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風来雑記帳

時事社会・国際問題からスポーツまで、幅広い話題をごにょごにょと考えます。

●朝鮮人テロの被害者に謹んでお悔やみ申し上げます

2007-04-19 12:04:26 | 時事社会問題
バージニアテックで南朝鮮人が民族の宿痾「火病」起こしてテロしちゃうわ、長崎じゃ田舎のヤー公が因果含められて現役の市長やっちゃうわ、なんかもうね、世の中物騒な事件ばっか。
それにしても朝鮮人という民族は一体どうなっているのだ。奴らに鉄砲持たしちゃいかんだろ。民族差別は良くない、なんて建前はともかく、これだけ凶悪事件を起こすのは何か民族の特質というか、欠陥というか、何か特別な事があるに違いない、なんて思ってしまうのは無理無い事だと思うが、一体どうなんだろう。

サッカー北京五輪1次予選、日本U-22はアウェーでシリアと戦い2-0で勝って4連勝で早々と最終予選進出を決めた。予選だから何であれ突破すればよいのであって、そう言う意味では「良くやった」と言う他無い。しかしこのチームの試合を見ていて、何か常に不完全燃焼感が残るのは事実である。

この試合では前半、水野の見事なミドル弾とセットプレーからの本田の一撃と良い調子で試合を進めていたのだが、後半シリアが前に出てくると途端に足が止まりミスが続出してシュートまで遠くなってしまった。修正出来ないまま何度もピンチを招いたが、相手のミスもあり何とか無得点に抑えて勝つ事が出来た。

アウェイだし環境的にも厳しい中での勝利だけに文句を言うのは贅沢だが、パスミスや連携ミス、シュートミスや守備時に於ける相手マークのミスなど、明らかに選手一人一人の技量不足・集中力不足をどうすれば少なく出来るのか。戦略やシステムも大事だが、このチームはまず一人一人の戦闘力アップこそ課題だろう。今のままならあえて言えば「このままでは最終予選は心許ない」という事である。

にしてもこの試合での2トップの出来はひどかった。特に平山の消えっぷりは尋常ではない。アジアのこのレベルの相手に真ん中で張れないCFWなど、そりゃ世界では戦えないだろう。本人の技量と言うよりメンタリティの問題なだけに、修正は中々難しいだろうが。
一方のカレンは、、、ま、こんなものと言えばこんなものだろうが、なぜ磐田での働きがこのチームでは出来ないのだろうか、という疑問はある。
結局、FWが機能していないように見えるのは、このチームが未だ組織として攻撃が機能していないからだろう。守備組織の構築に追われ攻撃システムまで手が回らない、というなら今後の課題だろうが、果たして反町監督は有効な攻撃システムプランを持っているのか、という疑問がある。
大丈夫なのか、この監督。

サッカーに比べると格段に恵まれている日本プロ野球界が揺れている。
西武の裏金問題に端を発した「不透明なカネ」問題。これ疑問なのは、裏金を受け取っていたアマ選手の所属する社会人チームは公式戦自粛となったのに、同じ早稲田大学は恥ずかし気もなく公式戦を戦っている、という事である。社会人野球と大学野球は組織が別だから、なんて言い訳にもならない。で、今度は高校野球に飛び火し、専大岩見の野球部休部となった。おいおい、今さら特待生制度がダメなんて知らなかったぞ高野連。

大阪や兵庫の有望な野球少年は高校進学にあたって、まず関西の有力校を志望する。その選に漏れた選手は四国や中国地方の私立高校に流れ、果ては楽天の田中君のように北海道まで引っ張られる。甲子園ベンチ入りの半数以上が県外出身者、という私立高校はいくらでもある。そうした高校で何らかの「野球部特待生制度」が無い、なんて誰も信じはしないだろう。少なくとも高校野球の有力校と言われる所は、何らかの優遇処置があるのは当然だろう。それでなければどうやって有望選手をスカウト出来るのか。そうした現実を放置・助長しておきながら、何かあれば規則を持ち出してしっぽを切り捨てる高野連のやり方は、いかにも官僚的で汚い。

プロ野球と裏ガネの問題は、日本プロ野球リーグの興廃に致命的な影響を与える可能性がある。
一生懸命プレーしている選手には申し訳ないが、スター選手が次々とMLBに逃げ、ライト層の人気挽回が課題のNPBにおいて、薄汚い不透明な「カネ」の問題は、こうしたライト層が一番嫌悪感を抱く話題である。ま、プロだからカネに汚くても当たり前じゃん、なんて僕のようなおっさんの理屈は通用しない。表ではアマチュア顔して小綺麗な建前に隠れておきながら、裏では中学生時代から金の亡者となって裏金を受け取り優遇されてきた奴らなど、一体誰が心の底から応援するというのか。
そんなカネに汚い選手がやるプロ野球は果たして本当にクリアでフェアなのか。
台湾野球は八百長問題で崩壊し今もその後遺症に苦しんでいる。サッカーのセリエAも同様だ。どちらも観客減少に苦しんでいる。日本プロ野球機構もまた、日本のファンを舐めていては危ない。

今まであった事、今まで当たり前のように馴染んできた事が、一夜にして世界が変わる事が起こり得る時代である。
バージニアテックの事件を契機におそらく韓国人留学生への警戒感は高まるだろうし、草の根では中国人や日本人も含めたアジア系への陰湿な嫌がらせは、いままで住みやすかったアメリカでの生活が一変するはずである。強固に見える全米ライフル協会によるロビー活動で実現しそうにないアメリカの銃規制も、この事件が契機となって意外に実現するかも知れない。アメリカはブレの大きい国なのである。

日本サッカーが五輪への連続出場が途切れたら、北京五輪の巨額の放送権を買った放送局はきつい。サッカー協会も厳しいだろうが、こちらは自業自得だから仕方がない。
過去40年以上に渡ってテレビコンテンツの王者として君臨し、世界有数の観客動員を誇った日本プロ野球が、選手獲得競争のあげくの不透明な裏金問題で国民の支持を失い、崩壊する。
自浄出来ずに自己変革を怠った組織の常だが、プロ野球はもちろん高校野球も大学野球も、しっぽ切りで事を収めようとするだろうが、おそらく崩壊への道は意外に早いだろう。
腐った幹は、崩れ去る時は一気に来る。

社会の中で今まで当たり前に存在したモノが、支持を失い消え去っていく。
時代遅れの宅配システムに支えられた新聞メディアも、官許による独占に支えられた地上波TVも、そして衆院の絶対多数に胡座をかいた緊張感のない政治体制も、そろそろ限界ではないのか。
潰れたって僕は少しも困りはしない。

●三重県亀山地震

2007-04-16 12:14:20 | 時事社会問題
地震である。
野菜山盛りの「辛みそチャンポン大盛り」を喰っていたら、いや~な揺れ。
14階建ての12階という我が家だが、かなり長く揺れた。先日の能登地震の時より大きく感じたのだが、相変わらず揺れている間は動けず、「お~い揺れてるよぉ、まだ揺れてる」なんて暢気な声を出しているのが精一杯。ヨメハンはさすがにてきぱきと台所を見回り各部屋の様子を見て回っている。情けないがワシは無力である。

テレビを付けると三重県中部とか出て、てっきり東南海地震なの?って思ったのだが、ま、そんなはずはない。東南海にしろ南海地震にしろ、本当に動いたら大阪平野はこんなモノでは済まないだろう。震度6強、あるいは7とか言う事になったら、一体どれだけの被害が出るのか、もうね、おじさんガクブルですよ。
上町断層という大阪を南北に走る活断層も危ないらしいし、もう何かカウントダウンが始まっている感じすらする。僕が生きている(だろう)後数十年の間に、確実に大地震に見舞われるのは間違いないらしい。

何だろうこの不安感は。
ていうかある種の「ニヒリズム」に繋がる無力感である。大地震が来る事は確実だ>それを防ぐ事は出来ない>防災対策も所詮気休めだ>大地震を生き延びてもその後が大変だ、というズンズン暗い発想になるのは、これは僕の年齢にもよるのだろうが若い人たちは大丈夫なのだろうか。
大地震が来ても、とりあえず死亡するのは該当地域住民の10%から20%だろう、自分は10人に9人の生き残る方に入ればいい、生きてさえいれば何とかなるだろう、、、なんて逞しい考え方が出来るのは若いからである。年配の人間が生活基盤を失ってしまうのはキツイ。

自治体や国が進める防災対策は果たしていざというときに何処まで有効なのだろうか。
そんなモノを真剣に信じているのか、と問われれば返す言葉はない。物理的に大地震にびくともしない都市など作れる訳もなく、被災者が数十万、数百万のオーダーで出てしまえば、机上の計画をいくら立てたって対策なんか出来る訳がない。役所の責任なんて事はどうしたって問えないだろうし、結局一般人は自分たちで何とかするしかないのである。
しかし、防災グッズを揃え、自宅の家具を転倒防止用具で固定するくらいしか個人で出来る事はない。所詮、気休めである。

となると後は「運頼み」しかない。
大地震が来た時に自らの幸運を祈るしかない、というのが実際の所だろう。運が良ければ助かるし、運が良ければ家産も無事かもしれない。運が良ければ家族も、友人知人も、仕事関係先もみんな無事かもしれない。
せいぜい自分の「運気」が強い時に大地震が来てくれればいいのだが、もちろんそう言う訳にはいかないだろう。

僕自身も含めて日本人は本当に脳天気である。
よくもまぁこんな土地に数万年前から住み着き、営々と暮らしてきたモノである。もっとも江戸期あたりまでは、庶人の暮らしは大地震が無くても十分悲惨だったろうが、それにしても周期的に襲ってくる地震や台風などの自然災害にめげず、たとえ潰れても建て直し、少しでも被害を軽減するために様々な土地改良を行い、人の生活圏を拡充してきた。
あらためて日本人の「復元力」というバイタリティに感心する。日本人が凄いのは、自然災害によって壊滅的被害を受けようとも、必ず立ち直って、今度は以前以上の建物なり集落なり、都市を作り上げる事である。それが日本人の歴史であった。

その歴史は見事に今に引き継がれている。
阪神大震災によって壊滅した神戸市中心部は、あれから12年経って見事な都市景観に生まれ変わっている。もちろん「人間味が失われた」とか「機能美ばかりで人間が住み環境が壊れた」とか色々と批判はある。しかし少なくとも都市としての神戸市は間違いなく再生しつつある。
そこに日本人が住み続ける限り、日本列島は傷を癒すだけでなく新たな発展をもたらすのである。日本人は「スクラップ・アンド・ビルド」の民族なのだ。

そう考えれば大災害、なかんずく大地震は日本人の心性に大きな影響を与えた事が良く理解出来る。大災害が避けられないのならば、その被害を最小限に留め、そして壊れてもすぐに建て直せる家屋や都市集落にする。形があるモノは必ず壊れる>ならば壊れても簡単に復元出来るモノがよい>壊れたら次はもっと良いモノを作るチャンスだ、という日本人ならではの前向きなバイタリティは、自然災害の多いこの列島に数万年住み続ける民族の必須の条件だった。
それが日本人の脳天気さの源なのだろう。

地震は怖い。
あの身体を突き上げ、横に揺さぶり、足下が崩れていくような不安さは余り経験したくはない。
しかしこの列島に住む限り不可避なものならば、それに慣れるか耐えるしかない。大地震の被害を最小限に抑える事は難しいかも知れないが、運良く生き延びれば、また再びやり直すしかない。それは日本列島に住む日本人の諦観であり、将来への希望かも知れない。

しかし「運頼み」しか無いのなら、「地震除け観音」なんて作ったら大繁盛するだろうが、どうも葬式仏教には機を見るに敏な発想がないらしい。訳の分からない預言者だの心霊師だの拝み屋だのメシアだの、テレビや街には溢れているが、いっそ国を挙げてそいつらに大地震回避を祈らせてはどうだろう。もちろん地震が起こればそいつらは「虚言妄想により世上を騒がせた罪」により打ち首獄門とするのがよろしい。
国民の地震に対する不安を取り除き、同時にペテン師どもを一網打尽に追放出来る、またとないチャンスなのだが、どこかのテレビ局でやらないか。打ち首まで完全中継すれば視聴率は20%は固いゾ(W

●狂言師和泉元彌の金銭トラブル騒動

2007-04-02 10:09:01 | 時事社会問題
◆元彌かすんだ!?セッチー節全開
(070402/日刊スポーツ)http://www.nikkansports.com/entertainment/f-et-tp0-20070402-178669.html
狂言師和泉元彌の沖縄公演が1日、浦添市の国立劇場おきなわで行われ、母節子さんが一連の金銭トラブルについて壇上で反論した。「マスコミ報道は間違いですから」「取材で追われてますけど、私から見ればゲーム」と言いたい放題。弁護士と協議中という現況を優先し、騒動に関する発言を控えていたが、セッチー節を解禁した。

ま、人間、貧すりゃ鈍す、って世の中そう言う具合に出来ているのよね。
NHKの大河ドラマに出て一躍人気モンになったのは良かったけれど、訳の分からない「狂言宗家」騒動だのダブルブッキング騒動だの、挙げ句の果てに脱税だの、もうね、ドタバタもいい加減にしないとせっかくの運気も逃げちゃうよ、って思ってたら、おいおい、この有様ですか。

狂言なんて地方自治体主催のイベントでもなけりゃお呼びがかかる訳がない。宗家が一家で稼いでいたのはこの自治体教育委員会主催の「狂言の会」だろう。ドサ周りにはNHK大河主演の看板はもってこいで、そりゃ稼げたのは間違いない。ところが「脱税」となると自治体では使えなくなる。税金の追徴金も合わせて、とたんに懐具合が二進も三進もいかなくなるのは自明の事。
ところが人間、一度膨らんだ世帯はなかなか縮められない。で、そこら中に不義理の山。

宗家の母親、この人に物事の処理能力があるはずもなく、でも何もかも「私がやらなきゃ」で全部抱え込んじゃって、結局あれもこれも出来なくて放置、で、ダブルブッキングだの脱税だの、挙げ句の果てに家賃や駐車場代滞納とか火の車の遣り繰りが表に出てしまった。ご本人は一生懸命だろうし、宗家たるもの銭勘定や世帯の遣り繰りなどに気を遣うなどもってのほか、一時の苦境などすぐに取り返せる、などとお考えなのかも知れない。ご本人もまた変にテレビで顔が売れてしまって、何処に行っても見栄を張ってしまったのだろう。

いまや自治体が主催して確実にギャラが貰える狂言公演は無くなり、自分たちで会館を借り自分たちで集客する自主公演を開催するしか方法が無くなっているのだろう。ギャラはまだしも、残念ながら今の宗家の芸に集客力はない。そりゃ石垣島でも沖縄でも客が来ないのは仕方がないのである。で、大赤字。火の車の周り具合が一段と増した事だろう。
しかしその火の車の懐具合が報道される事で久しぶりに芸能マスコミの話題となって、おそらくこれで宗家一家に手を差し伸べるスポンサー筋も出てくるかも知れない。ま、その時は焦らずに相手の素性を慎重に見極める事である。この上、金主がフロント稼業とかになってしまってはそれこそお仕舞いである。くれぐれも母親の自重を、なんて老婆心である。

今回の騒動、まだまだ尾を引きそうだが、しかし何より一番の問題は宗家の芸のつたなさにある。
すべての雑用、マスコミ対応も、ご母堂に任せて何より芸の上達に一心不乱に取り組む事である。そのためには狂言界の先輩、先達に頭を下げて礼を尽くして教えを請う事が不可欠だろう。いまのままでは独りよがりの未熟な芸のまま、狂言界の失笑を買いながら恥を満天下に晒していく事になる。先代がいくら立派であろうと、偉大であろうと、精進しなければその芸は伝承出来るはずがない。宗家を名乗る者の務めは、芸能マスコミの前で大見得を切る事ではなく、その芸の力で世間の人々を引き寄せる実力を培う事である。
1200人収容の会場に120名しか集客出来ない現状こそ、いまの宗家の実力なのだと真摯に受け止めるしかない。懐具合の苦境はまさに自業自得なのである。

●ティーアップ前田君、結婚おめでとう

2007-03-20 17:19:41 | 時事社会問題
漫才師、ティーアップの前田君が結婚するらしい。良かった。12歳年下の女性だという。良かった。
ティーアップの漫才は天下一品である。おそらく現役の漫才の中で、その掛け合いの面白さと、ネタの面白さ、コンビの息、間合いと言った部分で、右に出る者はいない。
残念ながらその面白さがテレビ的な人気に繋がらず、またいろいろとゴタゴタがあってしばらく休業していたり、と、これまで余り幸福なコンビではなかった。しかしその面白さの冴えはここに来てますます輝きを増していた。
前田君の結婚によってティーアップの漫才がどう変わるのか。少なくとも独身ネタは中身が変わるだろうが、あの傑作「中山美穂似のコンビニ」ネタや「プロポーズ」ネタはぜひとも続けてやって貰いたい。
相方の長谷川君も独身だが、いっそ彼も結婚して幸福感全開のティーアップの新しい漫才を見たい気もする。ティーアップ漫才の新しいステップとして、前田君の結婚が良い契機になればと願っている。

芸能人の結婚話がこうして話題になる事は大変結構な事である。世の中、結婚しないのか出来ないのか、独身者が増えているという。僕の周囲でも「男やもめ」に「いかず後家」が結構いる。見渡せばあいつもこいつも、ああそう言えば彼も、彼女も結婚してなかったっけ、という事態である。そりゃ少子化にもなる訳である。フランスのような節操の無いおバカ国家と違い、日本はやはり結婚していないと子供を育てるのは中々に難しい。子供が出来たから結婚する、というのはある意味正しい態度なのである。
少子化を少しでも防ぐには、何よりまず若い男女を結婚させる事だろう。しかし今の世の中、男も女も結婚に幻想は無くなっている。相変わらず安物の映画やテレビドラマでは結婚はラブロマンスのゴールインとして描かれてはいるが、現実はその先に長い人生が待っている。独り身で何不自由なく生活しているのに、わざわざ共同生活で束縛されるのは鬱陶しい、と考える独身者が増えても不思議はない。

何より、既婚者が周囲の独身者に、あるいは親が子供達に、結婚の素晴らしさ、結婚生活の楽しさを伝えないからである。「結婚なんかしなけりゃよかった」だの「独身者は羨ましい」だの「あんたはお母さんみたいな結婚はしないでね」とか「結婚して良かった事など何もない」とか、僕たちは結婚についてネガティブに語り過ぎているのではないのだろうか。テレもあるし見栄もある。しかし独身者の中には既婚者の言葉を額面通りに受け取って、結婚しない事or出来ない事を正当化している感がある。

もうひとつ結婚難民が増えている理由に、お節介屋が激減した事もあるだろう。一昔前なら職場で独身者がいれば、課長あたりがそれとなくお膳立てをして結婚させるようにし向けたモノである。日本の企業文化では既婚者でなければ信用されなかったし、バツイチはともかくチョンガーはあきらかに軽んじられた。上司の世話焼きは言わば職務でもあった。
そんな鬱陶しい事は今の日本企業には無い。僕なんかも一昔前なら周囲の独身者をくっつけるため、いろいろと手立てしなければならなかったのだろうが、おかげさまでそんな事はしなくて済んでいる。
今の日本では、結婚とか恋愛と言った実にプライベートな事に、他人はほとんど干渉出来なくなっている。親ですら息子の結婚相手を強制する事はほとんど無い。かくしてお節介屋が減り世の中には結婚出来ない男達が溢れている。

今も昔も結婚に於いて男の選択肢はない。結婚者数を回復させるには、女性にもう一度結婚への憧れや夢を持って貰うしかない。そのためには芸能人でも何でも著名人が結婚する話題を次々と流し、「ひょっとして結婚するって楽しいのかも」と誤解させる事、もとい幻想させる、もとい夢見させる事である。
結婚への夢が描けない社会は不幸である。日本のためにも芸能人の結婚は大いに奨励すべきである。手始めにジャニーズの面々である。あれだけのスーパー・アイドル達が結婚滞留しているのは不自然極まりない。中居君も稲垣君も香取君も、TOKIOのみんなも、V6のベテラン達も、どいつもこいつも揃って独身なんて、気色悪いにも程がある。

ま、確かに結婚したって良い事はほとんど無いのは事実なんだけどね(ort

●今の日本で生きる事の幸運、あるいは心構えについて

2007-03-18 18:09:25 | 時事社会問題
そりゃ、ま、零細広告屋としては、決算だの、年度内納期だの、新年度に向けての予算獲得プレゼンだの、あれもこれも重なってしまう事態に、右往左往してしまうのは仕方がないのだが、それにしても忙しい。そうした稼業のあれこれに加えて、身内のあれこれや、プライベートのあれこれが重なって、精神的にもかなり忙しい。と言う事はかなり幸福な事であって、世の中は全体に景気が良くなっているという事なのだろうか、などと改めて感じている今日この頃であります。

で、僕が勝手に忙しがっている間にも、アメリカの日系議員が中国ロビーからの献金を受けて「従軍慰安婦」なるバカ話をネタに火をつけて煽っているし、松岡のデージンさまは訳の分からない言い訳で墓穴を掘っているし、ホリエモンは有罪になるし、北京五輪特需ですべり台のステンレスが無くなってしまうし、そりゃもう世の中は大変である。

もちろんこの程度で「大変」なんて言っていられるのは、この日本が実に平和で豊かで幸福なんだろうが、どうもその中で生きているとそう言う実感が少ないのは否めない。実に勿体ないのである。
おそらく後世の歴史家は、21世紀初頭の日本を世界でもまれに見る「幸福な国、幸運な国民」と認定するはずである。60年間、2世代に渡って戦争に巻き込まれることなく、数十万規模の死者を出す飢饉や大災害もなく、世界有数の豊かな社会を築き上げ、国際社会からそれなりの処遇を受けている国。そんな国に生まれ合わせて、曲がりなりにも今まで暮らしてきた、その幸運は、僕たち自身が考えているより遙かに価値の高い事かも知れないのである。

60年以上昔の「従軍慰安婦」ネタや「南京大虐殺」ネタが特定アジアを中心に反日キャンペーンで採りあげられるのは、それ以外に日本を非難する説得力のあるネタがないからであろうし、松岡某なるデージンの報告義務違反なんて、所詮単なる形式犯に過ぎない。汚職が蔓延する隣国などに比べればどうと言う事ではない。ホリエモンが即日保釈され、日興は上場廃止を免れても、誰もホリエモンを殺さないし日興ビルに爆弾を仕掛けない。さすが日本は法治国家である。
中国特需でスクラップ屋と結託した盗人がそこら中で金属を盗んでも、それで誰も困りはしない。
どれもこれも、他国の人々からすればこんな些細な事がニュースになる日本が羨ましくて仕方がないはずである。

格差社会問題にしても、少子化問題にしても、日本社会の抱える課題はどれもこれも先の話ばかりである。「このまま放置すれば数年、十数年先には大変な事になる」という先走った懸念が国民の危機感を煽っているだけで、今すぐそこにある国家危機ではない。
北朝鮮は放っておいてもいずれ自壊する。中国の軍備増強も日本の脅威となるには相当先の話である。欧米諸国主体の国際経済体制は当分不変であろうし、その中で日本は十分役割と応分の利益を享受し続けられるだろう。
そうした日本を取り巻く状況には、国は今のところ的確に対応出来ている。

こうした冷静な状況判断をマスコミは報じない。大変だ、大問題だ、と大騒ぎして、日々の細々した問題を殊更大袈裟に採りあげなくては、彼らは商売にならないのであるから仕方がない。
専門家と称する人間は、危機感を煽る事でしか存在価値がない。自分でも信じていない危機感を大袈裟にばらまく事によって、人々の不安を増幅させ飯のタネにする。
日本を取り巻く状況を冷静に判断すれば、楽観論になるしかないのである。

僕たちはメディアや他人の意見に右往左往することなく、冷静な状況判断による楽観主義で生きていくのが正しい。それが今の日本に生きる知恵であろう。

●パソコンが使える位で一体何様のつもりなの?

2007-03-02 00:08:41 | 時事社会問題
◆パソコン見放す20代「下流」携帯族
第二のデジタル・デバイド出現。パソコンは30~50代限りで、高機能携帯でもう十分。
(FACTA2007年3月号)http://facta.co.jp/article/200703060.html
衝撃だった。パソコン(PC)が使えない団塊世代以上の高年齢層の断層を「デジタル・デバイド」と呼ぶが、第二のデバイドが出現したのだ。20代の若年層である。まさか、と思うなかれ。高額のパソコンを持たない彼らは、インターネット利用を安価な携帯電話で済ませてしまう。PC族と携帯族の「デバイド」 ――それはネットにも「下流社会」が出現したことを意味する。(以下略)

ま、記事の全文は同誌で読んで頂くとして、この筆者のWEB携帯の利用者に対する物言いはどうも偏見というか、言いがかりのようなモノに感じるのだが。
一体、PCを使ってWEBを見る、と言う事のどこが「上」で、キーボードを使えない者が「下」って、おいおい、そんな風に本気で思っているのならただのノータリンではないか。

「デジタル・デバイド」なんて言葉はどうだっていいのだが、それがただパソコンでキーボードが使えるかどうか、で分かれるなんて、まさか本気で思っているのだろうか。仕事で一日中パソコンの前に座っている僕なんかには、パソコンなんて必要なくても暮らしていける方がずっと幸福だと思うのだが、それは間違っているのだろうか。

携帯電話が進化して、メールどころか写真も撮れ、音楽も聴け、そしてWEBも見る事が出来るようになった訳で、情報を取得するのにそれで十分、と考える人々が出てきても当たり前ではないのだろうか。それ以上に一体何が必要なのか。パソコンのスキルが身に付かない、なんてバカな事を本気で信じているのか。

パソコンたってまさかSEになる訳でなく、ただテキスト入力と簡単な表計算位、携帯電話を使える人間ならすぐに習得出来るだろう。今どきの企業ならイントラネット端末で自社仕様の資料を呼び出して、書類フォーマットに必要事項を入力し、関連部署に送付することくらい誰でも出来るようになっている。企業のルーティンなど90%はそれで十分である。それ以上、一体何をパソコンから得ようとしているのか。

WEBの99%は別に知らなくても良いどうでも良い情報である。
人間が生きていく上で必要な情報はそんなに多くはない。WEBに頼らなくても、パソコンにしがみつかなくても、人間はより良く生きる事が出来る。
それが分からないようでは、ただ単なるバカである。若い人が携帯端末で情報を得ようと、WEBを閲覧しようと、彼が必要とする情報はそれで十分な訳で、それを外野の人間がとやかく言うのは大きなお世話である。パソコンのスキルがなければ就職出来ない? 世の中にはそんなモノが無くても、気持ちの良い笑顔と、フットワークの軽い働き者ならいくらでも仕事はある。

この記事の筆者はさらにこう書く。「ホワイトカラーは当分、PCインフラに依存しなければ仕事ができない。しかしブルーカラー、あるいはフリーターは必ずしもPCを必要としない。ノートブックで十数万、デスクトップで最低7~8万円するPCを買うカネも時間も置く場所もないのだ。彼らが20代の“PC音痴ネットユーザー”である親指族の正体なのである」そしてそれこそ「格差社会」だ、と結論づける。
ホワイトカラーが上でブルーカラーやフリーターが下、という前時代的な思考停止をさらけ出しているのがご愛敬だが、こういった考え方をするバカな親父は結構多そうである。

必要のないモノに金をかけるのはムダである。携帯電話で必要な情報が得られるのに、それ以上不必要な情報を得るために、例え7~8万程度の金でも惜しいと思わないのはまともな感覚ではない。「これからはパソコン出来なきゃ出世出来ない」なんて10数年前のWin95発売の時になけなしのヘソクリをはたいてパソコンを買い込んだ親父達。結局使いこなせないまま押し入れの肥やしとなった家庭が多かったはず。そんな不純な動機による無駄遣いなんて今から思えばバカのやる事である。それに比べれば不必要なパソコンを持たない方が余程健全な精神である。

今どき、パソコンなどバカでも操作出来る位、敷居は低くなった。僕のように仕事場でもプライベートでもMacを使う身には、たまに使うWinは実に使い勝手が悪いが、それでも慣れの問題でしかない。WEBを見たり、情報を検索したり、レポートを作ったり位は普通に可能である。Macと共通のアプリを使えば普通に仕事だって出来る。所詮、今のパソコンなんてその程度の難しさでしかない。そんなスキルなど大層に自慢出来るモノではない。それよりも携帯電話で物凄い速さで文章を打ち込む若い人を見かけると、そのスキルに圧倒される。正直、羨ましい。

僕自身の事で言えば、仕事以外でもパソコン(Mac)は手放せない。それだけ毒されているのだが、そんな状態が決して良いとは思えない。グーグル検索だってWikipediaだって携帯電話で事が足りるならそれに越した事はない、とも思えるのだ。だから「インターネット利用を安価な携帯電話で済ませてしまおうという“デジタル・デバイド”な若い人」の一体何処がいけないのか、全く合点がいかないのである。

携帯電話がどんどん進化してパソコンの役割を奪っていくのは、この先も続く。今のパソコンで出来る事は近いうちに携帯電話で出来るようになるだろう。そうなればパソコンの前に座ってバーチャルな2次情報を漁っているより、身軽にフットワーク良く動き回って生の情報に触れる方が余程いい。それが分からない者は取り残されるしかない。
「デジタル・デバイド」などという傲慢な言葉を無神経に使うような輩は、もうその時点で人間としてdivideされているのである。もちろん閻魔様がお待ちかねの方向へ一直線である。


●地球温暖化は人類を滅亡させるのか?

2007-02-10 20:58:11 | 時事社会問題
なんだこの暖かさは。
このまま春になるのだというが、そりゃ不味い。きっと夏には全国各地で深刻な水不足に見舞われる可能性が高い。毎度の九州北部~四国のサンベルト地帯は今から対策を練る事である、対策が出来ればの話だが。

で、こうした暖冬とかの話題になるとすぐ「炭酸ガス排出による地球温暖化」が話題になるのだが、何度も当ブログでも言及しているように、地球環境はそんなに単純な因果律で割り切れるほど柔なモノではない。炭酸ガス排出の実効的な世界的規制が出来ないのを良い事に、金儲けに仕立て上げた奴らが蠢いているのである。もちろん日本の産業界も環境機器で一儲け出来るチャンスであるから文句はない。だからメディアには「環境に優しい共生社会」なんてお為ごかしが溢れるのである。

地球環境に一番悪いのは「人類」の存在であって、70億もの適応過剰を放置してきた以上、今さらどうしようもない。BRICSやその他の発展途上国に厳しい規制をかけない以上、欧州と日本がいくら頑張ってもたかが知れている。もちろん努力する事は大切だし、それが大きな商売になるのだから頑張るのも在りなのだが、アメリカとBRICSを規制しない限り実効性はないのも事実である。

いずれにしても70億の人類の活動がこの地球環境を歪めているのは事実であろうが、もっとSF的に考えれば、それもまた地球進化の必然的経路、とも言えるのだ。
地球がその進化の過程で人類という知的生命体を生み出した以上、いずれ環境破壊が起こる事は必然だったと言っても良い。農業も他の動物を家畜化した牧畜も、そして工業も、ありとあらゆる人類の活動は、そのものが地球環境の破壊なのであるから、それが原因でもし人類文明が滅んでも、自業自得というか、もって瞑すべしであろう。

そんな人類が70億に増えたわけであるから、過剰な負荷を地球環境にかけるのは当たり前である。問題はその負荷にいつまで地球環境が耐えられるのか、と言う事であろう。
意外と地球は強い、という考え方もある。いやいや地球環境なんて脆いもの、という研究者もいる。科学者ほど悲観的なのはどんな問題でも同様である。

地球の歴史上、生物相が一変するほど大きな環境変化が起こった事はいくらでもある。地球上の生物相の95%が絶滅したカンブリア大絶滅や、6500万年前の恐竜の絶滅もそうだが、地球上の生物は極めて環境変化に弱い。人類もまた例外ではない。
地球温暖化によって人類が滅亡するのなら、それもまた地球の生命進化のプログラムなのであろう。もし人類が生命進化の適者生存に敵った生き物ならば、何とか生き延びるに違いない。と言う事は、最早自然科学の範疇を離れ、哲学や宗教の問題である。生きるも死ぬも神様次第、と言う奴である。

自動車の排気ガスをいくらきれいにしても、燃料を燃やして走る以上二酸化炭素は出る。水素電池自動車でも、そのエンジンや自動車自体を製造するのに炭酸ガスは排出される。厳密に言えば人類の現代文明が続く限り、地球温暖化ガスの排出は止められないのである。もちろん世界中が合意してその排出量の伸びを出来るだけ低く抑える事は出来るだろうが、ゼロには出来ない。それでもいい努力する事が大切だ、という意見は分かるが所詮気休めでしかない。なぜ科学者はそれを言わないのか。なぜ政治家は奇麗事で建前論に終始するのか。

炭酸ガス排出量を地球温暖化に有効な量にまで減らすには、先進国やBRICSなどの工業国家のGNPを現在の3分の1に減らすしかない。端的に言えば、アメリカやEU、そして日本を始め、中国やインド、ロシアやブラジルなどの人口を3分の1に減らす事である。
世界の総人口が25億人程度に減った時、炭酸ガス排出量は環境負荷に影響のないレベルに減らす事が出来るだろう。

問題はそれが可能かどうか、受け入れるかどうかという事である。
50億人もの人類の大量死亡は、それ自体が文明崩壊である。地球環境が守れても人類文明的には何の意味もない。
地球温暖化によって人類の生存環境が悪化して、人類の3分の2が死に絶えてしまうのが良いのか、地球温暖化を回避するために何らかの手段で人類を3分の1にするのか、いずれにしても無茶苦茶である。どちらも回避する考えられる解決策は、人類の3分の2を他の惑星に移住させるしかない。

この宇宙には地球ほど人類にとって快適な天体は無い。よしんば地球とそっくりな惑星が見つかったとしても、恐らく現在の地球文明ではそこまで到達する能力はない。
もし本当に人類を見守る神様が居るのなら、70億人のうちの何人かは絶滅から救ってくれるはずであるが、僕は願い下げである。そうまでして生き残っても大して楽しそうではないではないか。
自分が生きている間は何とか地球環境の激変は勘弁してほしい。その後の事は次の世代が考えればいいのである、なんて言うと怒られるだろうが、なに、人間の本音はそんな所である。

人類が本気なら、現代文明の利器の大部分を捨て去るしかない。中国やインドなどの人口大国を近代化しない事である。政治的にも道義的にもそんな事が出来る訳がない。
となると後の解決策は一つしかない。画期的なテクノロジーによって地球環境の維持・コントロールが可能になる事である。果たしてそれは可能だろうか。
それが不可能なら、世界大戦で世界人口を激減させるのか、それとも地球から逃げて他の天体に移り住むか、もしくは「諦める」かである。

そこまで考えると、気安く「地球温暖化阻止」だの「環境に優しい共生社会」だのといった気休めでしかないスローガンに逃げる事はできないはずである。
むしろ疑わなくてはならないのは、そう言った安易なスローガンを掲げる者たちの魂胆である。今頃、声高に「温室ガス抑制」を叫ぶ「環境運動家」の背後に一体どんな思惑が渦巻いているのか、誰かそいつを教えてく入れないだろうか。

●テレビ事業の今後~広告媒体としてのテレビ事業の寿命

2007-02-02 18:03:03 | 時事社会問題
我が家ではHDDレコーダーが2台、連日フル稼働している。
最初の奴が3年前、翌年そのあまりの便利さにもう1台買い足ししたのだが、以来、テレビの視聴形態が随分変わってしまった。
生で見るのはニュースかスポーツ番組だけである。あとのドラマや映画、バラエティ番組はそのほとんどはせっせと録画して後日見るようになった。
HDDの容量節約のためにもCMはチャプターで削除して保存する。後日その時の気分で番組を選択して見る時には、CMインターバルが無く、しかもほとんどの番組は1.5倍の早送りで見る事が出来るから、1時間番組は半分程度で見終わってしまう。
ドラマなどは1シーズン11回分を一挙に見る事も出来る。5.5時間で済む。

21世紀になって普及した製品の中で、我が家に於いて最も生活を変えたのはこのHDDレコーダーである。確かにiPodは便利だが従来使っていたポータブルMDの代替としての便利さはあっても、特に暮らし方を大きく変えるほどの事はなかった。デジカメも同様である。光速インターネット回線も慣れてしまえばどうと言う事はない。ネットも見れる携帯電話は息子は重宝しているようだが、僕自身は必要ない。あれやこれや、結局ここ数年中に購入した商品の中で、一番値打ちがあったのがこのHDDレコーダーだったと言って良いだろう。
なによりもテレビの放送時間に縛られずに番組が楽しめるのが大きい。もちろん今までも3台のVHSビデオを駆使して留守録をし、倍速再生で見る事が出来たのだが、結構億劫だった。それが手軽に予約し手軽にCMを飛ばし、そして手軽に再生出来る。
さらにテレビ番組を手軽に保存出来る。DVD-Rメディアが随分安くなり2時間ないしは3時間分の番組が40円ほどで保存出来るのは嬉しい。さらにファイルを使えばVHSとは比較にならない省スペースで保管出来る。いつの間にかスポーツやドキュメンタリーを中心にDVD-Rが700枚を越えている。一体いつ再び見るのか自分でも分からない。

当然問題もある。今までなら見る事もなかった番組を見てしまうのである。録画予約が簡単で番組表をクリックするだけだから、ついつい空き時間を埋めてしまう。「見たい」番組と「とりあえず見てみるか」的番組、そして「見るかどうか分からないけれど、ま、一応録っとくか」的番組、とあって、何でもかんでも録画して後からチョイスする、という贅沢な視聴習慣になっているのである。
もちろんその中から見始めて楽しい番組もあれば、思わぬ発見や勉強になる番組を見つけ出す事もある。しかし大半は途中挫折するのだが、少しも惜しくはない。どんどん録ってどんどん消去する。まさしくテレビ番組は消耗品なのである。

そんな時代に、一体視聴率にこだわった番組作りをしていて、果たして本当にテレビ局並びにテレビ番組制作会社は生き残っていく事が出来るのだろうか、と余計な心配をしてしまうのである。

HDDレコーダーだけではない。テレビが見れるパソコンも普及して、片端から番組を録画してどんどんCMを飛ばして倍速で見る、気に入った番組だけ保存して後にじっくり見る、なんて事が既に現実になっているのに、果たして従来の視聴率調査で本当にCMスポンサーは莫大な経費負担をいつまで認めるのだろうか。
時間つぶしにしかならないお約束満載のバラエティや、ジャニタレ使い回しのコミック原作の安易なドラマ群、大量に作られ大量に消去されてしまう番組をスポンサードして、一体本当にそのCM費に見合う効果があるのかどうか。
もちろんそんな事はスポンサー企業も十分検討しているはずである。従来からのテレビ局との関係や社内的な事情もあって、今すぐにどうこう出来る訳もないのも理解出来る。しかし確実に従来の広告効果は最早見込めないのも事実である。

問題は地上波テレビ番組の広告効果低下に代替するマス広告メディアが見いだせない点にある。
インターネット広告は試行錯誤が続いているが、結局、現時点ではまだまだテレビCMにはほど遠い効果しか認められていない。ネット上のWEBに人を集めるのでさえ、テレビ広告に頼るしかないのが現状なのである。BSやCSなどの地上波に変わるテレビも、広告媒体としてはまだまだだし、今後大きく伸びる要素もない。旧来の新聞や雑誌広告に戻るのも意味はない。ナイナイづくしのまま、地上波デジタル放送への移行期限が迫ってくるのである。
現在のアナログ地上波が消えた時、果たしてマス媒体としての機能はそのまま地上波デジタルが継承出来るのか。出来ると考えている広告業界の人間は一人もいない。無茶である。

日本の広告は、地上波民放テレビ>全国新聞>AMラジオ放送>雑誌という旧来の媒体の棲み分けがあって、それぞれに機能があった。インターネット広告の場合は媒体としてよりも、DMやチラシのような販促チャンネルとしての機能が主体であり、直接的な跳ね返りが求められる時点でよりメディアとしての機能は弱い。
このマス媒体の筆頭にあった地上波テレビが、その広告媒体としてのパワーを大きく減衰させたまま、デジアナ転換によってその行く末すら不明になっている。広告業界としてもスポンサー企業としても実に困るのである。
僕は2011年のデジアナ転換は当然延期されるのではないかと考えている。電波帯域の有効活用とか言っても、別に今さら緊急性はない。5年や10年遅れてもどうと言う事はないはずである。
ましてや現行の地上波すら視聴者のテレビ視聴は大きく変わっているのに、いつまでマス媒体として有効なのか、誰も確信は持てないのである。

地上波テレビ局が政府の認可事業として、電波の独占に胡座をかいた殿様商売を続けて来れた我が世の春も、さほど遠くない時期に一大転換が起きるだろう。それは広告媒体としての価値低下によるスポンサー離れという形で、ここ数年のウチに明確になるだろう。
視聴率追求を金科玉条に掲げ、毒にも薬にもならない番組を垂れ流してきたツケが、この後やってくる。その時、本当に生き残れるのは果たして全国に何社あるのか。

正直言えば、僕としてはデジアナ転換は構わないが地上波テレビが安泰で、今よりもう少しだけ面白い番組を作ってくれたら有り難い。BSだのCSだの有料放送が増えるのもいい加減煩わしいのである。おそらく地方はテレビのデジアナ転換で、どっとテレビ離れが一気に起きるだろう。NHKが放送料金を義務化しても、この機会にテレビを放棄する層が確実にいる。アナログでしか見れないテレビが1億台以上あろうとも、それらの半分もデジタルに転換する訳がないのである。
そしてデジタル化時代にはいくらでもネットを通じてコンテンツが手に入る時代になる。NHKの番組が見たければそれ専用のサイトから落とせばいい、という事になる。もちろん違法である。違法ではあってもそれが中国や韓国などのサイトならば、どうしたって取り締まる事は出来ないだろう。すでにそうした違法ダウンロードサイトは広く知られている。
目端の利いた韓国人や中国人がおそらく商売にするだろう。両国がダメならサーバーは第三国に置いておけばよい。それがデジタルと放送の融合の時代の現実である。

問題は高齢化社会に於いて、無料で気軽に見る事の出来るテレビ放送こそ、年寄りの唯一の時間つぶしの手段だったのが、義務化や有料放送化などでスポイルされる老人世帯が出てくる事である。わずかな国民年金でかつかつの生活を送る無資産老人世帯が10年後には3千万を超えるという予測もある中で、せめてボーっと朝から晩までテレビが見れるようにするのは、最重要な福祉政策なのである。当然、無資産老人世帯にはNHK受信料は免除とすべきであり、デジタル・チューナーは無料で設置工事しなくてはならない。
当然テレビ番組的にも、老人向け番組が全盛となる。何も新しい番組を作る必要はない。昔の、30年も40年も前のドラマやバラエティを、当時のままそっくりそのまま再放送すればいいのである。ただひたすらノスタルジーに浸って、ボーっと一日を暮らしてお迎えの日を待つ老後の生活なんて、考えただけでも実に素敵である。

もう若い者、壮年層はテレビなど見なくなる。ほとんどの家庭ではテレビの変わりにパソコンが置かれ、ネットでコンテンツを探してダウンロードして楽しむ時代になる。その時には、ネット上にある世界中のテレビ番組や映画などの映像作品が、日本のテレビ局の作品と同列の勝負となる。翻訳・通訳ソフトの性能アップで言葉の壁はネット上から取り払われ、主要国の映像作品は自動的に日本語で楽しめるようになる。もうそうなればテレビ放送という概念自体崩壊しているだろう。
こうした時代が2010年代の早い時期にやってくる。
その時、当たり前だが広告媒体としてのテレビ事業は崩壊する。もしくは細々としたメディアとなる。
従来のスポンサー企業は自前で映像作品を制作し、ネットに載せ世界中からのダウンロードを待つ。CMを跳ばせないようにして流す事もWEB上なら簡単である。
いずれネット上に現在の地上波テレビ局のような媒体が出来上がるまで、当然試行錯誤は続くだろうが、なかなか日本発のネットメディアが生まれる様子はない。ネット技術的に遅れ、コンテンツ制作能力に劣り、資本力も無い日本のテレビ事業体にとって、ネットメディアに変身するのは容易ではない。
恐らく、いくら日本政府が過保護的に守ろうとしても、またネットに制約を設けても、日本のテレビメディアは生き残れない。大手は外資に呑み込まれるか、解体されて中国資本に叩き売られるのではないだろうか。おごれるモノ久しからず。テレビマン達は今の内にクビを洗って待っているしかない。その内の本当に才能がある者が生き残るかも知れない。

ネットが本格的に映像を扱えるようになるのは恐らく2010年代前半、地上波デジタルへの移行で日本のテレビ界が大きく変動するのが同じ時期。急速な業態転換が起こるとすればこの時期だろう。あとわずか4~5年である。そりゃテレビスポンサー企業が様子見で広告媒体の選別に入るのも無理はないのである。
今からテレビ局に就職を志望する人たちは、十分に心して覚悟を決めて入社する事である。石炭事業は最盛期からわずか5年で構造不況業種に陥った。旧国鉄は安定性が買われて大卒人気が高かった時代から奈落の底に突き落とされるのにわずかな時間しかかからなかった。業態転換というドラステッィクな状況では、花形産業もあっという間に転落する。10年後、こんなはずではなかったと嘆いても、それは自分がバカだと言う事である。日本社会は保守的で安定的だと勘違いしている人々が多いようだが、実はそうでもない。テレビ放送事業もまた決して例外ではないのである。

●安倍ちゃん政権起死回生の策は「日韓戦争」!?

2007-02-01 17:46:55 | 時事社会問題
NFLスーパーボウルが近づいてきたのだが、僕の周囲は少しも盛り上がることなく、淡々と一日が過ぎていく。あぁマイアミは盛り上がっているだろうに、ま、毎年のことなのだが。

しばらく国内政治に触れなかったのはここんとこ全く政治が面白くないからだが、もうね、徐々に末期症状の様相になってきたのは一体どういう訳なのか?
柳沢伯夫厚生労働相の「女性は産む機械」という発言は、日頃そういう風に考えていないととても出ては来ない発言だろうな。多分、オフレコの記者との懇談だとか内輪の会合なんかでは、結構「女なんて君ぃ所詮子供産む機械でしょ、あんなモノに人権だの権利だの与えるから世の中が悪くなるんだよ」位の事を言っているのではないか、などと思わせる雰囲気がある。
ま、このおっさんはいくら優秀で功労者であっても、こうした意識を持っている、という時点で政治家としての資格はない。言うに事欠いて「女性は子供を産む機械」だなんて、いつの時代の人間なのか、というより何か人間として大きな欠陥があるのだろう。きっと女性蔑視に繋がる大きなトラウマを抱えている「欠陥人間」に違いないのである。いい歳こいてかなり偏った人間観しか持てないようなら、精神科で一度診察して貰う事をお奨めする。
ま、大臣辞職は仕方がない。政治家が自分の言動に責任を持てなければ辞めるしかない。ついでに議員も辞めてしまえ。

で、安倍ちゃんである。
もうね、このボンボン馬脚顕すの早過ぎじゃあねぇの。就任して4ヶ月、肝心の参院選まで半年もあるこの時期に、ここまでボロボロと綻びが目立つ政権なんて、一体何処が「本格政権」なんだか、正直期待外れも甚だしい、というのが大方のマスコミの論調というか風潮らしい。
確かに支持率の低下は顕著だし、こうした閣僚の舌禍事件や事務所費の経費計上問題など、おいおいと言う事柄が続く。その折々の安倍ちゃんの言動はいかにも頼りなく見えるのも事実である。
柳沢厚労相の件も問答無用で素早く罷免すれば良かったのだが、そこまでの決断も出来ず、さらに庇うような発言をして、自らチャンスを放棄してしまった。「女性蔑視とも受け取れる発言は意図せざるモノであっても言語道断、安倍内閣の一員として認めがたい」とでも言って決然と罷免すれば、お、なかなかやるじゃん、となったのに本当に勿体ない。
安倍ちゃんの周囲にまともな思考の出来る「大人」は居ないのだろうか。
アホを露呈した塩崎とか、空気が読めない中川(酒)とか復党問題でヘタレてしまった中川(女)とか、こいつらには元より期待はしていないのだが、鳴り物入りで就任した補佐官とか、多分きちんと進言出来る人物は居ないのだろうな。
というか、安倍ちゃん自身が周囲の言葉を受け入れてない可能性が高い。
小泉前総理には官邸を牛耳る飯島秘書官が居た。果たして安倍ちゃんには全幅の信頼を置く人物が居るのだろうか。ま、そいつが世の中の空気が読める奴でないと意味無いのだが。

ほんでもって問題の支持率なんだが、ミーハー人気を当てにされて参院選対策として総理になった安倍ちゃんだけに、低空飛行の支持率は少しばかりアタマが痛い。7月の参院選までと言うのではなくて、その前哨戦となる3月の地方選まで最早待ったなしの状態になってきた。
ま、政権の人気を上げるのは内政では難しい。人気回復の特効薬は何と言っても外交である。それも出来れば、小泉さんの時の例の不審船銃撃事件のような、日本人が心おきなく憤慨出来るような突発的事件を、鮮やかに、かつ強硬に裁いてみせるに限るのである。
となるとやはり特亜がらみがいい。とは言え北朝鮮は最早食傷気味だし、中国とわざわざ事を構えるのは剣呑すぎる。適当なのは何と言っても空気の読めないレイムダック盧武鉉の韓国であろう。

韓国との懸案事項はいくらでもある。不法占拠が続く竹島に海上自衛隊を急襲させて奪還しても良いし、不法滞在して悪行を続ける武装スリ団を一網打尽にするために不法滞在韓国人を全国一斉摘発を強力に推進しても良い。ついでに広域暴力団構成員の30%を占めるという在日韓国朝鮮人を本国に強制送還しても良いし、民団所属の在日韓国人企業を徹底的に税務調査して少しでもおかしな点があれば、これまた本国に送還しても良い。さらには日本製品を無断でパクった韓国製品を国際市場で重点監視し、日本国内の裁判で徹底的に有罪にする。著作権侵害をタテにとって韓国からのインターネットを封鎖してやっても良い。それ位やれば、きっと韓国の盧武鉉は空気が読めないから向こうの方から日本に宣戦を布告してくれるだろう。
そうなれば思うつぼである。
韓国と戦争になっても、実際問題日本は困りはしない。韓国の海軍は日本海を渡航出来る能力はなく空軍が跳んできても自衛隊の餌食となる。心配なのは対馬位だが、ここには自衛隊を駐屯させておけば砲撃も怖くはない。一発でも撃ってくれば釜山に報復砲撃すると言えば何も出来ないだろう。その前に、日本に宣戦布告した時点で韓国経済は終わりである。
韓国への海路を封鎖すれば1ヶ月で戦争は終了する。海上を封鎖されては韓国に継戦能力はない。
そして誰一人死なないまま第1次日韓戦争は終了する。

韓国との紛争となれば日本国内もまた蜂の巣をつついたような大騒ぎになる。
戦後60年、韓国及び韓国人の横暴に耐え、その無茶苦茶な言いがかりやインネンをつけられてもじっと我慢して、資金援助や技術援助をして韓国をここまで支援してきた日本及び日本人にとって、さすがにもう堪忍袋の緒が切れたのである。事ここに至って万やむ無し、と世論を誘導出来れば政権の勝ちである。その時になって民主党や社民党の脳内お花畑達は相変わらず「戦争はいけません、戦争反対」などと世迷い事を唱えていれば、国民の支持は急速に自民党に集まるだろう。何しろ韓国から宣戦布告してきたのだから。

と、まぁ安倍ちゃん政権が支持率をアップさせるためにはこれ位の国際謀略が必要なのではあるまいか、と冗談半分に考えるのである。
もちろん北朝鮮問題が大きく動く可能性もある。
アングラで噂されたように北朝鮮国内で突発的な政権崩壊があって、例えば金正日将軍亡命とかになって朝鮮半島の緊張が大きく高まっても、安倍ちゃん政権の追い風にはなるだろう。しかしそこで傍観しているようでは支持率アップには繋がらないだろう。
結局、内政で手詰まりな分、活路を外政に求めても、どうも積極果敢さに欠ける安倍ちゃん政権では、大きな決断が出来ないままズルズルとチャンスを逃してしまうのではないか、という気がしてならないのだ。
少なくとももう「美しい日本」などと言う空虚なスローガンを繰り返すのは止めて、どんな問題でも毅然とした対応、発言を心がけるしかない。それが出来なければ奈落の底に墜落するしかない。
いやはや本当に手のかかるボンボン内閣である。

●環境問題を考える~文明の崩壊と存続の命運を分けるモノ

2007-01-30 21:38:39 | 時事社会問題
いまメディアの流行りは環境問題だろう。猫も杓子も「地球温暖化」だの「エコリサイクル」だの「炭酸ガス排出規制」だの、一体お前ら本当に分かってあおり立ててるのか?
もちろん僕自身は皆目分からない。
こういうややこしい問題は、難しい事は置いておいて物事を単純に考えるのがよい。
人間は酸素を取り入れて二酸化炭素ガスを排出する。生きている以上仕方がない。そんな人間が今70億人以上も生息しているのであるから、そりゃ二酸化炭素が増えるのは当たり前である。僕が小学校の頃習った世界の人口は30億とかだったのに、わずか40年ほどで倍増しているのだからそりゃエライ事になる訳である。二酸化炭素だけではない。世界中の牛のゲップによるメタンガスの排出量は膨大なモノらしい。メタンガスは二酸化炭素以上の温室効果があると言う。
それに加えて人間の文明活動による負荷である。

だからと言って、牛を半減させる訳にはいかないだろうし、人間を半減させる訳にはいかない。
環境対策をしていない自動車は全部廃棄します、と言ったって、日本の中古車がバンバン走っている中近東やアフリカ、ロシアなんて「知るかボケェ」状態となるのは目に見えている。
解決策はあるのだが、誰も出来ない、やろうとしないのが「環境問題」なのである。
だから余計に「環境問題」をはやし立て無責任に「少しでも早い対策を」なんて言う輩に腹が立つ。「言うだけで解決するなら誰も苦労はせんわい」と。
また「環境問題」を見事に金儲けの手段としているのを見ると、その臆面のなさに呆れ果てて感嘆してしまう。二酸化炭素ガス排出権の売買マーケット、なんて実にお見事な鉄面皮である。よ、人、天下一! ま、こういう奴らでないと現代社会は生き抜けませんな、ふぅ。

で、問題は実際にエライ事になっている最前線である。
以前、温暖化による海面上昇で国土が無くなってしまうと言われたツバル共和国なんて島嶼国がクローズアップされていたけれど、これはどうやら温暖化と言う事より地下水の乱獲が原因らしい、と言う事になって途端にトーンダウンしてしまったようだが、詳しい事は知らない。
実はいま環境問題で国家存亡の危機にある国がある。ひとつは中国で、もう一つがオーストラリアである。ま、中国はうすうすそんな事では無かろうか、位の認識があったのだが、オーストラリアは自然豊かな大陸国というイメージだったので意外だった。

●リサイクル下水、飲むしかない…干ばつ豪、08年から
(070129/読売新聞)http://www.yomiuri.co.jp/world/news/20070129i514.htm
干ばつに苦しむオーストラリア北東部クインズランド州政府は28日、下水を飲料用にリサイクル処理した水を同州の一部で2008年から使用すると発表した。(中略)地元紙によると、このまま干ばつが続けば、同州の水源は09年に枯れるという。オーストラリアは現在、史上最悪といわれる干ばつに見舞われており、全国で下水再利用への関心が高まっている。

オーストラリア大陸は近年、干ばつによる国土の砂漠化が深刻化しているのである。
で、これが果たして「地球温暖化」とどう繋がっているのかというと、何やら難しい因果関係があるのだが、結局、日本が誇る地球シュミレーターと言う化け物みたいなスーパーコンピュータで計算していくと、そう言う結果が得られたのだという。ま、仮説の段階らしい。
炭酸ガスが温室効果を生み、北極や南極の極地方が暖かくなると、地球全体の大気循環が変動しそれに連動して水の循環も異常を来すらしい。その結果がアフリカ~アジア~米大陸の赤道付近を中心とした砂漠の急速な拡大であり、旧ソ連圏南部から中国にかけてのユーラシア大陸内陸部の乾燥・砂漠化、そして豪州大陸の砂漠化拡大に繋がっているのだと言う。

いまジャレド・ダイアモンドの「文明崩壊~滅亡と存続の命運を分けるもの」という大著を再び読み直している。過去、地球上の文明が何故滅亡したのか、またある文明は生き延びたのにある文明は滅亡した、その違いは一体何処にあったのか、という事をテーマにした、まぁ実に回りくどい堂々巡りの著作である。
著者はパプアニューギニア研究の環境学者だけあって、文明の崩壊原因を「環境破壊と周辺関係の崩壊」に求めており、その視点から様々な滅亡した文明を検証している。難しい事は分からないので、その一つ一つはどうだっていいのだが、ジャレド・ダイアモンドが問題にしているのは「じゃ現代の世界に置き換えれば文明崩壊は近い将来あり得るのか」という事である。
結論的には「ある」「大いにあり得る」「もうそのプロセスに入っているのではないか」という事である。いやはや怖い怖い。

オーストラリアの干ばつと砂漠化は、単に地球温暖化が招いた事態ではない。明らかにオーストラリア人による国土の環境破壊が原因なのだ。未開の土地に持ち込んだ農業や牧畜業、そして無茶苦茶な鉱工業開発やお決まりの都市化。広大な大陸を好き勝手に人間が荒らし回った結果、元々豊かな土壌ではなかった土地は荒れ砂漠化した。年々それは拡大し、そこへ地球温暖化による大気と水の循環のどこかに支障が起きて増幅された、と言う訳である。地球温暖化が先ではない。人間による環境破壊が先なのである。
中国大陸で起きている事も全く同じである。中国の場合はオーストラリアよりもその進行は早く、深刻度も高い。なにしろ首都北京の郊外にまで砂漠化の兆しは迫ってきているのである。中国もまた飲用水の確保が大きな問題となるのは時間の問題だと言われている。

ダイアモンドの著作によると文明の崩壊は、その文明が栄華の絶頂を極めたそのすぐ後から始まっているという。繁栄する都市、栄華を極めた科学文明の極みを実現した国家が、その頂点から一気に奈落の底に崩落する。それがもし文明の法則とするならば、アメリカ合衆国の摩天楼の都市群も、中国のネオン賑やかな活気溢れる都市達も、豪州の優雅な近代都市も、10年後、20年後はどうなってしまうのか分からない。
もちろん日本も同じであろう。狭い島国でありながら、山を切り崩し海を埋め立て営々と築き上げて、全国津々浦々に道路を通し鉄道を引き、海岸をコンクリートで塗り堅め、どこもかしこも都市にしてきた。祖先から受け継いだ日本の豊かな自然は急速に失われ、残されたモノはコンクリートの塊と1億3000万人もの人間だけ。

別に「地球温暖化」なんかが無くても、この文明はいずれ崩壊するしかない。地球資源をどん欲に呑み込み、効率の悪い都市を生み出すだけの現代文明では、持続力はない。いずれ近い将来に飽和点となり、資源が無くなれば急速に崩壊するしかない。そうなればやがて世界中で残ったわずかな資源を巡って熾烈な争いが起き、そこで勝ち残った者たちもやがて孤立して死に絶えるしかない。それが文明崩壊の法則なのである。

ジャレド・ダイアモンドは文明崩壊を防ぎ得た例として日本をあげる。日本の江戸時代を環境破壊から文明を守った希有な例だと言う。
この時代、日本は鎖国し海外との接触を少なくして自国をあえて孤立化し、低成長路線に強引に舵を切った。人口は増えず、国力という点ではその前の時代より縮小したが、しかしその300年間を通じて国土を丁寧に手入れをし、農業の生産性は大幅に上がった。環境破壊を出来るだけ避けたその文明モデルによって、同時に日本は十分な国力と文化力を備えその後の近代文明の洗礼にも十分対応出来るだけの力を蓄える事が出来た。日本が欧米以外で唯一近代化に成功したのはそうした環境順応による国力育成が出来たからである。

もし文明崩壊が世界規模で起こった場合、一体日本は日本人は生き残る事が出来るだろうか。
僕は楽観している。
日本人はまた、江戸時代に戻ればいいのである。
少子化大いに結構。海外に逃げる奴も結構。人口6000万人か7000万人位になって、高度な製造業に特化した国になればいい。それ以外の人間は農林水産業で吸収して、地方に分散する。都市はゆったりするし地方は活性化する。米をたらふく食って、近海魚と鶏卵でタンパク質を補給すれば十分である。必要な燃料や資源は輸入せざるを得ないが、基本は自給自足を目指すのである。政治も教育も文化も、あらゆるモノが地方主体となって、その地方独特のやり方で生きていけばよい。
江戸時代と同じにはならないが、その仕組みの良い点を取り入れれば、かなり暮らしやすい日本になるだろう。
それが日本人にとっての「次の文明」の姿である。モデルは自分たちの父祖の時代にある。

日本人のように「次の文明」の姿をはっきりと描く事の出来る民族は幸せである。おそらく次に来る時代では、さまざまな文明のモデルが世界各地で試行錯誤されるだろうが、すでに検証され成功したモデルを持つ日本人はここで一歩先んじる事が出来るだろう。
アメリカ人やロシア人は次の時代への移行が上手く行かずに大混乱を招く事だろうし、欧州は再びバラバラになって相争う事になる。アジアや南米は国家モデルの再構築が出来ずに政治的危機から紛争を招くかも知れない。アフリカは泥沼の部族抗争の中で沈んでいくだろう。原油資源が枯渇し王族が逃げ出した中近東は再び元の砂漠地帯に還っていく。
大きな動乱が起こるかも知れないし、あるいは民族抗争で数十億もの人々が殺されるかも知れない。そうした混乱を乗り越えて、生き残る民族は生き残り、滅亡する民族は為す術もなく滅んでいく。21世紀半ばから後半は文明崩壊と再生の時代となるのだろうか。

地球温暖化や環境問題を騒ぎ立てるのは実に怪しい奴らである。
冷静に考えれば、環境問題とはひとえに現代文明の結果であり、本気で解決するには資源浪費と大量消費によって成り立っている現代文明そのものを止めるしかないのである。
もしそれが可能ならば、現代文明の次に来る「この次の文明」の姿を示す事が必要になる。
それ無しでただ「資源を大切にしましょう」「ものは大切に使いましょう」と言った、小学生の標語レベルのお題目を唱えるだけで解決すると考えるのは、単なるおバカなのか、それとも何か薄汚い思惑でも秘めているのだろう。
環境問題を解決するには現代文明を崩壊させるレジウム・チェンジが必要なのだ。
環境論者は果たしてそこまで覚悟はあるのか、どうか。

中国やオーストラリア大陸は干ばつによる砂漠化によって国家は崩壊し、アメリカ大陸の穀倉地帯も消え失せ、世界の資源は枯渇し、南米アマゾンは拙速な開発で急激にジャングルを失い、やがて70億もの地球人は急速に人口を減らしていくだろう。それは別に地球温暖化の所為と言うよりは、環境破壊を許してきた現代文明の行き着く先である。その道を辿らないためにはどこかで現代文明を崩壊させる必要がある。果たして人為的に現代文明を破棄して新たな文明モデルを作り上げる覚悟が我々にあるのだろうか。
それが出来なければ、文明崩壊は必然となる。
おそらくその期限は僕らが考えているよりも相当早くなっている気がしてならないのである。