに運ばれし
と、添削されておりましてですね。その理由というのが……。
「丸鍋」が季語的に曖昧
ということらしいんですわ。
わたくし的に思ったんですが、これちょっとちゃうんやないかいなー、と。
「丸鍋」は季語的に曖昧ですか? 角川書店刊『俳句大歳時記(冬)』の271ページ、「鼈鍋(すっぽんなべ)」の傍題に、ちゃんと「丸鍋」って入ってますよ。すっぽんは冬場が一番うまいんです。「丸鍋」と呼ばれるはすっぽんの形がまんまるだから。
「丸鍋」=「鼈鍋」を食べようというのです。いうことは、すっぽん料理のフルコースに挑戦しているということです。なにせ、すっぽんは肉だけでなく、内臓(膀胱と胆嚢は食べないそうです)も食べるし、生き血まで啜り尽くします。
生き血を焼酎で割ったものが食前酒で登場して、肝の吸い物、刺身、茶碗蒸し、臓物の酢の物とゲテ物コースが次々に続いて、ようやく鍋が来ます。
コークスの激しい炎に熱せられて、すっぽんの首やら腕やらが惜しげもなく放り込まれグラグラに煮立った鍋が、慎重に運ばれてくるさまに、「うわわわ! ラスボス来たー!!」という興奮が襲ってくるんです。
※ラスボス……「ラストのボス」の略。ゲームや漫画において、主人公の最大の敵となるキャラクター。悪の権化。
これ「寄鍋」にしちゃったら、「最後の敵」感ゼロでしょう。みんなでわいわいお魚とかお野菜などの好きな具を入れて楽しむ鍋は「敵」にはなりません。家族の団欒の強い味方です。(笑)
↑こんなん見て、これを食えって言われたら、それこそ「難敵やな~~~。
」って思うでしょ。(笑)
……はい。わかっております。的確に伝えられなかった、わたくしが悪いんです。
物凄い不適切で不謹慎なことを言うております。
でもなんだか溜飲が下がらなかったので、子供じみた言い訳をしてしまいました。
すみませんでした。<(_ _)>