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風来雑記帳

時事社会・国際問題からスポーツまで、幅広い話題をごにょごにょと考えます。

●日本の未来は、世界もうらやむ、恋をしようじゃないか

2006-09-03 09:26:22 | 時事社会問題
昨日は万博公園までドライブしフットボールを生観戦。ギャングスターが再出発を飾れてまず良かった。
アメフトはもちろんサッカーもラグビーも、フットボールはいい。この歳ではただ見るだけなのは仕方がないが、躍動する選手諸君を見ていると、こちらの身体も熱くなる。今夜未明にはサッカー日本代表の試合がある。サウジには相性はいいが、ま、引き分けで充分。でもオシム爺さんは勝ちに行くんだろうな。
日曜日なのでちょっと今日はお気楽話を

●少子化はバブル期女の勘違い?
「結婚しない女たち」の急造は男が進化しないミスマッチから?
(060902/日経BP-WEB/白河桃子のキャリモテの時代)
http://business.nikkeibp.co.jp/article/skillup/20060825/108657/

2ch.でちょっとしたお祭りになっていたので見に行ったら、おバカな女が自分のマヌケぶりをさらけ出しているので、ちょっと気の毒になってしまった。
男でも女でもバカの基準は物事を見る目線の高さで分かる。自分の周囲の狭い社会だけを見て、それを社会全体に当てはめて考えるのは、ある種の傲慢であり、そうした想像力の欠如は学歴や性別を超えて、そのご本人のバカをさらけ出している事になる。
このWEBコラムを書いた白河桃子という1961年生まれのおばさんは、自分の取材対象である60年代生まれの有名人女性を引き合いに出して、日本の女性がどんどん進化して「オーバースペック現象」になったと言う。これ自分の事なんだろうな。「女性がフランス料理に舌鼓を打っている時に、男は漫画を読みながら牛丼を食っている」という「棲む世界が違う」から決して未婚の男女は出会わない、などとも書く。あいたた、この人の論で行くと「フランス料理が高級で牛丼は下々のモノ」という、なんだか昭和の匂いがプンプンする価値観に出会ってしまう。気の毒だがそうした感性が通用した時代はとっくに去ってしまったのだよ、おばさん。

    ◆ ◆ ◆

日本人の60年代生まれは世代論的には特殊な世代である。
物心付いた時にはオイルショックやドルショックなどの大騒動があり、社会に出て駆け出しの20代にあのバブル期の熱狂の中で過ごす。ジュリアナを始め全国の「ディスコ」で踊り狂っていたのがこの世代である。小中学校での公教育の崩壊はこの世代で起こっている。ビニ本からAVビデオの出現と様々な性風俗の急速な過激化もこの世代である。
世代論的に言えば「欲求・欲望を制御できない世代」と言っていい。もしくは「我慢や忍耐が出来ない世代」と言い換えてもいい。日本人としては異質なのである。もちろん例外はある。
彼らの後の70年代生まれの団塊ジュニア世代は、大学受験競争は厳しくバブル崩壊の嵐に世の中の変転を見、オウム事件や阪神大震災によって社会との関係を再構築しなければならなかった。
その後の80年代世代は就職氷河期の洗礼を受けている。
そう、60年代生まれは戦後日本の幸福な時代を享受だけした、「甘えの世代」なのである。もちろん十把一絡げに世代論だけで判断するのは危険だが、この白河というおばさんの言葉を読んでいるとその「甘さ」が全編から匂い立ってくるのである。やはりこれはこの世代特有の「おバカ」な空気なのだろうか。

    ◆ ◆ ◆

「日本の女性がどんどん進化してオーバースペック現象になった」とバカが臆面もなく書くのは、「勘違いした女が結婚も出来ずにただ虚勢を張っている」事を認めたくないだけの事である。
辛抱や忍耐の出来ない、苦しい事つらい事を回避して生きてきた、ただのバカには確かに結婚生活なんてやってらんないだろう。何が哀しくて今までの怠惰でお気楽な暮らしを放棄して、漫画を読みながら牛丼を食らう冴えない男と、共同生活をする必要があるのか。
そう自分に言い聞かして心の空虚と未来への恐怖を紛らわしているだけである。
結婚しないのはそんな小綺麗な理由からではない。世の中の60年代生まれの女性が全員「進化しすぎた」訳ではない。ただ怠惰なだけなのだ。結婚という現実から逃げていたに過ぎない。
この世代の男が結婚をしなくなったのも同じく怠惰によるモノである。
日本社会における結婚は社会への参加であり、共同体に組み込まれる事を意味する。そして「生活」という「現実」がある。男女ともに大人になる事が要求される。
結婚をしないという事は「いつまでも誰かの子供でいたい」という甘えたモラトリアムに他ならない。

出会いがないから結婚しない、とか結婚するに値する相手がいない、というのが自分への言い訳に過ぎない事は誰だって分かる。自分から努力しないのだから結婚なんて出来るはずがない。
もちろん結婚だけが人生ではない、とか結婚は人それぞれ、という考え方は正しい。そんなプライベートな事を国や社会から強制されたくはない。少子化や高齢化の責任を言われても、そんな事は知った事ではない。社会の統計のために自分の人生があるのではないからだ。
そう、その通りである。

    ◆ ◆ ◆

僕は以前にも書いたように、結婚と出産をセットにするのは無理があると考えている。もちろん結婚して子供を産み育てる、という事が出来る人、したい人は大いに頑張ってくれればいい。しかし日本人の子供は日本社会のモノという社会的合意がもっと行き渡り、しっかりと認知されれば、子供を育てるのは何も実の親でなくて良い。戸籍制度や里親制度をもっと柔軟に現実に即して改訂し、充実させればいい。子供は社会全体で育てるのである。
そうした社会全体の子育てシステムによって、児童虐待から子供と親自身を守り、未婚の母の負担を無くし、無意味な中絶という殺人をなくす事が出来る。
少子化対策はそれしか解決方法はないのである。
だからこそ少子化対策に名を借りて「結婚奨励」や「結婚願望」を煽る事はするべきではない、と思う。

僕は白河さんが書かれている内容は、ただのバカ話もしくは自己弁護、もしくは分析の足りない幼稚な脳の仕業、だと感じているが、ただこうした女性を無理矢理結婚させる事はないと思う。
おそらくこうした「進化しすぎた女性」たちはもうすぐ年老い、自分の今までの勘違いの責任をきっちり取らされるだろう。自分たちが戦後日本という社会的時代的幸運が生み出した、単なる大人になりきれなかった「畸形」だという事に、果たして気付けばよいのだが、それはそれで彼女たちの勝手である。

    ◆ ◆ ◆

結婚しない人々が増えるのは構わない。しかし恋愛しない人々が増えるのは、どうも楽しい社会ではない。結婚しないが恋愛はする、という社会こそこれからの日本が目指すライフスタイルである。もちろんフランス人の貧乏くさい恋愛至上主義や、北欧の神経症的な恋愛飢餓状態なんて刹那的なモノではなく、楽しくて優雅で雅な日本独自の恋愛観が育って欲しい。平安貴族というご先祖を範としても良い。「日本の未来は、世界もうらやむ、恋をしようじゃないか」とモー娘。も歌っていたではないか。
世界の人々が日本はいいなぁ、と羨む国になるためには、モノや金銭的価値だけが豊かではダメである。日本独自の文化や社会システム、ライフスタイルこそ、これからの日本の「価値」となる。
「金はあるけれどあえて質素に、しかし心豊かに暮らす」とか「仕事の他に没頭できる趣味の世界を持っている」とか「コミュニティに居場所がある」とか、最早21世紀の日本はそうした価値観の時代なのである。なに、結局日本古来からの日本人の暮らしそのものではないか。
結婚に価値を置かず、人としての恋愛に価値を見る、というのも日本の古来からの伝統である。
日本の歴史に於いて結婚が価値を持ったのは、江戸以降のたかだか400年ほどの事に違いない。
古来より日本人は恋愛至上主義であった。その本卦還りをすればよいだけである。

夏休み

2006-08-11 23:17:40 | 時事社会問題

いよいよ夏休みである。
特に嬉しくもなく、別段どうと言う事はない。お盆行事も特にはない。お墓参り位ではあるが、それは混雑を避けてお盆過ぎにする。
ま、例年同様高校野球を見て、サッカーを見て、録り貯めたテレビ番組を消化する。その合間に本を読む、という生活になる。なんだごく当たり前の日常である。
近所のスーパーや激安店を探索する楽しみもある。行ってみたいのはネットカフェである。
幸い近所にそういった場所が出来ている。

バブルの頃には都心の繁華街に出なくては体験できなかった事が、今や近所で充分間に合う。洒落た食事処やセンスの良い料理店が住宅地にとけ込み、大規模な書店、CDショップ、家電量販店、スポーツショップなど、大抵の買い物は近所で出来るようになった。
わざわざ休日に電車に乗って都心に出なくても、充分楽しめるのである。
逆に都心に家族用マンションが林立し、都市部への人口回帰が進んでいる。都会の利便性や刺激を身近に感じて幼少年期を過ごすという事は、一体どういう子供を育てるのか。

これは都市の拡散と復権といってよいのか、どうか。
当然消費形態や動向は大きく変わる。従来型のマーケティングは果たして通用しているのか。
テレビはHDDに録ってCMを飛ばして見る、商品情報はインターネットから、商品を買う時は近所の店で現物を確かめ、ネットショップで価格を検討し、そして店頭で交渉する。
イメージ操作やマス・マーケティングで消費者を動かす事はますます難しくなっている。
どうしたら売れるのか、を会議室で延々やったって、おそらく正解が出る時代ではなくなったのだ。消費者はあきらかに賢くなり、慎重になった。
都市文化というのは恐らくそこに住む人を、疑い深く慎重に何度も確かめて、本当に納得しなければ行動しない消費者に変えていく。店頭のセールススタッフより遙かに商品知識を持った消費者に、モノを売りつけるのは至難の業である。
都市文化の拡散は、全国の田舎をこれからますます浸食し、新しい消費者を生み出していくだろう。

そうした日本人の消費行動の変化に、ついて行けない企業は脱落し、上手くフィットした新興企業は大きな成長を遂げるチャンスがある。
それは多分ちょっとしたビジネスモデルのヒネリにあるだろう。もうすでに飽和した手垢の付いた業態であろうとも、販売方法やチャネルの変更、商品の見せ方や使い方の変化によって、爆発的に業績を伸ばす例がある。一時期もてはやされた「IT企業」なるものの正体は、従来業種にITという味付けをしただけの単純なモノだった。彼らはその単純な事業を、株式上場という錬金術に利用しただけだったが、これからは別の真っ当な事業が成功する。
革新的な技術、斬新な商品がなければ事業は成功しない、という訳ではない。そんなモノが無くても、発想を変えるだけで新しい事業が生まれるはずである。
21世紀は始まったばかり。日本人の変化に対応したビジネスの萌芽が、あちこちで産声を上げ始めたいま、果たして成長産業は何処に隠れているのであろうか。

ネットカフェなんて場所は敷居が高い。
第一漫画を読めなくなって10年以上経つ。それだけ頭が固く、回転が遅くなっているのだろうが、そんな人間にとって雑居ビルの1フロアをブースに仕切られた空間でコミックを読むという、行為そのものが無意味である。しかし一度体験はしてみたい、という好奇心はある。
外は暑く、時間はある、この夏休みこそネットカフェ体験の好機である事は間違いない。とはいえ、空調の効いたリビングに終日ゴロゴロして、好きな本を読み、DVDを再生する、という事より果たして快適かどうか疑問なのであるが。
結局我が家が一番、という夏休みになるのかも知れない。

靖国問題を越えて

2006-08-11 00:10:56 | 時事社会問題
靖国神社への政府首脳の参拝は遠慮して欲しい、という特定アジアの主張は、一体どういう法的根拠と権利に基づいてなされているのか。まさか全く根拠や権利もなく、あれだけ口を極めて他国の首相を罵り、他国の国旗を焼いたり挙げ句の果てに大使館に石を投げたりしている訳では無かろう。もしそんな国があればビョーキである。国家として病んでいるに違いない。


●60年前の戦争の責任を誰が負うのか

戦争と言ったって終戦から61年もの年月が経っている。
日本が戦った日中戦争から太平洋戦争に至る戦争の中で、確かに数多くの人道上の問題や国際法に違反する行為があった事は間違いない。
しかしそれは敗戦後、友好条約を結び国交を回復した時点で、少なくとも国対国の関係性の中では決着が付いている、というのが国際法の常識であろう。
その後政治的な「謝罪」という意味で、中国には膨大なODAが注ぎ込まれ、中国もそれを受け入れてきた。日中戦争について中国がいまさらどうこう言い出すのは「お門違い」なのである。
特定アジアの朝鮮半島の要求は、中国以上に根拠がない。
彼らは日本の併合によって国際法上は日本領朝鮮地方だったわけで、一度も日本と戦争は行っていない。どころか日本列島が米軍によって空襲され、壊滅的な被害を被っていた時、朝鮮半島は一度の爆撃もなくそこに住む人々は一人も死なずに済んだ。
朝鮮半島に日本が投入した8兆円以上もの税金で作られた、鉄道や道路、工場や教育施設、その他近代統治に必要なあらゆる物資がそっくり残され、その後の大韓民国と北朝鮮に受け継がれた。そういう歴史的経緯を無視して、彼らはいつの間にか「日本軍に国土を蹂躙され征服されたが、果敢に独立を勝ち取った戦勝国」だと自分たちの脳内で妄想を作り上げてしまった。
そうした妄想によって国民を教育し続けた結果、60年経って政権そのものがそうした妄想を国際社会でわめき散らすようになってしまった。実に可哀想な民族なのである。

もし戦後の日本が米国の占領下のままで、貧しい国家であったならどうだろう。中国はこんな理不尽な言いがかりをつけ、多額の賠償金を(どんな名目であれ)要求し続けたろうか。韓国はお門違いの甘えた態度で日本に接したろうか。彼らはただただ日本人の負い目につけ込んで、すでに決着のついている問題を延々と蒸し返す。それは戦後の日本が自分たちより豊かで発展しているから、妬ましく、羨ましいからであって、決して日本との友好親善など望んでいる訳ではない。
経済的、政治的に日本を叩けば「得」をするからに他ならない。
そうした彼らの態度を許してきた付けが、大きな課題となって今の日本に降りかかっているのである。
正直、戦後生まれの僕たちにとって、何故中国や韓国の言いがかりにわざわざ答えなければならないのか、実に疑問である。ましてや法的にはすでに決着済みではないか、と言うのが偽らざる気持ちである。戦争被害者の気持ち? 植民地の被害? 一体何だ、いまさら厚かましいにもほどがある。生まれていなかった者たちまで、戦争責任を問われなければならないのか。


●中国の重荷となった靖国カード

靖国神社への参拝問題も、実は政治問題化させたのは日本の特定のマスコミである。彼らが煽り中国政府に焚きつけ、そして日本の政治家に踏み絵をさせた結果、いまや当の中国政府ですらどうしようもなくなって膠着してしまった問題となった。
中国政府にしてみれば、当初は日本に対する歴史カードの一つ位のつもりだったに違いない。ところが思いの他、日本の政治を揺さぶるカードとなった。いまだに老残の愚を晒している大勲位が、それまでの威勢の良い言動とは違ってオロオロと日和ってしまったのが発端だが、その後の軽輩総理たちが中国様のご意向には逆らえず、唯々諾々とヘタレてしまった為、ますます中国は誤解してしまったのである。「靖国カードは日本の急所だ」と。

中国にしてみれば靖国カードは実に使い勝手の良い打ち出の小槌であった。しかし小泉政権となり、ODAは大幅に減額され、外務省チャイナスクールを通じて日本政府に通じていたパイプが次第に先細り、中々思うように動かなくなった。これは一大事である。そこで「靖国神社に参拝するから首脳会談は出来ない」という靖国カードを実際に切ってしまった。
メンツが何より大切な中国にとって、一度切ったカードは自分たちが勝った形になるまで放せない。すぐに折れると計算していたら小泉政権は一向に妥協せず、それどころか日米同盟の強化に邁進する。今や日中間の政治課題は山積みで、首脳同士の政治決断がなければ動かない案件が置き去りにされたままになってしまった。とは言えいまさら靖国カードを撤回する事は出来ない。
最早小泉内閣での交渉はあきらめ、次の総理大臣に期待するしかない。どうか次期総理は靖国カードを切らなければならない羽目にしてくれるなよ、と言うのが中国胡錦涛政権の本音であろう。
もはや中国にしてみれば、自分たちのメンツさえ保たれるのなら、靖国問題など実はどうでも良いのである。


●靖国問題は信教の自由の問題

ごく常識的に考えれば、総理大臣が信仰を持っても何ら不都合ではない。どんな宗教を信じようと個人の信教の自由は最大限尊重されるべきである。伊勢神宮参拝は良いが靖国神社に参拝してはならない、というのは思想信条の自由を侵す重大な憲法違反であろう。

戦争犯罪人を祀っているから、という事を理由にするのはお門違いである。
日本の神道は「死者は全て御霊となり浄化される」と考えられている宗教である。
古来神社に祀られるのは善人ばかりではない。平将門のような朝廷に逆らい反乱を起こした者も、管原道真のように権力闘争に負け無念の死を遂げた者も、全てその魂を鎮めるために一柱の神となって鎮座する、それを1千年以上の時間代々の人々で祀ってきた歴史が日本神道である。
靖国神社に祀られた御霊もまた、生前の一人一人の行為や言動は無関係に、みな等しく祭神となって日本の歴史が続く限り祀られていく存在である。
そこには「戦争犯罪人」も「戦争責任者」もいないのである。

こうした宗教としてのごく当たり前の事実をわざと知らない振りをして、靖国問題を語るのは止めて欲しい。A級戦犯の合祀や分祀などという、訳の分からない議論は、日本神道という宗教上あり得ない話なのだ。
また靖国神社とは別に追悼施設を作ればよい、という意見もあるが、作りたければ勝手に作ればよい。日本人にとって神の宿らない施設など何ら有り難みはない。施設を別に作っても靖国神社に魂は残る。果たして人々はどちらを大切に思うだろうか。
靖国問題は宗教の問題である。
ならば総理大臣であろうが、天皇であろうが、その場に行って御霊を鎮める礼を行うのは自由である。少なくとも日本国憲法にはそう記されている。
その時、一体どういった肩書き、資格で参ろうとも、それはその個人の属人的呼称であり、それこそ大きなお世話である。

逆に信じてもいないのに総理大臣だから靖国に行かなければならない、というのも変である。
行きたければ行けばいい、それが宗教への正しい接し方ではないだろうか。


●戦争責任より歴史のねつ造を許すな

戦争責任というモノは本来敵味方、いずれにもある。一方的に片方だけに責任があると断じるのは、歴史に対する正しい態度ではないだろう。
日本人は先の大戦の総括をきちんとしていない、という議論がある。
そんな事は歴史家に任せればいい、と考えるのは日本人で、日本を取り巻く特定アジアは自分たちに都合の良い歴史を作り上げて、それを元に現在の政治問題化して日本を攻撃する。
彼らにとって歴史は作るモノであるらしく、戦争中のプロパガンダをもとに異様な日本像を造りそれを国民に繰り返したたき込む。
年々数字が大きくなる南京大虐殺や、日本の新聞記者がでっち上げた虚構に乗っかった従軍慰安婦問題、など、ウソも百遍重ねると本当になる、という国を挙げてのキャンペーンで国民に刷り込んでいく。
彼らにとっての正しい歴史とは、決して真実に至る学問としての歴史ではなく、政治的目的を達成するための方便に過ぎないのである。
こうした認識を持った上で、彼ら特定アジアとの付き合い方を考えなければならない。
彼らの歴史認識を正そうとする事は無駄な労力であろう。彼らは彼ら自身が見たいものしか受け入れない。真実とは自分たちにに都合がよいモノでしかないのだから。


●終わりに

退陣間近の小泉首相がその公約通り8月15日に靖国神社に行くかどうか、なんて実はどうでも良い。靖国神社にとって8月15日は別に特別な日ではない。小泉さんが行きたけりゃ勝手に行けばよいのである。
ましてや靖国神社をどうするかが次期総理の争点になるとは、それこそ一宗教法人を国家の都合で左右する、と言う憲法違反そのものではないのか。
ましてや外国の言い分や横やりを尊重する余り、そこにある御霊への配慮を欠いた実に失礼な議論がまかり通っている。そこに祀られた御霊は、日本人にとって民族の精霊であって、日本人であれば全ての人々が、個人の宗教や哲学を越え敬うべき存在だ。日本人とは祖霊に仕える民族でありその親玉が天皇家である。
外国の異教徒にとやかく言われる筋合いはないのである。

<了>