快談爺流離日記

思いの儘に記す自然を好み手近の被写体を撮り歩く暇爺。

松竹梅盆栽はいま

2014年01月16日 12時12分48秒 | 我が家の植木の現状
此の数日寒さが厳しい毎日ですが、昨年正月飾りの一つとして作った、
松竹梅盆栽の梅がやっと開花して賑やかさを遅まきながら見せて居ます、
春は着実にやって来ている様だ。

1画は、松竹梅盆栽、

2~4画は、松竹梅盆栽の紅梅の開花、
昨年は、16日に冬至梅の開花(ぼちぼち)でしたが、
今年の紅梅の方が多く咲いて来ています。

松竹梅盆栽はいまの画像

松竹梅盆栽はいまの画像

松竹梅盆栽はいまの画像

松竹梅盆栽はいまの画像



依佐美送信所跡地に

2014年01月14日 15時35分26秒 | 旅・近隣の風景
今日は風が無く穏やかな日に成ったので、フローラルガーデンまで足を延してみました、
と言うのも諦念さんが11月27日のブログで太陽光発電所の記事が有った其の時に、
依佐美送信所跡地に同じ時期に太陽光発電設備を建設中だったが、
年末の忙しさにすっかり忘れていましたが、昨日ふと思い出して今日行って来ました、
可なり大きな面積に、あのお馴染みの黒いパネルが整然と並んで居ました。

1~3画は、依佐美送信所跡地に太陽光パネルが太陽の光を浴びて並んでいた。

4画は、送信塔モニュメント、
1994年までは、250mの東洋一の無線塔が、8本現在の刈谷田園地帯に聳え立つていて、
夜遠くから帰って来ても無線塔の灯りを目当てで我が家までたどり着けた、
陸の灯台の役目をしていた、現在は解体されて跡地に二本の木が植えられている、

此の送信所から第二次世界大戦真珠湾攻撃の指令を、
真珠湾攻撃、暗号電報として「ニイタカヤマノボレ」と発信された。

5画は、「對欧無線通信発祥地」の碑とIEEEマイルストーン認定碑、

依佐美送信所跡地にの画像

依佐美送信所跡地にの画像

依佐美送信所跡地にの画像

依佐美送信所跡地にの画像

依佐美送信所跡地にの画像



猿渡川にも水鳥が

2014年01月11日 12時01分37秒 | 公園・風景・その他
冷え込みも厳しく成って猿渡川の上流にも水鳥が沢山来ている、
猿渡川の右岸の河川敷に北風を避けて日向で休んでいた、
人が通ると対岸へ避難してしまうので長いレンズで対岸から撮るしか術はなし。

1~2画は、対岸へ飛び立って逃げて行くカルガモ、

3画は、オナガガモが向こう岸を泳いでいく、

4画は、キンクロハジロ、
潜水から水面に上がった処獲物を捕えたであろう嘴から水を吐き出して居る、

5画は、青鷺対岸の河川敷で日向ぼっこをしていた、

猿渡川にも水鳥がの画像

猿渡川にも水鳥がの画像

猿渡川にも水鳥がの画像

猿渡川にも水鳥がの画像

猿渡川にも水鳥がの画像



今朝のミササガ公園

2014年01月10日 16時17分40秒 | 公園・風景・その他
今朝カメラを持ってミササガ公園に行ってネタを探して来ましたが、
冷え込んで風は肌を刺す厳しさカメラ持つ手も痺れる様な痛さ、
水たまりには氷がはって今年一番の寒さでしょう、
空気も澄んで居るのでしょう北東の空に冠雪した山並みがくっきりと浮かび上がって居た。

1~2画は、猿渡川上流の向こうに浮かぶ冠雪した山(恵那山?)、

3画は、寒空に耐えて咲くミササガ公園の薔薇の花、

4~5画は、ミササガ公園のメーンストリートで、
何やら若者が反射板などを使って撮影をしている様だ、
4画の左後方に居るのはモデルの様だ、
5画の中央にちらっと見える女性・・・三脚を立てて撮影しているが、
パネルで囲われて内容は解らない。

今朝のミササガ公園の画像

今朝のミササガ公園の画像

今朝のミササガ公園の画像

今朝のミササガ公園の画像

今朝のミササガ公園の画像



東濃のドライブ岩村城址

2014年01月06日 16時52分09秒 | 旅・近隣の風景
昨日に続いてです、
恵那市山岡の寒天干しを後にして、明知線を岩村方面に車を走らせて、先ずは「農村景観日本一」の富田の展望所から田園地帯を望み、
其れから岩村城址へと向かって山道を走って行く、途中でがけ崩れに出会い通行止出丸の駐車場まで徒歩と言う事に成る、
膝の痛みをこらえて登って見たが残念無念、途中で引き返して仕舞って下山した、
城の山麓に築かれている太鼓櫓を見て引き返した、

日本三大山城と言われる、霧ヶ城とも言われた山城は中々攻め落とせなかったが、此の山城にも弱点が有った、信長軍勢が三ヶ月の戦を半年の持久戦に切り替えた為、
食料が底をつき兵士の疲労とかさなり遂に落城した、

元々は岩村城は、織田勢で有ったが遠山景任死後、御坊丸(当年三歳)織田家の三男を養子婿に送りこみ女城主「修理夫人」が城を守ったが、
武田信玄との戦いで苦戦して武田軍勢の策略に嵌まり政略結婚をさせられた、
此の結婚も苦渋の判断のうえで、領民と兵士との流血を避けるためだった、
信長は、武田に寝返った叔母である修理夫人を激怒して長良川の河原で逆さ攣りの刑にさせる、

戦国時代も終焉し江戸時代の平和な時代となると、城主が城の山頂(本丸)に住む必要もなく成り、
慶長六年(1601)城主、松平泉の守家乗は城の山麓に藩主邸を造営して、此処を政治の中心として機能した、
此処に太鼓櫓を築き時を告げ・・・城主と領民の絆と成る。

1画は、農村景観日本一の富田の風景、
中央に見える尖った山が岩村城址の有る処で富田地区辺りは戦場の跡だった様です、

2画は、岩村城址への登り道、

3~4画は、岩村城の山麓に作られている太鼓櫓、(平成2年建造)此処に藩主邸が有った、

5画は、太鼓櫓の言われ、

東濃のドライブ岩村城址の画像

東濃のドライブ岩村城址の画像

東濃のドライブ岩村城址の画像

東濃のドライブ岩村城址の画像

東濃のドライブ岩村城址の画像