私の自己実現日記

日常生活にかかわる些細な望みごとや

こうあってほしいという願いごと

についてのささやかな考察です。

トラックバック練習板:今、一番行ってみたいところはどこですか?(その2)

2007年04月21日 12時37分50秒 | トラバ今週のお題

今、一番行ってみたいところは

トラバその1に続けて、これも故郷になりますが、知覧です。


ご存知のとおり、太平洋戦争末期、17~18歳の少年を含む特攻隊の

出撃基地のあった鹿児島県の知覧町です。

子供のころは、かつて零戦や隼による特攻隊があったということくらいは知っていましたが

自分の生まれた鹿児島県内は知覧という町にある基地から、飛び立ったということは

高校生になってから知ったことでした。

幾多の政治家、作家、など著名人がたびたび訪れ、コメントを残すようになっ

たのは、それほど昔からでもないようです。

小泉総理の祖父にあたる方がこの知覧町の近くの御出身なので、先祖の墓参を兼ねておそらく

総理みずからも知覧を訪れている筈です。



 その小泉総理の靖国参拝問題が、

中国、韓国との外交関係に暗雲垂れこめる状況をなげかけている昨今で

すが(尖閣諸島、竹島をめぐる一連の紛争)

 

政治問題は置くとして、知覧の特攻平和会館には、高校の修学旅行生たちも訪れ、

60年前、自分たちとほとんど年齢の変わらない少年たちが、祖国のために

翼の下に数百キロ爆弾を抱えてアメリカの戦艦に

体当たりし、そのあたら命を南の海に散らしたことに驚いたとか

出撃前に父母兄弟や恋人などに宛てて認められた遺書を、涙なくして読めなかったとか

カルチャーショックを覚えたなどと、備付の書き込み帳に記しているそうだ。


映画「男たちの大和」が昨年上映され話題を呼びました。

世界最大、最強、当時世界一の最先端ハイテクでフル武装した戦艦大和も

片道燃料だけで出撃し、建造された広島は呉にあった海軍工廠の軍港に

帰る想定は、なされていなかった。

知覧の特攻隊の発想と同じである。

 

 

 

大和は極秘裏に呉を出港して、瀬戸内海を西進し、豊後水道から

宮崎県の日向灘を南下、鹿児島県の大隅半島を西に臨みながら、沖縄を指して進軍中、

硫黄島近く、東シナ海域で、米軍機動部隊と遭遇。

ここに戦艦対爆撃機という人類史上

最初で最後の総力戦の火蓋が切られた。

 

空前絶後の数の米戦闘機は、雲霞の如き勢いで大和に襲いかかり

あまつさえ魚雷攻撃も加えられ、物量を誇るアメリカ軍の猛爆を前に

さすがの怪物大和も多勢に無勢とあっては回避旋廻、防戦を強いられた。

 

もしもギネスブックがあったなら、伝家の宝刀46センチ砲をはじめ攻撃、

防御に関するタイトルスペックを、総舐めにしたリーサルウェポン(最終戦艦)として

記されたであろう桁外れの戦闘能力も封じられた為、「軍神我らが艦を見捨て給いしや」

華々しい戦果を挙げることなく

およそ3000名を数える将兵と共に、水深600メートルの海底に沈した。



 

 

 

 

大艦巨砲主義は時代遅れ、航空爆撃機に有利だったと、軍事評論家はタラ、レバを論じるものの

 

敗色濃い戦局ながら本土決戦を想定しての沖縄特攻の任に就き、生涯を閉じた、今や伝説ともなった

 

戦艦大和(海軍兵士)への鎮魂、ひいては平和の願いをこめて、アニメ作家松本零士は

 

南海で永遠の眠りに就いた大和を、理想郷イスカンダルをめざして、無限の宇宙を

 

航行する“宇宙戦艦ヤマト”として甦らせたかったのだろうか。



 



(ヤマトの波動砲を大和の46センチ砲になぞらえて) 


大和が轟沈したとき、火柱が1000メートル以上あがったが、九州最南端の

大隅半島の岬の辺りの住民からは、火柱に伴う噴煙を目撃したという証言もあるという。  



 お茶の生産地でもある温暖な知覧の飛行場から、将に今出撃せんとするばかりの

紅顔の18歳で、沖縄方面へ向けられた悟り澄ました無垢な瞳に

この煙を捉えた若人がいたかも知れない。




(この実録動画に、あなたのまだ見ぬおじいちゃんだとか、
曾おじいちゃんだと祖母や母に、聞かされる若い訪問者も
おありかもしれません。)

 わたしは鹿児島市内の生まれだから、知覧町(南九州市)へは40キロ 

くらいの距離だろうか。


生家のほど近くには鹿児島湾(通称で錦江湾)が広がり、そこには西郷隆盛

大久保利通、東郷平八郎(後の元帥)大山巌そして島津斉彬(島津薩摩藩主)も

毎日、振り仰いだはずの桜島が遮るように浮かんでいる。

 

 この鹿児島湾はハワイ・パールハーバー





に地形が似ているということから、開戦前、帝国海軍は真珠湾攻撃をシミュレートして

この湾で猛烈な爆撃演習を繰り返した。その戦史記録が

今なお保存されている、と本で読んだことがある。

 

 

ブログ管理人から

 

約1年ぶりに、内容を書き足してあります。

 

時制が合わない点はご容赦ください。



 



 



 



 



 


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3 コメント

コメント日が  古い順  |   新しい順
きヤーンさん、こんばんは (polo181)
2006-04-24 22:45:38
ご訪問有難う御座いました。私は昭和9年生まれですから、太平洋戦争の詳細を記憶しております。知覧も呉も、戦艦大和もみな知っております。映画”男たちの大和”を見て、負けたことを思い出した悔し涙が止めどなく流れました。当時は、「絶対に勝つんだ」との固い決意でいましたから、敗戦は大きなショックでした。まざまざと蘇ってきます。
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コメントありがとうございます (きーヤン)
2006-04-25 10:51:57
わたしは戦後は団塊の世代ですが、亡き父は、先の戦



については、話題を振っても、語ろうとしませんでし



た。「負け戦など触れたくない」と口数少なく、吐き



捨てるように言った言葉を憶えています。母方の叔父



(既に故人)は、蒙古(現在のモンゴル)に赴いてい



たとのことで、セピア色になった兵士姿の自分の写真



を見せ、勇敢に戦ったと、自慢話をしてくれました。



命永らえて、帰還した兵隊も夫々抱く感慨に、温度差



があるなと、子供心に思ったことでした。先の戦争の



ように軍部主導による独断専行での



中国、朝鮮半島、台湾、一部の東南アジアへの侵略行



為などもはや、現時点で目論む日本人など



皆無であると思われるのに、それを逆手に、



経済発展に乗じて最近の中国の軍事台頭



は、地球最強の米国にとっても今後、頭痛の種になっ



てくるような状況になりつつあるのが、



気に掛かりますね。

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きーヤンさん、こんにちは (polo181)
2006-04-25 11:03:06
上のコメントで、あなたのHNを間違えてしまいました。どうも済みませんでした。
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