法然上人絵伝(知恩院蔵)の法然の父、美作国久米郡押領使漆間時国の家です。(週刊朝日
百科、日本の歴史、中世Ⅰ-②中世の村を歩く、寺院と荘園2002年、より)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/52/16/a5c3069879d9c4078eb3a356de2ea8ac.jpg)
廊(中門廊?)で「宿直(とのい)している。」は折口信夫の記述と重なります。
貴族社会が宗教的権威なり経済力を失って、壮大な寝殿造りなどを維持できなくなり、
徐々に規模が縮小していきます。(もともと権威も経済力もない貴族は大きな家屋敷?は
構えられなかったと考えられます、、、。)
まず、東三条殿です。(10~12世紀くらい?)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/f2/ed1870043f802fc9abe0ed782c1baf45.jpg)
同じ頃ですが、堀河殿という建物です。(11世紀くらい?)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/7d/e2/f321cc0036e4afad2b6a822c3dfa1b7c.jpg)
まだ「対屋」は東も西もあります。
関白藤原基房小松第(12~13世紀くらい?)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/33/6005a793177f52edd1c95befd04ab240.jpg)
「対屋」はなくなっていますが、「透渡殿」と「二棟廊」はあって、「中門廊」と
「中門」もあります。
関白藤原基道六条堀河第(12~13世紀くらい?)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/79/20/d6e0c7269f6eb12e73fc0b96c4c6add4.jpg)
「透渡殿」はありませんが、まだ「二棟廊」はあります。
藤原定家第(12~13世紀くらい?)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/44/3c/5f8bb37a24a65cdc72216fd1b79fbbfe.jpg)
「二棟廊」もなくなり、「寝殿」に直接「中門廊」が、くっついています。
藤原定家は小倉百人一首の撰者ですが、後半生は鎌倉時代の人なのですね。それでも、そ
の家には「中門廊」は残っていたのです。(前にも書きましたが、「中門」と「中門廊」
の表記の違いは、私には、まだ、わかりません、、、。鵠沼の林達夫さんの自宅の玄関
までのアプローチには「定家葛(ていかかずら)」が植わっていたような、、、、。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/dd/cb986f6f942d8e599c5d9340768b110c.jpg)
どんなに時代が下がって規模が縮小しても、「中門」だけは残ったのですから、その時代
までは、「必須」な理由があったのです。そして「中門」は最後に消えてなくなってしま
うのですが、おそらく、それは「芸能の変遷(もしくは芸能の出現?)」と何らかの関係が
あったのではないでしょうか?
(実は、消えてなくならなかったのですが、それは又もう少ししたら、、、。)
追記 最初のカラー写真は、一般の方にイメージが判りやすいかと思って載せたのです
が、これは「地方豪族の家」であって「貴族」ではないのです。新興勢力の武士
階級に、どの程度、貴族社会の暮らし方や文化が影響を及ぼしていたかは、私に
は、まだまだわからない事ばかりです。
地の黄色の図版は、全て彰国社版、改訂増補、建築学体系4-1日本建築史 昭和52年より
お借りしております。ありがとうございます。
百科、日本の歴史、中世Ⅰ-②中世の村を歩く、寺院と荘園2002年、より)
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廊(中門廊?)で「宿直(とのい)している。」は折口信夫の記述と重なります。
貴族社会が宗教的権威なり経済力を失って、壮大な寝殿造りなどを維持できなくなり、
徐々に規模が縮小していきます。(もともと権威も経済力もない貴族は大きな家屋敷?は
構えられなかったと考えられます、、、。)
まず、東三条殿です。(10~12世紀くらい?)
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同じ頃ですが、堀河殿という建物です。(11世紀くらい?)
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まだ「対屋」は東も西もあります。
関白藤原基房小松第(12~13世紀くらい?)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/59/33/6005a793177f52edd1c95befd04ab240.jpg)
「対屋」はなくなっていますが、「透渡殿」と「二棟廊」はあって、「中門廊」と
「中門」もあります。
関白藤原基道六条堀河第(12~13世紀くらい?)
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「透渡殿」はありませんが、まだ「二棟廊」はあります。
藤原定家第(12~13世紀くらい?)
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「二棟廊」もなくなり、「寝殿」に直接「中門廊」が、くっついています。
藤原定家は小倉百人一首の撰者ですが、後半生は鎌倉時代の人なのですね。それでも、そ
の家には「中門廊」は残っていたのです。(前にも書きましたが、「中門」と「中門廊」
の表記の違いは、私には、まだ、わかりません、、、。鵠沼の林達夫さんの自宅の玄関
までのアプローチには「定家葛(ていかかずら)」が植わっていたような、、、、。)
![](https://blogimg.goo.ne.jp/user_image/70/dd/cb986f6f942d8e599c5d9340768b110c.jpg)
どんなに時代が下がって規模が縮小しても、「中門」だけは残ったのですから、その時代
までは、「必須」な理由があったのです。そして「中門」は最後に消えてなくなってしま
うのですが、おそらく、それは「芸能の変遷(もしくは芸能の出現?)」と何らかの関係が
あったのではないでしょうか?
(実は、消えてなくならなかったのですが、それは又もう少ししたら、、、。)
追記 最初のカラー写真は、一般の方にイメージが判りやすいかと思って載せたのです
が、これは「地方豪族の家」であって「貴族」ではないのです。新興勢力の武士
階級に、どの程度、貴族社会の暮らし方や文化が影響を及ぼしていたかは、私に
は、まだまだわからない事ばかりです。
地の黄色の図版は、全て彰国社版、改訂増補、建築学体系4-1日本建築史 昭和52年より
お借りしております。ありがとうございます。
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