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"History of Yamaton "終戦の日~ヤマトンと小園大佐

"History of Yamaton "
これは大和130年の歴史の中でヤマトンが縦横無尽に活躍する歴史小説である。今回はそのうち「Epsord4:進駐者たち」の一部分を抜粋し、昭和20(1945)年8月15日の終戦の日の項を紹介する。
なおここでのヤマトンは大和市イベントキャラクターとしてのヤマトンを基にした二次創作のヤマトンであることに留意願いたい。

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大和町役場で玉音放送を聞いて終戦を知ったヤマトンは打ちひしがれていた。長い戦争は大和の街にも大きな爪痕を残した。
平和と正義の使者として生まれたにも関わらず自分は街の人々を救うことが出来なかった。そんな無力感に襲われていたのだ。疎開で来た子供達の世話や台湾から来た少年工たちを励ましたり、米軍機の機銃掃射や焼夷弾空襲を受けた鶴間新開の人々への応急処置、ヤマトンも出来るだけのことはした。しかし救えなかったのだ。

役場からの帰り、畑の中の道をトボトボと歩く、良く晴れた暑い日、暑さが身に染みる。鶴間駅までやってきて踏切を渡る。駅では駅員と乗客が談笑している。「戦争がようやく終わりましたね」と、長閑な雰囲気だ。
そして慰霊塔公園と呼ばれる公園までやってきた。ここには日清・日露戦争の戦没者を慰霊する忠魂碑がある。人々は日清・日露戦争の勝利に酔いしれた。そして日中戦争、対米開戦と次々と戦争に突き進んだ。40余年前の勝利を忘れられない人々は日本は神様が護ってくれる神の国だ。神風が吹く。日本人の団結力で米国にも勝てると楽観的だった。沢山の人達がこの忠魂碑に眠る魂を軍神として讃え戦勝を願った。
しかし日清・日露戦争よりも更に多くの犠牲を出して戦争は終わった。大和からも多くの若者が戦場に旅立った。そして死亡通知書が帰ってきた。若者たちは何人生きて帰ってくるのであろうか。彼らのことをまだ子供の頃から知っているヤマトンには一人一人の顔が浮かぶ。
碑の前でうなだれていると声がかかった
「ヤマトンか!こんなところで何をしてるんだ??軍神様の時代は終わったぞ」
近くに住む源蔵おじさんだ。
「これで飛行場に取られたうちの先祖伝来の農地も帰ってくる。農業で国を立て直そう」
明るい笑顔だった。ヤマトンも終戦を実感したような気がした。そして水源地の森にある家に帰ってきた。

その夜、ヤマトンは蒸かしたサツマイモを夕食に食べた。夕食といっても食糧事情もどんどん悪くなり今年に入ってからはずっと1日1食だ。体表の光合成で最低限の養分を得ることが出来るといっても口寂しい。
飛行場が出来る前、この辺りは辺り一面、サツマイモやスイカ畑だった。サツマイモの高座赤、スイカの銀大和は地域の名産だった。サツマイモを満載にした荷車を村の青年と一緒に引いて藤沢の貨物駅に行ったことや、夏はスイカ売りのおじさんが持ってきたスイカを水源地の水で冷やして食べたものだ。今はあの時代がただただ懐かしい。

ヤマトンは早めに床に就こうと思った。すると飛行場の方から「パンパン」と数発の銃声が聞こえた。嫌な予感がした。
その時、一人の若者がヤマトンの家に飛び込んできた。義雄だ。生まれつき身体が弱かった彼は徴兵に不適格とされ厚木飛行場で雑用の仕事をしていたのだ。
徴兵検査で丙種を告げられた彼は「お国の為に戦いたい」と泣いていた。だがそれを知ったヤマトンはホッとしたものだ。
「大変だヤマトン!!小園大佐が反乱を・・・」
ヤマトンは飛行場の格納庫に走った。当時の基地は今のような柵もなく周辺の農地の境もよく分からず比較的自由に中に入れたのだ。

格納庫に入ると小園大佐は部下を前に檄を飛ばしていた。ヤマトンは大佐の前に飛び出し叫んだ
「もう戦争は終わったんだ。これ以上誰も死ぬ必要はないんだ。生きて国を建てなお・・」
小園大佐がそれを遮る
「軍のお偉方は純粋無垢な兵隊に必勝や玉砕を説いて、何人もの若者を生きて帰れる見込みのない戦地に送り出した。無謀な特攻で死出の旅をさせてきたんだぞ。それなのに自分達はのうのうと生き残り、降伏して敵に助命を乞う。それが誇り高き帝国軍人のやることか!」
小園大佐の迫力にヤマトンを初め一同は圧倒された。
「このままでは死んだ仲間に顔向けが出来ない。厚木航空隊の名誉にかけて断固抗戦する!!」
「ヤマトン君、君の立場も分かる。しかし俺達、誇り高き帝国軍人の男としてやるべきこともあるんだ」「大勢の若者が勝つ見込みのない特攻で散ったのは君も知っているだろう。彼らの無念を晴らすのが生き残った俺達の使命なんだ」

小園大佐の決意にはもはやヤマトンにも為すすべもなかったのである。土産代わりに軍需物資の食糧を持たされて義雄とともに家に帰されたのだ。
翌日ヤマトンは持たされた食糧で周辺の住民を集めて僅かばかりの炊き出しを行った。住民の一人は後に「まるで終戦を祝う宴のようであった」と手記に記した。
そしてヤマトンは木の枝にビラが引っ掛かってるのを見つけた。航空隊の飛行機が撒いていった伝単と呼ばれるビラだ。ビラには決起文が記されていた。ヤマトンはただ「みんな生きて欲しい」と思った。

小園大佐とヤマトンの出会いは前年の昭和19年のことだった。厚木飛行場に着任した小園大佐は地元で慕われている精霊ヤマトンの話を聞き早々に「地元の神様にも挨拶をせねばならん」とヤマトンを訪ねていた。戦争の時代の主役でもある軍人をヤマトンは好きではなかった。しかし小園大佐の熱意と上層部への憤りを知った。
厚木航空隊事件とも呼ばれるこの小園大佐の決起。終戦の玉音放送があってもなおも終戦に抵抗し徹底抗戦を主張しともすれば日本を滅亡に追い込もうとした、往生際の悪い軍人と捉える向きもあるだろう。しかし無為に若者の命を犠牲にする特攻に反対し戦艦大和の悲劇の前に廃艦を主張した小園の思いの一端を知るとそうは思えないのである。あの決起は無為無策に犠牲を積み重ねた軍の上層部に対しての抗議だったようにも思えるのである。

終戦から6日後の8月21日に首謀者の小園大佐が病に倒れ野比海軍病院に収容された。結果として小園大佐の強力なカリスマで立ちが上がったこの決起は幕切れに向かうことになった。
翌日の8月22日午前、ヤマトンは飛行場から数十機の戦闘機などが飛び去っていくのを見た。そしてこの日の夜、台風の豪雨の中、解散命令が出て何人もの兵士たちが荷物を抱え大和駅から郷里に向け復員するのを静かに見守った。
こうして来るべく進駐軍を迎えることとなるのだが、敗戦や決起の失敗を悲観したと思われる隊員4人が掩体壕の中で自決しているのが発見された他に、戦闘機で東京湾に突っ込み自爆したものもいた。更にある少佐は町田の自宅に帰り夫婦で自決していたこともわかった。ヤマトンの願いはまたしても通じなかった。

終戦から2週間近く経った8月28日、ヤマトンの家の上空を通過しながら沢山の米軍の飛行機が着陸した。ヤマトンは様子を伺いに飛行場に赴いた。
そこには続々と兵士が降りてきて積み荷を降ろす様子が目に入った。その中には「ジープ」という豪快そうな車も沢山いた。戦争に行かず大和に残ったヤマトン達が初めて見た米軍だった。そう戦争の間、ずっと鬼畜米英と叫ばれ、空襲で街を焼き本土に上陸したら日本人を皆殺しにする。と言われた米軍の姿だ。しかし普通の人間に見える。

そして8月30日、この日もヤマトンの家の上空を朝から数分ごとに飛行機が何機も飛び順々に滑走路に着陸した。「今日、米軍の一番偉い人が来る」情報を聞いていたヤマトンは飛行場の格納庫の隅に隠れて様子を伺った。
14時近くになりひっきりなしだった飛行機の着陸が止まり、周囲の米軍の人達の雰囲気が変わったのがわかった。
14時ちょうど、白銀色の大きな飛行機が着陸した。胴体の一部分が「パカッ」っと開き梯子のような階段が出てきた。今まで見たことがないような光景に固唾をのむ。そして開いた扉のような部分から、大柄の男性が降りてきた。サングラスをかけパイプを咥えたその姿は、今まで見てきた日本兵達はもちろん他の米兵たちとは違うことは一目瞭然だった。「あれが一番偉い人・・・」マッカーサー元帥だった。

マッカーサーは階段を下りる途中、ヤマトンに気が付いた。だがさっと目を逸らしそのまま階段を降りたようだった。同行のフェローズ准将は
「土着信仰の神のようなものです。日本は八百万の神の国ですから・・」と囁いた。「神様がお出迎えか・・歓迎されてるのかね?」マッカーサーは「フッ」と一瞬笑った。
そして沢山の飛行機が降ろしていった、綺麗で格好良さそうな車に一行は乗り込み飛行場を離れていく。物資不足・食糧不足にあえぐ日常とはまるで別世界を眺めるようだった。
ここから日本の戦後が始まったのだ。

小園大佐が率いた厚木航空隊は戦争中、B29だけで200機以上、戦闘機を含めれば600機は撃墜したと言われる。まさに厚木飛行場は日本最強の空軍基地であったのだ。だからこそマッカーサー元帥ら進駐軍は因縁ある厚木飛行場からの上陸に拘ったされる。しかしこの時のヤマトンはそれを知るよしもなく、ただただ米軍の物量に圧倒されていた。


(深見神社)

海軍病院に収容された小園大佐は後に軍事法廷で「党与抗命罪」という反逆のような罪で無期禁固を言い渡されるも後に減刑赦免された。
終戦から15年後の昭和35(1960)年11月下旬、小園大佐こと小園安名は故郷の鹿児島県は現在の加世田市で脳出血で倒れ58歳の若さで亡くなった。戦争中は神だ郷土の英雄だと讃えた小園の帰郷に郷里の人達は冷たく石を投げるものもいたという。

その年の12月小園死去の報を聞いたヤマトンは深見神社を訪れ境内に移設された厚木空神社を詣でてあの頃を思い返した。
折しも前年、昭和34年9月の黒いジェット機事件を端緒に、大和では基地問題が激化していた。もし小園大佐が厚木飛行場に配属されず、有能さを発揮した突貫工事で基地が整備されることなく終戦を迎えていれば、藤沢飛行場のように米軍の接収も早々と解除され基地はなくなり大和は静かな街になっていたのかもしれない。
だがたらればの話をしても仕方がない。多くの犠牲を出し爪痕を残した戦争は悪だ。しかしその時代に日本を戦争に突き進ませた熱狂の空気があった。

ヤマトンはあの頃のことを思い出すと「あの時ああしていれば・・」と思うことも多々ある。自分もまた戦争に協力してしまった部分もあるだろう、そんな後悔もある。だが過ぎ去った時は戻ってこないのだ。過去の教訓を今の世に伝えることが自分の使命であると改めて思った。あの戦争の時代、自らの信念に基づきやるべきことをやろうと努力した人達がいたのだ。小園もヤマトンも立場こそ違えぞ自らの思いで生き抜いたのであろう。

昭和20年8月15日の終戦で大和には一応の平和が訪れた。しかしその後の朝鮮戦争の勃発。そして今はベトナム戦争のきな臭さが漂ってくる。東西冷戦構造の中で厚木基地は米軍の重要拠点になっていた。厚木基地から出撃し戦地で散った米軍兵士も少なくない。
「冷戦と呼ばれたこの時代、アジア圏では冷戦ではなく実際の戦争に転化していた」
ヤマトンは大和の地で冷戦時代の熱戦を身近に感じていた。


(深見神社境内に移された厚木空神社)

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参考文献
大和市史研究第34号
「あゝ厚木航空隊」相良俊輔 光人社NF文庫
はまれぽ「終戦の日に空中戦? そのとき横浜の空で何が起きていたのか?
」(web)

2020/8/9 12:00(JST)
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