佐々木俊尚さんというかたの,ある興味深いブログを読ませてもらいました.
おっと,こちらです.
オーマイニュースという,あるメディアサイト内のある意思決定をめぐる批判記事のようです.このオーマイニュースというサイトは,市民主導のニュースサイトということだそうですが.問題になっているのはコメント欄をどういう扱いにするかということだとか.
おいらはこのオーマイニュースというサイト自体はほとんど知らないし,このこと自体の是非を云々できるかかわりはないのですが,ちとおいらの関心のある公共土木とか,あるいは行政の政策実行過程に関わる,更にはおいらが大学という官僚機構の中で直面するうっとうしい事務のプロセスというものに対する関心と重なるところがあったのです.
行政や,公共セクターの政策決定過程の透明性を強く求めるマスコミが,自分自身の組織内のあり方において馬脚をあらわすような事態は少なくないようですね(このオーマイニュースがそれにあたるかどうかは判断保留させてもらいますけれど).
以前,環境影響評価法という法律(いわゆる環境アセス)について,それの策定に深く関わった方から聞いたときに,こんな話をききました.まず,この法律の本質はそれが手続法であるという説明を受けました.つまり,それによって得られる結果を規定する法律ではなく,決定プロセスを規定することが法律の目標である,と.そういった一連の説明の後,最後に個人的な感想としてこういうことを言いいました.この法律ができていく,その更に底流に何があったか?それは,最近の公共事業に対する「この公共事業,本当に必要なの?」という疑問である,と.
どういうことか?この話を聞いたときのおいらなりの理解は,こういうことです.
たとえば生命に関わるような絶対に必要な事業というものがあるとする.そういう事業を,艱難辛苦をのりこえて実施していく英雄譚は多い(たとえばあの「黒部の太陽」とか).公共事業をやっている人たちは,自分たちの事業とはそういうものであるという気概を持ってやってきた.そして,事業の決定や遂行の過程とは,その事業をもっとも迅速に遂行するのに適したものではならない.
これはまさに「独善」であり,この物質的に豊かな時代においては既にそういうアティテュードは認められないだろう.今はそういう独善を排除し,その代わりに,事業の決定と遂行の過程には,民主的で透明な手続が求められるわけで,まさに環境影響評価もそのひとつとして導入されている,と.
で,この民主的で透明な手続とは,ひじょーに煩雑でうっとうしいもので,その組織のなかで,その事業が絶対必要だと信じてやっていればそれだけ,その官僚的な煩雑さに耐えられなくなると思うのです.
おいらは,自分自身は,ああいう煩雑な手続は,正直言って好きになれないです.好きになれないけれど,世の中のトレンドはそちらに向かっているとしか思えないし,それは認めざるを得ないと思います.さらにはいやいやながらそれを積極的に認めたいとも思うのです(←なんだこの日本語は).
つまりこれは,物質的に豊かで成熟した社会ではもはや避けられない公共事業の決定過程だと思うからです.だれがどうみても最低限必要な公共事業とは異なる事業,どんな事業かといえば,その必要性は,その社会の構成員がどういった社会を未来に向けて指向するか,そういうのに左右されるような事業を行っていくとなれば,その意思や指向性の熟成のためにはそういうゆっくりした決定過程しかないと考えるからです.
でも,マスコミの人たちは,こういう風に説明をしません.歯がゆい,歯がゆいことだと思うのです.
結論はここまでですが,ついでに別なことを.
上で,正義の事業を実施するから煩雑な決定過程に怒りを感じる,と書きましたが,多分実態はしばしば逆の場合が多いですね.つまりまず怒りがあるわけです.その怒りは実は図星を指されたときの,怒りによる自己防衛と変わらない場合が多い.そしてその怒りを自分の内部で正当化するために,その事業の実施には絶対の正義がある,と信じる,そういう逆の過程を経ている場合のほうが多いと思います.
読書メモ:
笠谷和比古「主君『押込』の構造」
いや,むちゃくちゃ面白かった.特に前半部で丁寧に解きほぐされている事例紹介が面白かった.その手続や,そのなかで関係各位がどういう立場と考え方で慎重にことを運んでいるのか,英雄的でもないけれど,バカでもない人たちが一生懸命慎重に物事を運んでいるのが,圧巻でした.なんか非常に人間くさかったです.それぞれに頑張って生きているんだなぁ,と思いました.
歴史に学ぶ,ていうとき,草創期の英雄譚よりは,こういう安定した時代の中で苦闘している人の話を読む方が,我々には学ぶことが多いような気がします.
おっと,こちらです.
オーマイニュースという,あるメディアサイト内のある意思決定をめぐる批判記事のようです.このオーマイニュースというサイトは,市民主導のニュースサイトということだそうですが.問題になっているのはコメント欄をどういう扱いにするかということだとか.
おいらはこのオーマイニュースというサイト自体はほとんど知らないし,このこと自体の是非を云々できるかかわりはないのですが,ちとおいらの関心のある公共土木とか,あるいは行政の政策実行過程に関わる,更にはおいらが大学という官僚機構の中で直面するうっとうしい事務のプロセスというものに対する関心と重なるところがあったのです.
行政や,公共セクターの政策決定過程の透明性を強く求めるマスコミが,自分自身の組織内のあり方において馬脚をあらわすような事態は少なくないようですね(このオーマイニュースがそれにあたるかどうかは判断保留させてもらいますけれど).
以前,環境影響評価法という法律(いわゆる環境アセス)について,それの策定に深く関わった方から聞いたときに,こんな話をききました.まず,この法律の本質はそれが手続法であるという説明を受けました.つまり,それによって得られる結果を規定する法律ではなく,決定プロセスを規定することが法律の目標である,と.そういった一連の説明の後,最後に個人的な感想としてこういうことを言いいました.この法律ができていく,その更に底流に何があったか?それは,最近の公共事業に対する「この公共事業,本当に必要なの?」という疑問である,と.
どういうことか?この話を聞いたときのおいらなりの理解は,こういうことです.
たとえば生命に関わるような絶対に必要な事業というものがあるとする.そういう事業を,艱難辛苦をのりこえて実施していく英雄譚は多い(たとえばあの「黒部の太陽」とか).公共事業をやっている人たちは,自分たちの事業とはそういうものであるという気概を持ってやってきた.そして,事業の決定や遂行の過程とは,その事業をもっとも迅速に遂行するのに適したものではならない.
これはまさに「独善」であり,この物質的に豊かな時代においては既にそういうアティテュードは認められないだろう.今はそういう独善を排除し,その代わりに,事業の決定と遂行の過程には,民主的で透明な手続が求められるわけで,まさに環境影響評価もそのひとつとして導入されている,と.
で,この民主的で透明な手続とは,ひじょーに煩雑でうっとうしいもので,その組織のなかで,その事業が絶対必要だと信じてやっていればそれだけ,その官僚的な煩雑さに耐えられなくなると思うのです.
おいらは,自分自身は,ああいう煩雑な手続は,正直言って好きになれないです.好きになれないけれど,世の中のトレンドはそちらに向かっているとしか思えないし,それは認めざるを得ないと思います.さらにはいやいやながらそれを積極的に認めたいとも思うのです(←なんだこの日本語は).
つまりこれは,物質的に豊かで成熟した社会ではもはや避けられない公共事業の決定過程だと思うからです.だれがどうみても最低限必要な公共事業とは異なる事業,どんな事業かといえば,その必要性は,その社会の構成員がどういった社会を未来に向けて指向するか,そういうのに左右されるような事業を行っていくとなれば,その意思や指向性の熟成のためにはそういうゆっくりした決定過程しかないと考えるからです.
でも,マスコミの人たちは,こういう風に説明をしません.歯がゆい,歯がゆいことだと思うのです.
結論はここまでですが,ついでに別なことを.
上で,正義の事業を実施するから煩雑な決定過程に怒りを感じる,と書きましたが,多分実態はしばしば逆の場合が多いですね.つまりまず怒りがあるわけです.その怒りは実は図星を指されたときの,怒りによる自己防衛と変わらない場合が多い.そしてその怒りを自分の内部で正当化するために,その事業の実施には絶対の正義がある,と信じる,そういう逆の過程を経ている場合のほうが多いと思います.
読書メモ:
笠谷和比古「主君『押込』の構造」
いや,むちゃくちゃ面白かった.特に前半部で丁寧に解きほぐされている事例紹介が面白かった.その手続や,そのなかで関係各位がどういう立場と考え方で慎重にことを運んでいるのか,英雄的でもないけれど,バカでもない人たちが一生懸命慎重に物事を運んでいるのが,圧巻でした.なんか非常に人間くさかったです.それぞれに頑張って生きているんだなぁ,と思いました.
歴史に学ぶ,ていうとき,草創期の英雄譚よりは,こういう安定した時代の中で苦闘している人の話を読む方が,我々には学ぶことが多いような気がします.