4歳の娘が朝、「なんだか頭が痛いの・・。」
インフルエンザも流行っているようなので保育園をお休みしました。
今日はこの冬、最後の。本当に最後の最後の味噌作りの日なのでした。
ひとりで、おとなしく遊んでいれば体調の悪い様子もなく
私は、いつものように大豆のアクをすくったり
その合間にヤギ小屋の掃除をしたり、いつ陣痛が始まっても
不思議ではないヤギのお腹を助産婦さんの気持ちになって、
触って胎動を確かめ「生きてるね。」と語りかけたり。
大豆のゆで汁が少なくなってきたので、かたわらの流しからお湯を出し
ボールに受けます。
待っている時間がもったいないので、そこから目を離して
大豆のアクをすくいます。
「お母さん!あふれる!」
私が見ていないことを知って、ボールからあふれんばかりの
お湯を教えてくれます。
そして、今日の予約のみなさんのみそ作りが始まりました。
この4歳も、姉と同じように歩く前から味噌作りを見て、こねてきてので
手順はわかっています。
「お塩は、ここまでね。」
「よく混ぜてね。私やってあげる。」
「コウジ、もう入れていい?」と言いながらはりきって持ってきて
ざざあ。と入れてくれます。
立ち膝に片足は更に立てて、ちゃんと腰が入っています。
先に先にと手順を踏んでいく姿をみなさんにほめてもらい
やる気と自信と誇りが雲のように湧いてくるのが
目には見えずとも、確かに感じることが出来ます。
頭の痛いのはどこへやら。
娘にとっては自分の存在を確かめるいい機会になりました。
子供はいつから、親の庇護のもと、ただ守ってもらうだけの存在に
なったのでしょうか。
いつから、子供の出来る仕事を機械や便利な道具、
暮らしのあり方が奪ってしまったのでしょうか。
経済の成長と引き換えに、どれだけ子供の本能をしまったまま
大人になってゆくのでしょうか。
4歳では幼くて、もちろん一人で生きてゆくことは出来ない。
けれども、心はいつの頃からか、生きるために働きたい。
誰かの役に立ちたい。何かをすることが、誰かに喜んでもらうことに結びついて
それで、「自分」を認めることが心に積み重なっていく。
それが、人として生まれさせてもらったことの役割を果たすこと。
今日、娘にそんな機会を与えてくれたことへの感謝を。
それを、この冬ずっとさせてきてもらうことの出来たみそ作りの最後の日。
今日の日を仕組んでくれた神様に感謝したい。
明日は、もっとちいさな子たちが、お母さんと一緒に冬の里山暮らし体験に来る。
親の私では、やってやることの出来なかった「他の誰かのために役に立つこと。」
お礼に。といっては、おかしいけれど、
今度は、明日くる子たちに、そんなみんなそれぞれの役割がちゃんとあることを
感じてもらえるような、そんな1日を過ごしてもらおう。
受け取るばかりでは、申し訳ないから。
もらうばっかりじゃイヤだから。
あげて減るものではないのだから、よその子にも愛情をそそごう。
頭の回路があちこちショートしかかって、
それでもなんとか1日、1日を重ね、大豆も塩も、入れ物も。
全てが、余りもなく、不足もなく、
本当にきちんとぴったりと。用意しただけがきれいになくなった今年の味噌作り。
これまでを静かに振り返り、そして明日へと向かおう。
来年の味噌作りは、もっとああしよう、こうしよう。
常に変化しながら
作りながら住んでいる我が家と同じように、完成することは
一生ないかもしれないけれど、だからこそ。
そうやって、暮らしていくことが、子供の役割を奪わないことだと信じながら、
同時に農業という仕事の役割に想うことは山のよう。
自分の娘だけではなく、ご縁のあって訪れてくれる方たちみんな。
私には出来ないそれぞれの役割を担ってこそ
この世は、天国になるのだから。
大海の一滴かもしれない。それでも、波紋は広がっていくかもしれない。
味噌作りが終わって、つかの間にほっとしながらも
明日の1日を心の中で何度もシュミレーションするのでした。
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