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愛犬ラリー とともに

シェルティーのラリー君と家族の出来事。
ラリーママの作ったこぐま達の発表会
ラリーママの犬のお薬ノート

大連、瀋陽、旅順の旅 Part4  世界遺産を訪ねる瀋陽編

2008年09月24日 | 海外旅行
連日、快晴、30度の暑さ

清朝皇帝ホンタイジの陵墓昭陵(北陵)を訪ねた。

330万平方メートルの敷地、広い。



神道の石獣が並ぶ。



この石馬はホンタイジの天下争奪の際、活躍した伝説がある。

さらに北へ進むと、方城の中心隆恩殿、

さらに奥へ,月牙城と宝城があり、



そこに埋葬されている。

兎に角、広い

神道を車に乗らなかったら、半日はかかりそうだった。


午後から、瀋陽故宮博物院を訪ねた。

紫禁城北京の故宮に良く似ているが、

コンパクトにした感じだ。



清朝建国の礎を築いた太祖ヌルハチと清朝初代皇帝ホンタイジが住み、

北京に入城するまでは、ここが王宮であった。



磁器、彫刻、書画、等美しく素晴らしい珍宝を鑑賞できた。



映画「ラストエンペラー」をおもいだす。



ホテルに帰ってから、私達夫婦はせめて皇帝気分だけでもと

垂香楼と云う、マッサージ店で、全身マッサージを受けた



紅夢楼を模して作られた店内には、

昔の中国にタイムスリップしたような豪華な調度品が並んでいた。

そして、故宮で見た皇帝と皇太后の寝室のような個室に案内されて

紫檀で誂えたベットの上で、

良く教育されたマッサージ師から、本格的中国式マッサージを受けた。

足裏から始まり,全身マッサージ80分90元のコース

タクシーが往復で18元、合計二人で3000円

気分は最高!ずーと中国に居ても良い・・・

いつの間にか寝てしまった

大連・瀋陽・旅順の旅 Part 3 旅順203高地編

2008年09月23日 | 海外旅行
日露戦争最大の激戦地203高地を訪ねた。

小高い山(203メートル)に登ると、良く晴れ渡り

美しい旅順市内と旅順港が一望できた。

今は、簡単に歩いて登れたが、

この高台を占領するための激しい戦いによって、

流された血は2kmも続いたと云う。

バルチック艦隊が来る前に激しい旅順総攻撃が開始された。

11000発以上のいろんな砲撃が高台から放たれた。



その中には横浜から運ばれてきた

280mm榴弾砲が威力を発揮した。



本体重10,75トン・射程距離7800メートル今も置かれていた。

砲弾の重さ217Kgが2254発放たれた。

100年以上も昔の戦争だけれど、

確かに日本陸軍、海軍は凄かったと思った。

だけど、どんな政治背景があったにしろ、

日本人が、中国本土で戦争をした事実は忘れてはいけないと思う。




乃木将軍が戦死者を弔って砲弾を集めて建てた

爾霊山と書かれた記念碑が残っていた。

ここにくる前に歴史の教科書と、

映画「203高地」を見てきたので歴史背景は良く解った。

しかし実際ここに来て、初めて感じた事もある。



午後から、出師営会見所も見学した。

ロシアから降伏の申し出があり、両国が会見した場所だ。

乃木将軍とステッセル中将が会見した机や椅子もあった。

日露戦争の多くの写真も展示してあった。



この戦争に対しても日本と中国で捉え方が違う事を改めて感じた。


大連、旅順、瀋陽の旅 Part 2 ロシア人街のチャイニーズワン達

2008年09月21日 | 海外旅行
早朝、大連の街を散歩した。

旧日本人橋を渡ると、タマネギ屋根の並ぶ旧ロシア人街がある。

マトリョーシカやロシア人形の土産屋さんが並ぶ。


どこから来たのか、ラリー君の友達パピオンのハルちゃん登場

ロシア人街は、我が庭とばかりノーリードで自由に歩き回る


            
何処から出てきたのかプードル?の男の子



足を高ーく上げて、一緒にチーして

チャイニーズわんも朝の挨拶は万国共通


   
さらにチワワ?嬢もやって来た

尻尾を振り振り



クンクン、クンクン匂いを嗅いで、こちらも万国共通
   
テリア?犬にも挨拶

チャイニーズハルちゃんはやっぱり人気者らしい

朝から大忙し。



木の陰からそ~とニャンちゃんがうかがっている。

微笑ましい朝の光景。

が、しかし、がーん

帰り道で、見つけてしまった、

噂には聞いてたけれど、ほんまやったんや



あんな可愛いチャイニーズワン達を見た後だけに、

戌肉レストランはないやろ

ショックだった。

大連・旅順・瀋陽の旅 Part1 母の足跡を訪ねる編

2008年09月20日 | 海外旅行
大連港税局屋上から見た今の大連港

1945年8月21日

私の母と二人の姉達は、この大連港から日本に引き上げてきた。

敗戦後の混乱した満州(遼陽)から、ほとんど何も持たず、

3歳と5歳の姉二人を連れて、

満鉄の無蓋貨車に乗せられ、

日本人街の人達と助け合って大連港にたどり着いたと聞いている。



私も瀋陽から大連まで旧満州鉄道に乗り、同じ車窓を眺めた。



63年の歳月が流れた今も、

とうもろこし畑とりんごの木ばかりの荒涼たる風景が続き

広い採掘工場には、黒いダイヤとよばれた石炭が積まれていた。

レンガ造りの古い胡同フートンが壊され

ぽつんぽつんと高層アパートが建っていた。

旅行に来る前に、藤原てい著「流れる星は生きている」と云う

壮絶な引き上げ体験の本を読んできた事もあり

辛い時間の鉄道の旅だった。


しかし、満州で日本人が残した素晴らしいものは多く、

大連駅車庫で、当時の夢の特急アジア号を見学した。

他にも、日本時代の大連市役所、

旧ヤマトホテル、

横浜銀行



日本人橋



日本人街



中山病院、



旧満鉄本社、等等

満州に夢と希望を抱いて、苦労を重ねながらも

大陸へ渡った先人達の築きあげたものの素晴らしさに、感動した。

私の父と母が、芯の強い人であった訳が分かった気がした。