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風来雑記帳

時事社会・国際問題からスポーツまで、幅広い話題をごにょごにょと考えます。

●情報感度と「無関心が真実を見えなくする」

2007-01-26 20:32:36 | 時事社会問題
花王の配送車が女の子をひき殺してもTVニュースで社名が報じられないのは何故なんですか?とか、東国原知事が作業服で初登庁したのは一体誰の入れ知恵ですか?とか、アメリカザリガニの平井君があの江川有未さんと結婚しておめでとう!とか、プロ野球にはWBCがあるのだから最後のオリンピックぐらいアマチュアでチームを組んだらいいじゃん、とか、何故小林武史さんが一青窈さんに手を出してしまったのか松下由樹さんにぜひ感想をお訊きしたい、とか、そりゃぁもう、人間生きていればいろいろ疑問に思う事はある。
僕のような一般人ならそんな疑問を解消する術はないのだが、メディアの方々は違う。調べようと思えば調べる事が出来るし、直接本人に尋ねようとすれば名刺を振りかざせば一発で会う事が出来るだろう。そのための会社であり、マスコミのご威光という奴である。ダテに高給を貰っているのではない。そうした好奇心こそメディアの生命線であり飯の種だろう。別の言い方をすれば「ゲスの勘ぐり」こそメディアの真骨頂なのである。

時代の流れでいつの間にか勝手に社会的地位が上がったと勘違いしているテレビマンや、広告料金でかろうじて喰わせて貰っているくせに、勝手に「社会の木鐸」気取りで毒にも薬にもならない下手くそな文章を書き散らす大新聞者の編集記者諸君など、あんたたち自分たちが置かれた立場の厳しさをもう一度認識し直す必要があるのではないか、とお節介なおっさんは思うのである。
記者クラブの談合サークルに安住して、発表モノで紙面を埋めることが習い性となって、本来ジャーナリストが持っていなければならない「好奇心」や「探求心」などと言った基本的な資質をどこかに置き忘れたような紙面、番組作りで、本当に金が取れる代物だと考えているのだろうか。

インターネットの普及によって情報感度の違いが大きくなっている事が以前から指摘されているが、それは一般的に言われているような世代や年齢と言った属性で単純に括られるモノではない。パソコンや携帯電話を使いこなす事がイコール情報感度が高い事には繋がらないのである。
様々な情報が溢れるように流れている時代には、その中から一体どの情報をチョイスしその情報をどう自分で解釈するか、という事が大切になってくる。また流れている情報以外に、流れていない情報、隠されている情報、マスメディアが書かない流さない情報などを、どうすくい取って判断するかという事も大切な情報感度の問題である。
なぜこの記事がこの時期にこのメディアに掲載されるのか、なぜテレビニュースではこうしたバイアスをかけて視聴者を誘導するのか、その他メディアの思惑を想像してみるのも中々楽しい時間つぶしである。

そうした情報感度という面では意外にメディアの人間ほど鈍いのも、この国のジャーナリズムの衰弱の一因であろう。もしメディアの人間が情報感度が高ければ、自分たちが日々生産しているコンテンツのあまりにも情けなさに居たたまれないはずである。「実はあのニュースの裏側を知っているんだがウチではとても扱えない」などと訳知り顔で呑み屋でくだを巻く新聞社の人間は、結局どんな媒体で働こうともずっと自分を誤魔化しながら生きていくしかない可哀想な人間であろう。そんな奴らが一体「ジャーナリスト宣言」なんて、おいおい、いくら厚顔無恥なおっさんでも恥ずかしくて街を歩けやしねぇじゃん。おまけに今やっているTVCMと来た日にゃ、平和に暮らす日本人の生活映像に被せて戦争や飢餓の情景を被せ、「無関心が真実を見えなくする」とあげつらっている。エラそうに言える立場か朝日新聞。4分の3世紀ほど前、日本人を煽り戦争に追いやった朝日が言う真実など、今の日本人にとって一体どれほどの意味があるのか、あるいはまた日本人を酷い目に会わせようと画策しているのか。

ま、それはもういい。
いま僕たちが心しなければならないのは、こうした大手メディアの時代遅れの偉そうな態度ではない。問題はネット上に溢れる様々な情報の真偽、グレードである。もちろん情報は自分にとって面白ければそれで良い、役に立てばそれでよい、という考え方も出来る。本当かウソかはどうでも良い、というのもまた僕たちの暮らしの中では真実である。本当の事を知ったからと言って幸せになれるとも限らない。情報を数多く知っていることが人生の知恵に繋がるとは限らないのだ。ただ警戒すべきは、人は自分に都合の良い情報や心地よい情報にころっと騙される、と言う事である。
情報感度とは何でもかんでも「知る」事ではない。そういった世の中の様々な事象の中から生きる知恵や物事の理を自分なりにつかみ取る事であろう。なかなか難しい事である。

北朝鮮の金正日将軍及びその身辺に何やら緊急事態があったらしい、とか、円は大丈夫か、とか、いやいや心配なのは東南アジアや韓国だろう、とか、今年もまた巨人はダメだろう、とか、第41回スーパーボウルはどう考えても熊さん達が勝つだろう、とか、そりゃぁ今アングラで流れている噂の本当のところを知りたいというのは当たり前である。しかし本当に知りたい事はきっと他にあるのかも知れない。僕の人生はこれからもっと良くなるのですか、それとも、、、そりゃ細木のオバハンや豚が儲かる訳である。しかし他人に教えて貰わなければ分からないとは、何と人間とは不便な生き物だろう。

「知らぬが仏」と言うのもまた人生の真実なのだが、そうは言っても知りたいと思うのもまた、人間なのであろう。合掌。

●地方自治を巡る話題~新しい日本は地方から始まる

2007-01-23 23:35:15 | 時事社会問題
昨日に続き宮崎県知事選結果を受けてのエントリーである。地方自治についてもう少し考えてみたい。少し言い過ぎの部分はあるがご容赦願いたい。

●宮崎・東国原知事、作業着で初登庁…公用車使わず
(070123/読売新聞)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070123-00000004-yom-pol
宮崎県の東国原(ひがしこくばる)英夫(そのまんま東)新知事(49)は23日午前9時半過ぎ、県庁に初登庁した。「公用車は使わない」との宣言通り、支援者が運転する乗用車で正門前に到着し、約300人の職員に拍手で迎えられた。作業着にネクタイ姿で、女性職員から花束を受け取ると、笑顔を振りまきながら何度も頭を下げて庁内へ。講堂で県選管から当選証書を受け取ると、「県民から託された職責の重さを痛感している。県民の目線での行政に努めることを約束します」と一言ずつかみしめるように語った。知事室のいすに座った時には「こんな立派な机といすは、僕には似合わないですね」。週内は、各部署から業務内容などの説明を受ける予定。

当選した途端にマスコミから大もてのそのまんま知事である。フットワーク軽く、愛想の良い姿は確かにマスコミ的には話題にし易く、テレビ慣れした対応はさすがに元タレントである、良かった良かった。
で、まぁ実際問題、しばらくは神妙に、県庁スタッフの空気を十分忖度して控えめな言動に終始するなら、まず知事1期目としては十分成功するだろう。マスコミ受けや中央での知名度維持など余計な事を考えなければ、ま、それなりに無難にやっていける。今の日本の地方政治などその程度のモノである。

談合問題で公共工事の分配にはしばらく慎重な対応が必要だし、破綻状態の財政状況は有効な対策など無い。行政改革やリストラなど思い切った対策など出来るはずもなく、ま、せいぜい宮崎でキャンプを張る巨人軍にリップサービスするか、観光事業の活性化などと言う世迷い事をアピールする位しか、宮崎県知事として言える事は無い。
上京して中央官庁巡りをしても、また各政党巡りをしても、せいぜい愛想笑いをされて軽くあしらわれてお仕舞いだろう。担当スタッフは実にお気の毒だが、宮崎県が大幅に中央から補助金を交付される事は無い。苦労の多い任期となる。

新知事にはいろいろなプレッシャーやトラップがそこかしこに仕掛けられている。議会は手ぐすね引いてタレント知事の足を引っ張るだろうし、また裏取引を持ちかけては「これが宮崎のやり方ですから」などと取り込もうとするだろう。支援者からの期待というプレッシャーも大きい。中には選挙の見返りを要求するゲスな輩も当然いるだろう。地元マスコミとの関係構築も大変だし、中央メディアの「事あれかし」という眼もある。そんな事を全部引き受けての知事職なのだから、本当に物好きとしか言いようがない。
それともそう言った事を差し引いても良いほどの見返りが知事職にはあるのだろうか。
ま、世の中にはタレントに知事が務まるのか、なんて穿った見方をする奴も大勢いる。なに、一発屋作家や自称大小説家なるパチモンが務まるのなら、お笑いタレントの方がいくらかマシである。そのまんま知事の健闘を祈っている。

●夕張市支援、各閣僚に協力要請=菅総務相
(070123/時事通信)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20070123-00000078-jij-pol
菅義偉総務相は23日の閣僚懇談会で、財政破綻(はたん)した北海道夕張市への支援策について「過疎化、高齢化が進んでいる地域でもあり、雇用、中小企業対策などの面で各省庁の施策を活用できるものについてはご協力をお願いしたい」と述べ、各閣僚に協力を要請した。これに関連し、安倍晋三首相も「市の責任で財政再建するのが基本だが、高齢者、子どもについては配慮して対応する」と明言した。 

夕張市の財政破綻については以前のエントリーでも書いたが、僕は基本的に自業自得だと考えている。そして根本的に破綻した地方自治体はそれなりのペナルティを被るのは仕方がないとしか思えないのである。もちろん住民サービスの低下や極端な財政縮小による弊害はある程度の支援策は必要だが、それは自治体を助けるのではなく、困窮する住民を直接支援する方法を優先するべきだと思う。

夕張市の場合、国のエネルギー政策が変わり炭坑が閉鎖された時点で「街」として存在する意味が失われてしまったのである。炭坑の街として出来上がった街がその基幹産業を失った時点で、当然様々な対策がなされ、国や道から相当な期間、支援や投資がなされてきた。その原資は全て他地域からの税収であり、いわば夕張地区は数十年にわたって他地域の税金で食ってきた訳である。十分な時間と、財政投資がありながら、新たな街作りに失敗した自治体としての無能さは、しっかりとその責任を背負って貰わなくてはならない。
夕張市の職員や議員は現職もOBも、しっかりと責任を感じて貰いたい。ボーナスが出ない位で文句を言うな。お前達の怠慢と無能が夕張市をここまで追いつめたのではないのか。

お涙頂戴式の夕張報道に接するたびに、物凄い違和感がある。気の毒とか大変とか、もういい加減にして欲しいのである。それが数十年怠慢に過ごしてきた結果なのだから、潔く受け入れて責任を取ればよい。住民は否応なくそのつけを払わされる。地方公務員の無能の累積が事態をここまでにしてしまったのである。
財政破綻して二進も三進もいかなくなった地方自治体は、まず自助努力でなりふり構わずスリム化して耐える他無い。そして近隣の自治体に吸収して貰うか、住民が逃げ出して消滅するか、いずれにしても今まで分不相応な行政をしてきた罰を受けるしかないのである。

今回の夕張の場合は北海道も国も支援するのは控えるべきである。今まで散々莫大な支援を行ってきたはずがこういった結果になった事を、道も国も真剣に反省するべきなのだ。地方自治体が破綻した場合のモデルとなる以上、安易な支援は他の破綻予備軍への警鐘にならないばかりか、破綻を促進する事に繋がりかねない。
お気の毒だが夕張市は極端に言えば自治権を返上するしかない。住民個々の支援は直接北海道や国が面倒を見て、自治体自体は解体するしかない。職員や議員はペナルティとして全員懲戒免職として再雇用はしない。議員や特別職の報酬は遡って過去の分も返上、返却させる、位の事はしないとダメである。

スクラップアンドビルドこそ日本が発展してきた原動力である。日本の歴史は実に柔軟にダメなモノを捨て去り、時代にそぐわなくなったシステムを壊して新しいモノを導入してきた。それがこの国の活力であり、一見停滞しているように見えるあらゆる分野も、30年から50年の周期で入れ替わっているのである。
日本の戦後に構築された「全国一律の地方自治システム」もまた、もはや耐用年数を迎え、過疎化・高齢化が進む地方自体から破綻していくのは時代の必然とも言える。
壊さなければ新しいモノは生まれない。そう言う意味で考えるといち早く破綻した自治体ほど、新しいシステムに移行出来るのである。ある意味夕張は幸運だったのかも知れない。
そう言えるように復興するためにも、破綻自治体にぶら下がってきた者たちにきっちり責任を取らせる事が大切なのである。

地方自治体が変わる時こそ、新しい日本が生まれる時である。改革は地方から、というのが日本と言う国の1500年の歴史に於いての真実なのである。

●12年目の黙祷

2007-01-17 20:33:55 | 時事社会問題
阪神大震災から12年経った。
関西のテレビ各局では朝からこの話題で、被災地の現在の様子や被災者のその後など、ま、定番ネタを延々とやっている。震災の記憶を風化させてはいけない、らしいのである。大きなお世話である。

12年前、僕の自宅も少し揺れた。仕事を終えたのが午前3時位だったので爆睡中だったはずだが、大きな横揺れに目がはっきりと覚め、その異様な揺れに為す術もなくただ寝床の中で子供と奥さんを起こしていた。幸い、台所の食器棚の扉が開き食器がいくつか飛び出して散乱した位で、その他は大したことは無かった。揺れが納まりすぐにテレビをつけると、臨時ニュースが始まっていた。
僕にとっての阪神大震災体験はここから始まる。
テレビは当初、一体何が起こったのか各局とも把握出来ていなかった。ただエライ事が起こっているらしい、という感じが各局をザッピングしている中で伝わってきた。ご近所も「エライ揺れたなぁ」という位で、特にどうと言う事はない。電話もこの時点では繋がっていた。知り合いや親戚縁者に連絡を取り、それぞれの無事を確認出来た。
どうやら神戸がエライ事らしい、と報じられたのが7時代になってからだったのではないか。もうテレビに釘付けだが、どうも様子がよく分からない。
そしてついに空撮の映像が黒煙が何本も舞い上がっている神戸の様子を映し出した。ここからは怒濤の震災映像のオンパレードである。

正直に言えば、僕にとって阪神大震災の記憶は、かなり後から再編集されたような曖昧模糊としたモノで、それもほとんどがテレビの映像の記憶である。見事に倒壊した阪神高速の高架道路、その高速道路から落ちそうになっている観光バスの危機一髪の姿、阪急電車の脱線光景、そして神戸の街のあちこちから舞い上がる黒煙と炎の狂宴。
その後には、神戸三宮の倒壊したビル群、液状化でズブズブになった埋め立て地、燃える街並み、崩壊した家々。そして避難所の人々。
僕の所でもその後何度も余震があった。あの足下から伝わってくる不気味な揺れは、テレビの悲惨な映像と相まって、恐怖を増幅させた。確実にトラウマとなって今も残っている。

テレビの映像で物凄い印象に残っているのが、TBSニュースのキャスター、筑紫哲弥と宮崎みどりのお二人である。お二人とも革靴と高価そうなコートで被災地に舞い降り、その姿のまま避難所のレポートと称して被災民のインタビューを笑顔を交えながらこなしていた。
僕はこの二人を許せない。恐らく何らかの事情があったのだろうし、番組の都合もあったのだろうが、僕は筑紫哲弥という人間を信用しない。彼が何をテレビで言おうと、どんな仕事をしていようと、人間として軽蔑する。最低の人間である。
それが僕の震災体験である。

震災の記憶を風化させるな、というのは勝手である。つらい出来事は早く忘れた方が良いに決まっている。被災地にしても、少しでも早く震災の傷が消えて新しい活気に満ちた街になる方が良い。いつまでも被災の記憶を引きずっていたのでは堪らない。もちろん震災の教訓はこれからの防災対策に生かすべきだし、街作りの基準にフィードバックするなど、やるべき事はきちんとしなくてはならない。しかし12年経って、未だにマンションの建て替えや生活保護所帯の問題などが解決出来ていない、なんて事はお粗末すぎる。いつまで震災復興をダシにすればよいのか、いいか加減にして欲しい。

日本列島は世界的に見ても火山帯が集中し大陸プレートが沈み込む、まれに見る地震の巣である。
古今東西、地震や津波などの被害に見舞われ、その都度、壊滅状態の中から復興してきた。それが日本の歴史であり、この列島に住む代償なのだ。その代わり、この列島は豊かな水と温暖で暮らしやすい環境を与えてくれた。日本列島は縄文の時代から世界有数の生産力の高い土地であり、だからこそユーラシアや南洋諸島から何十万人という人々がわざわざ渡ってきたのである。

地震や津波、災害という奴は、人間の寿命に比較するともう少し長いスパンでやってくる。人は自分自身で体験しないと中々身に染みて用心はしないものである。関東大震災をいくら語り継いでも、本気で東京から逃げ出そうとする人は少ない。ましてや関西では大きな地震はここ50年以上起こっていなかった。油断がなかったか、と問われれば確かに油断していたし高を括っていたのは事実である。それが一転、関西の防災意識は否応なく高まった。耐震設計を売り文句にするマンションが売れ、一戸建てでも震災に耐えたという某プレハブメーカーの家が売れた。
それ自体は結構な事なのだが、どうやらそうした「耐震設計」もいい加減なモノだという事が近年言われ出している。しっかり基礎を造った高層耐震マンションでもある種の地震の長周期波動には耐えられないとか、想定された震度6程度に耐えられても直下型地震ならもっと震度は大きくなるとか、そもそも地盤が緩い堆積層の大阪平野では直下型地震には耐えられないとか、そりゃもう一体どうすればいいのか状態である。

結局、僕たちにとっての災害対策とは「腹を括る」事以外にないのである。
地震やそれによる津波を僕たちは防ぐ事など出来はしない。逃げるとしても、それはたまたま運良く「第一撃」を逃れた場合である。津波の場合は時間との勝負だが、震源地に近ければほとんど助からない。直下型の活断層地震でも、プレート型の東海、東南海、南海地震の場合でも、結局最初の一撃は運任せで逃れるしかない。そして被災の程度によってその後のサバイバルの覚悟をするのである。行政や地域コミュニティが機能するのは、ある程度時間が必要だ。それまでの48時間から72時間を、自分たちの力で生き抜く事である。
家族や友人知人、ご近所など、助け合う事が出来るならそれに越した事はない。そういった頼りになる人々が居なければ、自分一人の力で生き抜く覚悟を、日頃からしておく事である。

核戦争が怖いからと言って核シェルターを造ったバカは、見上げたバカだが、地震が怖いからと言って耐震構造の家を建てるのも、結局同じなのかも知れない。ここは日本人の伝統に従って、逆にすぐに壊れる家に住むのも一つの手ではないか。木の柱と土の壁、そして藁の屋根なら崩れてしまっても助かる可能性はある。復興も容易だ。究極はあの公園に並ぶブルーハウスであろう。最近余り見かけなくなっているが、あのブルーハウスの作り方も結構ノウハウがあるらしい。ま、それでは抵抗があるという方は、キャンピングテントという手もある。
本気で地震から命を守りたければ、四方が開けた土地にドーム型のテントを建て、そこで暮らす事である。荷物は最小限に、水と食糧は3日分程度を確保しておけばよい。テントが嫌なら車でよい。キャンピングカーなら家を建てるより安くつく。
しかし僕はこうした生活を続けるのは勘弁である。いつ来るか分からない地震に備えて、キャンピングカーやテント、ブルーハウスで生活するなんて、そこまでの根性は残念ながら無い。

年末の特番でたま書房の韮澤さんがブラジルのジョセリーノなんて予言者を持ち出してきて、またまた大地震の予言なるものを紹介していた。韮澤さんも相変わらずだが、それを垂れ流すテレビ局も大概だが、ビートたけしをMCに使っていれば何でもバラエティとして許されると思っている所が、もはや終わっている。しかし「アジアで100万人の被害を出す大地震」とか「2年後の1月25日に大阪で大地震、50万人が被害」って言われちゃうと、当該地域に当て嵌まる人間としては気持ちの良いモノではない。
脳みその防衛力の弱いお子ちゃまや、僕のような気の弱いいたいけな人間は堪ったモノではない。ブラジルのジョセリーノなんて怪しすぎて、いくら何でもなのだが、どうもこうした終末思想を煽って金儲けをしようとする輩が、また蠢きだしたのか、こりない奴らである。あ、韮澤さんがらみか、じゃ大丈夫だな。僕はこの人をある意味凄く信頼しているのである。この人が関わっているなら間違いなくバチモノであろう、良かった。

12年目を迎えて、テレビでまたぞろあの光景を見せられるのは、僕の中に巣くった地震トラウマを微妙に刺激する。あの気持ち悪い揺れと、悪夢のような光景が、フラッシュバックして増幅されるような気持ちになるのである。在阪テレビ局としては毎年のルーティンとしてやらなくてはならない定番ネタだろうが、そろそろ勘弁してくれないだろうか。
それよりもあの時、報道競争に入れ込む余り、テレビ局や新聞社の取材ヘリの24時間続く絶え間ない轟音のため、生きて助けを求める人々の声がかき消され、数多くの人々が被災後に亡くなってしまった、と言う事実をなぜテレビ局は検証しないのか。お前達は殺人者ではないのか。その反省もなく、震災の教訓を風化させるなとは、一体どの口が言うのだろうか。

●謎のテレビCMを考える

2007-01-15 12:23:06 | 時事社会問題
NFLはディビジョナル・プレイオフまで進んで大盛り上がり。眠いのである。
世間ではバラバラ殺人事件が立て続けだし、鶏インフルエンザが起こっているし、谷原章介さんは結婚させられちゃうし、ル・マンの松井大輔が2得点上げるし、そりゃもう大変である。
でもね、僕たちの日常ルーティンは続いているし、目の前の仕事は待ってくれない。
あぁ人生はこうして消費され、少しずつ消耗していくのだなぁ、と感慨に浸る間もなく、24時間が過ぎ、1週間が過ぎ、そして気が付けばもう1月も15日ですよ、えらいこっちゃ。

●米国発謎の「宗教団体」 日本で大キャンペーン
(070113/J-CAST NEWS)http://www.j-cast.com/2007/01/13004863.html
「Power For Living」という宗教関係の本を無料提供する、という大キャンペーンが始まっている。有名人を「広告塔」に、テレビのCMや大手新聞の全面広告をバンバン打ち、「いったい何か」と一般人を惑わせている。仕掛けているのは、米国のアーサーS.デモス財団という謎の団体だ。なにせ、本家アメリカのマスコミすら究明できないほどベールに包まれているのだ。

北海道日本ハムのヒルマン監督が登場したりして、一体なんじゃらほい、と言う仕掛けのCMが流れており、気になっていた。J-CASTによれば「キリスト教保守派(右派)の立場で、中絶反対、ポルノ反対、同性愛反対などの運動を強固に展開。さらに、現ブッシュ大統領の当選にも貢献したとされている」アーサーS.デモス財団という、アメリカの宗教伝道団体が日本に上陸したらしい。米国「タイム誌」が調べたがその正体は余り分かっていないらしい。

ま、「謎の宗教団体」が何であれ、これCMで流して本当に大丈夫なのか、と言うテレビ局の判断は果たして正しいのか。広告屋としてはテレビ局や新聞社の広告審査など信用していない、と言うかどうにでもなるものだという事を知っている。僕も過去何度かヤバ目の広告を突っ込んできた覚えがある。メディアの広告部とすったもんだの交渉で広告表現を変えたり、出稿形式を整えたり、銀行から手を回してもらったり、とあの手この手で広告出稿を許可させる、メディア担当者の腕である。僕の場合は健康食品だったり各種学校だったり、ほとんどが表現の問題だったりする他愛もないものだが、大手の広告代理店の力を持ってすれば、スポット広告などほとんどフリーパスではなかったか。

僕はこのCMを見て、てっきり自己啓発団体の新しいやり口か、などと思った。
CM自体のスポット料金や「無料で本を差し上げます」という本代、送料、データベース構築費、コールセンターへの外注費など、ざっと考えただけでも、下手すれば数億では済まない結構な費用がかかる。それだけの資金を投入して、一体なにを目論んでいるのか。
キリスト教の布教活動か、それとも何か自己啓発セミナー的なスピリチュアル事業を展開しようと言うのか。

日本に於いてキリスト教布教が上手くいかなかったのはある種の謎とされている。フランシスコ・ザビエルの時代から数えると500年間に渡ってキリスト教は、この極東の島国を攻略しようとして上手くいかなかった。豊臣時代から江戸幕府時代に禁教となり布教が禁止されたのは、当時のキリスト教が宗教の皮を被った植民地侵略だった事が大きな理由らしい。一説には九州・西国を中心に50万人以上の若い女性が性奴隷としてスペインやポルトガル人の手によって「輸出」されたらしい。日本人の「キリスト教嫌い」はこの時に植え付けられたのだろうか。もちろん江戸時代300年間を通じての禁教の影響は大きい。
江戸幕府が必死になってキリスト教を弾圧したのは、逆に言えばそれだけキリスト教布教の圧力が強かった証明でもある。放っておけば蔓延する、という恐怖感が時の為政者には強かった、と言う事である。
その後、明治期になってキリスト教は再び日本に入ってきたが、大きなムーブメントを起こせず、また昭和の敗戦によってあらゆる制度がアメリカによって書き換えられたにも関わらず、キリスト教布教は日本では成功しなかった。
こう見てくると、どうやら日本人の宗教観は江戸時代に培われ、根強く今の時代まで続いているという事なのであろう。日本に於けるイスラム教も合わせて考えると、一神教はどうも日本人の宗教観に合わないのではないか、と思えてくる。

アーサーS.デモス財団の狙いが「日本に於けるキリスト教の布教」と言う事ならば、疑問はただ一点、なぜこの時期・タイミングで巨額の資金を投入して日本で布教しなければならない理由があるのか、と言う事である。
いまさら日本人が数百万人単位でキリスト教に改宗するとは思えない。それともキリスト教とは違う、もしくはキリスト教を隠れ蓑にした新興宗教、またはカルトなのか。
10万人の信者を獲得出来るのなら、10億円を支払っても一人あたり1万円のコストである。宗教活動と考えれば安い。う~ん宗教もお手軽になったものである。

日本はカルトの天国だという。
新興宗教としてそれなりに認知されている巨大宗教団体も、海外では完全にカルトとして排斥されるらしい。ま、カルトと新興宗教の違いが一体何処にあるのか、僕は不勉強で分からないが、どちらもあまりお近づきになりたくはない。
オカルトや神秘的なお話は大好きだが、「宗教組織」とか「団体」とか聞くと胡散臭く思えてしまう僕は、単なるへそ曲がりなのだろうか。
しかし世の中には一定数の、こうしたものにかぶれてしまう「マニア」がいるらしい。真実を求めて新興宗教を渡り歩く人、財産を根こそぎ寄進して生活保護を受けながら信仰生活に生きる人、毎日朝早く、夜遅く大声でなにやら呪文をがなり立て、近所迷惑で訴えられた人、などなど、僕の周囲にも何人かの不思議な人たちが居る。しかし僕はこういう人たちを排斥する気にはなれない。
信仰に自由は当たり前である。なにを信じようと、何を拝もうと、他人に迷惑をかけない限り、その人の責任で自由にやればよい、と考えていた。
しかし、どうやらカルトとはそんな甘いモノではないそうである。
カルトはあらゆる手段で人間を絡め取る術を駆使し、信者を獲得しようとする。ウソや騙し、欺瞞や詐欺などお手の物である。一旦引きずり込まれたら、中々抜けられない。人間の思考や精神など、簡単に洗脳出来るのだという。それが怖い。

テレビでは細木某とか江原なんとかとか、胡散臭すぎて思わず笑ってしまう人物が堂々と冠番組を持って登場している。それぞれの番組で彼らが言っている事は実に他愛のない、人畜無害なモラルであったり常識や礼儀であったりする。しかし彼らがテレビに登場している、と言う事自体が、もはや一つのメッセージなのである。彼らはテレビというメディアに登場する事によって、社会の免罪符を得、世間の崇拝を集めようとする。彼らの中身がどうであれ、世間は「テレビに出ている著名な先生」という事でもてはやし、巨額の金を貢いでしまう。彼らが本物か偽物か、なんて事はもはやどうでもいいのである。テレビに出ている時点で彼らの商売は大成功なのだ。
テレビ局にとって彼らはあくまでも視聴率の獲れる「ネタ」でしかない。イロモノ・タレントの一種であって、視聴率さえ出ている間は使い続けるだけの事である。そこに大きな錯覚がある。

メディアはどうも自分たちがある種の社会装置であり、大きな権力を持ってしまったモンスターだという事に、どうやら気付かないふりをしているらしい。
自分たちが毎日垂れ流す膨大なコンテンツが、一体社会にどういった影響があり、どういう実態を招いているのか、その検証が全くなされていないのである。日本のメディアがレベルが低いのは、けっして視聴率至上主義だとか制作体制の不備だとかの問題ではない。自分たちの番組や記事を検証する、自己認識の欠如が、致命的なレベル低下を招いているのだ。どんな製品でも工業製品ならきちんと検品し、その製品の使用実態についての追跡調査が行われる。それは次の製品の開発に生かされ、日々より良い製品が作られていく。しかし日本のコンテンツ産業にはそうした自己検証作業がフィードバックされるシステムが全く整備されていないのである。
問題が起きた時だけ対処する、その場しのぎの番組作りを十年一日やっているから、全く進歩がないのである。

テレビや雑誌でオカルトや疑似科学を採りあげるなら、それなりの検証はメディア側が責任を持って行うべきである。前歴の怪しい占い師やただのデブを持ち上げるのも結構だが、彼らの金儲けの片棒を担ぐ以上、その結果や影響に対してそれなりの責任を問われるのは覚悟する事である。
そしていくら金を貰ったからとは言え、訳の分からないアメリカの宗教団体のCMを、何のエクスキューズも無く流すのは、責任の所在が自分たちにある事を自覚すべきである。何か問題があった時に「あれは単なるスポットCMですから」とか「メディアは単なる場所貸しですから」なんて不細工な弁明はしない事である。広告部長程度のクビで済むと思っていたのなら大間違いである。広告を流して成り立っている、民間放送の事業モデルそのものに関わる重大な問題なのである。

しかしメディアに流れているCMのうち、結構胡散臭いものがある。企業舎弟やそのつながりのある企業、そしてからくりのある商品やサービスなど、おいおいこんなの大丈夫か、という奴が結構あるのだ。
そんなのをいかに料理して世間に認知させるのか、という役割が僕たちのような広告屋の腕の見せ所なのだ(苦W。
結局、高い金を払ってバンバンCMを流さなければ売れない商品や、イメージを上げたい企業、なんて存在は、それ自体が胡散臭いのである。
CMや広告が溢れる世の中だからこそ、その裏側を疑ってかかる事が大切になってくる、なんて嫌な世の中ではあるが、それもまた楽しからずや、なのだ。

●納豆狂騒曲

2007-01-11 23:12:59 | 時事社会問題
納豆が売っていない。サンディにもジャスコにもサンプラザにも、玉出にもはたまた業務スーパーでさえ納豆が売り切れてしまっているのである。
日曜日のCX系「発掘!あるある大事典2」で納豆が採りあげられたらしい。手元の番組案内を見ると「正月太りは食材Xで解消!我慢せず食べるだけ!?2週間に3キロ減の新法則で気になる中性脂肪も減」とある。この食材Xが「納豆」なのだという。我が家でも奥さんが見ていたらしく、早速翌朝から納豆を食べさせられた。

もともと僕は納豆を夕食時に食べている。納豆の血液溶解作用による血液サラサラ効果を期待しての、ま、もう数年以上続く食習慣である。それプラス朝の納豆攻撃である。ご飯と一緒に食べる訳ではないので、少し厳しいものがあるが、「食べるだけで基礎代謝が上がる」なんて言われたら嫌とは言えない。基礎代謝が300kcal上がれば、晩ご飯でもう一品食べる事が出来るのである。ま、大体「これを食べれば痩せる」なんて事はほとんど大嘘である。食べるだけで痩せるなら、それは人間にとって「毒」である。当たり前の食品は食べれば太るし、そればかり食べていれば身体をこわす。そんな事は分かっている。
分かってはいても、「基礎代謝を上げる」なんて言われてしまうとホイホイとつい乗ってしまうのも、悲しい性ではある。

で、納豆狂騒曲である。
奥さんによると月曜日も火曜日も、別にそれ程「納豆品切れ」という感じはなかったらしい。どのスーパーでもごく普通にいつもの納豆が手に入ったらしい。で、今朝である。ネットニュースで「納豆品切れ続出」と出たので、奥さんと一緒に午後から偵察。
あはは、本当に見事に品切れてやんの。
もうね、おじさんは呆れてしまいましたよ、なんだこのザマは。

まず納豆メーカーである。
「あるある」で採りあげられるのが分かっていたはずなのに、一体どんな対策を採っていたのか。もし知らなかった、と言うならマーケの人間はクビである。少なくとも業界大手の納豆メーカーの担当者は辞表を出せ。
「納豆」という食品は日本人の基幹食品ではなかったか。日本人の食卓に必ず乗せられるよう、長年先輩達が営々とした努力を通じて、日本の家庭にキャンペーンを張り、ようやく関東地方のローカル食品から全国区の市場を獲得出来るようになった、矢先ではなかったのか。
僕は広告屋として、関西に於ける某納豆メーカーの営業マン達の、それこそ血と汗と涙の物語を知っている。スーパーの店頭に置いて貰うために、一体どれだけの試行錯誤と営業マン達の苦闘があったのか、それらの先輩達の努力を一瞬にして無に帰す事態なのである。
メーカーにとってお得意様であるスーパーの棚から一斉に製品が消えて無くなる事など、絶対にあってはならない事である。それがテレビの番組の所為であるならば、なぜ事前に情報を入手して、絶対に品切れを起こさない体制を整えておかなかったのか。
納豆という食品が日本人の食卓にとって無くてはならないものであるなら、そうメーカーとして自負するのなら、絶対に品切れを起こさせない供給責任がそこには存在するのである。それがメーカーの矜持でありプライドであろう。恥じよ。

そしてがらんとした食品棚に「品切れのお詫び」を出して、来る客に舌打ちされる事態に手をこまねいている各スーパーの食品担当者よ、この機会損失を肝に銘じよ。
今まで横柄な態度でメーカーの営業マンに接していなかったか、また客のニーズに鈍感ではなかったか。売り場の空白は担当者の恥である。同時にその期間をいかに短くする事が出来るのかで、力量が問われる。本部の言いなりで仕入れては居なかったか、情報感度は鈍っては居なかったか。
商売人にとって機会損失こそ悔しいものはない。肝に銘じて、商売に徹するべきである。

テレビの健康番組の威力は、別に今に始まった事ではない。あの食材が良い、この健康食材をこう食べれば痩せられる、ガンを予防する、寿命が延びる、、、。そう何でもかんでも推奨しなくてもいいのに、と言うほど次々と採りあげられてはブームとなり、狂騒があり、やがて大量に市場に出回り始めると次のブームがやってくる、という繰り返しだった。
今回の納豆の場合、単に「痩せる」というのではなく、「基礎代謝を上げその結果痩せやすくなる」という実に一見理に適った話の組み立てに、人々は乗せられてしまったようである。
元々納豆が身体によい事は知っている。好き嫌いは別にしてその納豆を朝晩食べるだけ、という手軽さと安価がブームを呼ぶ。敷居の低い、実にお気軽なダイエットなのである。

しかし問題はこの納豆ダイエットも何ヶ月かでブームは去り、果たしてその後どうなるのか、と言う事である。
僕のように以前から身体に良いから食べていた者にとって、ブームは関係ない。ブームが去っても、ま、1食位は納豆を食べる習慣は残るだろう。正直、納豆が好きな訳でも特別おいしい訳でもなく、ただ「健康のために」食べ続けているだけである。
今回のブームで納豆を食べ出した人の内、何人かは食習慣として納豆を受け入れる可能性がある。しかし恐らく、ブームが去れば大半の人は納豆を食べなくなる可能性もある。もう見るのも嫌、という事である。

納豆メーカーの営業の苦闘はこれからである。
納豆が日本人の食卓の基幹食品として生き残れるか、食習慣の一つとしてごく普通の、当たり前の食べ物として受け入れられるのか。
ブームが去った後こそ、正念場となる。がんばれ、営業! 君たちの力で日本人の食生活を変えてやるのだ。
日本人には、つやつやと輝く炊きたてのおいしいご飯と、美味いみそ汁と、何十年と丹念にこねられてきた自家製のぬか漬けと、そして粒の揃った納豆があれば良い。
そう、それで日本人は21世紀もその次の世紀も生きていくのである。

●既存のシステムとは別の所で新しい物事が始まっている

2007-01-09 22:47:44 | 時事社会問題
ここのところ「時代の風」というものを考えている。
ま、商売柄というわけでそれ程難しい話ではない。一体いま流行っているものの共通点は何か、どういった傾向があるのか、といった漠然としたものである。
で、まぁぼんやりと分かってきたのは「ボロボロの既存システムをどう壊すか」という事と「壊さず修復出来るのか」という、どうやら分水嶺が「いま現在」らしい、という事である。
どうも僕の気分としては、修復するより壊した方が簡単だ、とか「気持ちいい」とか思うのだが、実際の人間社会はそんな風にはいかなくて、なんとかあちこちのボロボロの箇所をみんなで手分けして修理して廻っている、というのが実態なんだと思う。
でも、それもそろそろ色々な所で破綻し始めている。
恐らく、これから日本では今まで万全と信じられてきた様々なシステムや装置が、グズグズと崩れていく様が、そこかしこで見られるだろう。
それは同時にチャンスなんだけど、僕たち凡人には残念ながら打席は廻って来ないだろう。

いま、一時的に社会的にステータスを得て、「勝ち組」だの何だの言っている層は気をつけた方がよい。時代の転換期にはそんな奴が真っ先に犠牲になる。マスコミ各社の正社員、公務員、教師、医者、そういった「格差社会の勝ち組」に対する世間のネガティブな感情が爆発する時、時に行きすぎが起こり得る。
一方で、いまフリーターやニートと言ったレッテルを貼られて、十把一絡げで扱われている中から、次の時代の寵児が生まれる可能性がある。そして一人でも成功者が生まれれば、社会的な価値観はガラリと大きく変わるだろう。その変化の時が、どうやら意外に近いのではないかという気がしてならない。

僕のようなすれっからしの広告屋にとって、楽しみなのは変化の大きい時代である。2007年はどうやら時代が大きく動く(それが表に表れる)年になるのかも知れない、と期待している。

◆優秀な素材はJユースへ/高校サッカー
(070109/日刊スポーツ)http://www.aquarius.nikkansports.com/2006/soccer/winter/p-sc-tp0-20070109-140074.html
<高校サッカー:盛岡商2-1作陽>◇決勝◇8日◇東京・国立競技場
岩手と岡山の決勝は、誰も予想しなかっただろう。予兆はあった。タレントのJ流出だ。昨年、アジアを制したU16日本代表で高校でプレーする選手は1人だけ。02、04年が各5人、00年は過半数の11人だった。武南の大山監督は「いい素材はみな、浦和や大宮のユースに行く」と話した。Jクラブのない県の代表が決勝を争ったのは決して偶然ではない。かつては、不安定なJユースよりも、安定した高校での部活を選ぶ選手も多かった。今は、Jクラブが地元の高校と提携するなど環境を整備したことで、選手のJユースへの流れは加速した。個人の力で状況を打開できるような選手が、Jへ行く。残った選手たちは優秀な高校指導者のもとで徹底的に守備を鍛えられる。練習によって向上した守備力で、史上まれに見る守備的な大会になった。高校生らしい懸命なプレーは美しいが、驚きのある大会ではなかった。大会のレベルは、間違いなくJユースが出場する全日本ユース選手権の方が上。将来性を感じる選手も多い。今後は「実力の全日本ユース、人気の選手権」という図式が、さらに明確になっていきそうだ。【荻島弘一】

あはは、未だやってやんの、高校サッカー。お~い日テレ、巨人もダメなら高校サッカーもダメだなんて、お前の所何か悪い霊でも憑いてるんじゃねぇか、お得意の霊能者でも呼んでお払いしてもらったらどうだ。新年早々情けネーな。
て、別に高校サッカー自体には恨みはない。(もちろん僕の地元、大阪長居で開催されていた由緒ある高校サッカー選手権大会を、自社の都合で関東に持って行ってしまった読売グループの横暴は未だに許し難いのであるが)部活でシコシコ頑張っている高校生諸君の晴れの舞台、でも確かに試合内容はショボかったな、今年も。

原因は日刊スポーツが書いている通りなんだろう。Jリーグによるユースチームの育成が全国各地で普及して、良い選手がみんなそっちへ行っちゃって、残りカスで全国大会やっているようなものなら、そりゃ安全第一の守り合いになってしまう。
でも、それが部活サッカーの限界ならそれでいい。高校教育の一環なんだから、地道にJリーグとは無関係に頑張ればいいのである。

現在の日本サッカー界において大学進学は徐々にステータスを失ってきた。18歳から22歳という一番大切な時期に、ぬるい大学サッカーの環境にいたのでは、到底トップクラスのサッカー選手にはなれない。これがJリーグ発足以来の常識となった。そして今では少しでも早くプロの指導と環境に慣れるためには、高校の部活を経験するよりプロチームのユースで鍛えられた方が良い、となりつつある、と言えようか。

当たり前である。
高校の部活など、所詮顧問教師の熱意の問題だけの事。教師に力量がなければ強くはなれず、環境が整わない中で自己満足の練習に明け暮れるだけである。各都道府県のトップクラスのレベルになればそれなりでも、それ以下のチームなんかにチャンスはない。そして全国トップクラスのスポーツ強豪校は、どの種目でも全国ネットでめぼしい中学生をスカウトし、チームの中で淘汰してあたら才能を潰していく。果たして高校の部活から真の意味で新しい才能が発掘された例はあるのだろうか。
教師の個人的能力に頼り切った日本の教育システムの問題は、部活スポーツにも大きな影を落としているのだ。
サッカーやラグビー、野球、バスケットと言った球技に於いて、今やその才能を育むのは高校の部活ではなくジュニアからの育成システムとなりつつある。学校という収容所ではなく地域社会の「育成装置」が成果を上げだしているのだ。

今や子供の才能を教育育成する場は、学校という古い装置に変わって、民間や公的セクターの社会教育装置にシフトしつつある。そしてそれは今後、NPOやボランティアと言った社会奉仕活動の一環として提供されるだろう。幼児や小学生を放課後集めて、近所の公的な運動施設で各種スポーツを教える場に、リタイアした元Jリーガーやプロ野球選手がいても良いだろう。運動生理学を学ぶ体育大の学生が手伝っても良い。生涯学習を掲げる地方自治体なら、年寄りのゲートボールに補助金を出す位なら、子供達の未来のためにこうした場を積極的に援助する体制に変えていけばよい。
既に各地で取り組みは始まっている。
核になるのは地域社会なのである。地域のスポーツクラブなら、学校が変わっても、また大人になってもそのままエスカレーター式で継続して指導が受けられる。
学校の部活のような「ぶつ切り」が無くなるのである。

高校サッカーの全国大会に出場した3年生の大半は、この大会を最後にサッカーの選手を辞めてしまわなければならない。せっかく鍛えた身体も、せっかく身につけたサッカーも高校を卒業してしまえば用済みとなってしまう。地域のスポーツクラブなら市民チームなら、ずっとサッカーが続けられる。
国民の大半が、それぞれ思い思いに自由にスポーツが出来、継続出来る環境が整ってこそ、真の意味で先進国であろう。美しい国造りも結構だが、国民が平和にスポーツや芸術に自由に取り組める環境こそ、為政者が目指す国造りではないのか。

すでにこうした「国造り」は民間主導で全国各地で進行している。サッカー界の異変は確かに象徴的ではあるが、この国の「仕組み」が既に変わりつつある事を如実に表しているのだろう。現実は想像以上の速さで進行する、と言うのが21世紀の真実である。
気が付けば、あれもこれも、既存のシステムとは別の所で新しい動きが生まれて育ちつつある時代なのだ。

●謹賀新年

2007-01-04 15:20:57 | 時事社会問題
あけましておめでとうございます。
ま、つつがなく年が変わり、とりあえず地球も無事今年を迎える事が出来て、本当に良かった、のかどうか、ビミョーちゃビミョーな仕事始めでございます。

年末年始、目を引いたのがフセイン元大統領の絞首刑直前映像流出!つーか、なんか悪い音声で訳の分からないやりとりをやってる奴。
そりゃ、ある種の報復裁判なんだから「さっさと吊るしちまえ」という事になるのは仕方がない。だけどあの映像を見る限り、どう観たってフセイン元大統領の方が立派だった。
イラク政府は宗教対立という厄介な爆弾を抱え込んでしまった感がある。恐らくその導火線にはとっくに火がついていたのだろうが、これからますますイラクの治安維持は難しいだろうな、と思わせる出来事だった。

それに比べりゃ日本並びに周辺は平和。そりゃ北朝鮮なんておバカが、出来損ないを誇らしげに掲げて「うちら核保有したもんね」状態だし、そのすぐ傍にいるノムはポケットに手を突っ込んだまま「俺っちの言う事を聞かねぇ奴らはロクなもんじゃねぇ」と演説して内外の顰蹙を改めて買う始末。ま、どちらもチョーセンジンだから仕方ないのだが、あとは中国なんて急に空気を読んで大人しくなってしまいやがる。
もちろん彼らとは本当の意味での理解とか、友好なんてものはあり得ないのだが、それにしても別に戦争は起こっていない。中東やアフリカの状況を見ていると、東アジアは余程恵まれている。

ちょっと前だと年頭の経済番組では必ず「アメリカ経済の行方」なんて事がしきりに論議されていた。今はもう、日本経済に於いてアメリカ経済の依存度はさほど大きくはない。外需そのものに依存しない体制になりつつあるのと、アジア圏の比重の高まりで欧米圏の相対的比重低下が顕著なんだという。外需依存脱却、脱欧米入亜なんて、バブル崩壊後に言われ尽くした事が、ここに来てようやく成果が顕在化してきた訳で、これはやっぱり喜ぶべき事なんだろう、な。

新年の特別番組でやっていたアルビン・トフラーへのインタビューで、「変化への対応力が遅いのは、官僚、マスコミ、学校」と、情報化社会のボトルネックをあげていた。そりゃ今年もまた元旦の小雨の中を玄関先にドサっと置かれている朝日新聞は妙に惨めに見えたのだが、新聞メディアもテレビメディアも、どうも年々状況は悪くなっている感じがする。
中身の無い正月おせち番組の長時間垂れ流しは、僕のようにバラエティが大好きなおっさんであっても、かなり耐えられない次元にまでなっている。
日本の地上波テレビはもう映すものがないのだな、という諦めに似た気持ちにさせられた年末年始だった。

ともあれ新しい一年がスタート。
とりあえずボチボチと、きままに、きらくに、このブログを続けます。

●風来雑記帳:選/2006年10大ニュース<2>

2006-12-29 19:12:25 | 時事社会問題
昨日に引き続き今年の回顧である。

◆地方自治体の乱脈、地方自治崩壊へのカウントダウンか
大阪市の乱脈財政、京都市環境局の犯罪者連鎖、奈良市の長期病欠職員問題に端を発した「職員」の問題。福島県、和歌山県、宮崎県と日本全国の知事による談合汚職。さらに北海道夕張市の財政破綻問題。いやぁ地方自治はもうボロボロである。
これらの問題点はいずれも今に始まった問題ではない。地方自治組織が自己肥大化して自分たちに都合の良い仕組みを作り上げていった事で、その弊害が今になって噴き出してきた。

お手盛り闇給与にしても不適格者雇用の問題も、さらには談合や収賄なんて、結局、税金で食う人間が増えてしまった事が、こうした一連の不祥事を産んでいるのである。自治体にぶら下がって甘い汁を吸っていた結果、夕張市のように破綻してしまうと途端に責任のなすり合いとなって醜い姿を見せてしまう。地方に行くと、地域一番の高給取りは公務員、なんて所はざらにある。公共工事に依存した建設土木事業がその地域の基幹産業、なんて事例も数多い。こうなってしまうと地方自治体の水ぶくれ体質を精算する事など不可能だ。水清くても魚は棲まなくなってしまう。
地方自治がスリムになり、健全な財政規律を取り戻すのは、日本経済が破綻して日本全体が貧しくなった時以外あり得ない。国民が税金を払っている間は公務員組織は生き延び、既得権を手放す事はしないだろう。逆説的だが、地方自治体を健全にするには、一度破綻させるしかない。

そう言う意味で夕張市は有利である。いち早く破綻する事で、いち早く健全な地方自治が実現出来る。財政再建はまず組織やシステムを全面的に見直し、効率的な自治体を作るしかない。自分たちが今まで自治体にぶら下がって税金を食い物にしてきた自覚も無く、ボーナスが半減しただの再就職が心配だの、財政破綻の責任を全く感じていない職員など、懲戒免職にしても良い位である。公務員を甘やかした結果、日本の地方自治は非効率なモンスターになってしまった。
これを変えずに21世紀の日本は無い。

◆第1回WBC、日本まさかの優勝
もう随分前のような気がするが、これも今年の出来事だった。
正直イベントとしては、MLB主導のアメリカ西海岸のただの集客イベントのはずだったのだが、日本だけではなくアメリカでも思わぬ盛り上がりを見せたのが意外だった。
日本チームは王監督の下、イチロー選手が主役を務め、多彩な個性溢れる選手達が、真剣勝負の国際試合の面白さを見せてくれた。不可解な判定、韓国に連敗し崖っぷちに追い込まれながら、起死回生の勝利で決勝進出、そして日本野球の底力を見せての優勝。いやぁ堪能した。

改めて思ったのは日本は野球の国だという事である。
五輪からも外され、世界的には普及していないマイナースポーツである野球だが、しかし日本がこの種目に於いて世界の強豪である事は間違いない。恐らくこの日本チームをそっくりそのままメジャーリーグに加盟させ1年間160試合を戦っても、それなりの成績を上げるはずである。
サッカーで言えば、「王国」ブラジルに対するイタリアなりドイツなりフランスである。本場アメリカに、選手層や競技の総合力では決して引けを取らないレベルである。
だからこそ今回韓国に連敗したのはある意味ショックだったし、アテネ五輪で豪州に負けたのが許せないのである。
サッカーにおいてイタリアやフランスが日本に負けるとは思っても居ないように、野球に於いて日本はアジアはもちろん王国アメリカ以外の国に負ける事は許されない。それが「野球の国」日本のスポーツマインドである。

しかし第1回の世界大会の王者となった日本だが、野球界の未来は決して明るくない。僕は今年1年日本プロ野球のリーグ戦を1試合も見なかった。何が哀しくて韓国人を4番バッターに据えたチームの野球を見なければならないのか。また大阪だからと言って阪神なんてがらくたチームを応援する義理はない。プロ野球の再編問題は、結局楽天の参入で立ち消えになったように思われているが、プロ野球の構造的な問題は少しも解決した訳ではない。先送りした分、さらに手の付けられない危機となってプロ野球の存続に関わる事になるだろう。自業自得である。
ここ数年、結構熱心に見てきたMLBも、松井秀喜の大けがによって、結局余り見ることなくシーズンが終わってしまった。
今後WBCがどういう発展の仕方をするのか分からないが、ま、続けられるだけ続けていけば、そのうち新しい仕組みも見えてくるだろう。オール日本がMLBシーズン参戦、となってくれるのが一番嬉しいのだが、果たしてどうだろうか。

◆イジメ自殺相次ぎ、イジメ撲滅キャンペーン続く
イジメなど今に始まった話ではない。しかしそれが遺書でイジメ被害を訴え、まるで復讐のように自殺するケースが相次いだ事でマスコミを賑わした、となって、大きな社会問題となった。
勘違いしてはならない。何であれ、イジメられたから自殺する、という事を許してはならない。さらにまるで仕返しをするように遺書にイジメられた相手の名前を記し、綿々と恨み言を書き連ねる、その卑小な精神と救いようのない悪辣な心情を、決して許してはいけない。
一連の類似事件を招いたのは、明らかにメディアの報道に問題があったからである。自殺の原因を短絡的に「イジメ」に求め、遺書を写真入りで紹介し、その遺書の内容を鵜呑みにして、学校当局をつるし上げた。

確かにイジメは良くない。しかしその責任の所在は難しい。イジメを放置した責任を学校に求めて、教師や校長をつるし上げればそれで済むのか。学校当局の責任が皆無だとは思わない。教師によるイジメなど論外である。しかし学校当局に責任を押しつけ、損害賠償を勝ち取ったとして、それで満足するのか。
学校の責任を云々するのなら、我が子のイジメ被害に気付かず、また気付いていても学校に責任を押しつけるだけで何もしなかった「親」の責任は一体どうなるのか。
子供を育てるのは、第一義的に親の責任であり義務である。厳しい言い方だが、子供を守る事が出来なかった責任は、第一義的に親自身にある。その覚悟無くして「親」たる事は、単なる甘えではないのか。
連鎖事件を招いたという事に関してはメディアの責任は重大だ。自殺報道のガイドラインをきっちり定める必要はあるが、果たしてその責任をメディアは感じているのだろうか。
ジャーナリズムを標榜するなら、人の死を助長する想像力の欠如した報道は止めてもらいたい。

◆新卒採用拡大~景気回復と格差拡大
景気が回復したという実感は無い、と言うのがメディアでの「常套句」となっている。そりゃメディアの取材を受けて「いやぁ儲かってます」なんて事は普通の慎みのある人間は言わない。地方都市に行っても駅前は閑散としているし、景気のいい話が聞けるのは東海地方や滋賀県などの一部だけ、という現実も、一見本当っぽいがどうも眉唾である。地方が本当に病弊して景気が悪いのなら、もっとはっきりと人口移動があって良い。苦しい苦しいと言われている北海道や沖縄も、九州も四国も、一挙に人口が減少して自治体が成り立たない、という事態はまだまだ少ないのではないか。もちろん景気の回復は濃淡がある。儲かっている企業はいつの時代もあるし、倒産する企業は景気回復基調の時に増加する。他人様に尋ねられれば「生活が大変です」と答えている主婦がごく普通にブランドものの鞄を持ち、「青息吐息です」なんて取引先を駆け回る中小企業の経営者が、ぴかぴかに磨き上げた高級車に乗っているなんて事は、ごく当たり前の事である。

そんな事を思うのは、カチカチに凍っていた新卒採用の風向きが今年になって急速に、しかももの凄い勢いで溶け出している事にある。新卒市場で言えば、あきらかにトレンドは逆転し「売り手市場」と呼んで良い状況になっているからである。
企業の採用行動は、一見長期的な計画性のある行動のように見えて実はそうでもない。懐具合が良くなると、確実に採用枠は増加し、逆に儲け具合が悪いと途端に採用数が減る。実に目先の状況に左右されるのである。
今年、就職活動に当たった来春卒業生は実にラッキーな巡り合わせだった。
一方で2002~2004年卒業組は厳しい新卒市場からこぼれたまま、今もきつい状況にいる。企業側としては年齢層に2~3年の空白があっても、わざわざ中途採用でフリーターを雇う必要は全くない。一から教育するのなら新卒を鍛えた方がいいのだ。

今の時代、雇用形態によって明らかな格差がある。そして正社員の中でも、大企業と中小企業、そして零細企業との間には明確な格差が顕れてしまっている。この格差を埋めるのは容易な事ではない。新卒で大企業に入るかどうか、という時点でその後の進路がある程度決まってしまうのである。
格差社会の怖さはここにある。社会階層にいくら格差があっても、それらを自由に行き来するチャンスや、公平性が担保されている社会なら問題はない。しかし格差が再生産される社会になってしまうと、日本は急速に衰退してしまうだろう。
日本は60年前の敗戦で一旦それまでの階層社会がご破算になった。戦後の農地解放や経済成長によって、世界でもまれに見る格差の小さい大衆社会を実現してきた。それが日本の成長力の源泉だったのだが、経済のグローバル化は日本を巻き込み、大きな格差社会を産もうとしている。

グローバル化された社会で賃金は当然国際標準に収斂する。日本の町工場は中国の工場の給料に引きずられ限りなく低賃金になる。サービス業も同様である。そのうち移民法が改正され外国人労働者が自由に入ってくる時代になると、当然あらゆる労働対価は国際相場に近づいていく。
格差を解消する事など、日本だけの政策で可能な訳がない。格差対策は結局、大量に生み出される社会的弱者をどう救済するのか、という議論ではなく、社会的階層をいかにして柔軟に行き来出来るようにするか、という「希望創造」をどうするのかという事である。
高等教育の機会を広げる奨学金制度の充実や、軍隊服務による特典授与、資格制度の拡充など真正面からの政策はもちろん、高額ギャンブルの設置や、スポーツや芸能人への登竜門の容認など、いろいろやり方はある。安倍内閣が掲げる「再チャレンジ」なんて中途半端な施策ではとても出はないが下層国民に希望を与える事は出来ない。
第一、下層社会の厳しさを知らないボンボンに一体何が出来るというのか。せめて人並みの想像力があればいいのだが、どうやら我らがアベシンゾーを始め、政治家のセンセー方に期待するのは無理なようである。もちろん野党のボンクラたちも同様である。

◆冥王星、惑星では無くなる
ここのところ「20世紀の常識」の転換が起きている。冥王星が惑星では無い、単なる太陽系の「その他」天体とされたのもその一環である。
ま、別に冥王星が惑星でなくなっても、僕は別に困りはしない。僕の生活に何の影響もない。そりゃそうである。しかし何となく釈然としない。「スイキンチカモクドッテンカイメイ」と呪文のように唱えて覚えた理科の時間は一体無駄だったのか。
どうやらそういった僕たちが習った教科書は随分既述が変わっているらしい。特に理科や社会科に多い。
もうね、いっそ小学校の間は理科も社会もやらなくても良いのではないか。そんな大人になったら間違いでした、なんて事を一生懸命覚える位なら、漢字の一つでも覚えた方がよい。
そう、小学校では読み書き算盤、日本語と算数をきちんと学ぶだけで十分ではないか。

しかし冥王星も立場がない。
今まで惑星の列に連なって太陽系の中で大きな顔をしていられたのに、突然「お前は惑星の資格がありません、お引き取り願います」なんて言われちゃうんだもの、僕ならきっと泣く、大声上げて泣いちゃうぞ、きっと。
多分、世の中にはそんな気の毒なお父さん達が一杯居るんだろうな。「わし大企業の部長だもんね」とか偉そうにしていたのが、突然「あんたなんか居なくても良いから子会社へ行って下さい」なんて肩を叩かれるようなものか、それとも「あんた日本人ではありません、早急に国外退去して下さい」なんて言われるようなモノか。
日本が嫌いで反日活動やってるザイニチなんてのも、「あんたの爺さんが日本に密入国したのがばれたので即刻祖国へお帰り下さい」とでも言ってやったらどうか。それはいいかもしれない。

この稿、以上で終了。

●風来雑記帳:選/2006年10大ニュース<1>

2006-12-28 14:38:17 | 時事社会問題
年の瀬、メディアでは年末恒例のこの1年回顧が花盛りである。
それにならって僕なりの10大ニュースを、順不同であげてみる。
とりあえず今日は3本。

◆小泉内閣任期満了で退陣
90年代の日本の停滞は経済的側面以上に政治的に停滞していたのだろう。任期途中でころころと総理大臣が替わり、権力の求心力が一体何処にあるのかさっぱり分からない、不可思議で不自然な状態が常態化していた。一般人の圧倒的支持によって自民党総裁選を勝ち抜いた小泉純一郎が首相に就任し、ようやく安定した「権力」が生まれた事によって、ようやく様々な政治的懸案に取り組む姿勢が生まれたのだと思われる。
その政権が最後まで国民支持率50%以上を維持し、レイムダック状態に陥ることなく任期満了を迎えたのだから、少なくともそれだけでも小泉純一郎が日本の歴史に残る宰相であった事は間違いない。
小泉時代の業績に関しては、そりゃ様々な評価がある。しかし少なくとも僕は3つの業績によってこの政権を評価する。

その一つは、北朝鮮から拉致被害者を奪還した事である。言うまでもなく自国民を守れない国家などろくなモノではない。お膳立てが整っていようが、裏金を積もうが、少なくとも10人の日本人を、あの独裁国家から奪還したのだから、評価しない訳にはいかないだろう。「10人位なら俺でも出来た」などと妬み発言で男を下げた平沼某をはじめ、政治家の中には拉致問題を政治的に利用しようとした卑しい輩が有象無象に湧いて出たが、実に惨めである。小泉純一郎が金正日との会談で見せたあの厳しく悲愴な表情こそ、全てであり、総理としての職責を全うしようとする男の姿であった。
次の一つは、郵政民営化に象徴される特殊法人の既得権益への切り込み、である。郵政民営化は一つの象徴であり、突破口である、とした小泉純一郎の言葉は正しかった。道路公団、郵便局、社会保険庁といった、二進も三進もいかなくなった既得権益の相互依存システムを、とりあえず大なたを振るってぶっ壊す事、それこそが歴代の政権では実現出来なかった日本の行財政改革の端緒であり、曲がりなりにでも政治課題に乗せた事は評価すべきであろう。
もちろん問題はこれからであり、組織の巻き返しで改革が骨抜きにされる事は懸念されるが、少なくとも小泉政権だから手をつける事が出来たのは間違いない。
そして3つめは、同和問題に手を入れた事である。
関西に住んでいるとよく分かるのだが、同和の問題は日本のアンダーグランドと密接に繋がっている。もちろん反差別運動は必要な事であり、人権や地域格差の問題など、まだまだ日本社会が克服すべき問題は多いのだが、それ以上に団体の存在が大きくなり過ぎて、その一部が行政と結びついて既得権益化し、様々な不法行為や無法がまかり通っている実態がある。
そしてその既得権益を巧みに利用して、地方で強大な権力をふるう存在が目に余るようになってきていた。大阪府羽曳野市の食肉処理センターがらみの汚職によって「ボス」が摘発されたのには、その存在の大きさを知る人間としては驚愕した。
旧田中派の重鎮、野中広務を政敵として葬り去った小泉政権だからこそ可能になった、利権への切り込みだった。同時にアンダーグランド社会にとって戦慄すべき事態だった。
ここにきて西の経済状況がようやく上向いてきたのは、単に地場の企業業績が上がっただけではなく、バブル崩壊によってアンダーグランド社会に流れ込み塩漬けになっていた2000億円とも言われる資金が、一連の締め付けによって表に出てきたからだという「ヨタ話」もある。

以上の3点で共通しているのは、いずれも「道半ば」だという点である。
拉致問題は解決の見通しは無く、特殊法人の処理は骨抜きにされる懸念が大きい。利権の適正化はまだ端緒に付いたばかりであり、それは地方行政の組織犯罪をあぶり出す事に繋がる。
果たして「小泉継承内閣」を標榜して政権の座に就いたはずの「後継」安倍晋三だが、すでに及び腰であり明らかに後退を始めている課題もある。
21世紀初頭の日本は、20世紀の成功モデルの陰で蓄積された社会的制度疲労を削り落とし、新たな時代にマッチした効率的な行政システムと社会制度を整備しなくてはならない、と言う課題を与えられているのだが、果たしてアベシンゾーにそれが可能かどうか。
来年の10大ニュースで「安倍内閣、短命に終わる」なんてのは願い下げである。

◆北朝鮮~ミサイル試射と核実験
北朝鮮の問題は日本に於いては内政問題と密接に関わっている。外国人移民受け入れの問題と関わる「ザイニチ」問題、教育との関わりでもある歴史認識問題、そして治安維持に関わる朝鮮総連問題。そういった諸々の問題を抱えながらも、今まで何とか折り合ってきたのは、「没交渉」だったからである。関わり合いが少なかったから関心が無かった。それが拉致の問題で北朝鮮という国の危険性が広く国民に認識され、21世紀になっても全体主義を貫く後進性と人権蹂躙、そして貧しさを伴う困窮ぶりが知られるようになった。そこへ核兵器とそれを搭載するミサイル開発である。
普通の日本人のごく素朴な感想とすれば、北朝鮮は核兵器やミサイルなんかを開発するより、その前に国民を餓死させない方が重要なのでは、と考えるのだが、どうやら北朝鮮指導部はそうは考えないらしい、異常を通り越して異様である、というのが正直な所だろう。
しかし北朝鮮の核開発やミサイル開発は果たして一体何の為なのか、平和ボケの日本人には北朝鮮の危機感が皆目見当も付かないのである。
国際社会の非難を受け、制裁を覚悟してまで、そうまでして開発しなければならない核兵器とはいったい北朝鮮にとってどんな意味があるというのだろうか。

はっきり言って、北朝鮮の核武装は、日本に「日本核武装」という新たな外交カードをもたらしてくれた。北朝鮮の危険性を強調する事によって、日本の防衛力強化の必要性を国際社会と国民に強くアピール出来るようになった。
ミサイル防衛のための膨大なMDシステム開発に対する分担金もすんなり認められそうだし、防衛庁の省昇格も果たせる。海軍・空軍の装備拡充も着々と進められるし、万々歳である。
しかし日本の政府やメディアが大騒ぎするほど、疑ってかからなくてはならない。
本当に北朝鮮は脅威なのか?
本当に北朝鮮がこのままの路線で、このまま日本と敵対したままでやっていけるのか?
政府のプロパガンダを信じてその尻馬に乗って敵対意識を募らせるのは、北朝鮮も日本もそう変わりはないのではないか。
もちろん北朝鮮の体制や状況は一刻も早く倒さなければならない。そこで虐げられている数多くの人々を国際社会の連携で救い出さなくてはならない。それはそれで必要だが、果たして日本が軍事的に本気で相手にしなくてはならないほど、北朝鮮の軍事力は強大なのか。
それよりも相手にしなくてはならないのは他にいる。北朝鮮など我が日本の敵ですらない。彼らが日本に対して殊更尊大な言葉を使い、侮辱的な外交的言辞を弄するのは、日本に相手にしてもらいたいが為の幼児的言動なのである。
日本がまともに相手にしなければならないほどの相手ではない。

◆ドイツワールドカップ、日本不完全燃焼でGL敗退
あぁそう言えばドイツのW杯は今年だったのか、と言うほど遠い出来事になってしまった。
ま、それまではドキドキしながら日本代表に大きな期待を寄せ、密かに淡い希望を抱いていたのだが、ものの見事に裏切られてしまった。それがサッカーだしそれがどのサッカー先進国も通ってきた道なのだが、しかしきつかった。W杯そのものは見所も多く、連日のサッカー観戦は完全に昼夜逆転した怒濤の1ヶ月だった。ブログを書くのを覚えたのもW杯が契機だった。
しかし未だジーコ日本チームの4年間を総括する気にはなれない。ドイツW杯をもう一度振り返る気持ちになれるのは、おそらく来年の6月頃ではないだろうか。それまではもう少し僕の心の中で封印しておきたい。

以下次回へ続く

●日本の核武装は明日にでも出来る!?

2006-12-26 11:56:56 | 時事社会問題
いかん、酒量が明らかに増えている。連日の酒宴でウエイトオーバーも気になる。どうも酒の後の炭水化物がいけないのだろうが、ま、分かってはいても止められない。それにしても蕎麦焼酎は美味い。ついでに鮎の甘露煮も、切干し大根も豆腐のステーキも、そしてなんだあれ、そう蕎麦のペペロンチーノ? 実に美味いじゃねーか。実に一品一品はヘルシーで、身体に良い料理のはずなのだが、こうして腹一杯になってしまうと一体どうなんだろう。健康食品の食い過ぎで身体が悪くなる、ってのも日本人ならではだな。

●核弾頭試作に3年以上 費用2000~3000億円 政府内部文書
(061225/産経新聞)http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20061225-00000000-san-pol
「日本が小型核弾頭を試作するまでには少なくとも3~5年かかる」とする政府の内部文書が24日明らかになった。「核兵器の国産可能性について」と題した文書によると、日本にはウラン濃縮工場や原発の使用済み核燃料の再処理技術・設備はあるが、技術上の制約から核兵器にただちに転用できないとしている。北朝鮮の核実験を機に日本国内では一部に「非核三原則」の見直しや核武装論が出ているが、日本が仮に核武装する決心をしてもほぼゼロからの開発にならざるをえない、という現実を確認したことになる。政府内部文書はことし9月20日付で作成された。10月9日の北朝鮮核実験に先立ってひそかに政府機関の専門家が調査し、まとめた。小型核弾頭試作までに3年以上の期間、2000億~3000億円の予算と技術者数百人の動員が必要という。これでは仮に日本が核武装宣言しても、ただちに独力で北朝鮮からの「核の脅威」抑止には間に合わない。(後略)


日本の核武装の問題で言われるのが「日本がその気になればすぐに核兵器は作れる」というもの。それが実は3年以上モノ月日がかかる、というのがこの記事の骨子である。
だからどうした、としか言いようがないのであるが、ま、日本人の事だから実際に作り始めれば3年が2年になり、実際には1年半位で作ってしまうのではないか、と言うのが中韓を始めとする周辺国の懸念だろう。そうした懸念の前では、いくら3年もかかります、って言ったって説得力はない。
ま、正直、日本の核武装問題に於いて、日本が核兵器を作り上げるのに3年かかろうが、2年で作ろうがどうって事はないのである。問題はそんな所にはない。

常々不思議に思うのだが「日本核武装」をいう時、メディアや有識者はなぜ「核兵器開発」を問題にするのだろうか。なぜ日本がわざわざ核兵器を一から開発する必要があるのだろうか? すぐそこに核兵器を大量に持っている友人が居るのに、何故わざわざ自分自身の手でで作らなければならないのか? 日本が核兵器を独自開発しなければならない事態、というのは一体どんな事態なのだろう。メディアや有識者というのは、いま現在の日本がアメリカとの軍事同盟を離れてやっていく事態を想定しているのだろうか。
日本が核武装する時、その時は当然アメリカを始めイギリスや豪州など同盟国の了解を得た上で事は進められる。同盟国、なかんずくアメリカが賛成しなければ核兵器など持てるはずがないのである。
なら、わざわざ日本独自で核兵器を開発しなくても、アメリカから購入すればよい。

日米軍事同盟を前提に、兵器体系を揃えていくならば、当然核兵器も共有するべきである。もちろん近い将来はライセンス生産とか独自開発もあり得るが、最初から何も時間のかかる独自開発にする意味がない。

何よりも、日本の核武装は例の非核3原則を「や~めた」と宣言するだけで良い。「持たず」「作らず」「持ち込ませず」のうち最後の「持ち込ませず」を「うちらかまへんもんね」と時の首相が記者会見で言っちゃえば済む話である。別に法律を変えるとか、憲法を変えるとかと言う大層な話ではない。非核3原則などその程度の「お約束」に過ぎない。
もちろん政治的には揉めるだろうが、それで民主党が割れるなら一石二鳥ではないか。
在日米軍に核兵器が無い、なんて本気で思っている政治家は果たして居るのか。時代にそぐわなくなった「宣言」を実態に合わせて反故にするだけの事である。
それで米軍の核兵器は日本防衛のために堂々と使う事が出来る。在日米軍に抑止能力のある核兵器が存在する、となれば、それは日本の核武装と同義であろう。
もちろんそこまで在日米軍を、アメリカを信用して良いのか、という問題がある。
しかしそのための日米同盟である。アメリカが信用出来ないのなら早々に同盟関係を破棄するべきであろう。それはまた別の問題である。
こうして考えれば日本の核武装は今すぐにでも可能になる。

もし日本の総理大臣に核のボタンを握らせたいと考えるような危険思想を持たない限り、日本の核武装は実に素早く、実にリーズナブルに実現するではないか。
まさかあの宇野宗佑や村山富市や森喜朗と言った歴代首相同様のボンクラに核ボタンを押させるのか、バカな事を言うな、それは北朝鮮の核兵器よりも遙かに危険な事態である。
彼らに比べればアメリカ人に安全を託す方が余程安心である。情けないが、それが日本の政治の現実であろう。
北朝鮮が曲がりなりにも核保有国となり、中国が核ミサイルの照準を日本の主要都市に合わせている以上、当然日本の核武装は近い将来の政治課題として浮上し各政党や個々の政治家の踏み絵となるだろう。
メディアや有識者が議論すべきは、核兵器を日本が保有する是非ではない。日本国内に既に持ち込まれた核兵器の存在を認め、それをいかに日本の防衛に役立てるのかを考える事である。今のままでは在日米軍はせっかくの核兵器が使えない。

日本が早急にやるべき事は、米軍の核兵器を日本の防衛に役立てるシステム作りである。
そこを曖昧なまま日本は今までやって来たのだが、もはやそう言った曖昧さが通用する時代では無くなった。次期アメリカ政権が民主党になろうが共和党になろうが、日本の防衛に対する米軍のプレゼンスは大幅に減少する見込みである。その時になって慌てても遅い。
国防にどれだけの金をかけるのか、と言う問題もある。核武装はリーズナブルではあるが、それだけで国は守れるのか、どうか。
いずれにしても、前政権から圧倒的多数の議会を引き継いでいるくせに、空虚な言葉だけを並べ立てるだけで、途中から腰砕けになってしまうアベシンゾー内閣では、こうした日本の根幹を左右する大きな問題をどうこうする力は無い。結局、なし崩し的にグダグダになってしまうのだろう。