本当に、、いろいろな事がある昨近ですが、、、
日曜日の早朝や夕方に
TVを観ることにしているんです。
どんなに、、忙しい時でも
大谷選手と、メジャーのTVが始まると、
身体を、、一時休戦の状態にするんです。
夕方は、、、ダンナさんたちは、、日曜は休日でも
主婦にとっては日曜日は、、、5食昼寝付きのお客様がいるのと,同じですよね。
ゴミは出る、、、洗い物は出る、、、風呂の掃除は有るし、、、
バタバタできないので、、、昼過ぎには
ガムテープで、、、TVと食堂を繋ぐ
動線に添って、、、髪の毛や、、、衣類の静電気の
落とした繊維を撤去する。
定期便の「髪の毛撤去作業を、、一日に2回する。
洗面台の下が、、一番、、短い白髪が 落ちています。
一日に、、、こんなに髪って、、、抜けるんですね、、、、
科学の目が実験を試みるような
興味に変わり、、、
溶かした髪の抜け毛を、、捨てないで
洗って干して、、、貯めてみた。
人間の髪の毛って、、、すごく生え変わっているということが、、判明。
一年もしないまま、、、 針山が30個できるほどの髪が、、入れ替わっているんですね。
何だか捨てるのが欲しくなって、、シャンプーで洗って、、丸めて、
ビニールの45リットルの袋に、貯めて行ってみたのですよね
このまま、、、クッションが出来そうなほど、、
ブラシに残った髪が溜まりました。
私は、子供の頃、、、床屋さんで散髪に行ったとき
耳を切られてから、、、美容院医はいかなくなりました。
髪は、80歳でも、、おさげにしています。
「80歳のおさげって、、有なのよ❣!、、、≪^0^≫👊、、ははははは,、、
昔、、母から、髪を洗って、丸めて、針山を造ってもらいました
昭和の初めの、、、すぐに、、錆びてしまう針も、、、
髪の毛の針山の針は錆びなかったのです。
何~~~んでだ???
日曜日は仕事をしているか、、、
どうでもいいことを考えているか、、、
夕方までの食べ物を、、、今は、保冷庫になってしまている
元冷蔵庫に、、、入れて、、、
ダンナさんが起きて来たら、、、勝手に、、好きなものをセットにして
食べられるようにして、、、
真冬の日曜日の庭に出た。
道路の雪を掻いて、、、玄関までの階段の雪をどかして、、、
滑らない様に、砂を撒き、、、
雪囲いの下で、、冬眠する、、私の友人である植物に
声をかけて回る。
落ち葉も、、
今のうちに
てんこ盛りの氷塊の山にならない様に
ゴミ袋に集めて回り
丈の低い草花の横に置く、
いよいよ、、本格的な冬が来る、、、
東京に出ていった息子は、、、もう、、20年も帰ってこない、、、正月!!
20年前に一度、、札幌に向かってヒコーキに乘ったと、、、ガラケーでメールが来た。
その日の夕方、、、札幌の空をひとまわりして、、
東京、、羽田に戻って来た、、と、、メールが来た。
それ以来、、彼は孤独な正月を過ごしているのかと思うと、、、
北海道から、、東京の大學に進学させたことは、、、良かったのだろうかと、、、
今も考えることが多い。
ダンナさんが、、医師であれば、、
東京と北海道は、、遠くないと、、、経済状態の認識であったが、
医師には、、地域医療で、、ルートに乗って、
生かされてゆく医師と、
政治的な妙というか、、、一生働き続けるが
税金や、、その他の、、団体に、、寄付することが仲間であり続ける事だったり
医師をすることだけは、、、
見えない便宜が払われるが、、、
金銭的には、、、見かけの収入だけが多くて、、、
50歳近くまで。。大学に居ても、、、国家の年金は 数万円という
国立大学の医局スタッフの、、、不思議な年金や月給制度は
昭和時代の、、七不思議ですよね。
50歳から大学を離れて、、社会人いなりましたが、
勤務で来た、、私病院の月給のおかげで
私大に進学した息子の入学金も授業料も、、払えるようになりました。
大学勤務中は、、手取り30万あれば、万歳でしてね、、、
給料の無関係に、、、大学に戻った医師は、、ほとんど大半は読まない横文字の本を汲んですよね。
家賃1700円の、風呂も無いアパートに入っている割には
丸善から、、月に10万円とか、、、請求が来るんですよね。
勉強が好きで,、ホンが好きなのは、、、良いことだと思いますが、、、
大学に居ても、、教授にならない人たちの方が
圧倒的に多いわけですし、、、
サラブレッド家系で、、地元で、、しかも地元貢献型の親が居れば、、、
大学に一生いて、、勉強して、、自己満足の世界に浸っていても、、、素敵な生き方だと思いますが、
助手になって、、博士号を許された段階で、、
学力的、、、技術的、、学問的に、、、駆け込む大学があるのだから、、
30代、、40代は、、思いっきり、現場で臨床経験を積みながら
外国等の病院で働いてみる方が、、興味がありますね。
絵里先生の居る大学に居て、、、特殊な病気を治せるようにならなくても、
地域貢献しながら、、、手におえない難しい病気の患者さんは
大学病院の医術も、学問もきわめている先生の元に,お願いできる関係であれば
ずーと大学に居て、、安月給で、勉強していても
日進月歩の医学は、、、どこまで行っても、、、学ぶことばかりだから、、、
地域で医療分野で貢献しながら、、、地域に溶け込んで
いろいろな人たちと出会い、、医師というだけでなくて
地域の物知り博士になって、、、家庭がにぎやかだった方が
生きてるって感じるのは、、、女性は、人間を産み出し、、人間を育てるという
日tの感情や、経済状態、、、健康状態、、、学問的レベル
趣味的レベル、、、何かの没頭している人たち、、、
人間丸ごと、、、出逢いたかったですね。
私自身は結婚を堺に、、人とは付き合わないという、、、
自分の興味の対象に没頭したり、、、家事だけはきちんとやるけど
ヒトとの付き合いは、、、まるで、、ダメ、、ナノは、、、
北海道という土地が、、、自然がすごいので、、、
人まで付き合っている余裕が無かったというのが、、、本音ですね。
都会の人は、、、たぶん、、、北海道の冬に出逢ったら、、、
都会に逃げ帰るかもしれませんね。
55年経っても、、、北海道の冬は、、怖いですね。
ダンナさんが、、医師をするという事には全力投球するのに
家庭的には、、、ほとんど、、子供達とはすれ違いの時間帯で過ごした人だけに
放任主義というか、、、私も、北海道の子供を幸せに育てるには
子供のあとについてゆく育児を選んでいましたね。
地元生まれの親ではないので、、、
地域に貢献するには、、あまりにも北海道を知らないし
未だに、、町とか、、村とか、、山とか川の名前も読めないものが結構ありますね。
地名の意味など解れば、、、北海道の楽しみ方も解ったのかもしれませんね。
冬が来ると、、、「北国で、、生きる為の戦い」という
和歌山育ちで、東洋に11年という、、、何もかも中途半端な知識で
学ぶことばかりでしたね、、、、
結婚というのは、、、名前も,なくなり、、、
過去を知らないまま、、どんな性質かも知らなくて、、、
見知らぬ顔の、、、子供に出逢い、、、
一生懸命育児を⒮ているうちに
「これが、、、???「愛情」という感情かな??」
長男から、、、人を愛することを、教えられましてね。
早生まれで,、、テンテンと移動する無給医の奥サンの私は
出会うのは大自然の絶景と、、、息子への愛情でしたね。
移動生活で、、、幼稚園に行けなかったことが、、、残念でしたね。
結構、、野性の少年時代を過ごせたことが
親の目には、、、
「天然の魅力を感じましてね、、、勉強はそっちのけの少年時代でしたね。」
ろくろく塾にも行かなかった、、、「8時だよ全員集合」と
「ドラえもん」と「太陽にほえろ」「ガンダム」「ライデーン」
TV塾で育った息子達は、、
それでも、、なんとか、、、育ったが、、、
政府を羊飼いに例えるのなら、、、
税金納入の役割の「羊さん」の域を出れない
真面目なサラリーマンになれたものの、、、
社会情勢の変わるたびに、、、
ゴムボートのように、、、参加する集団への維持するための、、一生懸命で
どうしても、、、揺れながら、、、バランスをとりながら、、、
カルワザのように、、、スレスレデ、、クリヤーしていっているように見えた。
しかし、、今回は、、、大変です。
息子の息子達、、、つまり、、、孫の三人が、、、
同時に、、私立の大学生という状態が起きるのでス。
男らしく👈、、一本気で、、、頑張り屋で、、
昭和の生れの息子は
「親なんか、、宛にするのは、、男じゃない!!」と
子供達に劇を飛ばすものだから、、、
孫たちは、、こぞって、、アルバイトに、、一生懸命である。
それでも、、、食事代がバカにならないというので
月に1~2度、、ファミレスなど、、時には寿司屋、に誘って
たんぱく質を補う役を、、爺と婆は担当してきた。
先日、、インフルエンザで、、熱が出て、、寝込んだ私が
孫にメールを入れた。
「買い物に行けないから困っている、
食パン3斤、、と、弁当2食分と、、、ポカリスエットと、、、
あんパン2個、、、おやつのレーズンパン、、、」
「買い物ビニール手提げに3個、、、束ねて、、、すぐに届けてくっれた。
大学生を、、、無料で、、こき使うのは良くないと思ったから、、
お札を渡して、、、ありがとう、、、」というと。
「婆ちゃん、、俺、、今、、金無くて、、これだけしか買えなかったけど、、、
ありがたいな^^、、、代金払ってもらえて、、、
釣りはいらないって?!!、、,、サンキュウ!!、、助かっった!!。。」
孫はニコニコして、、言いました。
婆ちゃん、、買い物なら、、、いつでも行けるときは行ってくるからね,、≪^^👆」
風邪は3日後に、、治まりましたが、、、
何げなく、、、月に何度か、会食していたお付き合いが
特別に、、美味しい所とか、豪華な高級なレストランではなくて、
🍜らーめん、、、うどん、、お寿司、、、時に、、、ヤキニク、、、
ダンナさんの方が、、、孫が教えてくれた所に、、ついてゆくという
連れて行ったわけではないのに、、、
幼少より、、、なんとなく、、、定期的な会合として、、、
食べて、、いたのでした。
いつの間にか、、、だ愛額4年生になって、、、大人になっている孫が
すっ飛んで来てくれた孫に、、、感謝でしたね。
結婚していても、、、旦那の結婚前の生活を、、知らないまま
とにかく、、
時代の要求が
男尊女卑の結婚を強制する戦後の復活期だっただけに
薬剤師の現役だった私と、無給医だった旦那さんは
周りの都合で要望で結婚するという
施設を新たに兄弟義兄弟で法人にできる病院を建てようという
プロジェクトがあり、、、
目的の為の結婚だっただけに、、、
東京出身の旦那さんは、、、東京より北海道が良くなっちゃって
ワツィの結婚生活は、、、目的を果たせないまま、、、
北海道に根付いたという、、、
成り行き任せの人生だった。
独身主義で、仕事に生きようかと、、思っていただけに
せっかく、、コジンマリシタ、、総合病院の薬局長になって
やがては、、、病院の協力で、大学との共同のテーマで
薬学を卒業した視点での、、、自分勝手な幸せを目標にしていただけに
人生の舵取りは、、、まるで駄目でしたね、、、
北海道野自然のすごさに、、圧倒されましたね。
現役の仕事を辞めての結婚だっただけに、、、
私の中では、結婚も仕事!!と割り切って
契約結婚のつもりで、、頑張るしかないという、、、時代でしたね。
うっかり、、相手に、、甘い好意や、、愛されることを期待すると
挫折してしまいそうな、、、嫁は「働き手をもらう」という時代でしたね。
働かざる者食うべからずという、、
、徹底した、、ぞん底からの無給医生活が続きましたね。
当時の札幌は、女子大卒が、、富士女子大ぐらいで、、、、女性の大卒は少なかった。
東北薬科大学が、、ほとんどの病院の薬剤師をしており、、
日大卒の私は、、薬剤師として病院い勤務するのは、、なかなか、、、
難しい状況だったので
HBCの、、アルバイト、アナウンサーをしながら、、、
生活費の足しにしていた事を思い出す。
アルバイトのおかげで、、、
Judyオングさんや、、、ジュリーという、、誰もが会いたがっていた歌手と
2メートル以内の距離で質問で来たり
加賀たけし、、、さんと、、、「フライデー奥さん」という番組で
共演できたり、、、アルバイトも、、給料以上に、、面白かったですね。
HBCからは、、、デンスケ預けられて、、、「ママと赤ちゃん」の
毎朝の放送の、、シナリオや録音、、編集を撒かしていただき
放送する台本も、、医学的な専門分野の医師との対談んインタビューが多くて
薬学の知識や、、24歳まで勤務していた病棟の体験が役立ち
多くのお葉書をいただけて、、、
HBCには、、正規雇用の女性は少ないんだけど
放送関係なら、、、何でも来い!みたいな、、、技術の在る君なら
来月から、、正規雇用に推薦したいと言われて、、、
薬学や、、衛生管理士や、、高校教師、、中学一級教員、、生け花師匠
御茶に踊に、、、厚生省の衛生技官、、英検、、、、御茶に
あとは、、、えーと、、日舞の舞台経験、、等、、
Judyオングさんが、、私に下さった経歴者鬼書かれた、、事細かな身上書をお手本に
本気で、、HBCで、、使っていただけるなら、、、「日大卒の仲間に成れると、、」
故郷恋しさも会って、、日大卒だという、、デレクターに、、
一緒に相談に乗っていただき、、、
「君なら、、、理科系の大學教育受けているから
専門家相手の、、専門番組のアナウンサーを目指すといいよ!」
、、もう、、嬉しくて、、これで、、札幌に居ても、、よそ者扱いされないし
標準語を話しても、、、嫌がられないし、、、
いんでないかえz^^^ZZZZZZ!
もう、、孤独は吹っ飛んでゆきました。
しかし、、、その時、、、私のお腹には
「次男が入っていることが判明しました。
この、、、お話は、、、無かった事に、、なって仕舞って、、、
それ以後は、、ダンナさんの「便利な人として、、、」
誕生日も無い、、里帰りも無い、、、育児と雑用の20年間が過ぎて
50歳になったとたん、、、世間の風当たりが変った事に気が付きましたね。
大事な時間を、、出産、、育児、、金もうけの100万以下のバイト、、
クライ顔して、、バス停から、、
夜間急病センターのアルバイトで、
社会参加をかろうじて、、している。
調剤薬局の立上げで、、、店員4人の店を一人で切り盛り、、
事務員相手に、、専門分野は任されないという、、孤独な日々
病院勤務で、、札幌医大から頼まれて
正規職員を休ませたいからとの要望で
夏休みを、「正規職員の薬剤師」にとらせたいという事で
大学病院の調剤や当直を
東京医大で経験しているという事を知っていた同級生から
大学病院調剤室に欠員が出来るから、、、臨時でてつだってくれ~~~!
半年間のピンチヒッターに入りました。
早朝7時まで、弁当をつくり出勤、、、
5時ピッタリに帰宅、、、
半年間、
月10万円で、、札幌医大の調剤室で働きましたね。
次の半年間も、、、なんとか勤務してほしいと言われましたが、、、
息子と同級生の薬剤師が上役で、、何十万もの給料で
母親と同様の私が10万で、、一挙に4人も夏休みをとった後を
5時までに調剤できるのは、、、集中力も必要ですし
問い合わせから、、、DIまで、、、走り回る勤務ですから
半年間、10万円で働けば、、、クラスメートにも顔が立つので、、
あと半年、、、10万円で働いてほしいと言われた時は、
薬剤師会の⁽役員をしていた先輩から、、
いくら、、、札幌市への、御奉公だからと言っても、、
先生(彼は私のことを先生と呼んでいた)の経歴で、、、10万円で一年間という訳には
薬剤師仲間の月給が札幌市から、、安い評価に定着しても困るから、、
断ってください。
アドバイスいただき、、、お断りしました。
半年間の年金も付きませんでした。
私達の時代の、、札幌の常識は、、、
今は通じなくなっていて、、、たとえ半年でも
薬剤師には、、月10万円では 安すぎるという、、、
犠牲的な奉仕に近い働き方をしいる、
そのような、、、国家免許保持者を、手前勝手な給料で使っても良いという
地域独特の給料体系の時代が,、有ったのですよ,、ね。
大卒で、部活の教授の推薦で、、東大に勤務したときも、、、
初めの3ヶ月が、、、公務員○○号報酬で、、、
何とか、、生活できる金額でしたが、
4か月目に、寿他㋐移植する職員の欠員を埋めるからと呼ばれたのに「
その職員は、、、退職しなかった。
大学には、、、公務員の席が、、決められていて、、、
上の人が辞めないと、、、教室員として、、、公務員は3ヶ月でチョン!。
教室員の給料は2万円ぐらいだったかな?
生活してゆけないので、、、すぐに「辞めます」と申請して
始めた実験が一段落した11月に、、、私は、、東京医科大学の
臨床薬剤師として、、出直しました。
生活できるお給料で、、、嬉しかったですね。
19歳で父が急逝して、、、毎日、「出て行け!攻勢に購って、、」
実家にへばりついていただけに、、、
大学を卒業したのに、、、出てゆけない、、、女性の社会進出の難しさに
結局負けて、、、結婚して、、皆の企画に入れてもらって
未亡人の母を、励ましながら、、独身で生きてゆき
我が家を病院にして、、薬局長に治まって、、、
母と暮らそうかな、、と、、思っていたんですよ、、
世の中そうはゆいませんね、、、
今はもう、、薬剤師の国家免許を持った女性を
2万円以下で使うという
教室雇いには
学舎のなりたい薬剤師でないと、、、続かないでしょうね、、、
札幌医科大学も、、、薬剤師の給料は、髙くなったそうだと
薬剤師会の役員さんから言われましたが
半年だけなら、、、ボランティアでも、、仕事を引き受けたかもしれません。
同級生が、癌で、ステロイドの短期療法の大量投与をするので
欠員が出来て、、皆が休みをとれないんだよ、、、と、、
頼むよ、、、と、、毎日電話してきたこともあり、、
半年間は、楽しく勤めましたね。
給料の多い少ないじゃないですよね、、、
顔と闘う、、クラスメート絵の応援でしたから。
でも、、もう半年、、、10万円でフルタイムと言われると、、、
元気になった同級生が帰ってきているだけに、、
私の仕事は終わったでしょう、、、と。
私の都合で、、、家庭に帰ることにしましたね。
今は、、短期間でも、、安すぎる報酬で、働くという
大学病院は無くなりました。
戦後が、、続いていたんですね、、、きっと。
歴史は、、、昭和生まれの、、男尊女卑に甘んじた女性の苦労の上に
少しづつ、、、女性も平等にと、、
、社会は 少子化になって、、
初めて、、男たちも、、気がついてきたようですね。
昭和生まれの大卒女性は、、結婚したら、おさんどんでしたね。
特に、、北海道は女子大も、、大学も少なくて
北大がダントツのプライドで、、周りも別格扱いしていて、、、
東京に居た時の北海道大学の評価とは雲泥の差でしたね。
企業の大手のサラリーマンの少ない北海道では
「医師」の社会的評価が以上に高くて、、、医師自体も、、それに甘んじて
薬剤師の私なんかを、、
面と向かって
「薬剤師は、医師に向かって頭が高い!!」などと、、
「俺は偉いのだ!」などと、、冗談を飛ばして笑うという、、、
医学部の狭量なエリート意識には
東京の大學を出て、、あっちもこっちも、、大学だらけの所から来た私には
新世界の、、独裁者のように思えましたね。
北大はそれでも、、インターナショナルに動くので
相手を見分けて、、帝王学を発揮して居ましたね。
ダンナさんも、外科医だけあって、、
徒弟制度の上役には、絶対服従であり
まるで、、大王さまに使える家来のように
教授先生の、、部下というより、、、何なんでしょうね、、、
アメリカのポチとは違いますが、、、ポチみたいな存在に、、
北海道んぽ医学会は、、極端に、、
教授先生の天下のように、、、外野の私からは見えましたね。
当時、父の代から開業して、兄が実家を継いで地域貢献型の我が家は
大学の教授先生とは、、、大きな意味で、、サテライトの醫院として
時には教授自ら、、ラフな浴衣で、、夕食後に遊びに来ていたりしていたから
私は、上下関係というより、、、サンゴとクマノミの関係のように見えていましたね。
尾辻の岩手医大の学生の電子版や、、、2チャンネルには
この奇怪な、、北海道の医学部の、君臨ぶりを、、長期にわたって書いていましたね。
東京からの入学者の多くなった北大の医学部は
だんだん、、必要以上の君臨ぶりをまき散らす先生が少なくなって
かっての,、教授様のお屋敷のような、、、御殿のような私邸もほとんどなくなり
三浦綾子先生の書かれた「氷点」のような
医師も医師夫人も、、姿を消した時代となりましたね。
現代の北海道野医師夫人は、、大卒の女性が多くなり
医師の夫の御威光で、、、あげたり下げたり、、、嫉妬で
mahjongも組まれて「箱転移されるという時代は無くなり、、、
中間に入れてもらえて、、ダメ口で、、
「旦那がたよりが居ある奥さんは、、腕があがらないわねェ~~~はハハ。。は。」
微妙な軽蔑とも、、親しみともとれる応答には変わってきては居ますが、、、
北海道では、、超貧乏に入る勤務医で、、落ち年契約社員が一生続いた我が家でも
医師という立場は、、「お金持ち」と誤解されていますから
銀行は貸してくれるという利点を使って、、
ローン経済をとっているうちに、、
物価の方があがってきて、、ローンは何とかなってしまうという
時間差で活きて来たという、、自転車操業でしたね。
医師になるより、、「医師をするという事の方が、、難しい、、、」
何らかの方法で、、医師は社会に還元し続けることで、、
患者さんが信用してきてくれるわけだから、、、
生涯勉強もするし、、生涯、お付き合いも大切にするし、、
大病院は、、周りのサテライト病院と持ちつ持たれつ
手を取り合って、、患者さんのニーズにこたえてゆくし、、、
歴史の深い東京みたいに、、大学暴飲の医師自体が
何代も続いた大学病院のサテライト病院の御曹司という、、、持ちつ持たれつ
ヅ脳明晰、、、お金持ち、、付き合いも広く、、
家族全部がインターナショナルな行動かという
徳川300年の野お江戸の、、譜代大名の子孫という土地柄とは
北海道の歴史はちっと違うようですね。
本当に、、尊敬できるのは、、、ココを開拓した人たちですね。
時代は、医師の実態がわかってくると
風評で、医師を追い詰めていたことも解り、、、
ヒトとしての質素な、、当たり前のプライドまで、、、
貧乏根性の妬みが、、、医師は金持ちだと、、、
行動日も、生涯の勉強代金も、、周りからの故なき攻め込みの嫉妬にも
ひょうひょうとして、、耐えて来た北海道の医師の皆は
ㇿ解されない事を前提に、、ご期待に応えてゆくという
寡黙と、、故なき発想だと、、私のような外野は思うのですが
診療は商売ではないから、、、「患者様」と、、様をつけるのはいかがなものでしょうね。
値段では洗わせられない技を提供していても、、医学を勉強していない患者さんは
医療費は高いとか、、安いとか、、、見える範囲の評定で
医師を手売人のように思っているようですね。
北海土居に住んで、、、50年前の東京をいつも感じながら
自然ンは本物であり、、、百年先の人類を教えてくれる先生だと思いますね。
言いたい放題書きたくなるのは、、、
早朝に、雪を掻き、、庭掃除をして、、ゴミを捨て、、
100年前のおばはんを生き乍ら、、、せめて呆けない老後のまま
人生を終わりたいと思うから、、、
思いついたことを、、、全てにおいた、、社会的な外野の立場で
ヒョウンとひらめいた考えを、、言いたい放題指で手的乍ら
日記にしておくと、、、だんだん呆けてくる自分がわかり、、、
日記もバカにならない、、、内観方法だと、、思いますね。
個人的な、、外野の、、一瞬、、そう思ったという、、根拠のないイメージを
早朝の、、身体安めの時間に、、指だけ動いているという、、19歳です。
日曜日の早朝や夕方に
TVを観ることにしているんです。
どんなに、、忙しい時でも
大谷選手と、メジャーのTVが始まると、
身体を、、一時休戦の状態にするんです。
夕方は、、、ダンナさんたちは、、日曜は休日でも
主婦にとっては日曜日は、、、5食昼寝付きのお客様がいるのと,同じですよね。
ゴミは出る、、、洗い物は出る、、、風呂の掃除は有るし、、、
バタバタできないので、、、昼過ぎには
ガムテープで、、、TVと食堂を繋ぐ
動線に添って、、、髪の毛や、、、衣類の静電気の
落とした繊維を撤去する。
定期便の「髪の毛撤去作業を、、一日に2回する。
洗面台の下が、、一番、、短い白髪が 落ちています。
一日に、、、こんなに髪って、、、抜けるんですね、、、、
科学の目が実験を試みるような
興味に変わり、、、
溶かした髪の抜け毛を、、捨てないで
洗って干して、、、貯めてみた。
人間の髪の毛って、、、すごく生え変わっているということが、、判明。
一年もしないまま、、、 針山が30個できるほどの髪が、、入れ替わっているんですね。
何だか捨てるのが欲しくなって、、シャンプーで洗って、、丸めて、
ビニールの45リットルの袋に、貯めて行ってみたのですよね
このまま、、、クッションが出来そうなほど、、
ブラシに残った髪が溜まりました。
私は、子供の頃、、、床屋さんで散髪に行ったとき
耳を切られてから、、、美容院医はいかなくなりました。
髪は、80歳でも、、おさげにしています。
「80歳のおさげって、、有なのよ❣!、、、≪^0^≫👊、、ははははは,、、
昔、、母から、髪を洗って、丸めて、針山を造ってもらいました
昭和の初めの、、、すぐに、、錆びてしまう針も、、、
髪の毛の針山の針は錆びなかったのです。
何~~~んでだ???
日曜日は仕事をしているか、、、
どうでもいいことを考えているか、、、
夕方までの食べ物を、、、今は、保冷庫になってしまている
元冷蔵庫に、、、入れて、、、
ダンナさんが起きて来たら、、、勝手に、、好きなものをセットにして
食べられるようにして、、、
真冬の日曜日の庭に出た。
道路の雪を掻いて、、、玄関までの階段の雪をどかして、、、
滑らない様に、砂を撒き、、、
雪囲いの下で、、冬眠する、、私の友人である植物に
声をかけて回る。
落ち葉も、、
今のうちに
てんこ盛りの氷塊の山にならない様に
ゴミ袋に集めて回り
丈の低い草花の横に置く、
いよいよ、、本格的な冬が来る、、、
東京に出ていった息子は、、、もう、、20年も帰ってこない、、、正月!!
20年前に一度、、札幌に向かってヒコーキに乘ったと、、、ガラケーでメールが来た。
その日の夕方、、、札幌の空をひとまわりして、、
東京、、羽田に戻って来た、、と、、メールが来た。
それ以来、、彼は孤独な正月を過ごしているのかと思うと、、、
北海道から、、東京の大學に進学させたことは、、、良かったのだろうかと、、、
今も考えることが多い。
ダンナさんが、、医師であれば、、
東京と北海道は、、遠くないと、、、経済状態の認識であったが、
医師には、、地域医療で、、ルートに乗って、
生かされてゆく医師と、
政治的な妙というか、、、一生働き続けるが
税金や、、その他の、、団体に、、寄付することが仲間であり続ける事だったり
医師をすることだけは、、、
見えない便宜が払われるが、、、
金銭的には、、、見かけの収入だけが多くて、、、
50歳近くまで。。大学に居ても、、、国家の年金は 数万円という
国立大学の医局スタッフの、、、不思議な年金や月給制度は
昭和時代の、、七不思議ですよね。
50歳から大学を離れて、、社会人いなりましたが、
勤務で来た、、私病院の月給のおかげで
私大に進学した息子の入学金も授業料も、、払えるようになりました。
大学勤務中は、、手取り30万あれば、万歳でしてね、、、
給料の無関係に、、、大学に戻った医師は、、ほとんど大半は読まない横文字の本を汲んですよね。
家賃1700円の、風呂も無いアパートに入っている割には
丸善から、、月に10万円とか、、、請求が来るんですよね。
勉強が好きで,、ホンが好きなのは、、、良いことだと思いますが、、、
大学に居ても、、教授にならない人たちの方が
圧倒的に多いわけですし、、、
サラブレッド家系で、、地元で、、しかも地元貢献型の親が居れば、、、
大学に一生いて、、勉強して、、自己満足の世界に浸っていても、、、素敵な生き方だと思いますが、
助手になって、、博士号を許された段階で、、
学力的、、、技術的、、学問的に、、、駆け込む大学があるのだから、、
30代、、40代は、、思いっきり、現場で臨床経験を積みながら
外国等の病院で働いてみる方が、、興味がありますね。
絵里先生の居る大学に居て、、、特殊な病気を治せるようにならなくても、
地域貢献しながら、、、手におえない難しい病気の患者さんは
大学病院の医術も、学問もきわめている先生の元に,お願いできる関係であれば
ずーと大学に居て、、安月給で、勉強していても
日進月歩の医学は、、、どこまで行っても、、、学ぶことばかりだから、、、
地域で医療分野で貢献しながら、、、地域に溶け込んで
いろいろな人たちと出会い、、医師というだけでなくて
地域の物知り博士になって、、、家庭がにぎやかだった方が
生きてるって感じるのは、、、女性は、人間を産み出し、、人間を育てるという
日tの感情や、経済状態、、、健康状態、、、学問的レベル
趣味的レベル、、、何かの没頭している人たち、、、
人間丸ごと、、、出逢いたかったですね。
私自身は結婚を堺に、、人とは付き合わないという、、、
自分の興味の対象に没頭したり、、、家事だけはきちんとやるけど
ヒトとの付き合いは、、、まるで、、ダメ、、ナノは、、、
北海道という土地が、、、自然がすごいので、、、
人まで付き合っている余裕が無かったというのが、、、本音ですね。
都会の人は、、、たぶん、、、北海道の冬に出逢ったら、、、
都会に逃げ帰るかもしれませんね。
55年経っても、、、北海道の冬は、、怖いですね。
ダンナさんが、、医師をするという事には全力投球するのに
家庭的には、、、ほとんど、、子供達とはすれ違いの時間帯で過ごした人だけに
放任主義というか、、、私も、北海道の子供を幸せに育てるには
子供のあとについてゆく育児を選んでいましたね。
地元生まれの親ではないので、、、
地域に貢献するには、、あまりにも北海道を知らないし
未だに、、町とか、、村とか、、山とか川の名前も読めないものが結構ありますね。
地名の意味など解れば、、、北海道の楽しみ方も解ったのかもしれませんね。
冬が来ると、、、「北国で、、生きる為の戦い」という
和歌山育ちで、東洋に11年という、、、何もかも中途半端な知識で
学ぶことばかりでしたね、、、、
結婚というのは、、、名前も,なくなり、、、
過去を知らないまま、、どんな性質かも知らなくて、、、
見知らぬ顔の、、、子供に出逢い、、、
一生懸命育児を⒮ているうちに
「これが、、、???「愛情」という感情かな??」
長男から、、、人を愛することを、教えられましてね。
早生まれで,、、テンテンと移動する無給医の奥サンの私は
出会うのは大自然の絶景と、、、息子への愛情でしたね。
移動生活で、、、幼稚園に行けなかったことが、、、残念でしたね。
結構、、野性の少年時代を過ごせたことが
親の目には、、、
「天然の魅力を感じましてね、、、勉強はそっちのけの少年時代でしたね。」
ろくろく塾にも行かなかった、、、「8時だよ全員集合」と
「ドラえもん」と「太陽にほえろ」「ガンダム」「ライデーン」
TV塾で育った息子達は、、
それでも、、なんとか、、、育ったが、、、
政府を羊飼いに例えるのなら、、、
税金納入の役割の「羊さん」の域を出れない
真面目なサラリーマンになれたものの、、、
社会情勢の変わるたびに、、、
ゴムボートのように、、、参加する集団への維持するための、、一生懸命で
どうしても、、、揺れながら、、、バランスをとりながら、、、
カルワザのように、、、スレスレデ、、クリヤーしていっているように見えた。
しかし、、今回は、、、大変です。
息子の息子達、、、つまり、、、孫の三人が、、、
同時に、、私立の大学生という状態が起きるのでス。
男らしく👈、、一本気で、、、頑張り屋で、、
昭和の生れの息子は
「親なんか、、宛にするのは、、男じゃない!!」と
子供達に劇を飛ばすものだから、、、
孫たちは、、こぞって、、アルバイトに、、一生懸命である。
それでも、、、食事代がバカにならないというので
月に1~2度、、ファミレスなど、、時には寿司屋、に誘って
たんぱく質を補う役を、、爺と婆は担当してきた。
先日、、インフルエンザで、、熱が出て、、寝込んだ私が
孫にメールを入れた。
「買い物に行けないから困っている、
食パン3斤、、と、弁当2食分と、、、ポカリスエットと、、、
あんパン2個、、、おやつのレーズンパン、、、」
「買い物ビニール手提げに3個、、、束ねて、、、すぐに届けてくっれた。
大学生を、、、無料で、、こき使うのは良くないと思ったから、、
お札を渡して、、、ありがとう、、、」というと。
「婆ちゃん、、俺、、今、、金無くて、、これだけしか買えなかったけど、、、
ありがたいな^^、、、代金払ってもらえて、、、
釣りはいらないって?!!、、,、サンキュウ!!、、助かっった!!。。」
孫はニコニコして、、言いました。
婆ちゃん、、買い物なら、、、いつでも行けるときは行ってくるからね,、≪^^👆」
風邪は3日後に、、治まりましたが、、、
何げなく、、、月に何度か、会食していたお付き合いが
特別に、、美味しい所とか、豪華な高級なレストランではなくて、
🍜らーめん、、、うどん、、お寿司、、、時に、、、ヤキニク、、、
ダンナさんの方が、、、孫が教えてくれた所に、、ついてゆくという
連れて行ったわけではないのに、、、
幼少より、、、なんとなく、、、定期的な会合として、、、
食べて、、いたのでした。
いつの間にか、、、だ愛額4年生になって、、、大人になっている孫が
すっ飛んで来てくれた孫に、、、感謝でしたね。
結婚していても、、、旦那の結婚前の生活を、、知らないまま
とにかく、、
時代の要求が
男尊女卑の結婚を強制する戦後の復活期だっただけに
薬剤師の現役だった私と、無給医だった旦那さんは
周りの都合で要望で結婚するという
施設を新たに兄弟義兄弟で法人にできる病院を建てようという
プロジェクトがあり、、、
目的の為の結婚だっただけに、、、
東京出身の旦那さんは、、、東京より北海道が良くなっちゃって
ワツィの結婚生活は、、、目的を果たせないまま、、、
北海道に根付いたという、、、
成り行き任せの人生だった。
独身主義で、仕事に生きようかと、、思っていただけに
せっかく、、コジンマリシタ、、総合病院の薬局長になって
やがては、、、病院の協力で、大学との共同のテーマで
薬学を卒業した視点での、、、自分勝手な幸せを目標にしていただけに
人生の舵取りは、、、まるで駄目でしたね、、、
北海道野自然のすごさに、、圧倒されましたね。
現役の仕事を辞めての結婚だっただけに、、、
私の中では、結婚も仕事!!と割り切って
契約結婚のつもりで、、頑張るしかないという、、、時代でしたね。
うっかり、、相手に、、甘い好意や、、愛されることを期待すると
挫折してしまいそうな、、、嫁は「働き手をもらう」という時代でしたね。
働かざる者食うべからずという、、
、徹底した、、ぞん底からの無給医生活が続きましたね。
当時の札幌は、女子大卒が、、富士女子大ぐらいで、、、、女性の大卒は少なかった。
東北薬科大学が、、ほとんどの病院の薬剤師をしており、、
日大卒の私は、、薬剤師として病院い勤務するのは、、なかなか、、、
難しい状況だったので
HBCの、、アルバイト、アナウンサーをしながら、、、
生活費の足しにしていた事を思い出す。
アルバイトのおかげで、、、
Judyオングさんや、、、ジュリーという、、誰もが会いたがっていた歌手と
2メートル以内の距離で質問で来たり
加賀たけし、、、さんと、、、「フライデー奥さん」という番組で
共演できたり、、、アルバイトも、、給料以上に、、面白かったですね。
HBCからは、、、デンスケ預けられて、、、「ママと赤ちゃん」の
毎朝の放送の、、シナリオや録音、、編集を撒かしていただき
放送する台本も、、医学的な専門分野の医師との対談んインタビューが多くて
薬学の知識や、、24歳まで勤務していた病棟の体験が役立ち
多くのお葉書をいただけて、、、
HBCには、、正規雇用の女性は少ないんだけど
放送関係なら、、、何でも来い!みたいな、、、技術の在る君なら
来月から、、正規雇用に推薦したいと言われて、、、
薬学や、、衛生管理士や、、高校教師、、中学一級教員、、生け花師匠
御茶に踊に、、、厚生省の衛生技官、、英検、、、、御茶に
あとは、、、えーと、、日舞の舞台経験、、等、、
Judyオングさんが、、私に下さった経歴者鬼書かれた、、事細かな身上書をお手本に
本気で、、HBCで、、使っていただけるなら、、、「日大卒の仲間に成れると、、」
故郷恋しさも会って、、日大卒だという、、デレクターに、、
一緒に相談に乗っていただき、、、
「君なら、、、理科系の大學教育受けているから
専門家相手の、、専門番組のアナウンサーを目指すといいよ!」
、、もう、、嬉しくて、、これで、、札幌に居ても、、よそ者扱いされないし
標準語を話しても、、、嫌がられないし、、、
いんでないかえz^^^ZZZZZZ!
もう、、孤独は吹っ飛んでゆきました。
しかし、、、その時、、、私のお腹には
「次男が入っていることが判明しました。
この、、、お話は、、、無かった事に、、なって仕舞って、、、
それ以後は、、ダンナさんの「便利な人として、、、」
誕生日も無い、、里帰りも無い、、、育児と雑用の20年間が過ぎて
50歳になったとたん、、、世間の風当たりが変った事に気が付きましたね。
大事な時間を、、出産、、育児、、金もうけの100万以下のバイト、、
クライ顔して、、バス停から、、
夜間急病センターのアルバイトで、
社会参加をかろうじて、、している。
調剤薬局の立上げで、、、店員4人の店を一人で切り盛り、、
事務員相手に、、専門分野は任されないという、、孤独な日々
病院勤務で、、札幌医大から頼まれて
正規職員を休ませたいからとの要望で
夏休みを、「正規職員の薬剤師」にとらせたいという事で
大学病院の調剤や当直を
東京医大で経験しているという事を知っていた同級生から
大学病院調剤室に欠員が出来るから、、、臨時でてつだってくれ~~~!
半年間のピンチヒッターに入りました。
早朝7時まで、弁当をつくり出勤、、、
5時ピッタリに帰宅、、、
半年間、
月10万円で、、札幌医大の調剤室で働きましたね。
次の半年間も、、、なんとか勤務してほしいと言われましたが、、、
息子と同級生の薬剤師が上役で、、何十万もの給料で
母親と同様の私が10万で、、一挙に4人も夏休みをとった後を
5時までに調剤できるのは、、、集中力も必要ですし
問い合わせから、、、DIまで、、、走り回る勤務ですから
半年間、10万円で働けば、、、クラスメートにも顔が立つので、、
あと半年、、、10万円で働いてほしいと言われた時は、
薬剤師会の⁽役員をしていた先輩から、、
いくら、、、札幌市への、御奉公だからと言っても、、
先生(彼は私のことを先生と呼んでいた)の経歴で、、、10万円で一年間という訳には
薬剤師仲間の月給が札幌市から、、安い評価に定着しても困るから、、
断ってください。
アドバイスいただき、、、お断りしました。
半年間の年金も付きませんでした。
私達の時代の、、札幌の常識は、、、
今は通じなくなっていて、、、たとえ半年でも
薬剤師には、、月10万円では 安すぎるという、、、
犠牲的な奉仕に近い働き方をしいる、
そのような、、、国家免許保持者を、手前勝手な給料で使っても良いという
地域独特の給料体系の時代が,、有ったのですよ,、ね。
大卒で、部活の教授の推薦で、、東大に勤務したときも、、、
初めの3ヶ月が、、、公務員○○号報酬で、、、
何とか、、生活できる金額でしたが、
4か月目に、寿他㋐移植する職員の欠員を埋めるからと呼ばれたのに「
その職員は、、、退職しなかった。
大学には、、、公務員の席が、、決められていて、、、
上の人が辞めないと、、、教室員として、、、公務員は3ヶ月でチョン!。
教室員の給料は2万円ぐらいだったかな?
生活してゆけないので、、、すぐに「辞めます」と申請して
始めた実験が一段落した11月に、、、私は、、東京医科大学の
臨床薬剤師として、、出直しました。
生活できるお給料で、、、嬉しかったですね。
19歳で父が急逝して、、、毎日、「出て行け!攻勢に購って、、」
実家にへばりついていただけに、、、
大学を卒業したのに、、、出てゆけない、、、女性の社会進出の難しさに
結局負けて、、、結婚して、、皆の企画に入れてもらって
未亡人の母を、励ましながら、、独身で生きてゆき
我が家を病院にして、、薬局長に治まって、、、
母と暮らそうかな、、と、、思っていたんですよ、、
世の中そうはゆいませんね、、、
今はもう、、薬剤師の国家免許を持った女性を
2万円以下で使うという
教室雇いには
学舎のなりたい薬剤師でないと、、、続かないでしょうね、、、
札幌医科大学も、、、薬剤師の給料は、髙くなったそうだと
薬剤師会の役員さんから言われましたが
半年だけなら、、、ボランティアでも、、仕事を引き受けたかもしれません。
同級生が、癌で、ステロイドの短期療法の大量投与をするので
欠員が出来て、、皆が休みをとれないんだよ、、、と、、
頼むよ、、、と、、毎日電話してきたこともあり、、
半年間は、楽しく勤めましたね。
給料の多い少ないじゃないですよね、、、
顔と闘う、、クラスメート絵の応援でしたから。
でも、、もう半年、、、10万円でフルタイムと言われると、、、
元気になった同級生が帰ってきているだけに、、
私の仕事は終わったでしょう、、、と。
私の都合で、、、家庭に帰ることにしましたね。
今は、、短期間でも、、安すぎる報酬で、働くという
大学病院は無くなりました。
戦後が、、続いていたんですね、、、きっと。
歴史は、、、昭和生まれの、、男尊女卑に甘んじた女性の苦労の上に
少しづつ、、、女性も平等にと、、
、社会は 少子化になって、、
初めて、、男たちも、、気がついてきたようですね。
昭和生まれの大卒女性は、、結婚したら、おさんどんでしたね。
特に、、北海道は女子大も、、大学も少なくて
北大がダントツのプライドで、、周りも別格扱いしていて、、、
東京に居た時の北海道大学の評価とは雲泥の差でしたね。
企業の大手のサラリーマンの少ない北海道では
「医師」の社会的評価が以上に高くて、、、医師自体も、、それに甘んじて
薬剤師の私なんかを、、
面と向かって
「薬剤師は、医師に向かって頭が高い!!」などと、、
「俺は偉いのだ!」などと、、冗談を飛ばして笑うという、、、
医学部の狭量なエリート意識には
東京の大學を出て、、あっちもこっちも、、大学だらけの所から来た私には
新世界の、、独裁者のように思えましたね。
北大はそれでも、、インターナショナルに動くので
相手を見分けて、、帝王学を発揮して居ましたね。
ダンナさんも、外科医だけあって、、
徒弟制度の上役には、絶対服従であり
まるで、、大王さまに使える家来のように
教授先生の、、部下というより、、、何なんでしょうね、、、
アメリカのポチとは違いますが、、、ポチみたいな存在に、、
北海道んぽ医学会は、、極端に、、
教授先生の天下のように、、、外野の私からは見えましたね。
当時、父の代から開業して、兄が実家を継いで地域貢献型の我が家は
大学の教授先生とは、、、大きな意味で、、サテライトの醫院として
時には教授自ら、、ラフな浴衣で、、夕食後に遊びに来ていたりしていたから
私は、上下関係というより、、、サンゴとクマノミの関係のように見えていましたね。
尾辻の岩手医大の学生の電子版や、、、2チャンネルには
この奇怪な、、北海道の医学部の、君臨ぶりを、、長期にわたって書いていましたね。
東京からの入学者の多くなった北大の医学部は
だんだん、、必要以上の君臨ぶりをまき散らす先生が少なくなって
かっての,、教授様のお屋敷のような、、、御殿のような私邸もほとんどなくなり
三浦綾子先生の書かれた「氷点」のような
医師も医師夫人も、、姿を消した時代となりましたね。
現代の北海道野医師夫人は、、大卒の女性が多くなり
医師の夫の御威光で、、、あげたり下げたり、、、嫉妬で
mahjongも組まれて「箱転移されるという時代は無くなり、、、
中間に入れてもらえて、、ダメ口で、、
「旦那がたよりが居ある奥さんは、、腕があがらないわねェ~~~はハハ。。は。」
微妙な軽蔑とも、、親しみともとれる応答には変わってきては居ますが、、、
北海道では、、超貧乏に入る勤務医で、、落ち年契約社員が一生続いた我が家でも
医師という立場は、、「お金持ち」と誤解されていますから
銀行は貸してくれるという利点を使って、、
ローン経済をとっているうちに、、
物価の方があがってきて、、ローンは何とかなってしまうという
時間差で活きて来たという、、自転車操業でしたね。
医師になるより、、「医師をするという事の方が、、難しい、、、」
何らかの方法で、、医師は社会に還元し続けることで、、
患者さんが信用してきてくれるわけだから、、、
生涯勉強もするし、、生涯、お付き合いも大切にするし、、
大病院は、、周りのサテライト病院と持ちつ持たれつ
手を取り合って、、患者さんのニーズにこたえてゆくし、、、
歴史の深い東京みたいに、、大学暴飲の医師自体が
何代も続いた大学病院のサテライト病院の御曹司という、、、持ちつ持たれつ
ヅ脳明晰、、、お金持ち、、付き合いも広く、、
家族全部がインターナショナルな行動かという
徳川300年の野お江戸の、、譜代大名の子孫という土地柄とは
北海道の歴史はちっと違うようですね。
本当に、、尊敬できるのは、、、ココを開拓した人たちですね。
時代は、医師の実態がわかってくると
風評で、医師を追い詰めていたことも解り、、、
ヒトとしての質素な、、当たり前のプライドまで、、、
貧乏根性の妬みが、、、医師は金持ちだと、、、
行動日も、生涯の勉強代金も、、周りからの故なき攻め込みの嫉妬にも
ひょうひょうとして、、耐えて来た北海道の医師の皆は
ㇿ解されない事を前提に、、ご期待に応えてゆくという
寡黙と、、故なき発想だと、、私のような外野は思うのですが
診療は商売ではないから、、、「患者様」と、、様をつけるのはいかがなものでしょうね。
値段では洗わせられない技を提供していても、、医学を勉強していない患者さんは
医療費は高いとか、、安いとか、、、見える範囲の評定で
医師を手売人のように思っているようですね。
北海土居に住んで、、、50年前の東京をいつも感じながら
自然ンは本物であり、、、百年先の人類を教えてくれる先生だと思いますね。
言いたい放題書きたくなるのは、、、
早朝に、雪を掻き、、庭掃除をして、、ゴミを捨て、、
100年前のおばはんを生き乍ら、、、せめて呆けない老後のまま
人生を終わりたいと思うから、、、
思いついたことを、、、全てにおいた、、社会的な外野の立場で
ヒョウンとひらめいた考えを、、言いたい放題指で手的乍ら
日記にしておくと、、、だんだん呆けてくる自分がわかり、、、
日記もバカにならない、、、内観方法だと、、思いますね。
個人的な、、外野の、、一瞬、、そう思ったという、、根拠のないイメージを
早朝の、、身体安めの時間に、、指だけ動いているという、、19歳です。
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