風合瀬

自分の専門である、土木や衛生工学のことについて語り、聞いていくページです。その他もろもろよしなしごとも。

「さかなクン」さん表記に思う

2010年12月28日 | Weblog
さかなクンが新種の魚類を発見した、という報道をNHKがしたときに、「さかなクン」が全体として芸名なのだから「さん」づけをしないと呼び捨てに等しい、という抗議が多くあったそうだ。抗議をしたこと自体もネタだと思いたいが、大まじめだとしたらとんでもないことである。
私はこういった芸名の付け方はあまり好きではない。呼称を芸名に含めるのはまぁいいかな、とも思うが、「。」を芸名に含めるのにはやはり違和感がある。

芸名にしてしまうこと自体は、そういう人もたまにはいていいかな、と思うが、うっかりそれを間違えてしまった人を「大変失礼なこと」扱いすることは間違っている、か、バランスが悪いように思う。

実は近所にもそのような芸名を用いて地域で活動をしている人がいる。たとえば「やまだたろう。」のような具合だ。

これ自体も私なんかは口で発音するときに、文章中に入ってくると読みにくいなと感じるのだが、その人の主催するwebページをたまたま見たときに、その人の文章として、「しばしば自分の名前に「。」をつけないで書く人がいる。名称にはそれぞれ思いやこだわりがあってのもので、それに敬意を払わない無神経さに腹が立つ」といった趣旨の文章があった。この厳格さは大変納得いかない。ぶっちゃけムカツク。生意気いってんじゃねーよ、と思う。

名前へのこだわり、また他者に対してそれに対する敬意を求めることは結構なことだと思うが、そのくらいだったらば日本語の記法に対する敬意も持ってほしいものだ。

言語の表記体系というのはまず厳然として存在する。そしてその表記体系とは他者とコミュニケーションすることを目的とした制度でなのである。上記のような記述はその制度化された言語体系に対する、ずらしによる遊びである。そういう遊びも含んで言葉自身も長い時間をかけて変わっていくものであるが、それも過ぎれば混乱の本となる。そして他者とコミュニケーションするという目的を阻害する。

真面目に、普通に言語を運用する大多数の人々が存在してこそ、そういう遊びは面白いものとして受け入れられる。
名称を間違えなく記述する、という行為はそういう「真面目な言語運用」に含まれる。そして「。」をうっかりつけ忘れてしまうのも真面目な言語運用感覚に由来するものである。

一方の真面目な言語運用からの逸脱(名前に「。」をつける行為)を仕掛ける人間が、もうひとつの真面目な言語運用の逸脱(名前を正しく書かない)に激しく憤るというのは、典型的なダブルスタンダードだと思う。

数少ない著名人がやっているからこそ「ちょっと面白いな」で受け入れられているのである。多くの人がこういうことをやりだしたら文章表現一般が少なからず混乱するであろう。(著名人でない一般の人であっても、本名と異なる通称を用いることが認められているのだ。戸籍上の名前と違う名前を用いている人は身の回りでも案外多い。)

書き間違えた人に対しては、「君、実はボクの名前は「。」も含んでの名前なんだよ」とにやにやしながら訂正すればよい程度のことである。「君、人の名前を書き間違えて失礼だね」などと真面目な顔をして抗議する質のものではない。


呼称を含んだ芸名については「さかなクン」のような呼称を含んだような芸名の人はもう「さかなクン」でいいのではないだろうか。呼称とは日本語ではその人と、それを呼ぶ人との関係性を表している。つまり呼称を芸名に含むのは、通常には、その人自身の廻りに対するかかわりかたの宣言なのだろう。つまり周りの人に「ぜひ誰でも、初対面でも自分のことを気軽に「クン」で呼んでくれ。「クン」を含むような親密な関係性をもってくれ」そういった宣言のようなものではないかと思う。だからその希望通り誰であってもどのような状況でも「さかなクン」と呼ぶことこそが適切なのではないだろうか。