そんな時だった。ユジンが小学校5年生の春、ヒョンスのがんが見つかった。見つかった時点でがんの予後は非常に悪くて、あとはどれだけQOL(生活の質)を保って生きていけるか、という段階に来ていた。ヒョンスが告知されたとき、彼は静かに事実を受け入れていたが、ギョンヒは取り乱してしまった。ヒョンスがいない人生など考えられなかったのだ。ギョンヒは父親を早くに亡くす経験をしていたので、母親がどれだけ一人で苦労したかを見ていた。その経験を自分がするのかと思うと、2度もどうしてと、苦しくてたまらなかった。
そして、同時にこれはミヒに酷いことをしたせいだろうか、と罪悪感に苛まされた。しかし、ギョンヒは気丈にふるまった。ヒョンスの前では決して泣かずに笑みを絶やさずに過ごしていた。もっとも、ヒョンスが亡くなるまでは、闘病生活や日々の暮らし、思い出作り、死後の生活の相談などやることが多すぎて、ゆっくりと考える暇もなかったのだった。結局ヒョンスは1年後の晩秋に亡くなった。ギョンヒに感謝を繰り返し伝え、娘たちを愛していると抱きしめて、静かに旅立ったのだった。病床で「娘たちが嫁に行く姿を見たかったな」と寂しそうに笑っていた彼を思い出すと、今も胸が痛む。
葬式が終わってしばらくたった後、ギョンヒはヒョンスの写真を見詰めていた。そしてヒョンスを失って初めてミヒの痛みを感じ取ることができたのだ、としみじみと感じていた。それが愛であれ執着であれ自己中心的な者であっても、彼女もヒョンスを失った後、身を切られるような痛みを感じていたのだと思いやることができた。そして、ヒョンスの写真をそっと撫でながら、心から改めてミヒに詫びるのだった。
それからのギョンヒは、ミヒのことなど考える余裕もなくなっていた。一家は再び貧困に直面しており、ユジンとヒジンを育て上げるために、ギョンヒは独りで戦わなければならなかった。ギョンヒは自分に学がないことが悔しかったので、二人に娘は大学まで卒業させると決めていた。それは、やはり学のないヒョンスの願いでもあったのだ。ギョンヒは洋服店を繁盛させるために長時間働いた。そして、そんな母親を見てユジンもいろんな手伝いをしてくれたり、勉強を頑張っている様子だった。昔面倒を見ていた二人の妹も、姉の窮状を見かねて少額ながら仕送りをしてくれるようになった。ギョンヒはありがたくそれを受け取り、二人の子供の大学資金として貯めていた。キムジヌもヒョンスの親友として、いろいろな相談に乗ってくれたり、ちょっとしたものをプレゼントしてくれて、さりげなく目立たないようにギョンヒ一家を助けてくれた。こうして月日はどんどん流れて行くのだった。
やがて、ユジンのそばにはサンヒョクと言う頼もしい青年が寄り添うようになった。サンヒョクはユジンを好きなのは明白で、しかしユジンはサンヒョクのことを友達だと考えているようだった。ギョンヒは、娘には自分と同じような苦労は絶対にさせたくないと思っていた。だから、ユジンには繰り返し「女は愛してくれる男性と結婚するのが幸せよ」と話していた。言い聞かせていた。ユジンが実らなかった初恋に苦しんでいるは知っていたが、大学教授の息子であり、大切にしてくれるサンヒョクと結婚するのが、娘にとって一番の幸せだと信じて疑わなかった。幸いにもサンヒョクはどこまでも心根がよい青年で、ギョンヒはまるで自分の息子のように彼をかわいがるのだった。ギョンヒは夫が亡くなってから初めて、また幸せだと思う日々を送っていた。
それはもうすぐ、サンヒョクとユジンの結婚式が見れる、初孫を抱けるかもしれない、そう思っていた矢先だった。あの青年と、因縁のカンミヒが目の前に現れたのは。「一生許さない」とつぶやいたミヒ。ギョンヒは目の前が真っ暗になり、今度こそ地獄に落ちていくのだと観念していた。ただ、ギョンヒはカンジュンサンと言う青年が、亡き夫の子供だと考えたことは1度もなかった。それは、ミヒが自殺未遂をするほど執着しているのが心配で、新婚のころヒョンスにはっきりと質問したことがあったからだ。ヒョンスはギョンヒの目を見て『一度もミヒに触れたことはない』と誓った。ギョンヒはそれを信じたし、チュンサンの誕生日から逆算しても、ミヒが妊娠したのはヒョンスと別れた後だとわかっていた。
ギョンヒはそれきり、チュンサンの出生について頭から消し去った。しかし次に思い出したのは、ユジンが泣きながら実家に帰ってきて「お父さんを恨む」と腕の中で泣きだした瞬間だった。チュンサンは夫の子ではないのは自分がよく知っているが、それならば彼の父親はだれだろうか?と言うことだった。チュンサンはユジンよりも数か月年上なだけだった。と言うことはヒョンスとギョンヒが結婚したころに妊娠した計算になる。あんなにヒョンスに未練があったミヒ、命を絶とうとしたミヒが、はたして他の男性と付き合うだろうか。ギョンヒにはどうしてもそれが信じられなかった。それならば、カンジュンサンの父親はだれなのだろうか?この疑問はギョンヒの心の奥底にいばらのとげのように刺さって、やがてその毒はじわじわと回り始めた。ミヒの恨みがなお、自分と家族を苦しめていることに、因果を感じるのだった。
ユジンが海外に旅立って2年目の春だっただろうか。娘から「サンヒョクの祖父が亡くなった」という知らせが来た。ヒョンスの晩年は疎遠にはなっていたが、公私ともに力になってくれたジヌとのために、そっと葬式に参列した。もっともユジンとサンヒョクの婚約破棄で妻のチヨンとは犬猿の仲だったため、表立って挨拶をすることはなかったが。その葬式の会場でジヌの父親の遺影を見た時、ギョンヒは雷に打たれたように固まってしまったのだった。それは、ジヌの父親が、あまりにもチュンサンに似ていたからだった。すべてが似ているわけではないのだが、目元や口元がよく似ていた。とすると、チュンサンはジヌの子供なのだろう。今思えば、全てのパズルのピースがはまるのだった。3人は仲良しで、二人は恋仲だったが一人は片思い。もう一人が恋に破れた時、残された二人は何か間違いがあって一夜を共にしてしまったに違いない。そして思いがけず生まれた命。ジヌから一方的に疎遠になった友情。ジヌはヒョンスに言えない秘密を持ってしまったため、後ろめたかったのだろう。17年後、一人の少年と少女が恋に落ちる、、、。しかしそれは因縁の相手同士の子供だったのだ。ああ、なんということだろうか。これが因果応報と言わずになんといえよう。ギョンヒは自分たちのしたことが、まわりまわって今の結果になったことに、再び激しい罪悪感を覚えていた。結局、自分たち親の世代がユジンとチュンサンを傷つけてしまったのだった。本当に償っても償いきれるものではなかった。また、ジヌはどうしてどこかの時点でチュンサンが自分の子だと告白してくれなかったのか、不思議でならなかった。すべてが終わった今、真相は闇の中だった。ギョンヒは一つため息をついて、ヒョンスの写真を見つめた。あなた、今あなたは天国からこの状況を見てどう思っているの?ギョンヒは心の中でつぶやくのだった。