Waka Blog

面倒くさいじじいの面倒くさい日々

私の車遍歴その6〜日産プレーリーJ7アテーサ〜

2021-03-28 07:50:00 | 日記

R32スカイラインのフロアパネルに穴を開けてしまった私。いつもの日産中古車ディーラーに行き相談。修理にそこそこかかると聞き、それまで溜まっていた車への不満からか安い車に買い替えたいと担当者に伝える。

荷物が積めて四駆が良いと言ったらこの車を紹介された。


価格は確か80万円ほどでR32を下取りしてそれで残債も払ってもなおお釣りがきて喜んだのを覚えてます。(それ以来、無借金人生を邁進中)


形は今で言うミニバン🚐

マニュアルだったが四駆で荷物も詰めるし当時の自分にはピッタリの車だった。ただ2リッターエンジンのくせに馬力が100馬力もなくてキビキビ走らせるにはエンジンをぶん回さないといけなくて逆にマニュアルだったのが幸いしたかな。それでも高速道路を使ってスキー仲間の車と白馬とかにスキーに行く時はついて行くのに苦労しました💦

更にこの車の1番好きだったところは後席両側スライドドアだったこと。今でこそ軽四とかミニバンには常識になっているけど、当時としては片側だけはあっても両側スライドドアは珍しかったと思う。右側もスライドドアである事のメリットは駐車場でドアの開閉に全く気を使わずに荷物を後席に置けることで大変重宝したなー。

そして雪道でもアテーサ(当時の日産のフルタイム四輪駆動システムの名前)が素晴らしく、ツルツル路面で滑ってもマニュアルシフトと相まって物凄くコントロールしやすかった。その点が今時の滑った時だけ四駆になるパートタイム的な四駆システムとは全く違うところでした。

この車にSONYのカーステレオとCDチェンジャーを付けて、バスを運転してる様だったハンドルも車検に通らんけど小径の物に交換してハンドリングはキビキビにして、ルーフにキャリアを装着してボードとマストを載せ、3列シートだったけど3列目は外してカーゴスペースを確保しセイルやウェットスーツなどの道具を積んで休日は海に通ってました。

冬はスキーを積んで白馬や上越に。

地元に帰ってからも大事に乗ってました。そういえば北茨城に仕事で半年行ってた時もこの車だったなぁ。この車は安くてボロかったけどこれまでの車で1番愛着があったかなぁ。

67年くらい乗ったかな?

エアコンがぶっ壊れて流石に買い換えることに。(続く)



私の車遍歴その5〜日産スカイライン(R32)GTS typeS〜

2021-03-24 00:20:00 | 日記

R31を購入し2年くらい経った頃だったか加速する時や登り坂でどこのギアに入れてもノッキングする様になった。それまでにもフロントバンパーやドアを何度かぶつけて車のローンが残っているのに修理費用も無く、ディーラーに相談に行ってるうちに自分が乗ってる型が人気で品薄らしく買い取らせてと言い出した。代わりにオートマだがNAR32が入ったとの事で試乗する事に。(なんでやねん😅R31は人気車種という事もあり高値で下取りされ残債とR32の代金の一部をそれで完済したが結局ローンは少し残る結果に。

正直、この頃の自分は身の丈に合ってない車を購入してはローンに苦しむ馬鹿タレになっていた。


さて、この車、スカイラインシリーズの中ではかなりの人気車種だったがあまり記憶に残っていない。そういえばこの車を購入した頃にウィンドサーフィンも始めたのだがその費用もボーナス払いとかにしたりして自分で自分の首を絞めていた様な😓

更にウィンドサーフィンは道具が多いのでスカイラインの様な車は不向きで少し不満になっていた。そんな時にある事件が発生する。

いつもの休日、海にウィンドサーフィンに行った帰り、駐車場で道具を下ろして車を自分の駐車スペースへ入れるのに動かした瞬間、「ガコッ❗️」という音と共に動かなくなってしまった。何だろうと車から降りて見てみると前輪とフェンダーの間にブームといウィンドサーフィンのセイルを操る為の道具が挟まっていてそれでウンともスンとも動かなくなっていた。車は前にも後ろにも動かないし挟まったブームを引っ張ってみても取れないのでジャッキアップしてみることに。

が、ジャッキを当てるポイントの部分にブームがかかっていて当てられない。悩んだ末にポイントから少し外れたところにジャッキを当ててあげる事にしてしまったのである。

いくらジャッキのハンドルを回しても車が上がっていかない。何で?と思って覗いてみるとジャッキを当てた部分に穴が空いていた

またもやディーラーに電話。そこそこ修理にかかると言われまたもや代替の車を購入する事に(続く)



私の車遍歴その4〜日産スカイライン(R31)GTS-Xツインカム24Vターボ〜

2021-03-21 10:57:00 | 日記

いよいよ四輪編の始まりです。

大学を卒業し、化粧品のノエビアみたいな名前の会社に入社。配属先は神奈川県藤沢市片瀬という場所。横浜や鎌倉は知ってるけどあまり聞いた事ないその藤沢市という地名。よく調べると「そこって湘南じゃん‼️」と一気に雪国の田舎青年から湘南ボーイに大変身だわ❗️とアホな事考えてウキウキしてたのを思い出します。実際には海が近くて自然も残っていてゆったりしてて住みやすいところでした。そうは言いながらもJR東海道線や小田急江ノ島線や江ノ電があり路線バスも便数が多く移動するにも不便を感じないし何しろ会社や藤沢駅前まで徒歩で行けるところに独身寮があったので正直、車なんて必要なかった訳なんですが、当時のバブルを背景にした雰囲気とか若気の至りとか、自分で収入を得る様になると欲しくなってしまった訳です。

当初はシルビアとかが欲しかったけど当時発表されたスカイライン インパルR31Rというスカイライン4ドアハードトップの中古車をベースにインパルのパーツを付けた中古の特別仕様車に心奪われてしまい日産の中古車ディーラーへ。結局、300台限定という事もありあっさり売り切れ。意気消沈してたら2ドアクーペのこれが在庫されていた訳で富山の友人がこれの後期型に乗っていて同じ車もどうかと思ったが購入してしまった。


今の車ではあまり見られなくなったが車名が非常に長い❗️😄

車名を長くしている「ツインカム24Vターボ」がこの車の全てを物語っている。搭載するエンジンは名機RB20DETで直列6気筒ツインカムエンジンにバルブは一気筒あたり4バルブでインタークーラー付きのセラミック製のターボで過給して最高出力215馬力を絞り出していた(後にも先にも200馬力を超える車を所有したのはこれが最初で最後)その他に車速を検知して高速だと自動で下がってくるフロントスポイラーやHICASと言われる4輪操舵システム(前輪の舵角と車速に応じて後輪も動き姿勢を制御する機構)も装備していて当時、既にR32が出ていたけど、まあ満足した車だった。形がヤンキー車みたいでしたが


この車にスキーキャリアをつけてラバーチェーンを持って車山とか白樺湖辺りのスキー場とか群馬県の川場とか行ったなあ。今考えるとあんなツルツルな道を良くこの車で行ったもんだと感心してしまう。やはり若気の至りというやつか。


そしてこの車こそ、その後長く続く日産と私の腐れ縁の始まりとなるのであった(続く)


https://getnavi.jp/vehicles/237269/?amp=1


私の車遍歴その3 〜ホンダ ロードパル〜

2021-03-20 21:56:36 | 日記

大学3年になって金沢に移り住み、単車ガンマも手に入れ、自由な生活を手に入れた私。

休日や遠乗りにはガンマに、通学や買い物にはユーディミニ、友人のバイクもGSX-R(単車乗りはジスペケアールと言っていた)とまるでスズキLOVEな人の様に見えるが全くそんな事はなく単なる偶然なのであった。


そんなスズキ色の濃い生活を送っていたある日、講義を終えてユーディミニでアパートに帰る途中、車とやらかしてしまった。アパートすぐ目の前。車1台が通れるくらいの道が交差する交差点。周りは田んぼや駐車場で見通しも良い、そんな交差点に入る時に右から車。自分が減速すべきタイミングだったのだが行けると思いアクセル全開で交差点に侵入。バイクの後ろ側を当てられ転倒。体は擦り傷程度だったが原チャリはフレームが曲がり乗れない状態に。初めてやらかしてしまった。その後、警察が来て怒られ、翌日両親からも怒鳴られ。結局、私の方に非があったのだが相手の叔父さんがものすごく良い方で治療費だけでなく相手の保険で代わりの中古の原チャリまで買って頂いた今思うと申し訳なさ過ぎてしばらく部屋に篭りたいくらいである。

さて、購入してもらった原チャリというのがまたもやファミリーバイク(贅沢言うな❗️)。

発売当時、ソフィア・ローレンがCMで「ラッタッター♪」と一世を風靡したホンダ ロードパルでした。




https://dime.jp/genre/758545/?amp=1


ユーディミニに比べると非力な感じかしてあまり記憶にないのだがホンダは遺産として?ホームページで特別に紹介している。


www.honda.co.jp › page06Honda | 語り継ぎたいこと | ロードパル / 1976


買い物や通学、片町にあるバイト先への通勤などで活躍してくれたが卒業する時に野々市町のリサイクルショップに売却してきた。


その後、前述のガンマも売却し自分の二輪人生はここで幕を閉じるのであった。


私の車遍歴その2〜スズキRG250γ(2型) 〜

2021-03-19 21:42:00 | 日記
大学2年の頃だったかと思う。
世はバイクブーム真っ只中。
鈴鹿8耐やGPなどバイクレースブームもあって街中にはレーサーレプリカと言われるハイパワーバイクがかっ飛んでいた。
250なら2スト2気筒。400なら4スト直列4気筒が定番でした。RZの様にビキニカウルから始まりハーフカウルからレーサーばりのフルカウルまで各社から当時を象徴するかの様に発売されておりました。
そんな中で若かった私もバイク(当時は単車と言ってました)に憧れて、特にヤマハRZ350に憧れ、中型自動二輪の免許を取得。新車のRZを買おうと思っていたが当時、貧乏学生だった私には手が届かず免許を取ったけど乗れない日々がしばらく続いたのだがバイト先の先輩が就職するにあたりバイクを手放すという事でその先輩から購入する事に。
そのバイクというのがスズキRG250γという2スト2気筒のレーサーレプリカだった。



RZよりもピーキーさがなくマイルドとの評判だったようだけどタコメーターは3000回転から下は無く、低回転では全くトルクなく、そのままアクセルあけていくと6000〜7000回転くらい(だったと思う)からドッカーンと鋭い加速で気をつけないとウィリーしちゃうようないわゆるじゃじゃ馬と言われるバイクでした。
正直、ビビりな私には持て余してたと思うのである。
まぁ峠を攻めるとかツーリングに行くとか(最長距離は新潟市という…orz)そういう事はあまりしなくてもっぱら休みの日にその辺をウロウロする感じ、まあそれなりに楽しいバイクライフを送らせてもらったかな?これが人生最初で最後の単車となりました。