北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

『中門』の変遷 その2

2014-12-06 13:11:18 | 日記
法然上人絵伝(知恩院蔵)の法然の父、美作国久米郡押領使漆間時国の家です。(週刊朝日

百科、日本の歴史、中世Ⅰ-②中世の村を歩く、寺院と荘園2002年、より)





廊(中門廊?)で「宿直(とのい)している。」は折口信夫の記述と重なります。


貴族社会が宗教的権威なり経済力を失って、壮大な寝殿造りなどを維持できなくなり、

徐々に規模が縮小していきます。(もともと権威も経済力もない貴族は大きな家屋敷?は

構えられなかったと考えられます、、、。)


まず、東三条殿です。(10~12世紀くらい?)




同じ頃ですが、堀河殿という建物です。(11世紀くらい?)




まだ「対屋」は東も西もあります。



関白藤原基房小松第(12~13世紀くらい?)



「対屋」はなくなっていますが、「透渡殿」と「二棟廊」はあって、「中門廊」と

「中門」もあります。


関白藤原基道六条堀河第(12~13世紀くらい?)



「透渡殿」はありませんが、まだ「二棟廊」はあります。



藤原定家第(12~13世紀くらい?)



「二棟廊」もなくなり、「寝殿」に直接「中門廊」が、くっついています。



藤原定家は小倉百人一首の撰者ですが、後半生は鎌倉時代の人なのですね。それでも、そ

の家には「中門廊」は残っていたのです。(前にも書きましたが、「中門」と「中門廊」

の表記の違いは、私には、まだ、わかりません、、、。鵠沼の林達夫さんの自宅の玄関

までのアプローチには「定家葛(ていかかずら)」が植わっていたような、、、、。)





どんなに時代が下がって規模が縮小しても、「中門」だけは残ったのですから、その時代

までは、「必須」な理由があったのです。そして「中門」は最後に消えてなくなってしま

うのですが、おそらく、それは「芸能の変遷(もしくは芸能の出現?)」と何らかの関係が

あったのではないでしょうか?

(実は、消えてなくならなかったのですが、それは又もう少ししたら、、、。)




追記  最初のカラー写真は、一般の方にイメージが判りやすいかと思って載せたのです

    が、これは「地方豪族の家」であって「貴族」ではないのです。新興勢力の武士

    階級に、どの程度、貴族社会の暮らし方や文化が影響を及ぼしていたかは、私に

    は、まだまだわからない事ばかりです。



地の黄色の図版は、全て彰国社版、改訂増補、建築学体系4-1日本建築史 昭和52年より

お借りしております。ありがとうございます。


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