こういうニュースに接すると本当に寂しい。
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JR西日本 業績悪化で支社再編へ 2022年1月12日
最近は私もJRを利用することが減ったが、今でも鉄道は国の動脈だと思っている。
しかし、支社再編などしたら、ますます先細りしていくだろう。
地方が過疎化した上、車社会になったせいで鉄道が利用されなくなったと思うが、鉄道が細るとますます地方が過疎化されていくという相乗作用で、日本がますます衰退していくことが目に見える。
最近、テレビ等で、北海道の廃線の話題に接することが多いが、見ていて涙が出るほど悲しい。
温暖で住みやすい西日本ですら、こういう状況になってきているのだから、東北、北海道は、言うに及ばずだ。
一旦廃線にした路線を再び使用することは皆無であろう。
それは例えてみれば昭和が懐かしいと思っても、昭和の御代に戻ることができないようなものだ。
私達世代の過去の思い出には必ずといってもいいくらい鉄道が絡んでいる。
だから、余計切ないのだ。
国鉄という動脈が、日本の津々浦々を巡っていたから日本の国も元気であったのに…。
★日本の衰退ますます促して鉄道網は縮小しゆく
★かつて血を巡らせるごとこの国の津々浦々を走りゐし汽車
★思ひ出は昔の蒸気機関車に及び煤煙浴びしトンネル
★トンネルを通る前には窓閉めて通り過ぎれば開けにし記憶
★土讃線トンネルばかりの路線にて開け閉め開け閉めしながら乗車
★大阪に行くとき走る駅なりき連絡船に乗る高松は
★赤帽に百円払ひ大荷物運びてもらふ人もありにき
★駅弁を抱へて売りにくる人ゆ買ひにし駅弁小さなお茶も
鉄道産業はどんどん斜陽化して行くと思います。
短歌の1首1首が身に沁みます。私の短歌ノートに保存します。辛くて厳しいですよね。日本全国高速道路が張り巡らせ人も物資も車で運ばれる時代となり、やがては人も物資も空を飛ぶ時代になって来ました。この間も楽天がドローンを使って物資を届ける実験をテレビでやっていましたし2025年頃には車も空を飛ぶと思います。鉄道は国の基幹産業でしたが国営が民営になった時点で運命が決まっていたかも知れませんね。悲しい現実です。
私達には鉄道に対する郷愁があるんですね。
ですから車社会になっても鉄道は存続してほしいと望んでしまう。
しかし実際問題として鉄道を残すには莫大な維持費がかかりますから無理な望みでしょう。私自身最近は高速バスばかりですから。
私は車が空飛ぶ時代がくるとまでは思えませんが、一部ではあるかもしれませんね。
「土讃線トンネルばかりの路線にて開け閉め開け閉めしながら乗車」
「大阪に行くとき走る駅なりき連絡船に乗る高松は」
高知県出身の父母が結婚し大阪へ出ましたが、小さい私を連れてお里帰りをした時、上の2首の光景を良く覚えています。宇高連絡船から土讃線に乗り継ぎをする時めちゃくちゃ混んで人が一斉に走り出します。その光景は「三つ子の魂百まで」ではありませんが、今でも強烈に覚えています。土讃線も鼻の穴が真っ黒になった記憶も覚えています。母方のおじいちゃんが好きで何回も遊びに行きました。
そうでしたよね。
私も記事を書きながら思い出したので、歌にしてみました。
今の若い人達に話しても信じてもらえないような土讃線でした。
「日本の衰退ますます促して鉄道網は縮小しゆく」の短歌には、感じるもの大です。
時代の流れとしてかたずけてほしくない、想いもありますし、千葉の「いすみ鉄道」等の取り組みを
JR西日本も研究して欲しいとの思いもあります。
なお、私のブログの「口語、文語混じりの歌」へコメント・解説頂きありがとうございます。
おっしゃるように、文語体は、未だ現代短歌の主流を成していますが、
これは短歌固有の伝統的な流れを踏まえていることもあり、中々変わり難い背景も
あると理解しております。
しかし、日常会話も含めてline スタンプ、インスタグラム等スマホ世代には口語は
もとより言語に変わる短く、魅力的な表現手段も多数出てきております。従ってこれらも
取り入れ短歌も時代の要請を取り込みつつ、変化が求められていると考えます。
結社・短歌会によっては「文語・歴史的仮名遣い」のみと限定されているところも
あると伺っていますが、これも一つの在り方と思っています。
ただ、少し大げさな表現になりますが、短詩型文学の基礎をなす短歌が今後の文学の
進展の中で確かな地歩を築き、民族の詩精神の礎となっていくには時代の流れを
冷静に見つめ、その底流をなす変化にも柔軟に対応していく必要があると考えています。
国語・言語の乱れを嘆く方が少なからずおられますが、この国語の美しさ、たおやかさを
自ら具現化する使命を短歌を志す方は、経験の深浅に関わらず担っているとも考えています。
そんな想いを抱きながら、私も短歌に関わってみようと考えている昨今です。
この「水曜サロン」に集う皆さんは、言葉の美しさや、その裏にある想い深さや、優しさを
備えている方ばかりで、共に学ぶ楽しさを日々、味わっています。
結社や、短歌会の縛りもない中で私も自由に学ばせて頂き嬉しい限りです。
これからも、色々提案、ご意見を頂ければ嬉しいです。これらの討論も編集し「水曜サロン」へ
掲載できればと思っています。
宜しくお願い致します。
また昨日は勝手に短歌の口語、文語について書かせていただきまして失礼いたしました。
口語、文語の話題からは逸れますが、私の所属しています短歌結社「塔」は私が入会する前は現代仮名遣いが決まりであったようです。
結社を作られた高安国世先生は、ポエット・Mさんと同じようなお考えで、そうされておられたようでしたが、やはりそれも支障があったのか、私が入会した少し前くらいから旧仮名遣いも可となりました。
口語、文語の区別も、特に決まりはありませんが、どちらかと言えば口語が望ましいであったと思います。
が、私は、昨日書かせていただいたように、口語だけでも問題があるし、文語だけでも問題があると感じています。
実際、プロと思われるような歌人の皆さんも混合していらっしゃるようにお見受けします。
短歌は和歌の流れを組む短詩系ですので、伝統は無視することはできず、しかし、正岡子規の提唱した短歌革新の流れからすれば、口語がベターということになると思います。
が、そうは言っても、正岡子規の歌も、今見ると、かなり伝統を踏襲していることがわかります。
そんなこんなで、私自身は、現代でも作歌に当たっては、文語、口語混じりになるのは仕方ないと思っております。
仮名遣いにつきましても、機会があれば、私の考えを述べさせていただきたく。
作春亡くなった父は国鉄職員でしたし、幼なじみがJR西日本の大幹部で少し前に退任しました。
幼なじみが尼崎事故の対応で頑張っていたことを知ってるので、なんとか頑張ってほしいと願っています。
昔は国鉄職員と言えば、真面目と同義で、世間的にも信用されましたね。多摩爺さんのお父さまも立派な方だったでしょうね。
旅と言えば電車。
そして駅弁とプラスチックボトルに入ったお茶。
今は、どこへ行くにも車で、コンビニやSAで軽食…
そういえば、こちらは田舎なので立ち食い蕎麦屋も無くなってしまいました。
昨日は夕方から寝てしまい、コメント返しが遅くなってしまいました。
そうでしたよね。
私は年取ったせいか、昔が懐かしいです。