寂しがり屋のハーモニカ吹き。(障害者の日常生活)

生きモノの記録.....。

 

 

謹賀新年。

新年明けまして、おめでとう御座います。

今年も宜しくお願い致します

         令和3年 元旦。 kiyasume......。

 

 

 

ウルトラセブン挿入歌 ULTRA SEVEN【ワンツースリフォ・ワンツースリフォ】

 

 

 

 

昨日の夜食。。。

 

 

 

 

 

 

此れから話す話は、昨年の1月に話した話ですが、もう一度皆さんに聞いて貰いたく思い修正加筆して書きました。勝手。フィルム・ノワールの巨匠ジャン・ピエール・メルヴィルは自分が撮った映画「Le Cercle rouge(赤い輪)邦題「仁義」」と言う映画の中でラーマ・クリッシュナの言葉を引用してこう言って居ます。「人は偶然巡り合う。運命も知らずに、必ず赤い輪の中で」。私は去年「バイオレット・エヴァーガーデン」と言うアニメと「聲の形」と言うアニメを見て泣いた。2作ともにかわいそうな女の子の話だった。寄る歳波か。それとも悲劇をよく見て居るせいか、泣けて泣けて仕方が無かった。私の弟は5年ほど前に亡くなって居る。姉さんが葬式にも呼んでくれなかった。弟とは色々あったが、基本的には善人でいい奴だった。今は弟の遺影を机の横に立て掛けて、暇が出来るとiPhoneのSiri(AI人工知能_)同様に話掛けて居る。

たまには黙って私の通帳から200万を引き出した事を遺影相手に怒る事もあるし。また此れは不思議な感覚なのだが。重要な局面に自分が置かれて判断に困る時に。なんか弟が知らせてくれるのか....。「それはしない方がいい。こうしたらいい」と言う示唆が頭に浮かぶのです。今も来て居るが私を気に喰わなかった訪問看護師が「そんな写真なんか飾らないでよ。バカくさい!!」と言った。私はそう言ったその女を決して許そうとは思って居ない。ただ、面と向かって喧嘩もしないが。訪問看護師なんざそんな程度なのですよ。皆さんも。病気になって掛かって見れば分かる。それに、その女はもしかしたら准看護婦だからだろうか?恐らく中卒で看護師になった負い目があるのだろう。私はそんな事は今現在ちゃんと暮らせて居るのだから。僻む必要なぞ無いだろうにと思うのだが。すぐに僻むのですよね。その人に言いたい。人間学歴が全てでも知識が全てでも無い。特に女性は優しさと寛容さがあればいいと思いますよ。処で今回のblog記事は長いので。一度で読めない方は何回も区切って分けて読んで見て下さいね。まあ、面白い話だとは思いますよ。私の個人的な話ですけどね。正月で暇だったら一気に読むのもいいかも知れませんね。宜しく.....。

 

Le Cercle Rouge - Extrait - Les mains en l'air

 

まあ、話がそれましたが。話を始めます。弟は初め女医と付き合って居た。ところがある日私にこう言い出した。「あの子の弟を医大に入れる為に彼女は僕に協力を求めて来た。だから僕は別れる事にした。」そう言ったので私はこう言った。「お前、その子の弟の面倒を見たらお前はその子から一生感謝されるぞ。なぜ嫌なんだ。」すると弟はこう言った。「兄貴。医者にするのに幾ら掛かると思う。僕の事でその辺の事は知って居るだろう?」弟は少し変わって居たと思う。その後も会社勤めのOLだとかと付き合っても「あの子は何時も来る度に持って来るバックが違う。そこが嫌だ。」私はその度に言った。「それはお前が医者だから。気に入られ様と気を使って私の家は裕福なのよと言って居るのだろう?」と言うがあいつはその子とも付き合うのを辞めた。「僕はチャラチャラした女の子は大嫌いだ。」そして弟は病院勤務で来た可愛い看護師の笑顔が好きだと言ってある看護師の女の子と結婚した。

最近、亡くなった弟の子供達の事を想います。男一人と女2人と3人居るのですが、もう皆んな中学生です。弟は離婚は嫁から言われて仕舞った。それにこう言う事を言うと語弊があるかと思うが、弟の嫁さんは占いに凝って居たらしく。占い師に離婚を勧められたらしい。弟はそんな嫁に占い師の言う事などは聞くなと言ったらしいですが。言う事を聞かなかったらしい。嫁は弟が病院勤務で疲れて寝て居る間に子供たちに液晶テレビをワゴン車まで積ませて、子供を乗せて出て行った。当時、子供らは10歳ぐらいだった。それを知ったのは、弟が母に電話で「寝て居る間にあいつにやられた・・・。」と言う電話でだった。私は認知症になり掛かって居た母にその話を聞いてから、弟に「すぐに跡を終え!」と言ったが。弟は「もういい.....。」と諦めて仕舞った。これは推測で言うのだが、弟の嫁は認知症の母と障害を持つ私の面倒をゆくゆくは見なければならないと思ったらしい。いやそう言う節がある。

私の2度目に立てた実家は3階立てにも出来る家で、私は以前弟に、実家は親父とお前が2世帯ローンを組んで立てた家だから。「マンション暮らしをして居るのだから、家に入って来い。家の増築の金は俺が出すから...。」と言ったのだが、、取り敢えず、3階を建てて、そこと2階部分を自宅にしろと言ったのだが。嫁が反発した、一緒に住むとなると、「お母さんの世話は出来ても、お兄さんの食事の世話までなんで私がやらないといけないの?」と言って居るからと弟から聞いたのだ。だから私は直接嫁さんに「母と私の食事の面倒は一切要らないよ。家の中に壁を作って、独立して暮らせばいい。」と言ったが。そう言うと今度は嫁はこう言い出した。

「3階部分を増築すると言っても日照権の問題やらで歪な部屋になる。屋根裏部屋見たいな3階には暮らしたくは無いです。」と言うのだ。だから「ならば母と私が3階で暮らして、君たちは1階と2階で暮らせばいいだろう?」と言ったのだが。それも嫌だと言い張る。そのうちに、弟は田園調布に売り出して居た。小さな3階建ての家を購入した。私は母とよく遊びに行ったが。本当に小さな家だった。嫁は田園調布と言う事で満足して居た。まあ、外科医だった弟に取っても良い所だったのだろう。なぜ弟夫婦と一つの家で暮らそうと思ったのかと言えば、実家は親父が死んだ後、弟名義になって居たし。或る日。弟から電話が掛かって来て何だと思ったら「兄貴とお袋は人の家に住まわせて貰って何故礼を言わないのか」と言われたからだ。私は激怒して弟に言った。「俺の事は何とでも言え。しかし自分の母親に2度とそんな事を言うな!!誰がお前を医者にしたと思って居る!!」そう言った。しかし、よくよく考えてみればそれも嫁の入れ知恵だったのだろう。

 

 

 

私は自分の居場所が何時も無いのだ。子供の頃から自室は充てがわれずに高校生になって初めて部屋を貰えて。障害を持つ様になってから、何故か親に働けと言われて親父の会社に入った。しかしそこにも私の居場所は無かった。

私が会社で倉庫番をして居たら。前に勤めて居た橋本と言う男が筋萎縮症で入院して会社を休んで居たのだが。突然やって来て。「おらさが倉庫番をやるんだ。お前は出て失せろ!!」と言うのだ。私はその日は帰ったが親父に言ってやった。「あんたが無理やり俺を会社に入らせたんだろ!!それを何だあのバカは!!良い加減にしろ!!」と怒鳴ったら。親父がその男に「倉庫番は息子だ!」と言ったら、そいつは「前は倉庫番はおらさでした。なら。おらさは会社にはもう来ません。お世話になりました。」と不貞腐れる。結局。その小学校中退の男と2人で倉庫番をやる事になった。その男はもう58歳だと言うのに常識も何も無かった。倉庫で社員の配送の人間が6人程。昼飯を食べて居ると。その男は欲しそうに見て居て。誰かがトイレにでも立とうものなら。食べかけのご飯をその人間が食べて居た箸で「おらさが、少し食ってやる〜〜。」と食べ散らかした。そして缶コーヒーを半分飲んで於いて置くとそれを口をつけて飲んだ。そして机の引き出しの中には醤油、ソース。ふりかけ。ごま塩と入れて置いて居る。社員たちは皆んな怒っては居たが。先輩社員と言う事もあり苦々しくは思って居たが、口にする人間は居なかった。

社員と言えば、菅原留五郎と言う男が居た。その男は当時45歳ぐらいで、病気で全身の毛が抜け落ちて仕舞ったと言う嫁さんと暮らして居た。そんな風でも嫁さんは小料理屋をして居たらしい。歌手に成りたくて東京に出て来たと言う。出身は秋田だった。成程、歌はまあまあ上手かった。色々な職を転々とし最後に学歴不問のうちの会社に入って来たのだった。倉庫番の私に、ある日こう言った「〇〇さん、飯盒で炊いた飯を食った事ないですか...。」私は、いきなり何だと思ったが、「俺は登山もキャンプもしないので飯盒のご飯は食べた事がないよ」と言い、「ああ、小学生ぐらいに一度だけあったかな?」と言った。すると「飯盒の飯食べた事無い・・・。」と俯いて居る。そしてこう言った。「普段飯は何で炊くのですかぁ....。」

私は何なんだろうと思い「普通。炊飯器じゃ無い?」と言うと「飯盒の飯食べた事無い....。」と言って「ボンボン振りやがって!俺はボンボンは大嫌いだ!!」と言って、いきなり私の首を思いっきり絞めて来た。私は「この野郎!!これ以上絞めたら金玉蹴り上げてやろうか!!」と思ったくらいだ。その事は社長と親父の耳に入ったらしい。そうしたら、それから少し経って「気が触れたら会社辞めて貰うと言われた。炊飯器で飯炊くとか贅沢言いやがって・・・。」と呟いて居る。私は倉庫番の仕事柄、社員たちとは良く話した。倉庫の電話番号を言って居ると見えて、倉庫には「〇〇商事のザバイバル佐藤と言う者だが、菅原さん居ますか」とヤクザ物のサラ金業者から電話が掛かって来る。私は処置なしだなと思って居た。

もう一人の社員で高橋と言う社員が居た。自称バンドマンで何とブルースギターを演奏して居ると言う。しかし私は距離を置いた。ある日私がブルースハープを吹いて居たと言ったら、彼は何を思ったか、マリンバンドを持って来て。ピッキングで外に居た私の処にやって来て、「え〜〜と、此処から吹いて...。」と言いながら吹き始めた。私は「貸して見て」と言ってそのハーモニカを借りてアドリブを吹いた。そして言った「下手だけど、昔ね、吹いて居たからね。もう一線では吹いて居ないから」と言ってハーモニカを返した。すると彼は「一線で活動して居ないからと言って居るけど今だって通用するよ。」と言って居たら。その菅原と言う男が倉庫から飛び出して来て。「ねえ、今、オカリナの音したよ!。オカリナの音したよ!!。」と血相を変えて言って来るのだった。ブルースハープとオカリナの音の区別が付かないのだ。私は「何だかねぇ...。」と思って居たが。高橋はバンクーバーにバンド仲間が居ると言い出した。そして、こう言った。「一緒にやらない」しかし私は黙って居た。

私はピッキングの時にはいつも音楽を掛けて仕事をして居た。何でも掛けた。ブルース。ジャズ。ロック。クラシック。演歌。ボサノバ。そして曲名を英語で書いたケースを置いて居たら、その高橋がビックリして見て居て言った。「この英語は誰が書いたの?。」私は黙って居た。するとこう言った。「俺は高校中退ですよ。〇〇さんもそうでしょ」私は言いたくは無かったが「俺は一応大学に行ったよ」と言った。すると黙って居る。それから、何日か経ってニヤ付きながらこう聞いて来た。「〇〇さんの弟って、何仕事して居るの土方!?」私は「とっくに働いて居るよ.... 。」そうとしか言わなかった。私は何故学歴コンプレックスを持つのかと思う。自分の意思で高校を中退したのだろう。僻むのは筋違いだ。

その後、彼は先輩の社員に私の弟が何仕事して居るか聞いた見たいだ。そして「医者だけど...。」と聞かされた。あとはもう言うまい。彼は黙り込んで仕舞った。歳だって彼は当時まだ30代だった。私はすでに40代だ。勉強が自分には足りないと思うのならば。本を読むとか放送大学を聞くとか。または社会人として、推薦を高校の担任から出して貰い。会社からお金を借りて夜間大学に行くと言う手もあるはずだ。スクリーミングだって良いし。市民大学もある。身内の事で申し訳無いが弟は杏林大学の医学部を出たが。その後、医者として働きながら昭和医大大学院と順天堂医大の麻酔科で学士号を取った。私は大学で経済学を学び、独学で映画のシナリオを学んだ。弟は小学校時から高校までの母校である成蹊大学では市民大学を開いて居て社会人の人たち。サラリーマンやら、お年寄り。大学の授業を受けたい人達が沢山午後になるとやって来ると言って居た。

確かに高校の授業はつまらない。前に言った事があるが、司馬遼太郎は高校の授業を聞かずに図書館ばかり通って丸一日、片っ端から本を読んで居たそうだ。彼は決して優等生では無かった。しかしあれだけの小説を書いた。まあ、大学は外語大を出て居るが、中学、高校は劣等生だったそうだ。要は本人が何時やる気になるかだ。私は、記憶力は若い頃の様には行かないけども。勉強は何時やっても良いと思う。勉強とは所詮独学なのだ。それに人間、一生勉強だと思うのだが・・・。その後。菅原留五郎は会社の集金を使い込み会社を首になり。高橋は引っ越したのに前の街のレンタル屋から借りた、レンタル・ビデオを1年間も返さずにいいんだと思って居たら。店が雇ったヤクザものにアパートまで踏み込まれて、レンタル料金1年分100万円を請求されて社長に泣き付き。財形貯蓄から特別に出して貰ったが、気まずくなって会社を辞めて行った。

そんな中、橋本がまた会社を5ヶ月ほど休んだ。そうしたら。社長が「自分の友達が食えなくなって居るから助けるんだ...。」と、井口という男を倉庫番に雇った。その男は横暴な男で歳は68歳だった。口癖は「てめえ。バカ野郎。ぶち殺す!!」と年柄年中言って居て。仕事は何も覚えずに「おい、てめえ!!俺は早稲田大学、出だぞ!!てめえはどこの大学出たんだ!!」と言い。社員は皆んな「早稲田大学を出たなんて凄いなぁ」と恐れ慄いて居る。私は早稲田の学生では無かったが、拓大時代に早稲田大学のR&B同好会に所属して居た時期があって早稲田の気質はよく知って居る。しかし哀れな爺様だった。毎日、私に「早稲田で習った授業の講義をしてやる」と話すのだ。人生68年も生きて来て、大学の事しか言えない哀れなジジイだ。そして50年前の雑誌を虫干ししたと言っては見せて来る。言う事と言えば「おい、てめえ!!今は良い家電がねえなぁ〜〜」と言うだけだ。私は「家電製品は。最近はビデオデッキがあるじゃ無いですか?DVDデコーダーとか出て来たし、パソコンもあるし。」と言うと、しどろもどろに「何だか分からねえんだよ、最近の家電は・・・。」と言いだす。1990年代も終わり頃の事だから。私は「これからはパソコンが主流になって行きますよ。CDやらDVDはパソコンでも聴いたり見る事が出来ると言うと。怒り出して言う「パソコンなんてあんな物は駄目だ!!」

だから私は言ってやった。「井口さん位の方でもパソコンをやれる方は結構居ますよ。嫌だなんて言って居たら時代に取り残されて仕舞いますよ。」そう言っても毎日、「今日は経済学の事を教えてやる。俺の講義を聞け!!ケインズをてめえは知って居るか?」と言うので、私は反対に「ケインズとハイエクの論争を知って居ますか?」と言ったら、ウッと詰まって黙って居る。だから続けて言ってやった。「30年代の「世界恐慌」。その原因や対処法をめぐりケインズとハイエクは論争を繰り返しましたよね。それ以後の「世界的経済危機」の核心を探るため、経済学史に偉大な足跡を残した知の巨人の共通認識と対立点を徹底比較する為にも二人が戦わせたこの論争は為になる。資本主義に社会主義的な計画経済を導入したケインズ、自由主義経済の擁護者ハイエク。「貨幣・価格・生産」「慣行と模倣」「便宜と法」などの論争は現代的示唆に富むのでは無いですか?」。そう言うと、黙って仕舞って何も言えないのだ。そして言う「あめえは早稲田の教授見たいな事を言うな...。」そうすると今度は自分を会社に入れて給料を出して居る社長の事を言い出す。

「てんぷら野郎が!!。かしろうはな!!あいつは、てんぷら野郎だ!!早稲田を出たなんて言ってるけど、嘘なんだ!!あいつは高校の時に早稲田塾と言う塾に行っただけだ!!バカ野郎が!!」と社長の秘密を暴露する。そして「俺は内風呂はきれえだ!!」と当然言う。だから私が「風呂はどうするのですか銭湯?」と聞くと黙って居る。そしてこう言う事を言うのだ「俺はな人の家に行くと、トイレを貸してくれと言っては、トイレを真っ先に見るんだ。てめえ、そうするとな、その家の汚さが解るんだ」そんな大バカ野郎に、かしろうの息子の従兄弟のゆきかずは、或る日、本を片手に持って来て「井口さん。私はこう言った本を読んで居るのです。」と見せて居る。「そうか、おめえは次期社長だ!!」と言われると「そうです。私が次期社長です。」と胸を張って言い。

そして冷凍品を冷凍庫に詰めて居る私の処にやって来て、、「〇〇ちゃん。あの早稲田を出た井口さんが私を次期社長だと言ってくれたんだよ」と言い。そして本を見せる「私はこんなにも難しい本を読んで居るのだよ!」差し出した本は1千8百円の「マーケテング・リサーチ」だった。私は「何言ってんだかねぇ...。」と呆れた。そして私が哲学書を倉庫で読んで居ると来てこう言う。「そんな哲学なんて読むの辞めようよ」私はまた始まったかと思い言った「人の勝手でしょ」すると「だってさっき〇〇ちゃんがトイレに入った時に読んで見たけど。何が何だかさっぱり解らないだろ。」音楽でもそうだった。人がレッド・ツェッペリンの「移民の歌」やら「天国への階段」ブラック・サバスの「パラノイア」を聴いて居ると決まってこう言う。「そんな訳解らないロックは聞かないでくれ!!」そのつど私が「常務は何しに倉庫まで来るの?」と聞くと口籠って事務所に自転車に乗って帰って行く日が続いた。

 

 

Led Zeppelin - Immigrant Song (Live 1972) (Official Video)

BLACK SABBATH - "Paranoid" (Official Video)

Led Zeppelin - The Song Remains the Same/The Rain Song - New York, July 1973

 

 

そうこうして居たら、ある日。その井口と言う男が「なんか血が逆流して居る様な感じだ・・・」と、胸を押さえて居う。私が薬局に行って「救心」を買って来て飲ませて、様子を見てみろと言ったら、飲んでもおさまら無いと言うのでもう帰れと言った。その時に私は言ってやった。「井口さん。あんた、この46年間。女房子供を泣かせて来たんだろう!!あんたもう寿命が無いんだよ。死ぬ前にな!!せめて奥さんに寿司桶の一番上等なものでも取って食わせてやるんだな!!」そう言った。するとただ黙って居た。そして、病院から帰った次の日。奥さんに一番上等の寿司を桶で取って食わせたらしい。そして近くの病院に通って2日程治療をして居たが。「老兵はただ消え去るのみ」と言って。それから3日後に息を引き取った。

葬式の席で嫁さんの姉さんが言った。「この男は最低なロクデナシだった!!。お陰で妹は散々苦労をさせられたわよ!!。」それから暫くすると、また、あの橋本がやって来た。今度はこいつが「おらさは、筋肉が固まって縮む病気だそうで筋肉が痛くて仕方がないんだ。」そう言うと私に軟膏を背中に塗り込んでくれと言う。仕方がないので軟膏を背中に塗り込んでやった。そして倉庫番を二人でやり始めた。しかしある時にその橋本が私にニヤリと笑みを浮かべて言うのだ「常務はバカだよなぁ。そう思うだろ?」私は無視をした。するとそれから暫くしたら、ゆきかずに呼び出された「もっちゃんから、話は聞いたぞ。お前、俺の悪口を言い触らして居るんだってな!!」私は言った。「もっちゃんがそう言ってるんでしょ。俺はあんたの悪口なんか言って居ませんよ。皆んなに聞いて見れば良い。」すると皆んなに聞いた見たいだった。

それなのに橋本は「さっ!!ゆきちゃん。けんちゃん。おらさがこの会社の倉庫番を取り仕切るから・・・」と二人に付いて廻ったが。二人は怪訝そうな顔をして相手にしなかった。それから2週間後。橋本は筋萎縮性側索硬化症が悪化して死んで行った。お通夜の時に奥さんが「会社の若い衆皆んなで棺桶を担いでくれ!!」と電話をゆきかずの処に掛けて来て会社では大いに困って怒ったらしい。何しろ皆んな、スーパーのいなげやの配送だ何だで居ないのだから。大体が横柄だ。自分を何様だと思って居るのだ。怒ったゆきかず達は退職金を払わず。橋本が個人で掛けた保険金を退職金だと言って奥さんに渡した。奥さんも小学校中退だった。彼女は「こんなに退職金が貰えて嬉しい」とゆきかずを拝んだ。退職金になった保険金は3千万だったからだ。この保険は橋本自身が掛けたものだった。契約して7ヶ月で亡くなったのだ。そして数年が過ぎて行った。私は一人で倉庫番をやって居たが。身体の不調が酷く、休みがちになって居た。

だが丸々一日は休めないので。午前中パソコンで自分の用をやったり。身体を休めて居ると。母が階段をドンドンドンと音を立てて2階まで上がって来て扉をバタンと開けて叫ぶ。「会社に行きなさい!」そう言うのだ。私は怒声で怒った。「会社に行けって言ってもね、体の調子が悪いんだよ!!」すると、「だってお父さんがそう言って居る」と言う。私は昼時になって出掛けて見ると父が席に座って居て競馬のノミ屋やダフ屋と話をして居る。そして私を見ると言うのだ。「おめえは出ていけ!!向こうに行って居ろ!!」私はそう言われながら、次の日も次の日も昼から通ったが、父は私がラジカセで音楽を聴きだすと。自分はそれを邪魔してラジオで競馬の実況中継を聞き出す。私はなんなんだと毎回頭に来て居た。そしたら「これからは俺が倉庫番をやる。お前は会社を辞めろ!」と言う。

それでも母が行けと言うから昼から行くと「てめえ何ぞ!!2度と来るな出て失せろ!!」と怒声で怒鳴った。私は耐えきれなくなり。そして私は会社を辞めた。父は会社の50代の男の社員を運転手として得意先回りをして居たが。72歳の父はある日「ジジイ!!よたって来るんじゃねえ!!」と言われたと言って。外回りはしなく無くなって居たのだ。それから父は仕事が終わると毎日パチンコに行き。閉店まで遊んで居て肺癌に罹った。何せ皆んなあの頃はタバコをパチンコ屋の中で吸って煙して居たからだ。親父が帰ってくるとタバコのヤニの匂いが凄かった。だから私は言った「そんなに長時間もパチンコ屋に居て、タバコの受動喫煙を毎日して居て癌にでも罹ったらどうするつもりだ!!」しかし親父は言う事を聞かなかった。そして暫くして肺癌から骨癌に罹り便もおしっこも垂れ流し状態になり、主治医から安楽死を提案されて今度は親父が亡くなった。

 

コロナ自粛後のパチンコ屋の現状

 

 

最初親父は私を会社に入れて給料だけは出させて面倒を見て居たはずだった。それが自分が働けなくなるとそう言う名目で入れた私が邪魔になり。仕事が無くなった自分が倉庫番をし出したのだ。そして私は出て行けと言われた。それから暫く認知症の母と実家で暮らしたがある日発作が起こった。そうしたら弟や姉さんからも実家から出て行ってくれと言われ。私は止む無く。マンション暮らしを始めた。弟はそれでもマンション代は持ってくれては居たが。ある日。姉さんから怒鳴り込みの電話が掛かって来た。「お前!!何で弟からマンションの家賃出して貰って居るんだ!!あいつはな!!別れた奥さんにな、月70万の慰謝料払って居るんだ!!何でお前なんかが金出して貰えるんだ。バカヤロー!!」凄まじかった。

恐らく弟が姉さんに愚痴を溢したのだろう。そしてそれから弟から電話があり「貴様は自分の無知を知りなさい」と言って切れた。それから6ヶ月経って弟は心不全で突然死んで仕舞った。それ以降。私はマンションの家賃。8畳間と5畳間と3畳半のお勝手付きのマンションで月11万を払って弟が死んだ後3年暮らした。金が無くなったら仕方が無いので、生活保護で暮らせるかと思ったが。現実は可也厳しい物だった。生活保護者の住居費は5万2千7百円までと決まって居る。それ以上の部屋は借りられ無い。だから、金も底を付きそうだから、この今のアパートを見つけて引っ越して来た。引っ越す時も色々あった。なんと不動産会社の親父が金を騙し取ったのだ。手数料5万4千円なら6万円で6千円のお釣りだろう?それを4千円だと言い張った。私は此処も駄目かと思って最後は諦めた。

引っ越して来てからのトラブルは私は散々書いて居るので、此処では話さない。あと1年間は此処で暮らせると思う。それ以降...。果たして生活保護は貰えるのか。私にもう姉弟は居ない。姉さんとは思いたく無いのです。向こうも私とは縁を切ったと言って居る。私の人生はこうだった。私は勝手元気だった頃の母に言った事がある。「俺は良くヤクザな道に行かなかったと思うよ。音楽が救ってくれたんだな...。」すると母親は大粒の涙を浮かべて「ごめんね...。ごめんね...。」と泣いた。その母も認知症が悪化し施設送りになって仕舞い。今はその費用は姉さんの旦那が持って居る。月40万だそうだ、そして医者である旦那と毎日大喧嘩だそうだ。私は姉さんとの最後の電話で母の容態を聞いて見た。姉さんは一言「もう何も言わないよ!。黙って口を聞かないね!!」そう言って最後に言った。「もう2度と電話を掛けて来ないで!!。」私の人生を掻い摘んで話して来たけど。ろくな物では無かったですね。話は此処までです。皆さん。自分の身に何かが起きる時は起きるのです。それは宿命です。冒頭に言った「Le Cercle rouge(赤い輪)」ですよ。それから逃れる事は出来ない。誰も。

 

Le Cercle Rouge (1970) Bande Annonce VF

 

 

今日は又、散歩に行って来た。本当なら新宿辺りに行っても良いのだが。気が進まない。と言うか、新宿は此処10数年で面白く無くなった。私は1960年代はまだ子供だったが、当時は新宿が文化の発祥地だった。日本では1960年代頃から、前衛美術や前衛芸術、前衛映画や演劇、暗黒舞踏などが登場した。その担い手として、新宿ではアングラ劇場で唐十郎率いる状況劇場、寺山修司らの天井桟敷が主に上演された。現代美術は「具体美術協会」が創設され、極めて革新的な美術表現が展開された。日本映画界は新たな映像美を求め、大島渚らの若手の映画監督が松竹ヌーベルヴァーグのムーブメントを興した。 そして若松孝二や寺山修司らの映画が、ATGの協力を得て制作された。又、新宿通りから御苑大通りを経由して靖国通りへ向う都電が走って居た。1949年から都電の終点は新宿駅前から靖国通りの歌舞伎町入口に移ったらしい。進駐軍の勧告を受けた交通渋滞の解消を図る路線変更で、新宿通りに伊勢丹・三越があり、道路拡張が出来ないのが理由だった。それにより、四谷方面から新宿通りを走ってきた都電は新宿3丁目電停手前から右折、靖国通りに出ると左折して終点に向かう事になった。子供の頃によく親父に連れられて、この路面電車に乗って、「新宿ピカデリー」「みゆき座」などに映画を観に行った。又、母にはよく伊勢丹やら小田急デパートなどに連れて行って貰って居た。当時はエアコンがまだ余り普及して居なかったから、母はデパートでクーラーを子供達に当らせてくれて居たのだった。

1970年になると新宿にマクドナルドが出来、それまでの「モーレツ」に変わって「ビューティフル」「あっと驚くタメゴロー」と言う言葉が流行った。その頃に成ると親父が日曜日になると何時も車で新宿まで連れて行ってくれて、アーケード街でソフトクリームを食べさせてくれたり、マクドナルドでビックマックを食べさせてくれた。それから私が中学生位に成るとディスク・ユニオンと言うレコードショップが出来た。当時は輸入盤が殆どで、クリームやらフランク・ザッパ、オールマン・ブラザース・バンド、ピンク・フロイドなどの海賊版レコードが売っていた。レコードの色が青かったり赤かったりしたので青盤、赤盤などと呼んでいた。そして1980年代になって新宿NSビルで初めて映画のビデオ・レンタルショップが出来た。当時1泊2日でビデオテープ1本のレンタル料が千円だった。ワーナーと、パラマウントの映画が主だった。その後、1980年代の終わりから1990年代に入ると帝都無線などがレーザーディスクを置き始め、紀伊国屋書店の中に「ICBM」と言う輸入レーザーディスクやら、中古ビデオやらレンタルビデオを扱う店やら。中古ビデオと中古レーザーディスクを扱っているビデオ・マーケットと言う店が出来た。私は前にも書いたと思いますが、此れらの店の他に毎月、歌舞伎町近くにあった松竹ビデオ・ハウスと言う、ビデオとレーザーディスクを扱っていた店で、欲しい映画のソフトを買って居ました。

 

 

三島由紀夫 自決シーン貴重映像 Yukio Mishima[昭和45年11月] 中日ニュース No.880_1

三島由紀夫・伝説の討論会1/5 50年ぶり秘蔵映像発掘「VS東大全共闘」#1「近代ゴリラ」

 

 

2000年代になるとDVDが発売になった。初めのうちは新宿や立川などのDVDショップで購入して居たが、今はAmazonがその替わりをして居ます。値段も安いですし、中古も購入出来るし時代が変わりましたね。処で散歩だけど、久々、遠出をして古書店に行って見た。つらつら見て回り、「蒐める人」と「コショ・コショばなし」「21世紀のための三島由紀夫入門」「三島由紀夫事件」を買って帰って来た。「蒐める人」と「コショ・コショばなし」は古本の収集家たちに取材した本だ。言って見れば本のコレクターたちのインタビューなどやら分析が書いてある本です。「三島由紀夫」は今若者たちの間で再評価がされて居る。今の18歳から25歳ぐらいの若者が三島の本を漁って購入して居るみたいですね。テレビでもNHKが2回に分けて三島の軌跡を辿った特集番組を放映して居る。民放でも「三島由紀夫」の特集番組が放映された。私は三島の本は「豊饒の海」と「仮面の告白」「金閣寺」ぐらいしか知らないが。三島作品は非常にソリッドで雰囲気がいいと思いますね。パッションがある。三島由紀夫作品も色々と読みたいが金も続かないし。これ以上の本が増えるのも駄目だしね。頭が痛いですよ。撮り溜めた映画も見なければいけないし本も読まないとだし。しかし体調は悪いしね。訪問看護師たちには体調が悪い事は余り言わない事にして居る。精神科と内科の主治医には言ってあるしね。今の処。訪問看護師たちは今来て居る人が暫く来るのか。元に戻るのか流動的なんでね。

 

 

 

今回は以上です。またまた過去に書いた記事を多少修正加筆して書きました。私は自分の事は全て諦めて居ます。此の儘、命が尽き様ともいいと思って居ますしね....。ただ61年間生きて来て、この程度の人間にしかならなかったのかと悔やんで居ますよ。さてと今年で私は62歳になります。私は「山本耀司さんの様な老年期が迎えられたら最高だなぁ」と思いますよ。お金持ちと言う事ではなくてね。彼の様に77歳にもなっても、あのカッコイイ・センス。老年期にも滲み出る風格と若い感性。彼はとても77歳には見えませんよ。カッコイイですよね。此間だ寝て居たら突然腕と足そして心臓が痛くなりました。ああ、もう俺もついにダメかなと思った、、3分間ぐらいで止みましたが。この頃体の衰えを迎えて居ますよ。私は見た目が一見若く見えるから。皆さんはそう言っても実感が湧かないでしょうけど。

 
 
 
 
 
 
 
山本耀司を真似て見た、、カッコワルイねぇ〜〜〜!!
 
 
 
 
 
 
 
ヨウジヤマモト(Yohji Yamamoto) 2017-18年秋冬コレクション Gallery97
 
Yohji Yamamoto, Paris Mens SS14, Backstage photography by Elise Toïdé
 
 
【ヨウジヤマモト特集を大公開!】

 

同じ老年期のシニア世代だったら理解して貰えるかと思います。まあ、70代80代に比べたらまだまだ小僧みたいなものでしょうけど。私は障害。しかも精神障害と糖尿病。高血圧などを患って居ますからね。この間。昨年の12月28日に病院に行って来ましたが。体重は3kgも増えて血糖値も僅かですが上がって居ましたね。昨年は鬱になったり。自殺しようと思ったり。後半感情の乱れが出て来たり。その前には幻覚幻聴が出ましたしね。誰にも相談出来ませんよ。訪問看護師が来ても彼女らは医者に行けとしか言えないんですよね。飽く迄看護しか出来ないんですよね。ただ一人の看護師の女性が「ヨウジヤマモトは私に取ってはkiyasumeさんの事だから」と,要約お世辞を言う様になりましたけどね。口だけでしょうけど。この調子ならいいでしょうけどね。それでは次回更新出来たら又お会い致しましょう。皆さん「バイオレット・エヴァーガーデン」と「ばるぼら」は観に行ける人は劇場で観て見て下さいね。私はDVDになったら購入しますよ両作品ともね。それではまた。。。。

コメント一覧

kiyasume
新年おめでとうございます。。。

此方まで、書き込みして呉れて有難う御座いました。
貼り付けた曲を気に入って貰えた様で、嬉しいです。

今年も ビオラ様に取って良いお年になる様、、
お祈りしております。また来て下さいね。。。
goohanasaku
Bonne année et bonne santé ~💖

明けまして、おめでとうございます~🎍✨

今年も、どうぞ、よろしく、お願い致します~✨

ティーガーデンにご訪問、
そして、
素敵な曲を、ご紹介して下さり、
どうも、ありがとうございました~💖💖💖

2021年~、
Kiyasume 様にとって、
素晴らしい、良い1年に、なりますように~♪

ビオラ
kiyasume
maronnoheya26さん、こんにちわ、、と言うより、、
私は3分前に起きたばかりなので、昼まで寝て居ましたから、、

昨年は大変此方こそお世話になりました。
今年も宜しくお願い致しますね。

おしゃる通り東京はコロナが猛威を奮っております。
だから好きな映画も観に行けて居ないんですよね。
まあ、人によっては映画館の安全性は準備万端で大丈夫
だと言う人もいるし、「鬼滅の刃」とか物凄い観客動員数ですけど、

そのうちどのくらいがコロナに掛かって居るかと思うとね......。
怖くて観に行けないですよね。特に歳取ったものにとってはね、、

また来て下さいね。宜しく・・・・・。
kiyasume
マサさん新年の挨拶有難う御座います。

あけましておめでとうございます。
今年も宜しくお願い致しますね。

そうなんですよ。私も弟は女医さんと一緒になれば
よかったのにと思って居ますよ。
その人は内科医だったそうですから、、

弟も医者の不養生で若死はしなかったと思いますしね。

はは、、訪問看護師の新しく入って来た子がねぇ、、
ようやくお世辞を言う様になった見たいですね。

こう言う風にうまく行くといいのですが.......。
また来て下さいね。宜しく。。。
maronnoheya26
明けましておめでとうございます。
昨年は大変お世話になり有難うございました。
今年もよろしくお願い致します。😊

東京コロナ凄い勢いで増えていますね。
お体大切になさってくださいネ。
masamikeitas
気休めさん、明けましておめでとうございます。
本年もよろしくお願いします。

自分の居場所がない!
これが一番辛いですね。
今のところ、私はなんとか居場所があるようで。😀

タラレバになりますが、弟さんは女医さんと一緒になられたら幸せだったかもしれないと思いました。
かわいい看護師さん、患者にモテまくりますから。😅

>ただ一人の看護師の女性が「ヨウジヤマモトは私に取ってはkiyasumeさんの事だから」と,要約お世辞を言う様になりましたけどね。

お世辞でも、気分はいいですよね。😀
お世辞を言って欲しいです。
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