#609: この胸のときめきを

2014-03-20 | Weblog
寒く大雪にも見舞われた今冬だが、確実に春が近づいているようで、我が家の沈丁花も芳香を放っている。春がくると心がときめきだす。春は若い季節なのである。

イギリスの女性歌手ダスティ・スプリングフィールド(1939‐1999)は、1960年に2人の兄とともに、ザ・スプリングフィールズというグループを結成した。たまたまツアーで訪れたアメリカで、当時人気上昇中だったモータウン・サウンドにすっかり夢中になり、その後の活動に大きな影響を及ぼすことになる。彼女のヴォーカルにソウルフルでエモーショナルな味わいが加わるようになり、いわゆるブルー・アイド・ソウルのシンガーとして変貌を遂げるのだ。

グループは63年に解散し、兄のトムはプロデューサーとして独立、後にザ・シーカーズなどをプロデュースする。ダスティはソロシンガーとして最初に出した曲“I Only Want To Be With You”(邦題「二人だけのデート」)が大ヒットする(こちら)。以後、彼女は相次いでヒット曲を出し、名実ともにイギリスの大歌手となっていくのだが、彼女の最大のヒット曲といえば、何といってもやはり“You Don't Have To Say You Love Me”(邦題「この胸のときめきを」)であろう。

1950~60年代にかけては、非英語圏の音楽、フランスのシャンソンやイタリアのカンツォーネ、ラテン音楽のヒット曲が多数生まれた。日本の“Sukiyaki”こと「上を向いて歩こう」のヒットもその流れに沿ったものだと言えよう。この歌もその一つで、オリジナルは第15回サンレモ音楽祭(1965)で発表された“Io Che Non Vivo (Senza te)”(=I, Who Can't Live (Without You)~あなたなしには生きていけない私)である。「毎晩独りで淋しい、でもあなたはもっと悲しいはず、…私を残して行かないで、あなたなしでは生きてゆけない、あなたは私のもの…」という内容の情熱的な愛の歌である。ヴィット・パラビチーニの詞に、映画音楽の作曲家として知られるピノ・ドナッジオが作曲したものだ。サンレモでは作曲者ドナッジオ自身とアメリカの女性歌手ジョディ・ミラーがチームを組んで歌い7位に終わった。

ちなみに、この年の優勝曲はボビー・ソロとニュー・クリスティ・ミンストレルズ(アメリカ)が組んだ“Se Piangi, Se Ridi”(邦題「君に涙とほほえみを」)で、このほか、同じくニュー・クリスティ・ミンストレルズとウィルマ・ゴイクが歌った“Le Colline Sono In Fiore”(邦題「花咲く丘に涙して」)が9位にランクされている。7位とはいえ、ドナッジオの歌ったレコードはイタリアのヒット・チャートで1位に輝いた。まずはそのオリジナル盤を聴いてみよう(こちら)。


この年、ダスティ・スプリングフィールドもサンレモ音楽祭に出場していた。イタリア語は解さなかったが、ドナッジオの歌に涙を流すほど感動し、英語で歌いたいと切望するようになった。

66年5月、この作品を英語圏のどのアーティストよりも早く発表するチャンスが訪れるが、肝心の英語の歌詞がない。彼女のプロデューサー、ヴィッキー・ウィッカムは、自分の友人でヤードバーズのマネージャーをしていたサイモン・ナピア=ベルとともに英語詞を作ることを決意する。ところが、二人とも作詞の経験がないうえに、イタリア語の原詞の意味もわからない。結局、原詞にこだわらず、とにかくシャレたラブソングを作ろうとして出来上がったのが、“You Don't Have To Say You Love Me”(愛してると言わなくていい)であった。

When I said I needed you, you said you wolud always stay
It wasn't me who changed but you and now you've gone away
Don't you see that now you've gone and I'm left here on my own
Then I have to follow you and beg you to come home…

あなたが必要だと言ったら いつもそばにいると言ってくれた
変わったのは私ではなく あなた そして今あなたは去ってしまった
あなたがいなくなって 私はここに一人
あなたを追いかけて 戻ってほしいと願う気持ちが 分らないのか

愛してるなんて言わなくていいから ただそばにいて
ずっとでなくてもいい わかっているから
信じてほしい 愛さずにいられない
信じてほしい 縛りつけるようなことはしないから
思い出とともに一人残されて 私の人生は死んだも同然
残されたのは寂しさだけ 何も感じられない…

邦題とはだいぶ趣きの異なる内容だが、昔は歌の歌詞とは関係なく、とにかくイメージや雰囲気で邦題がつけられることがよくあったのだ。だが、やや女々しすぎる印象はあるものの、素人が作ったにしてはなかなか良い歌詞で、情熱的なカンツォーネを少し複雑な感情を表現した歌に仕立て直してあった。


66年といえば、ビートルズが6月に来日、6月30日~7月2日の3日間5ステージを日本武道館で公演、8月にはサンフランシスコでの公演を最後にライブ活動に終止符を打った年で、エリック・クラプトン、ジンジャー・ベイカー、ジャック・ブルースによるスーパー・グループ、クリームが誕生、モンキーズのTV番組「モンキーズ・ショー」がスタート、彼らがデビューした年でもあった。そうした中で、この曲が世界的にヒットしたのは、当時27歳ながら既に20年近くのキャリアを持っていたダスティ・スプリングフィールドの歌唱力と表現力が、曲に一層の魅力を加えたためであったろう。彼女の少し鼻にかかったハスキーな歌声は、ドラマチックな旋律に映え、全英1位、全米4位の大ヒットとなったのだ(こちら)。

蚤助がこの曲を初めて耳にしたとき、当時流行していた他のポップ&ロックとは一線を画すスケールの大きさを感じたものだが、それはちょうど同時期にヒットしていたフランク・シナトラの“Strangers In The Night”(邦題「夜のストレンジャー」)と同様、大人の雰囲気が少しだけわかりかけてきた少年にとって新鮮な感覚を与えるものだった。

ダスティ・スプリングフィールドにとっても自身に大成功をもたらした名曲であったに違いないが、今考えると、ひょっとしてマイナスではなかったのではないかという気もしないではない。愛の終わりを巧みに表現した英語詞とカンツォーネ特有の直接感情に訴えかけてくるメロディという強烈なイメージが、後々まで彼女の歌唱について回ることになったのだ。バート・バカラックの楽曲やソウルフルな歌を得意とした彼女の可能性を、逆に狭めてしまったのではないかと思うのだ。事実、この後、彼女はいくつかのヒット曲を出すものの、極端なスランプを経て薬物依存に陥ったりして音楽界からしばらく離れてしまう。そして、蚤助が久方ぶりに彼女のニュースを聞いたのは、1999年のことで、乳癌で亡くなったという死亡記事であった。

ダスティの歌でこの曲の魅力を知った多くのシンガーが、その後続々とリメイクし、カントリー、R&B、ロックと多種多様なカバー版が誕生するが、中でもやはり70年に録音したエルヴィス・プレスリーがいいと思う(こちら)。


ときめきがもとで起こった不整脈 (蚤助)



最新の画像もっと見る

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。