2ちゃんで、国語教育についてみていたときに、こんな話があった。いわく、国語の試験の問題文は、多少悪文のほうがよい。その方が差がつきやすいから、と。
なるほど。
上記の表現の中には、暴露的な意図がある。つまり、だから受験の国語などというものはろくでもないものだ、という含意がある。
ペダンディックな文章、難解な文章を、難解だからという理由でありがたがることはさけねばならない。上記の露悪的な表現の、さらに背後にはこういう戒めがある。
そのこと自体はよくわかるし納得もする。しかし、私自身は、難解な文章を読む、多少悪文を読む訓練には、受験で差を付ける、ということだけではない、積極的な意味もあると思っている。
それは、大変なことを一生懸命考えて、あふれるように書いた文章は、多少悪文になってしまうことが多くなっていまう、そしてそういう悪文は受け入れて、そこから「大変なこと」を汲み取る努力をするべきである、こういう意義である。わかりやすい文章を書けないひとの思考を完全に排除する方向よりは、そういう文章も受容する読解力を養うことの方が、人の知的資源を、多少効率的に配分できるのではないかと考えるのである。
つまり、よりわかりやすい文章を書く技術を身につけることと、多少わかりにくい文章を読み取る技術と、そのための訓練をどの程度バランスさせるかということであり、私自身は多少わかりにくい文章を読み取ることにも知的なエネルギーをそそいでもよいのではないかと考えているということだ。
この考え方に対して想定される反論は以下の二点である:
・表現をしたい人はたくさんおり、供給過多な状態である。だとしたら供給サイドに対してよりいっそう技術の向上が要求されることは当然である。
・思考とは言語の運用のゲームであり、よい文章とはよい思考そのものであり、悪い文章を受容することは、悪い思考そのものを受容することと同じことであり、到底受け入れられない。
この二点の反論はどちらも重要なものであり、しかもそれなりに正当なものであるとも考える。
その正当な面があることは承知の上で、上記の意見に対して反論をしたい。
反論のポイントは、上記の、二点目に対するものである。私はよい文章とよい思考には深い関連があることは認めるが、それは同一のものではない、と考える。
人間の思考は、それが言語的な思考であってもうねうねとアメーバのように広がるものであり、それを文章という、ごく単線的な表現方法に押さえ込んでいくということは、とても困難な、しかもこの「アメーバそのもの」とはまた違う作用である、と考える。
(余談だが、脳科学的には「非言語的な思考」などというものがあるかどうか、難しいものだそうだ。ここでの意見はその辺の専門的なところまでをふまえたものではない。)
そうであるとすると、そのアメーバの押さえ込みが十分でなく、それが原因で破綻した文章があったとしても、その前段にある思考そのものが価値が低いということを直ちには意味しないであろう。
むしろ、過去の偉大な思想家の文章は、もとのアメーバ自体があまりにも巨大なものであるために、思想家の言語運用能力自体が一般に人よりもむしろ優れていたにもかかわらず破綻している場合が多いのではないかと考えている。
以上は2点目への反論となるものだるが、一点目への反論にもつながっていく。あのレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な言葉「フィレンツェが私を育て、私を滅ぼした」のようなものだ。わかりやすい文章、すなわち成果への要求の精度があまりにも高くなると、それに収まらないような思考の対象自体が選好されなくなる、という弊害を引き起こすのではないかと考えるのである。
なるほど。
上記の表現の中には、暴露的な意図がある。つまり、だから受験の国語などというものはろくでもないものだ、という含意がある。
ペダンディックな文章、難解な文章を、難解だからという理由でありがたがることはさけねばならない。上記の露悪的な表現の、さらに背後にはこういう戒めがある。
そのこと自体はよくわかるし納得もする。しかし、私自身は、難解な文章を読む、多少悪文を読む訓練には、受験で差を付ける、ということだけではない、積極的な意味もあると思っている。
それは、大変なことを一生懸命考えて、あふれるように書いた文章は、多少悪文になってしまうことが多くなっていまう、そしてそういう悪文は受け入れて、そこから「大変なこと」を汲み取る努力をするべきである、こういう意義である。わかりやすい文章を書けないひとの思考を完全に排除する方向よりは、そういう文章も受容する読解力を養うことの方が、人の知的資源を、多少効率的に配分できるのではないかと考えるのである。
つまり、よりわかりやすい文章を書く技術を身につけることと、多少わかりにくい文章を読み取る技術と、そのための訓練をどの程度バランスさせるかということであり、私自身は多少わかりにくい文章を読み取ることにも知的なエネルギーをそそいでもよいのではないかと考えているということだ。
この考え方に対して想定される反論は以下の二点である:
・表現をしたい人はたくさんおり、供給過多な状態である。だとしたら供給サイドに対してよりいっそう技術の向上が要求されることは当然である。
・思考とは言語の運用のゲームであり、よい文章とはよい思考そのものであり、悪い文章を受容することは、悪い思考そのものを受容することと同じことであり、到底受け入れられない。
この二点の反論はどちらも重要なものであり、しかもそれなりに正当なものであるとも考える。
その正当な面があることは承知の上で、上記の意見に対して反論をしたい。
反論のポイントは、上記の、二点目に対するものである。私はよい文章とよい思考には深い関連があることは認めるが、それは同一のものではない、と考える。
人間の思考は、それが言語的な思考であってもうねうねとアメーバのように広がるものであり、それを文章という、ごく単線的な表現方法に押さえ込んでいくということは、とても困難な、しかもこの「アメーバそのもの」とはまた違う作用である、と考える。
(余談だが、脳科学的には「非言語的な思考」などというものがあるかどうか、難しいものだそうだ。ここでの意見はその辺の専門的なところまでをふまえたものではない。)
そうであるとすると、そのアメーバの押さえ込みが十分でなく、それが原因で破綻した文章があったとしても、その前段にある思考そのものが価値が低いということを直ちには意味しないであろう。
むしろ、過去の偉大な思想家の文章は、もとのアメーバ自体があまりにも巨大なものであるために、思想家の言語運用能力自体が一般に人よりもむしろ優れていたにもかかわらず破綻している場合が多いのではないかと考えている。
以上は2点目への反論となるものだるが、一点目への反論にもつながっていく。あのレオナルド・ダ・ヴィンチの有名な言葉「フィレンツェが私を育て、私を滅ぼした」のようなものだ。わかりやすい文章、すなわち成果への要求の精度があまりにも高くなると、それに収まらないような思考の対象自体が選好されなくなる、という弊害を引き起こすのではないかと考えるのである。