昨日は万博公園までドライブしフットボールを生観戦。ギャングスターが再出発を飾れてまず良かった。
アメフトはもちろんサッカーもラグビーも、フットボールはいい。この歳ではただ見るだけなのは仕方がないが、躍動する選手諸君を見ていると、こちらの身体も熱くなる。今夜未明にはサッカー日本代表の試合がある。サウジには相性はいいが、ま、引き分けで充分。でもオシム爺さんは勝ちに行くんだろうな。
日曜日なのでちょっと今日はお気楽話を
●少子化はバブル期女の勘違い?
「結婚しない女たち」の急造は男が進化しないミスマッチから?
(060902/日経BP-WEB/白河桃子のキャリモテの時代)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20060825/108657/
2ch.でちょっとしたお祭りになっていたので見に行ったら、おバカな女が自分のマヌケぶりをさらけ出しているので、ちょっと気の毒になってしまった。
男でも女でもバカの基準は物事を見る目線の高さで分かる。自分の周囲の狭い社会だけを見て、それを社会全体に当てはめて考えるのは、ある種の傲慢であり、そうした想像力の欠如は学歴や性別を超えて、そのご本人のバカをさらけ出している事になる。
このWEBコラムを書いた白河桃子という1961年生まれのおばさんは、自分の取材対象である60年代生まれの有名人女性を引き合いに出して、日本の女性がどんどん進化して「オーバースペック現象」になったと言う。これ自分の事なんだろうな。「女性がフランス料理に舌鼓を打っている時に、男は漫画を読みながら牛丼を食っている」という「棲む世界が違う」から決して未婚の男女は出会わない、などとも書く。あいたた、この人の論で行くと「フランス料理が高級で牛丼は下々のモノ」という、なんだか昭和の匂いがプンプンする価値観に出会ってしまう。気の毒だがそうした感性が通用した時代はとっくに去ってしまったのだよ、おばさん。
◆ ◆ ◆
日本人の60年代生まれは世代論的には特殊な世代である。
物心付いた時にはオイルショックやドルショックなどの大騒動があり、社会に出て駆け出しの20代にあのバブル期の熱狂の中で過ごす。ジュリアナを始め全国の「ディスコ」で踊り狂っていたのがこの世代である。小中学校での公教育の崩壊はこの世代で起こっている。ビニ本からAVビデオの出現と様々な性風俗の急速な過激化もこの世代である。
世代論的に言えば「欲求・欲望を制御できない世代」と言っていい。もしくは「我慢や忍耐が出来ない世代」と言い換えてもいい。日本人としては異質なのである。もちろん例外はある。
彼らの後の70年代生まれの団塊ジュニア世代は、大学受験競争は厳しくバブル崩壊の嵐に世の中の変転を見、オウム事件や阪神大震災によって社会との関係を再構築しなければならなかった。
その後の80年代世代は就職氷河期の洗礼を受けている。
そう、60年代生まれは戦後日本の幸福な時代を享受だけした、「甘えの世代」なのである。もちろん十把一絡げに世代論だけで判断するのは危険だが、この白河というおばさんの言葉を読んでいるとその「甘さ」が全編から匂い立ってくるのである。やはりこれはこの世代特有の「おバカ」な空気なのだろうか。
◆ ◆ ◆
「日本の女性がどんどん進化してオーバースペック現象になった」とバカが臆面もなく書くのは、「勘違いした女が結婚も出来ずにただ虚勢を張っている」事を認めたくないだけの事である。
辛抱や忍耐の出来ない、苦しい事つらい事を回避して生きてきた、ただのバカには確かに結婚生活なんてやってらんないだろう。何が哀しくて今までの怠惰でお気楽な暮らしを放棄して、漫画を読みながら牛丼を食らう冴えない男と、共同生活をする必要があるのか。
そう自分に言い聞かして心の空虚と未来への恐怖を紛らわしているだけである。
結婚しないのはそんな小綺麗な理由からではない。世の中の60年代生まれの女性が全員「進化しすぎた」訳ではない。ただ怠惰なだけなのだ。結婚という現実から逃げていたに過ぎない。
この世代の男が結婚をしなくなったのも同じく怠惰によるモノである。
日本社会における結婚は社会への参加であり、共同体に組み込まれる事を意味する。そして「生活」という「現実」がある。男女ともに大人になる事が要求される。
結婚をしないという事は「いつまでも誰かの子供でいたい」という甘えたモラトリアムに他ならない。
出会いがないから結婚しない、とか結婚するに値する相手がいない、というのが自分への言い訳に過ぎない事は誰だって分かる。自分から努力しないのだから結婚なんて出来るはずがない。
もちろん結婚だけが人生ではない、とか結婚は人それぞれ、という考え方は正しい。そんなプライベートな事を国や社会から強制されたくはない。少子化や高齢化の責任を言われても、そんな事は知った事ではない。社会の統計のために自分の人生があるのではないからだ。
そう、その通りである。
◆ ◆ ◆
僕は以前にも書いたように、結婚と出産をセットにするのは無理があると考えている。もちろん結婚して子供を産み育てる、という事が出来る人、したい人は大いに頑張ってくれればいい。しかし日本人の子供は日本社会のモノという社会的合意がもっと行き渡り、しっかりと認知されれば、子供を育てるのは何も実の親でなくて良い。戸籍制度や里親制度をもっと柔軟に現実に即して改訂し、充実させればいい。子供は社会全体で育てるのである。
そうした社会全体の子育てシステムによって、児童虐待から子供と親自身を守り、未婚の母の負担を無くし、無意味な中絶という殺人をなくす事が出来る。
少子化対策はそれしか解決方法はないのである。
だからこそ少子化対策に名を借りて「結婚奨励」や「結婚願望」を煽る事はするべきではない、と思う。
僕は白河さんが書かれている内容は、ただのバカ話もしくは自己弁護、もしくは分析の足りない幼稚な脳の仕業、だと感じているが、ただこうした女性を無理矢理結婚させる事はないと思う。
おそらくこうした「進化しすぎた女性」たちはもうすぐ年老い、自分の今までの勘違いの責任をきっちり取らされるだろう。自分たちが戦後日本という社会的時代的幸運が生み出した、単なる大人になりきれなかった「畸形」だという事に、果たして気付けばよいのだが、それはそれで彼女たちの勝手である。
◆ ◆ ◆
結婚しない人々が増えるのは構わない。しかし恋愛しない人々が増えるのは、どうも楽しい社会ではない。結婚しないが恋愛はする、という社会こそこれからの日本が目指すライフスタイルである。もちろんフランス人の貧乏くさい恋愛至上主義や、北欧の神経症的な恋愛飢餓状態なんて刹那的なモノではなく、楽しくて優雅で雅な日本独自の恋愛観が育って欲しい。平安貴族というご先祖を範としても良い。「日本の未来は、世界もうらやむ、恋をしようじゃないか」とモー娘。も歌っていたではないか。
世界の人々が日本はいいなぁ、と羨む国になるためには、モノや金銭的価値だけが豊かではダメである。日本独自の文化や社会システム、ライフスタイルこそ、これからの日本の「価値」となる。
「金はあるけれどあえて質素に、しかし心豊かに暮らす」とか「仕事の他に没頭できる趣味の世界を持っている」とか「コミュニティに居場所がある」とか、最早21世紀の日本はそうした価値観の時代なのである。なに、結局日本古来からの日本人の暮らしそのものではないか。
結婚に価値を置かず、人としての恋愛に価値を見る、というのも日本の古来からの伝統である。
日本の歴史に於いて結婚が価値を持ったのは、江戸以降のたかだか400年ほどの事に違いない。
古来より日本人は恋愛至上主義であった。その本卦還りをすればよいだけである。
アメフトはもちろんサッカーもラグビーも、フットボールはいい。この歳ではただ見るだけなのは仕方がないが、躍動する選手諸君を見ていると、こちらの身体も熱くなる。今夜未明にはサッカー日本代表の試合がある。サウジには相性はいいが、ま、引き分けで充分。でもオシム爺さんは勝ちに行くんだろうな。
日曜日なのでちょっと今日はお気楽話を
●少子化はバブル期女の勘違い?
「結婚しない女たち」の急造は男が進化しないミスマッチから?
(060902/日経BP-WEB/白河桃子のキャリモテの時代)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20060825/108657/
2ch.でちょっとしたお祭りになっていたので見に行ったら、おバカな女が自分のマヌケぶりをさらけ出しているので、ちょっと気の毒になってしまった。
男でも女でもバカの基準は物事を見る目線の高さで分かる。自分の周囲の狭い社会だけを見て、それを社会全体に当てはめて考えるのは、ある種の傲慢であり、そうした想像力の欠如は学歴や性別を超えて、そのご本人のバカをさらけ出している事になる。
このWEBコラムを書いた白河桃子という1961年生まれのおばさんは、自分の取材対象である60年代生まれの有名人女性を引き合いに出して、日本の女性がどんどん進化して「オーバースペック現象」になったと言う。これ自分の事なんだろうな。「女性がフランス料理に舌鼓を打っている時に、男は漫画を読みながら牛丼を食っている」という「棲む世界が違う」から決して未婚の男女は出会わない、などとも書く。あいたた、この人の論で行くと「フランス料理が高級で牛丼は下々のモノ」という、なんだか昭和の匂いがプンプンする価値観に出会ってしまう。気の毒だがそうした感性が通用した時代はとっくに去ってしまったのだよ、おばさん。
◆ ◆ ◆
日本人の60年代生まれは世代論的には特殊な世代である。
物心付いた時にはオイルショックやドルショックなどの大騒動があり、社会に出て駆け出しの20代にあのバブル期の熱狂の中で過ごす。ジュリアナを始め全国の「ディスコ」で踊り狂っていたのがこの世代である。小中学校での公教育の崩壊はこの世代で起こっている。ビニ本からAVビデオの出現と様々な性風俗の急速な過激化もこの世代である。
世代論的に言えば「欲求・欲望を制御できない世代」と言っていい。もしくは「我慢や忍耐が出来ない世代」と言い換えてもいい。日本人としては異質なのである。もちろん例外はある。
彼らの後の70年代生まれの団塊ジュニア世代は、大学受験競争は厳しくバブル崩壊の嵐に世の中の変転を見、オウム事件や阪神大震災によって社会との関係を再構築しなければならなかった。
その後の80年代世代は就職氷河期の洗礼を受けている。
そう、60年代生まれは戦後日本の幸福な時代を享受だけした、「甘えの世代」なのである。もちろん十把一絡げに世代論だけで判断するのは危険だが、この白河というおばさんの言葉を読んでいるとその「甘さ」が全編から匂い立ってくるのである。やはりこれはこの世代特有の「おバカ」な空気なのだろうか。
◆ ◆ ◆
「日本の女性がどんどん進化してオーバースペック現象になった」とバカが臆面もなく書くのは、「勘違いした女が結婚も出来ずにただ虚勢を張っている」事を認めたくないだけの事である。
辛抱や忍耐の出来ない、苦しい事つらい事を回避して生きてきた、ただのバカには確かに結婚生活なんてやってらんないだろう。何が哀しくて今までの怠惰でお気楽な暮らしを放棄して、漫画を読みながら牛丼を食らう冴えない男と、共同生活をする必要があるのか。
そう自分に言い聞かして心の空虚と未来への恐怖を紛らわしているだけである。
結婚しないのはそんな小綺麗な理由からではない。世の中の60年代生まれの女性が全員「進化しすぎた」訳ではない。ただ怠惰なだけなのだ。結婚という現実から逃げていたに過ぎない。
この世代の男が結婚をしなくなったのも同じく怠惰によるモノである。
日本社会における結婚は社会への参加であり、共同体に組み込まれる事を意味する。そして「生活」という「現実」がある。男女ともに大人になる事が要求される。
結婚をしないという事は「いつまでも誰かの子供でいたい」という甘えたモラトリアムに他ならない。
出会いがないから結婚しない、とか結婚するに値する相手がいない、というのが自分への言い訳に過ぎない事は誰だって分かる。自分から努力しないのだから結婚なんて出来るはずがない。
もちろん結婚だけが人生ではない、とか結婚は人それぞれ、という考え方は正しい。そんなプライベートな事を国や社会から強制されたくはない。少子化や高齢化の責任を言われても、そんな事は知った事ではない。社会の統計のために自分の人生があるのではないからだ。
そう、その通りである。
◆ ◆ ◆
僕は以前にも書いたように、結婚と出産をセットにするのは無理があると考えている。もちろん結婚して子供を産み育てる、という事が出来る人、したい人は大いに頑張ってくれればいい。しかし日本人の子供は日本社会のモノという社会的合意がもっと行き渡り、しっかりと認知されれば、子供を育てるのは何も実の親でなくて良い。戸籍制度や里親制度をもっと柔軟に現実に即して改訂し、充実させればいい。子供は社会全体で育てるのである。
そうした社会全体の子育てシステムによって、児童虐待から子供と親自身を守り、未婚の母の負担を無くし、無意味な中絶という殺人をなくす事が出来る。
少子化対策はそれしか解決方法はないのである。
だからこそ少子化対策に名を借りて「結婚奨励」や「結婚願望」を煽る事はするべきではない、と思う。
僕は白河さんが書かれている内容は、ただのバカ話もしくは自己弁護、もしくは分析の足りない幼稚な脳の仕業、だと感じているが、ただこうした女性を無理矢理結婚させる事はないと思う。
おそらくこうした「進化しすぎた女性」たちはもうすぐ年老い、自分の今までの勘違いの責任をきっちり取らされるだろう。自分たちが戦後日本という社会的時代的幸運が生み出した、単なる大人になりきれなかった「畸形」だという事に、果たして気付けばよいのだが、それはそれで彼女たちの勝手である。
◆ ◆ ◆
結婚しない人々が増えるのは構わない。しかし恋愛しない人々が増えるのは、どうも楽しい社会ではない。結婚しないが恋愛はする、という社会こそこれからの日本が目指すライフスタイルである。もちろんフランス人の貧乏くさい恋愛至上主義や、北欧の神経症的な恋愛飢餓状態なんて刹那的なモノではなく、楽しくて優雅で雅な日本独自の恋愛観が育って欲しい。平安貴族というご先祖を範としても良い。「日本の未来は、世界もうらやむ、恋をしようじゃないか」とモー娘。も歌っていたではないか。
世界の人々が日本はいいなぁ、と羨む国になるためには、モノや金銭的価値だけが豊かではダメである。日本独自の文化や社会システム、ライフスタイルこそ、これからの日本の「価値」となる。
「金はあるけれどあえて質素に、しかし心豊かに暮らす」とか「仕事の他に没頭できる趣味の世界を持っている」とか「コミュニティに居場所がある」とか、最早21世紀の日本はそうした価値観の時代なのである。なに、結局日本古来からの日本人の暮らしそのものではないか。
結婚に価値を置かず、人としての恋愛に価値を見る、というのも日本の古来からの伝統である。
日本の歴史に於いて結婚が価値を持ったのは、江戸以降のたかだか400年ほどの事に違いない。
古来より日本人は恋愛至上主義であった。その本卦還りをすればよいだけである。