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#581: 愛の讃歌

2013-12-12 | Weblog
パリの貧民街の、今でいうところのストリート・チルドレン出身で、不世出の歌手としてシャンソン界に偉大な足跡を残したエディット・ピアフ。
その数奇な生涯は、評伝や映画などさまざまな媒体で繰り返し描かれてきた。
彼女の歌は、実際にどこかで営まれていて、現在も営まれているにちがいない様々な人生を聴く者の心に甦らせてくれる。


(エディット・ピアフ)

“L'hymne A L'amour”(愛の讃歌)は、“La Vie En Rose”(バラ色の人生)とともにピアフの代表曲であるとともに、シャンソンの名曲中の名曲のひとつである(こちら)。


この曲が、恋仲だったボクシングの元世界チャンプ、マルセル・セルダンの飛行機事故による悲劇的な死を契機として生まれたというエピソードはよく知られているところだが、実のところはセルダンの生前に書かれていたのは間違いないようだ。
二人は相思相愛で誰もが知る仲ではあったが、妻子のいるセルダンとの関係に終止符を打つためにピアフが詞を書いていたものだと言われている。
曲を書いたのはマルグリット・マノー。
セルダンの死が1949年、ピアフの録音がその後の1950年5月2日だったことから、噂好きのパリジャンたちはピアフがセルダンの死を悼んで作ったものだと噂したらしい。

Le ciel bleu sur nous peut s'effondrer
Et la terre peut bien s'ecrouder
Peu m'importe si tu m'aimes
Je me fous du monde entier…

空が落ちてこようと 大地が引き裂かれようと
私は平気 あなたの愛があれば…

ピアフの書いた詞は、恋の喜びを少し激越なトーンで朗々と謳い上げたもので、スケールの大きさを感じさせ、ピアフの後も多くの歌手によって歌われて、今でも世界中で愛されている。

基本的に外国語の音楽には全く関心を示さないのがアメリカ人だが、ピアフの歌った楽曲はしばしば英語の歌詞がつけられてアメリカ人向けにレコード化されている。
ピアフの生涯を描いた伝記や残されたドキュメンタリー映像等によれば、彼女はショービジネスの本場アメリカで成功を収めたいという強い願望を持っていたようだし、事実、彼女は何度かアメリカ公演を行っている。
また、自分のレパートリーのシャンソンを自ら英語で録音していたりする。

♪ ♪

「愛の讃歌」の英語版では1954年にケイ・スターのものがヒットしたそうだが、蚤助としては何と言っても60年代の初め頃に録音されたブレンダ・リーのレコードの方がずっとなじみ深い。
ブレンダのこの歌のシングル盤は、1965年前後にリリースされたものを蚤助も持っていたのだが、何度か転居を繰り返しているうちにいつしか手元から消えてしまった。
カップリング曲は「バラ色の人生」であった。
「愛の讃歌」は、一時期、ブレンダ・リーのテーマ・ソングのようになっていた。
アメリカ本国では、ロックンロールやポップ・カントリー系の“ダイナマイト娘”として人気を得ていたが、日本ではあまりにもこの曲の人気が高かったおかげで、スタンダード歌手として認知されるきっかけとなった(こちら)。


(ブレンダ・リー)

ブレンダ版の英語詞はジェフリー・パーソンズの手になるもので、タイトルも“If You Love Me (Really Love Me)”とされていた。

If the sun should tumble from the sky
if the sea should suddenly run dry
if you love me, really love me
Let it happen I won't care…

空から太陽が落ちてきたとしても
海が干上がってしまったとしても
あなたが私を本当に愛してくれたなら
私にはそんなことどうでもいいの…

「たとえすべてをなくしても、微笑んで受け入れましょう。あなたが望むなら何でも叶えてあげる。まだ愛してるとあなたが言ってくれるなら」と続き、これもやはり熱烈な愛の歌になっている。

♪ ♪ ♪

日本では、つい先ごろ亡くなった岩谷時子の訳詞で越路吹雪が歌ったものが特に有名である(こちら)。


(越路吹雪)

あなたの燃える手で あたしを抱きしめて ただ二人だけで 生きていたいの…

越路吹雪の代表曲の一つで、生涯のレパートリーともなった曲だが、この曲を彼女が最初に歌ったのは1952年のことである。
彼女が出演するシャンソンショーの中で歌うことになり、当時越路のマネージャーだった岩谷が訳詞をつけたのである。
岩谷にとっても記念すべき最初の訳詞・作詞の仕事であった。

ピアフの書いた原詞には「愛のためなら月をもぎ取り、運命を変え、故郷や友人を見捨てたりもする」という刺激的かつ過激な表現が出てくるのだが、岩谷は甘いフレーズで日本人向けの「愛の歌」にしたことから、結婚披露宴などでも歌われる曲になるなど、日本でも広く親しまれるようになった。

空がくずれ落ちて 天地がこわれても 恐れはしないわ どんなことでも…

こちらは岩谷訳ほど知られていないが、音楽評論家の永田文夫の訳詞である。
岸洋子や美川憲一などはこの歌詞で歌っている。
もっとも美川の場合は岩谷の訳詞でも歌っているものがある。
そういえば、岸洋子のヒット曲「恋心」(“L'amour, C'est Pour Rien”エンリコ・マシアス曲)の訳詞(恋は不思議ね、消えたはずの、灰の中から何故に燃える…)も永田文夫のものだった。
永田は比較的原詞の内容に忠実に訳しているようだ。

このほか、淡谷のり子が井田誠一の訳詞、美空ひばりが水島哲の訳詞で歌っているほか、美輪明宏、加藤登紀子、宇多田ヒカルはそれぞれ自分で訳詞したものを歌っているが、どれも原曲に近い詞となっている。

♪ ♪ ♪ ♪

マルセル・セルダンは、世界チャンピオン・ベルトのリターンマッチのためアメリカに向けて出発するに当たって、当初航路で向かう予定のところ、コンサートでニューヨークに滞在していたピアフの「早く会いに来て」との言葉によって空路にすることを決める。
ピアフは、マレーネ・ディートリッヒと空港でセルダンを迎える予定だった。
ディートリッヒはセルダンの死をピアフに伝え、この日発表する予定であった「あなたが死ねば、私も死ぬ」という歌詞がある新曲「愛の讃歌」を歌わぬよう忠告したが、ピアフは激しい衝撃と悲しみを秘めたまま舞台に立ち、あえて歌った。

パリの酒場で初めて出逢った二人はすぐに惹かれあったというが、セルダンはピアフに「どうして悲しい歌ばかり歌うの?」と訊き、ピアフは「どうして殴るの?」と返したという会話が残っているのが悲しい…。

また永久(とわ)の愛を誓ってバツ2です (蚤助)



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