最近のテレビ放送番組ではない。1988年7月17日の放送で、再放送でもない。VHSビデオ・テープに録画してあった番組で、当時、見ている。
画家・木田金次郎の名前を知らなかったし、その絵を見たこともない。この番組を録画したのは、故・八木義徳先生が出演していたからである。
ビデオ・テープを処分する前に、八木義徳先生がなつかしくて、また、見てみた。
(このころの八木義徳先生は70代の、半ばか後半……)
北海道の大自然を描いた画家・木田金次郎の絵を解説している八木義徳先生を見ながら、学生時代が思い出された。
八木義徳先生は、私が初めて出会った作家である。芥川賞受賞作家と知ったのは、のちの日のこと。
私が通っていた文京女子短期大学(現・文京学院短期大学)2年生の時に、選択科目で『小説作法』という講義があって、講師が八木義徳先生だった。他に選択科目は音楽と美術があったが、文学少女だった私は迷うことなく、『小説作法』を選んだ。専攻は英語英文学だったので、英語関連の講義が多い中、選択科目があるのは新鮮で楽しかった。
週に1度、金曜日の午後の90分。第1回目の講義の時、八木義徳先生が、
「小説作法となっていますが、小説の書き方を教えるわけではなく、ぼくの独談です」
そう言われたことを記憶している。出席する学生は、いつも30名ぐらい。皆、読書好きな文学少女だったから、作家志望ではなくても、小説の書き方を教えてもらえるのではないことに失望した学生が少なくなかったようだ。私も、ちょっぴり失望した。高校時代の部活は文芸部で、年に1度と数か月ごとに発行される同人誌に、詩や小説を書いたり読んだりしていたから、作家から小説の書き方を教われるとワクワクしていたのである。
しかも、19歳の学生にとっては、祖父に近い年齢の八木義徳先生から、どんな独談が聴けるのか、100%の期待、というわけにはいかなかったようだった。
ところが、八木義徳先生の独談が始まってみたら、その話の面白さと興味深さに、どんどん引き込まれてしまい、90分があっという間に感じられるほどだった。他の講義では、早く終わらないかと腕時計ばかり見ていることが多かったが、終了時刻になり、
「じゃ、今日はここまで」
と、八木義徳先生の言葉に、
「えっ、もう、おしまい?」
そう呟いたのは、私だけではなかった。
教室を出ながら友人たちと、本当に面白かった、凄く興味深かった、あんな話初めて聴いたわと、半ば昂奮状態で言い合ったりした。
そして、その時、八木義徳先生が第1回目の講義の冒頭、
「ぼくの独談です」
と、自信に満ちた口調で言われたことが納得できた。若い私たちを魅了する話ができると確信されていたのだと。その時点で八木義徳先生が、文京女子短期大学の非常勤講師をされて5年か6年経っていたから、若い女子学生を惹きつける話し方を心得ていたということもあるかもしれない。
その〈独談〉の内容は、八木義徳先生のそれまでの人生の話が多かった。仕事をしていた母との生活、非嫡出子として生まれたこと、少年時代、船員志願、初恋、大学時代、左翼思想、ロシア文学、自殺未遂、結婚、戦争、中国、再婚、etc……。
どの話も、まるで1遍の小説を読んでいるように、私たちは感情移入したり感動したりで、そのオチもまた、余韻の残るような素晴らしい言葉で終了する。
また、八木義徳先生と親交のあった作家たちの話や、生き方、女性観、恋愛観、人生観なども、とても興味深かった。
(作家って、普通と違う考え方や感じ方をして、個性がとても強くて、凄絶な体験をたくさんしているんだわ)
と、感動したものだった。
独談の途中で八木義徳先生が学生たちに何か質問して、私も何度か指されて発言したが、そのやり取りもまた、楽しいことだった。
1年後、単位取得のレポート提出は、400字詰め原稿用紙に30枚、テーマは過去から現在までの自分、体験手記ではなく小説のつもりで書くこと、と言われて、
「ええーっ」
と、私たちは笑い声混じりに驚きの声をあげた。『小説作法』という講義で、小説の書き方は1度も教わらず、毎週、金曜日の午後の90分が楽しみな八木先生の独談を、魅了されながら聴き続けたあげく、短編小説を書けだなんて──。
「『小説作法』という講義を選択したからには、皆さん、小説を読んだり書いたりしてるでしょうから……」
と、八木義徳先生は茶目っ気のある笑い方をされた。単位取得のために、400字詰め原稿用紙30枚を私は不安半分、ワクワク気分半分で、1週間以上かかって書き上げた。30枚書きさえすれば、どんな作品でもいいのだから、受講した学生は全員、単位を取得できた。
ビデオに録画した八木義徳先生のテレビ出演番組を見ながら、あの素晴らしい独談をもう1度聴きたいと、叶わない夢を心に描いた。
画家・木田金次郎の名前を知らなかったし、その絵を見たこともない。この番組を録画したのは、故・八木義徳先生が出演していたからである。
ビデオ・テープを処分する前に、八木義徳先生がなつかしくて、また、見てみた。
(このころの八木義徳先生は70代の、半ばか後半……)
北海道の大自然を描いた画家・木田金次郎の絵を解説している八木義徳先生を見ながら、学生時代が思い出された。
八木義徳先生は、私が初めて出会った作家である。芥川賞受賞作家と知ったのは、のちの日のこと。
私が通っていた文京女子短期大学(現・文京学院短期大学)2年生の時に、選択科目で『小説作法』という講義があって、講師が八木義徳先生だった。他に選択科目は音楽と美術があったが、文学少女だった私は迷うことなく、『小説作法』を選んだ。専攻は英語英文学だったので、英語関連の講義が多い中、選択科目があるのは新鮮で楽しかった。
週に1度、金曜日の午後の90分。第1回目の講義の時、八木義徳先生が、
「小説作法となっていますが、小説の書き方を教えるわけではなく、ぼくの独談です」
そう言われたことを記憶している。出席する学生は、いつも30名ぐらい。皆、読書好きな文学少女だったから、作家志望ではなくても、小説の書き方を教えてもらえるのではないことに失望した学生が少なくなかったようだ。私も、ちょっぴり失望した。高校時代の部活は文芸部で、年に1度と数か月ごとに発行される同人誌に、詩や小説を書いたり読んだりしていたから、作家から小説の書き方を教われるとワクワクしていたのである。
しかも、19歳の学生にとっては、祖父に近い年齢の八木義徳先生から、どんな独談が聴けるのか、100%の期待、というわけにはいかなかったようだった。
ところが、八木義徳先生の独談が始まってみたら、その話の面白さと興味深さに、どんどん引き込まれてしまい、90分があっという間に感じられるほどだった。他の講義では、早く終わらないかと腕時計ばかり見ていることが多かったが、終了時刻になり、
「じゃ、今日はここまで」
と、八木義徳先生の言葉に、
「えっ、もう、おしまい?」
そう呟いたのは、私だけではなかった。
教室を出ながら友人たちと、本当に面白かった、凄く興味深かった、あんな話初めて聴いたわと、半ば昂奮状態で言い合ったりした。
そして、その時、八木義徳先生が第1回目の講義の冒頭、
「ぼくの独談です」
と、自信に満ちた口調で言われたことが納得できた。若い私たちを魅了する話ができると確信されていたのだと。その時点で八木義徳先生が、文京女子短期大学の非常勤講師をされて5年か6年経っていたから、若い女子学生を惹きつける話し方を心得ていたということもあるかもしれない。
その〈独談〉の内容は、八木義徳先生のそれまでの人生の話が多かった。仕事をしていた母との生活、非嫡出子として生まれたこと、少年時代、船員志願、初恋、大学時代、左翼思想、ロシア文学、自殺未遂、結婚、戦争、中国、再婚、etc……。
どの話も、まるで1遍の小説を読んでいるように、私たちは感情移入したり感動したりで、そのオチもまた、余韻の残るような素晴らしい言葉で終了する。
また、八木義徳先生と親交のあった作家たちの話や、生き方、女性観、恋愛観、人生観なども、とても興味深かった。
(作家って、普通と違う考え方や感じ方をして、個性がとても強くて、凄絶な体験をたくさんしているんだわ)
と、感動したものだった。
独談の途中で八木義徳先生が学生たちに何か質問して、私も何度か指されて発言したが、そのやり取りもまた、楽しいことだった。
1年後、単位取得のレポート提出は、400字詰め原稿用紙に30枚、テーマは過去から現在までの自分、体験手記ではなく小説のつもりで書くこと、と言われて、
「ええーっ」
と、私たちは笑い声混じりに驚きの声をあげた。『小説作法』という講義で、小説の書き方は1度も教わらず、毎週、金曜日の午後の90分が楽しみな八木先生の独談を、魅了されながら聴き続けたあげく、短編小説を書けだなんて──。
「『小説作法』という講義を選択したからには、皆さん、小説を読んだり書いたりしてるでしょうから……」
と、八木義徳先生は茶目っ気のある笑い方をされた。単位取得のために、400字詰め原稿用紙30枚を私は不安半分、ワクワク気分半分で、1週間以上かかって書き上げた。30枚書きさえすれば、どんな作品でもいいのだから、受講した学生は全員、単位を取得できた。
ビデオに録画した八木義徳先生のテレビ出演番組を見ながら、あの素晴らしい独談をもう1度聴きたいと、叶わない夢を心に描いた。