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クラリネット雑学ノート

9月24日で、http://hornpipe.exblog.jp/に引っ越しました!

国際クラリネットフェスト

2005年07月30日 | クラシック音楽
先週は国際クラリネットフェストで連日の深夜帰宅。
日本で開催される管楽器の国際フェストは、豪華顔見世興行の総花的なお祭り騒ぎになりがちだけど、それはそれで観客には面白い。が、出演者にはちょっと酷な面もある。

と言うのは「世界的」な演奏家にもレベルの差が存在し、それが決して僅差でなかったりすることが如実に露呈してしまう場でもあるからだ。スタンダードなレパートリーでは特にそうである。
今回聴いた中では、アレッサンドロ・カルボナーレ、リカルド・モラレス、チャールズ・ナイディックの3人が飛び抜けていた。

ただ、クラリネットは小回りの効く旋律楽器なので、レパートリーや奏法などで個性を前面に出せば、喝采を浴びることは出来る。バスクラリネットのスクラヴィスやミシェル・ポルタル、ヨゼフ・バローグなどは芸人としての凄さを感じさせた。

「参加することに意義がある」的な人も多かった。アメリカ人の「助教授」の肩書きを持つ人が少なくなかったのは、実績づくりのためだろうか? 掃いて捨てるほどミストーンを連発した御仁もいた。

日本の演奏家には、こうして並べて聴くと共通したある傾向を感じる。特に若い人に顕著なのが、「瞑想」的な演奏をすることだ(演奏前に目を閉じて瞑想する人もいる)。
で始まった音楽が、本来は皮肉とユーモアに富んだ軽い作品だったりする。それを実に丁寧に、なぞるように、きっちり吹き分けていく。おそらく楽譜に書かれた表情記号は完璧に押さえながら……。
コンクールで1位を取ったHさんの演奏はその典型で、音もテクニックもレベルに達しているのだから、あとは一度自分を壊してみることだとつくづく思った。もちろん、言うは易しだけれど。


日本人の演奏はリズムが後乗りになる

2005年07月16日 | クラシック音楽
母音中心の日本語が、西洋音楽の演奏で大きなハンディキャップを持つことを明快に解き明かしたのが、伝田聴覚システム研究所だ。

簡単に言うと、子音中心の欧米語では、音の「頭」が日本語より早く開始されるため、リズムが先乗りになるのに対し、母音感覚で音を開始すると、リズムが後乗りになるという「発見」だ。

歌詞を伴う歌を聞いて比較すると、本当によく分かる。
英語の歌では、ほぼ必ずと言っていいほど、子音が音の頭より前で早め早めに発音されてメロディが流れていく。
これに対し、日本語の歌詞では、子音が音の頭ジャストに来て、さらに母音が強調されるために、音の頭より遅れ気味にメロディが流れていくように聞こえる。

日本人が西洋音楽を演奏する場合、この傾向がそのままリズム感にも反映されてしまうから怖い(程度の差はもちろんある)。
そんな馬鹿なと思われる方、一度、全く同じフレーズを日本人の演奏と西洋人の演奏で比較して(出来れば瞬時に交互に比較)聴いてみて下さい。
特にジャズでは顕著にその差が聴き取れます。

フレーズの羊羹切り

2005年07月16日 | クラシック音楽
イングリット・ヘブラーのCDを聴いていたら、ピアノにも「羊羹切り」のスタイルがあるのを知ってちょっと驚いた。音が急速に減衰するピアノなら、普通は「ベルトーン」型に聞こえるはずだけど、フレーズの終わりが羊羹を切ったように終わるのである。

ドイツスタイルが正にこれだ。音の最後を止めるというか、止めの瞬間まで音を減衰させないというか。アウフタクトで始まるフレーズでも、アウフタクトを目一杯粘って次の拍へつなげる。
アウフタクトで一瞬持ち上げて、次の拍へ着地させる(古楽でいう「リフト」)踊りのステップを踏むような演奏とは正反対のやり方。

いつだったか、ベートーヴェン「皇帝」第2楽章冒頭の弦がラジオから流れて来て、「おっ、これは昔のドイツのオケ?」と思っていたら、シュヒター指揮のN響だった。
日本人もどちらかと言うと、このタイプの方がしっくり感じる人がまだ多いと思う(素人はなおさら)。

ただ、日本人の場合、ドイツの羊羹切りとはまた若干ニュアンスが違うかも知れない。
音を止める方はややルーズというか、小気味良く止まらない(ヘブラーはその点すごい)。
そのかわり、粘るとなるとどこまでも粘る。フレーズの抑揚に関係なしに粘ったりする。ちょうど、トコロテンを押すような感じで(笑)。
で、下手をすると羊羹切りが「ウンコ千切り」に終わってしまったりする。



フルートのエミリー・バイノン

2005年07月16日 | クラシック音楽
コンセルトヘボウ管弦楽団首席フルート奏者、エミリー・バイノンの公開レッスンを見学。
妹のハープ奏者と来日し、ミニコンサートではデュオも聴けた。

英国人で黒い髪に目の大きな美人。
非常に教え上手で、曲の表現だけでなく、指使い、音程、音色のニュアンスなど細かに指導する。と言うと当たり前に聞こえるが、とにかく耳の解像度が素晴らしく高い。何でもなく聞こえる音程や、音の強弱、メトロノームテンポで一桁台ぐらいのテンポ感のずれも聞き逃さない。

演奏がまた素晴らしく、デッドなホールであれほど音楽的に聞かせるフルート奏者も少ないと思う。フレーズの一節の「立ち居振る舞い」がどれも瞬時にぴたりとはまり、音楽の情感が立ち上ってくる(会場があんなにデッドだったのに!)。
アルタスの銀にリップ金の楽器だったが、ダイナミクスの幅がものすごく大きいにもかかわらず、音は決して破綻しない。先日聴いたフロマンジェとはスタイルも吹き方も好対照。

ふと気付いたら、胸ポチだった(笑)。

西欧音楽家の人名のビミョーな問題

2005年07月13日 | クラシック音楽
例えばメンデルスゾーンの名前は、フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディ。
最後のバルトルディは、父親との口論の末、メンデルスゾーンが渋々承諾した「キリスト教徒」的名前である。
父親は、有名になりつつある息子がキリスト教社会に受け入れられやすくするため、フェリックス・M・バルトルディの名前を勧めていた。

西欧社会では、ファミリーネームでおおよその出自が分かる場合が多いという。ユダヤ人名などその典型のようで、例えば「バーンスタイン」などは、その名前から東欧のユダヤ人村まで特定できるというから、我々には想像も出来ない話だ。

ほかには、名前からご先祖さんの職業が分かるというのは有名だ。しかも、その職業から社会的な階層まで分かってしまうそうだから、この問題は根が深い。
例えば、ワーグナーは「車大工」だそうである。車大工は町の中心部の周縁に住む、それほど身分の高い職業ではなかったらしい。シュトラウスは「花屋さん」だそうで、これはそこそこ良い場所に住む人たちだったとか。
町の中心部から外れるほど、階層的には低くなり、町を囲む城壁の外側に住む人間は全くのよそ者扱いになる(シューベルトなど)。

もちろん身分、階層なんてその時代、その社会の価値観で生まれるに過ぎないのだから、「だからなんだ!」である。

アンサンブルする鳥がいる

2005年07月13日 | クラシック音楽
鳥の本を読んでいたら、東アフリカにいる「音楽」を奏でる鳥の話が出ていた。

シロハラヤブモズという鳥で、鳴き声はフルートのように心地良く、雌雄でデュエットまでするという。
さらに別の一羽が加わると、一羽が通奏低音を奏で、二羽が主旋律を奏でる。そのリズムはしっかりしていて、途中で一羽が割り込んでもユニゾンになるほどリズムの乱れがないそうだ。
さらに驚いたことに、一羽に対してもう一羽がオクターブ上げたり下げたり、和音になる場合も不協和音は嫌われ、完全に近い協和音でアンサンブルするというのだから、すごい。

音楽における「純粋理性批判」……もどき

2005年07月12日 | クラシック音楽
カントの純粋理性批判
「主観が世界を成立させる(感性と悟性の合一)。その世界はもの自体の世界ではなく、現象の世界である。現象の認識は客観的だが、もの自体についての認識は主観的なものに過ぎない」

以下、笑わずに呼んでネ(笑)。

ベートーヴェンの作品を演奏する場合を考える。
楽譜から何を読みとろうとするか? ベートーヴェン本人が意図し、あるいは思い描いた音楽を真理として、そこに出来るだけ近づこうと努力するかも知れない。

しかし人は、楽譜その他から得られる情報を感覚的に受け止めると同時に、それを知的に考えることなどを通してしかベートーヴェンの音楽を知り得ない。つまり、ベートーヴェンの音楽は我々の主観の反映としてしか我々の前に現れてくれない。
ベートーヴェンの音楽はどこかに真理として存在するのではなく(存在したとしても知ることが出来ない)、あくまで現象として我々の前にある。

この現象を認識すること自体が、ベートーヴェンの音楽をこの世界に客観的に存在させる唯一の方法である。これなくして「ベートーヴェンの本当の音楽」を認識しようとするのは、極めて主観的なものにすぎない。

このことから、演奏するということは、音楽の世界の現象を認識しようとする行為であることが分かる。
なぜ人はベートーヴェンの作品を、それが作曲されて以来、飽きずに現代までくり返し演奏し続けるのか? 誰か一人の優れた演奏があればそれでよしとは、なぜされなかったのか? あるいは、一人の人間が同じ曲を時間を経てくり返し演奏するのはなぜなのか? そうした疑問を解くカギが、ここにある。

さらに言えば、古楽アプローチも含む演奏スタイルの変遷なども、「現象を認識する」行為に必然的に起こることとして理解できるかも知れない。

以上。もう笑っていいですヨ(笑)。

※冒頭は黒崎政男『カント「純粋理性批判」入門』から引用

コンサートにおける相対性理論

2005年07月08日 | クラシック音楽
高速で移動する物体上の時計は遅くなる(んでしたよね)。

「ルスランとリュドミラ」序曲を四苦八苦して演奏し終えた私、「フ~~、やっと終わった!」。
アンコールで演奏された「フィガロ」序曲は降り番で、客席から仲間の悪戦苦闘を高みの見物……「なんか分からんけどゴチャゴチャやっとるなぁ…」

演奏の不確定性原理

2005年07月08日 | クラシック音楽
量子力学の世界では観測する行為が観測される対象に影響を与えてしまい、観測は不可能になるとかいうのが、ハイゼンベルグの「不確定性原理」(だっけ?)。
ために、素粒子の位置と速度を同時に測ることは出来ない(とか何とか)。

演奏にも不確定性原理が存在する。
音程(位置)を正確にと思うとリズム(速度)が怪しくなり、リズムをキメようと思うと音程が怪しくなる。ハハハ。

音楽とエントロピー

2005年07月07日 | クラシック音楽
エントロピーとは「拡散」のこと。低エントロピーは拡散するポテンシャルを持った状態。高エントロピーは拡散した状態。

ある作品の楽譜は、演奏される前において低エントロピーの状態にある。演奏家は、そこからエネルギーを取り出すべく奮闘努力するが吹いたそばから音楽は高エントロピー状態になる。
演奏とは即ち「覆水盆に返らず」。