健太郎の物見遊山

不動産業界に25年。現在、全国行脚中なので、全国の面白い話題や不動産関係の話、健太郎の個人的なブログを提供していきます。

「木くばり教育」其の二

2007-01-30 00:56:18 | Weblog
 昨日のTV番組で「ワルを救う魔女」と題して、日暮里中の元女教師の話が取り上げられていた。昭和40年代、彼女の受け持つ教室は当時、不良の巣窟だった。しかし、彼女はその原因を調べ、問題になっているリーダーに魔法をかけることを思いつく。

 どういうことかと言うと、人には必ず不良になる原因がある。それに対して彼女は捨て身で生徒と会話していく。それでも納得してもらえなかったら、何と自宅に住まわせ教師と言った立場から母といった立場で生徒と向き合った。

 そうすることで、札付きの生徒が徐々に先生に心を開きだす。高校生になるなど思っていなかった札付きの生徒が、最後には高校に行きたいと先生に心を打ち明ける。そこから生徒と先生の個人授業が始まり、彼は見事、高校に入学することができる。

 それを繰り返すうちに、彼女は「ワルを救う魔女」と呼ばれるようになった。彼女の下を巣立った生徒は、先生に教えてもらった心の教育を忘れない。本当に素晴らしいと思った。教育は教科書だけではない、心の教育が如何に大切かを思い知らされた番組だった。

 彼女の教え子は約2000人。武田信玄同様、「木くばり教育」が分かっている先生に学べた生徒は幸だと思った。

 時代は遡ること江戸時代。豊臣家の遠縁にあたる大分(豊後)の木下家、家老に生まれた帆足万里(ほあしばんり)という学者がいた。彼は豊後の三賢人の一人といわれた人物だ。万里は家老の家に生まれたので、政治や経済には明るかった。

 しかし、彼は塾を開いて弟子達に教えていた。礼儀とか服装には無頓着で、家老になった後も袴などは曲がったままだった。彼の学者としての名声が高まると訪問者も増えたが、服装は無頓着なままだった。

 そんな彼の弟子に小田と言う青年がいた。かなり早い時期から万里の門下生だったが物覚えが悪い。いくら教えても理解しない。万里は特別に小田だけを残して補修を行うが、教えたことを直ぐに忘れてしまう。

 そんな折、尻尾の長い野良猫が万里の塾に住みついた。万里が「この猫は異常に尻尾が長すぎる」とつぶやいたら、脇にいた小田がカミソリを持ってきて猫の尻尾をスパッと切ってしまった。あまりの早業に周囲の人は驚いた。

 万里がそこで「小田は素晴らしい才能を持っているなぁ、外科医にでもなったらどうだ」と冗談めかしにいった。その夜、小田が万里の傍にやってきて「先生、私は先生のお言葉に従う決心をしました、ご指導お願いします」と告げた。

 万里は外科方面の知識が無かったので最初、戸惑った。しかし、自分が「外科医になれ」と言った以上、投げ出すわけにはいかないと外科方面の勉強に夢中になった。他の弟子達には、それが何のためなのか直ぐに分かった。

 「僕達は頭の悪い小田のために犠牲になっている。先生も先生だ。」しかし、万里はそんな声には耳も貸さなかった。「一人の門人を育てられなくて、何で多くの門人を育てることができようか」と思っていた。

 ある程度の外科関係の知識を教えた万里は、ある日、小田に言った「お前が勉強すべき書物はこれとこれだ、また、師として仰ぐ先生は、この先生とこの先生だ」小田は感激した。小田はその後見事な外科医になった。

 万里の遅れた門人も絶対見逃さず、その人間に潜んでいる能力を発見しようとする態度は、たんに知識を教える師というだけでなく、人間の誠意という心を示した師だったように思う。万里にも信玄と同じ「木くばり教育」を見た。

 現在の国も教育委員会も教師も、もっと子供の心に響く「木くばり教育」をしてもらいたいものだ。

「木くばり教育」其の一

2007-01-28 13:14:23 | Weblog
 木くばり教育とは一人ひとりの子供を木の苗木に例えて行う教育方法だ。スギ、ヒノキ、マツ、クヌギなど木に種類があるように、子供も個性や性格がそれぞれ違う。それを一つにまとめて詰め込み教育をしないところにある。

 木には沢山の種類がある。そうなると肥料や育て方も当然違ってくる。一本一本の木に応じた育て方を「木くばり教育」という。実はこの教育法を戦国時代にすでに実践していた武将がいる、甲斐の戦国武将「武田信玄」だ。

 信玄は子供を集めてよく話した。自分の話す内容の反応を見ながら子供を五つのタイプに分類した。

1.話を聞いている間、ポカンとしている。
2.話している人の顔を見て、ときどき頷いたり、笑ったりする。
3.話している人の顔を見ないで、話し手の喉あたりを見つめて、聞き耳を立てている。
4.話の途中で、突然立って何処かに行ってしまう。

 これに対して信玄は、この中で「3」がもっとも将来役に立つタイプといった。しかし、彼はそれ以外が全て役に立たないといったわけではない。「人にはそれぞれ性格があって、性格に応じた社会への役立たせ方がある」といった。

1、2、4のタイプの子供には

1.自分で判断したり、意見をまとめたりするのが苦手なタイプ。しかし、しつけ方によっては、潜んでいる能力を発揮する。性格は素直な子供だ。だから、指導者や周りが、極力その子の良い所を告げて、これをもっと伸ばせばいいと助言すれば、そういう人間に育っていく。

2.非常に聡明で、また人間の機微にふれる特性を持っている。したがって将来は、外交関係などをさせると非常に役に立つ、また、見事な実績を上げるだろう。

4.これは少し気が弱くて臆病な性格を持った子供だ。しかし、だからと言って見放してはならない。我々が合戦に出た後の居残りや城の整理整頓などをさせると非常に役に立つ。

 事実その通りになった。武田信玄は子供を5つのタイプに分類しただけでなく、それぞれに見合う仕事を見つけては活用した。また、五つのタイプを組み合わせることにより、人間と人間の相乗効果が起こることも分かっていた。

 信玄は「人間の能力は、足し算や引き算をしているだけではダメ。掛け算をする必要がある」と言っている。信玄が戦国時代の武将として抜きんでていたのは人間活用法と教育においては「木くばり」を重んじていたからだと言われている。

 今の教育現場(学校・家庭)にも役立ちそうな感じがする。先人が成功した例を何で取り入れないのだろう。他にも例があるので次回に紹介する。

「教育は財政難のときこそ大切である」。熊本藩士・細川重賢

「佐賀のがばいばあちゃん」を見て

2007-01-22 22:38:43 | Weblog
 新年が明けて島田洋七の「佐賀のがばいばあちゃん」のTVドラマを見た。がばいばあちゃん役は泉ピン子が演じていた。映画では吉行和子が演じていたが、泉ピン子の方がはまり役だったように思う。「がばい」とは「とってもすごい」という意味。
http://www.gabai-baachan.com/index.html

 話のあらすじは、戦後まもない広島で暮らす昭広(島田洋七の本名)少年は母親の女手ひとつで育てられる。働く母を恋しがって、幼い昭広が物騒な夜の盛り場にやってくるため、懸念した母親がだますようにして、昭広を佐賀の実家へ送ることから物語が始まる。

 離れた土地で戸惑う昭広を、粗末な離れの小屋に連れていき、「明日から昭広がゴハンば、炊くとやけん、よう見ときんしゃい」と、火吹き竹を手渡した。こうして、昭広とばあちゃんの二人だけの暮らしが始った。

 このドラマの中でばあちゃんが昭広に言った言葉に感銘を受けたので紹介することにした。

●今のうちに貧乏しておけ!
金持ちになったら、旅行行ったり、寿司食べたり、着物を仕立てたり、忙しか。

●おはよう、と言えたら素晴らしい。
こんにちは、と言えたらカッコイイ。
いただきます、と言えたら絶好調!
ありがとう、と言えたら天才だよ。

●頭のいい人も、頭が悪い人も、
金持ちも、貧乏も、
五十年たてば、
みーんな五十歳になる。
心配するな!

●人がこけたら笑え。
自分がこけたらもっと笑え。
人はみな、こっけいだから。

●人生は総合力や。
世の中には二冊の教科書がある。
学校の教科書と社会に出てからの教科書。
いくら学校の教科書ができても社会に出てからの教科書ができんかったら何にもならん!

●この木は千年も生きとると。
この木に比べたらちっぽけなもんばい。

●人は金カネ言うけど、一億あっても金魚一匹作れんばい。
大事なもんは金じゃなか。

●夢や。
死ぬまで人は夢ばもたんばいかん。
そん夢がかなわんでも、しょせん夢は夢や!

いかがだろう。何か感じるものがあなたにも無かっただろうか。

こだわり設計がネットでできる

2007-01-22 16:40:56 | Weblog
 建築プロデュースの(株)ウィークエンドホームズ社(東京都渋谷区、代表取締役社長:森本 剛氏)とテナント専門不動産情報サイト「テナントガイド」を運営する(株)エリアコミュニケーションズが15日、業務提携するとになった。
http://www.weekend-homes.com/wtg/

 ウィークエンドホームズ社は、インターネットを活用した建築ソリューションサイトを運営する建築プロデュース会社。全国に約2,200社のデザイナーおよび約100社の施工会社が登録し、国内最大規模のネットワークを持っている。

 エリアコミュニケーションズが運営する「テナントガイド」は、出店希望者がテナント情報を無料で検索できる業界初のポータルサイト。全国のテナントガイド加盟店から登録された情報が一般に公開され、店舗・企業の事務所移転・開設や、店舗の開業前のテナント探しに利用されている。
http://www.e-tenant.co.jp/

 利用目的別では、飲食店舗検索が39%とトップで、物販店舗が25%、事務所が21%となっており、利用者の56%が新規出店・開業と半数以上を占める。年代別では30歳代が全体の約5割を占めている。

 今回の提携により、出店希望者に、開業までのサービスを一括して提供できるようになる。テナントガイドを利用し入居が確定した店舗は、飲食、物販などの店舗ジャンル別にカテゴリー分けされた設計事務所・店舗デザイナーの中から、デザイン性に優れた提案を検討することができる。

 同サービスは、同時に高い施工技術、リースで費用をまかなえるファイナンス提案力を持つのが特徴。両社は提携により、テナント探しからデザイン性・収益性の高い店舗実現のためのワンストップサービスがスピーディーに提供できるとしている。

と言うことで、店舗・事務所の設計コンペがネット上で全国どこでも可能になった。お考えの方は是非検討を。

ボランティアについて考える

2007-01-20 02:04:23 | Weblog
 ボランティアって何だろう。何をどうするのかまったく分らなかった。アメリカの経営者は会社の儲け以外に必ずボランティア活動に参加していることが、ある経済誌に載っていた。あのマイクロソフトのビルゲイツも年間かなりの額をボランティア活動に寄付しているという。

 私がボランティア活動を最初に知ったのは亡くなった父からだった。父が地域のボランティア活動に熱を入れていたときだ。公民館の建設や地域の祭り振興、老人のボケ防止運動・カラオケ大会など、家のことなど忘れたかのように次々とイベントを行っていた。

 当時、何でそこまで人様のために無償で頑張っているのか理解できなかった。ある日、父から町内の社協新聞を作るので手伝って欲しいと依頼された。原稿打ちとレイアウト、それを手伝う内に父が何をしたいのか、何をしようとしているのかが分った。

 ボランティアは義務や強制ではなく自分の思ったことを自然に行う、それも世の中のために。しかし、ボランティアはお金なしには難しいことも父は知っていた。そのため父は企業が寄付を出しやすいように、その企業のメリットを考えて寄付の依頼をして回っていたようだ。

 自分もこの頃よくボランティアについて考えるようになった。と言うよりそんな年になったのかもしれない。色んなボランティアがある中で、自分は何ができるのか。これだけ仕事の忙しいときにボランティア活動もないだろうけど、それとは切り離して考える余裕を持ちたい。

 私みたいにボランティア活動がどういうものか分らない人のために調べてみた。

 ボランティアという言葉はラテン語の「自由意志」に起源をもっている。英語のVolunteerにはもともと自発性や志願兵という意味があったようだ。社会的な問題解決のために自ら進んで活動(運動)を志す人のことを指している。

 義務や強制で行うものではなく、自分が行った活動が社会的な意味を持つという側面がある。また年齢、性別、経験、国籍を問わず誰もが参加できるというのも特徴の1つだそうだ。

【ボランティアの活動先】

●児童福祉施設
●老人ホーム、および老人保健施設など
●障害者擁護施設
●NGO(Non Governmental Organization)
これは「非政府組織」を意味する。社会福祉団体、平和団体、女性団体、消費者団体、青少年団体などさまざまな分野でさまざまな団体が活動している。
●NPO(Non Profit Organization)
NGOの非営利性を強調するもので、民間非営利組織(病院、学校、研究所、施設、ボランティア協会など)を意味する。日本では98年3月に特定非営利活動促進法(NPO法)が成立し、これからNPOの活躍がますます広がることが予想されている。

 私たちもいつかボランティアについて考えるときが来ると思う。その時、損得抜きに自分が自然体でできるボランティア活動から始めることをお勧めしたい。

「相田みつを」の人の生き方とは!

2007-01-19 03:00:37 | Weblog
 最近の新聞を読んでいると少年や若者の自殺や殺人、傷害事件が多すぎるように思う。これは「豊かさ」や「ゆとり教育」の結果なんだろうか。私は今まで3度死に目に会っているので、自分で命を絶たとうなんて考えたことがない。急がなくても、いつかは死ぬのだから。

「相田みつを」と言う作家を聞き覚えのある人は多いと思う。独特の文字と詩で、人の生き方をシンプルな言葉で人に伝える伝道師でもある。「老子」の言葉に、「本当にうまいものは、まるでへたくそのように見える」という一節がある。相田みつをの作品はまさに、それなのかもしれない。

「相田みつを」は、若い頃、病弱で大学にもいけず、書の道を志す。しかし書だけでは飯も食えず混沌とした日々を送る。その時、近くの寺(曹洞宗の高福寺)の禅僧・武井 哲応老師と出会い、在家のまま師事し仏法を学ぶ。この出会いが彼の運命を決めることとなる。

 彼は35年間に渡って、禅僧に師事する。この出会いについて、彼は次のように言っている。「いつでも、どこでも絶対に頭の上がらないおっかない人。うそや駆け引きは、絶対にまかり通らない人。そういう人を生涯に持てるか持てぬか、が、人生ではおおきな分かれ道になる」と。

 自分に置き換えてもなるほどと思ってしまう。相田はある意味、幸福だったのかもしれない。自分の師と思える人に巡り会うことができて、また、沢山の作品を世に残すことができたのだから。相田の詩でどれだけの人が救われたのだろうか。

相田作品の中で若い人達に是非、読んでもらいたいものを選んでみた。

●いのち
 アノネ、にんげんはねぇ、自分の意志でこの世に産まれてきたわけじゃねんだな
だからね、自分の意志で勝手に死んではいけねんだよ

●この世は、わたしが、わたしに、なるところ

●七転八倒
 つまづいたり、ころんだり、するほうが、しぜんなんだな、にんげんだもの

●うつくしいものを美しいと思えるあなたの、こころが、うつくしい

●一生、勉強、一生、青春

●うそはいわない、こころに、きめて、うそを、いう

●アレコレ卑下は、するけれど、やっぱり自分が一番かわいい

●なまけると、こころが、むなしい、一生懸命になると、自分の非力がよくわかる

いつまで続く談合入札!

2007-01-18 04:05:24 | Weblog
 談合、私が社会に出て、聞かない年はないように思う。最初は「談合って何?と思ったが」公共入札に利得があるので、それを目当てに集まる会社がいることが分かった。特に建設業界は大手から中小に至るまで当たり前のように談合が行われている。

 理屈から考えて高い入札価格で落とした方がその分、利益幅が大きくなるわけで、だったら談合して持ちまわり制にした方が、利益分配をしやすくなるというものだ。それを談合するなと言うのも無理な話かもしれない。

 取り締まる側も、問題が発生してからしか腰を上げて調査しない。政治的なつながりもあれば色んなしがらみが、ここには渦巻いているような気がする。入札制度も根本的に見直さなければ談合はなくならない。しかし、400年の歴史が物語るように、そう簡単な問題ではない。

 実を言うと私の亡くなった父は元地方公務員で、ある県庁の用度課にいたことがある。毎年、盆と暮れには山のように宅配便が、お中元とお歳暮を届けに来た。一度は仏間が届け物で足の踏み場もなかったことを憶えている。

 当時、学生だった私はこんなに物がもらえる親父の仕事が羨ましくもあり不思議だった。しかし、厳格だった親父は、私に絶対に品物を開けることを許さなかった。また、自宅を訪問してきた人の贈り物は全て持って帰ってもらっていた。

 今考えるとあれが談合する側の戦術だったのかもしれない。貢物をして入札担当官の心を惑わす。そして、自分達に有利な入札ができるように持ち掛ける。不幸なことに私の父は酒も飲めないし、遊びもしなかった。さぞや、やりにくい担当官だったに違いない。

 談合の歴史を紐解くと邪馬台国(卑弥呼)の時代にすでにあったとされている。入札制度が始まったのは16世紀末頃(豊臣秀吉時代)とされているが、文献では1661年(江戸幕府時代)に小普請奉行に対し談合注意の御触れを出しているのが最初だ。

 19世紀に入り独占禁止法成立(1947年)、独禁法改正「課徴金制度導入」(1977年)を経て2005年公取委による橋梁談合の刑事告発に至っている。

16世紀末ごろ 入札制度が始まったとされる
1661年 江戸幕府が小普請奉行に談合を注意する文書
1889年 会計法を公布。国の発注を一般競争入札に
1900年 勅令で指名入札制度を新設
1902年 会計法改正。談合業者に2年間の入札参加禁止
1911年 東京中央停車場(東京駅)の建築工事の入札
1921年 会計法改正。指名入札と随意契約が行える範囲を大幅に拡大
1941年 刑法に談合罪を新設。原案を大幅修正し、処罰の対象を限定
1947年 独占禁止法成立
1949年 岡山県発注の土木工事の談合で、39人が談合罪などで起訴されるが、51年に全員無罪の判決
1973年 石油ショックを機にカルテルが多発
1974年 公取委が石油業界のヤミカルテルを刑事告発
1977年 独禁法改正。課徴金制度を導入
1979年 熊本県発注舗装工事の入札談合で熊本県道路舗装協会に排除勧告。建設談合を初摘発
1982年 静岡建設業協会などに排除勧告。ゼネコンは課徴金納付命令の対象外に。自民党の小委員会が「調整行為は違法ではない」と見解
1984年 公取委が建設ガイドライン作成。建設談合の摘発に枠
1990年 日米構造協議最終報告書に独占禁止法の運用強化盛り込む。公取委が積極的な刑事告発の方針を発表
1991年 公取委がラップ業界のヤミカルテルを刑事告発。石油ヤミカルテル事件以来17年ぶりの告発
1992年 独禁法改正。法人の罰金を500万円から1億円に
1993年 東京地検特捜部がゼネコン汚職を摘発
1995年 公取委が下水道談合を刑事告発。発注者側の日本下水道事業団の幹部も告発され、初の官製談合の摘発に
2003年 官製談合防止法施行、北海道岩見沢市の談合で初適用
2005年 公取委が橋梁談合を刑事告発

 以上のように談合の歴史は古い。徐々にではあるが見直しや、法の整備もされてきているのにも拘らずいまだ無くなることはない。いつまで続く談合入札・・・

「大家」と「店子」の起源

2007-01-17 01:01:29 | Weblog
 「大家」と「店子」との関係が詳しく分かるのは江戸時代からのようだ。今日では家・アパートを建てて賃貸している人を「大家」というが、江戸時代は「家持(地主)」が家・長屋を建て、それを管理委託された人を「大家」と言ったようだ。

 「大家」は家持から手当をもらう替わりに、家賃を徴収したり店子の世話をした。大家の収入源は①地主からの手当②店子からの礼金③排泄物(長屋に設置された共同便所の)の処理が主で、中でも③の糞尿を近郷農家に売るのが大きな収入源だった。

 実際は、借地人・借家人の人事や、地代・家賃(店賃)をとり立てて地主に納めるのが主な業務で、長屋の一角に無料で住み地主から店賃総計の3~5%の給金を受けとっていた。(現在とあまり変わらないような気がする)

 ほかに、店子から入居時に納められる樽代(権利金)、五節句に付け届けされる節句銭等を受け取っていた。また、契約した農民から汲みとりの謝礼に支払われる下肥代(しもごえだい)が馬鹿にならなかったようだ。(物は違うけが現在と同じような・・)

 しかし、一方で店子の保護の責任も重大で、町奉行所における公事(くじ)に連署・付き添いの義務があり店子から犯罪者が出れば、監督不行き届きとして、株(権利)を剥奪されたり、科料(罰金)から遠島までの量刑に処せられたりすることもあったそうだ。

 それは「大家」は別名、家主(いえぬし)、家守(やもり)、差配(さはい)人とも呼ばれ、家作(かさく)の管理・差配をおこなう地主の使用人であるとともに、町奉行を頂点とする、江戸町政の末端に位置していたためといわれている。

 五人組を構成し、その中から月交代で月行事(がちぎょうじ) を選び町政に当たった。町木戸の脇の自身番屋に、当番で詰めては、人別帳の記載と保管、公報の受領と下達、犯罪・災害の予防と対応などに従事したそうだ。

 「大家といえば親も同然、店子といえば子も同然」の密接な関係にあったから「とかく長屋に事なかれ」と願い、入居者の身状(みじょう)を念入りに調べ、日常を口やかましく監督していた。

【大家の主な仕事内容】
*町触れ伝達 *人別帳調査 *火消人足の差配 *火の番と夜回り 
*店子の身元調査と身元保証人の確定 
*諸願いや家屋敷売買の書類への連印 
*上下水道や井戸の修理、道路の修繕
*喧嘩・口論の仲裁
*店子が訴訟などで町奉行所へ出頭する際の付き添い

 現在の管理業と比べていかがだろう。何か今日より地域との密着度が深いような気がする。それと、法的(遠島「島流し」)には昔の方が厳しかったようだ。しかし、「大家」(管理業)は今も昔も安定した職業みたいだ。
 

不動産業の起源

2007-01-16 05:31:52 | Weblog
 不動産業に携わっている人で不動産の起源を知っている人は、一体何人いるのだろうか。宅地建物取引業免許試験にもそんな問題は出ない。自分の携わっている仕事の歴史を知っておくことは重要だと思い調べてみた。

 「不動産業」というビジネススタイルは、江戸時代の貸家経営とその管理にはじまる。当時の貸家や貸地の所有者は商人や大地主だ。これとは別に、不動産の管理だけを仕事として請け負っていた人達がいて、彼らは「差配人(さはいにん)」と呼ばれていた。

 「不動産業」という言葉が文献に登場するのは、明治3年に民法の編纂が行なわれた時、その参考としたフランス民法の中にある言葉を「動産」「不動産」という法律用語として日本語に翻訳したのがはじまりだとされる説と。

 明治5年文部省が刊行した「和蘭邑法」が「不動産」という言葉をオランダ語から用いたという説がある。とにかくこの言葉が発生したのは明治初期であり法律用語として必要とされていた時代だった。

 江戸時代に「不動産」を表す言葉として使用されたのは、「家屋敷」「地所」「家屋」などだ。「不動産」が日常用語として使われだしたのは明治以降、ずっと広い意味で使われ、社会生活や経済の中で一般化したといわれている。

 【不動産業が普及した理由】
Ⅰ.町内の有力者、世話役、家作差配人(貸家管理人、大家)などで他人の依頼で取引の世話をしているうちに、それが職業化したもの。
Ⅱ.個人金融業者の担保流れ不動産の処分などから不動産の売買仲介業に参入した
Ⅲ.職業周旋業(口入屋、桂庵)の副業として土地売買や貸家貸借の斡旋をして、それが本業化したもの
Ⅳ.信託業の一部として発達したもの

 いかがだっただろう。次回は不動産の実務に関係の深い「大家」と「店子」の起源をお知らせする。

博多を知っと考(渡辺通り編)

2007-01-15 00:59:26 | Weblog
 福岡市の天神から南に向けて九州電力本社までの大通りを「渡辺通り」という。渡辺通りの由来はこの道を造るときに情熱を傾けた「渡辺与八郎」の功績に由来する。しかし、本人は亡くなるまで自分の名前を付けることを拒み続けたという。

 渡辺家は与八郎の祖父(与助)が、博多の洲崎町上(須崎町)にあった漆器・履物屋の「紙屋」で奉公したことに始まる。それから「呉服商」を始め「紙与」呉服店を西町上(現在の店屋町)に開いた。屋号は主家から一字もらったものだ。

 天保元年(1830年)、に長男(与三郎)が生まれた。与三郎は律義で堅実な父とは対照的で、小倉や下関の「小判買い」でもうけた。嘉永4年(1851年)の決算では、二千八百両の利益を出し莫大な財を築いた。

 その家督を23歳の若さで引き継いだのが与八郎だ。父から受け継いだ呉服商を発展させた与八郎は、綿布、絹布、染め物まで扱い、京都、滋賀、愛知から商品を仕入れ、商圏は九州全域はもちろん、中国、朝鮮におよんだ。

 また、醤油(しょうゆ)屋や足袋など様々な業種へ進出、次々に独立させ、親族や従業員に経営を任せた。銀行や鉄道会社へ投資するなど、急速に経営を拡大させた。そんな折、明治43年春、福岡県の主催で九州沖縄8県連合共進会が開催されることになった。

 各地から商品を持ち寄り、商談とともに、開催地の産業を宣伝するイベントで、当時は貴重なビジネスチャンスだった。この機会に市の基盤整備を、と考えた与八郎は有志を集め「博軌電車」(はっきでんしゃ)を設立した。

 天神から、渡辺通、住吉を通って博多駅、そして築港から天神に戻る循環線「博多電車」を走らせる計画で、土地買収には膨大な資金を要した。与八郎は「電車が通れば家は倒れてもよい」と広言し、用地買収の陣頭に立った。

 しかし、明治44年11月、博多電気軌道の開通を見届けるように「流行病」のため、45歳で亡くなった。彼は生涯、名声や名誉に一切関心を示さなかった。電車が走った天神から柳橋に続く通りを「渡辺通」と名付ける話が出た時、どうしても首を縦に振らず、実現したのは死後間もなくしてからだ。

 博軌電車は、渡辺与八郎の死後、すぐに経営不振に至り、九州水力電気(株)に合併される。1934年(昭和9年)には福博電車に統合され、そして1942年(昭和17年)に、現在の西日本鉄道株式会社に統合された。
http://www.nishitetsu.co.jp/museum/fukuoka/junkan/

 どうです、すごいですね。博多を作った人には神屋宗湛(かみやそうたん)、嶋井宗室(しまいそうしつ)ら何人かいますが、与八郎も代表すべき人物ではないでしょうか。何で今の時代に、こんな人たちでてこないのでしょう。

(プチ情報:ナベプロは親戚筋だそうです)