北海道函館市の建築設計事務所 小山設計所

建築の設計のことやあれこれ

メディチ家礼拝堂(Cappella mediceo) その10

2015-11-22 17:01:58 | 日記
『メディチ家礼拝堂(Cappella midiceo) その1』で、「ブルネレスキは---捨子保育院

(スペダーレ・ディ・サンタ・マリーア・デッリ・イノチェンティ)も設計しているわけ

で、、、」と書きましたが、実は捨子保育院がフィレンツェの街のどこに建っているか判

っていない、、、、これではイカンと思ってGoogle Mapで探してみました、、、。









広場に面して、西日の当たっている印象があったので、Duomoからそれほど離れていない

旧市街を探していたら、フィレンツェ大学の近くの広場に面した「イノチェンティ病院」

というのを発見。「でも、病院と保育園じゃ違うよなぁ、、?」と思っていたら、その広場

の少し南の辺りで、いきなり


Rotonda del Brunelleschi


の文字と一緒に不思議な八角形?十六角形?の建物の平面のシルエットが眼に飛び込んでき

ました。「Rotonda del Brunelleschi」で画像検索したら、これでした、、、。









上から見ると、、、







近くに寄ると、、、






この建物の、本当の名前は

「サンタ・マリーア・デッリ・アンジェリ修道院の小礼拝堂オラトリウム」

Santa Maria degli Angeli (St. Mary of the Angels) (1435年起工・未完成)





              平面図と断面図です。

             





            もとは修道院の角っこにあった?(右下)

            





     フィレンツェにも雪は降るのでした。

                      
                              
            http://sicalipsisnow.blogspot.jp/2012_05_01_archive.html     





                小さき家に 幸いあれ


                貧しき建築に 幸いあれ




               

                    『メディチ家礼拝堂(Cappella midiceo)』

                           これで、終わりです、、、。






追記   









  
                         







   
 

       




コメント (3)
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メディチ家礼拝堂(Cappella mediceo) その9

2015-11-22 02:38:33 | 日記
だいたい同じ縮尺にしてみましたので、、、



メディチ家礼拝堂・サン・ロレンツオ教会堂・ラウレンツィアーナ図書館・中庭・回廊と






日本の桂離宮とを





比較してみて下さい。



④外腰掛 ⑨四ツ腰掛(卍亭)、はさすがに無理ですが、それ以外の ⑰中門 から

A.古書院、B.中書院、C.楽器の間、D.新御殿 の書院群、 ⑮笑意軒 ⑫松琴亭 まで

の、この図のオレンジ色の建物は、メディチ家礼拝堂・サン・ロレンツオ教会堂・

ラウレンツィアーナ図書館・中庭・回廊のタテ・ヨコの巾の中に、ぎりぎりですが

「スッポリ」と納まってしまいそうです。(僕の計算ではタテ145m・ヨコ125m)



なんで、こんなに違うんでしょうかね、、、?



さらに、僕の計算では、メディチ家礼拝堂とサン・ロレンツオ教会堂では

タテ85m・ヨコ80mの範囲内に



君主の礼拝堂




ミケランジェロの新聖器室




サン・ロレンツオ教会堂の聖堂の内陣




ブルネレスキの古聖器室




ミケランジェロのロレンツオ図書館前室





などの、およそ200年くらいに渡って作られ続けた、作者(建築家)も時代も違う建物

や諸室が、ガツン、ガツンと、ぶつかり合っているかの様に固まっているのです。

(古聖器室と図書館前室の間なんて、厚い石の壁が2重になっている、、、?)




この、メディチ家礼拝堂(Cappella mediceo)の記事を書くのに、メディチ家礼拝堂と

サン・ロレンツオ教会堂の平面図を何度も繰り返し見ていたら、やはりこのブログの記事

『二笑亭』のプランを思い出してしまいました、、、。






やはり何だかあっちこっちが「ガツン、ガツン」とぶつかり合っているようなプランです。


『二笑亭』を作った赤木城吉さん(仮名)は、『二笑亭』を作る前の1925-1926年

に、当時の民間人としては珍しく「世界一周旅行」をしています。(建築視察旅行も兼ねて

いた? フィレンツェにも寄った可能性大かな、、、?)



赤木城吉さんは帰国後、満を持して?『二笑亭』の建築に着手するのですが、西洋の天才

達が何人も、何百年もかかった事を、自分の脳内の妄想なのか、深川の大工さん達に指示

して、わずか数年で形にしてしまったのでしょうか、、、? (そして、わずか数年で取り

壊されてしまったのです、、、。)




          メディチ家礼拝堂(Cappella mediceo)その10 につづきます。




追記  日本の『建築家』と赤木城吉さんは、どこがどう同じで、どこがどう違うんだろ

    う?ブルネレスキとミケランジェロとも、どこがどう同じで、どこがどう違うん

    でしょうかねぇー、、、? (『建築家』によっても違うんでしょうけど、、。)
         



コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メディチ家礼拝堂(Cappella mediceo) その8

2015-11-20 12:28:36 | 日記
1979年、サン・ロレンツオ教会堂の地下?で、ミケランジェロが隠れていた(幽閉さ

れていた?)とされる小部屋が発見されます。(幽閉されていたのは15日間らしい。)





今は観光客にも公開されているみたいです。





ミケランジェロが、その15日間に壁に描いた絵のようです、、、。




ミケランジェロの新聖器室は、1521-34年の間の製作、設計、施工のようですが

(途中まで?)、どうもミケランジェロはローマ教皇レオ10世(1475-1521)?

に幽閉を解く条件で彫刻の制作と新聖器室の内部設計を「強要」されていたらしいのです。

(レオ10世は「強要」して、すぐに死んじゃった? ミケランジェロも新聖器室を最後まで

完成させないで1564年に死んでしまって、結局、最後に新聖器室を仕上げたのは

ジョルジョ・ヴァザーリetc、、だったようです。でも、もともとの新聖器室の建物自体

はブルネレスキの設計したもののような気がしますけど、、、。だから、この地下室も

ブルネレスキの設計、、、?)




『建築家が設計を「強要」される』って、一体どういう事なんでしょうか?当時の建築家と

パトロンの関係って、一体どうなっていたんでしょうか? 今に続く『建築家残酷物語』

(永島慎二さん)の始まりだったんでしょうか、、、?(日本でも千利休が切腹したのは

1591年なんですけど、、、。)



山川の世界史の高校の教科書でも、彰国社の西洋建築史図集でも、最初のうちは建築家の

名前は、あまり出てきません。パルテノン神殿のフィディアスPheidias、イクティノス

Ictinos、カリクラテスKallicrates 、アヤ・ソフィア寺院のアンテミウスAnthemiusと

イシドロスIsidoros、サン・ヴィターレ寺院のユリアヌス・アルゲンダリウスJulianus

Argentrarius、スレイマン一世のモスクのシナンMimar Shinan、パリのサント・シャペル

のピエル・ド・モントロPierre de Montreuil?、日本でなら浄土寺浄土堂の重源に、先ほ

どの千利休、あとは小堀遠州くらいでしょうか、、、? (大奥・棟梁の甲良筑前、中井

家文書の中井一族を『建築家』とするかどうかは難しいところか、、、?むしろ桂離宮の

八条宮智仁・智忠親王や、旧一条恵観山荘の一条昭良のほうが、よっぽど『建築家』?)





ブルネレスキとミケランジェロは15世紀以降になって、ようやく現れた独立した職業人

としての建築家の最初の2人だというのに、その片方のミケランジェロの建築家としての

最初の仕事の依頼のされ方が、『幽閉による強要』だったとは、、、。ミケランジェロは

建築家としてはついていなかったようです。新聖器室は、すでに躯体はブルネレスキによ

って完成していた建物の内部造作工事ですし、ラウレンツィアーナ図書館はサン・ロレン

ツオ教会堂の増築工事でした。それ以外の仕事も、ファサードだけだったり、中庭だけだ

ったり、広場だったり、門だったりのようなんです。建物全体のマスタープランの最初か

ら、最後の完成・竣工まで、全てをミケランジェロが設計・監理した建物ってあるんでし

ょうか、、、?



ミケランジェロはサン・ロレンツオ教会堂の未完のファサードのスケッチも残していて

(どうして、こんなものが残っているのか経緯は不明、、、。依頼なのか、自発的になの

か、はたまたやはり強要なのか、、、?)







木製の模型も残っています。






21世紀に入ると、ミケランジェロのファサードを実現させようという話もあるみたいで







どうなるかは判りませんが、サント・スピリト教会堂を設計して最後まで完成させて、

サン・ロレンツオ教会堂の最初の全体を設計した、お墓の下のブルネレスキはどう思うん

でしょうかねぇー、、、?




           メディチ家礼拝堂(Cappella mediceo)その9 につづきます。





追記  ローマ教皇レオ10世(1475-1521)に「?」マークつけました。いくら一族

    の長(おさ)が教皇とは言え、ローマとは別に、フィレンツェにはフィレンツェ

    のメディチ家の当主が居なければ、具合が悪いような気もして、、、。




追記の追記   木製の模型なんですけど、もしかしたらコンパニヨンcompagnonsの仕事

        https://www.atlasobscura.com/articles/compagnons-tiny-

        staircases-models

        かも知れませんね。



追記その3   地下室には幽閉されていたのではなく、当時、対立していたメディチ家と教皇派の

        追手から逃れるために、自ら隠れていたという話もあるようなのですが、いくら地下

        室とは言え、わざわざメディチ家のお膝元の、フィレンツェの街のど真ん中で隠れた

        りってあったんでしょうか、、、?















 




コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メディチ家礼拝堂(Cappella mediceo) その7

2015-11-19 14:39:37 | 日記
ブルネレスキは、     1377年生まれ-1466年没、


ミケランジェロは、    1475年生まれ-1564年没。


2人は同時代を生きていません。かすりもしていません。


マッテオ・ニゲッティは、 1560年生まれ-1648年没  (1570年生まれ?)


ですから、ミケランジェロとは、ぎりぎりかすっているかどうかです。270年くらいの

間に3人は入れ替わり立ち代わり、生まれては亡くなっています。(ミケランジェロの

新聖器室と図書館の階段をミケランジェロ亡き後に完成させた、『芸術家列伝』の著者の


ジョルジョ・ヴァザーリは、1511年生まれ-1574年没


ですから、ほぼ後半のミケランジェロと重なっています。)




ジョルジョ・ヴァザーリ Giorgio Vasari

Lives of the Most Excellent Painters, Sculptors, and Architects






建築の注文主であるパトロンのメディチ家の当主?(教皇?)も、


 ジョバンニ       1360年生まれ-1492年没

 コジモ         1389年生まれ-1464年没
   
 ピエロ         1416年生まれ-1469年没

 ロレンツォ       1449年生まれ-1492年没

 ピエロ         1472年生まれ-1503年没

 ジョヴァンニ      1475年生まれ-1521年没 (ローマ教皇レオ10世)

 アレッサンドロ     1510年生まれ-1537年没 (庶子、暗殺、断絶)


 途中いろいろあって(と言うか、よくわかんない、、、)


 フェルディナンド1世   1549年生まれ-1609年没

 コジモ2世        1590年生まれ-1621年没

 フェルディナンド2世   1610年生まれ-1670年没


 と、まだまだ続くのですが、、、(肝心の『君主の礼拝堂』の依頼主が誰だか、もう

 誰が誰だか良く判りません、、、。一応、建物と当主の年表を自分では作ってみたの

 ですが、、。こういうの苦手、、。)



270~300年くらいの間だけでも、何人ものパトロンと建築家が、入れ替わり立ち

代わり、生まれては死んで(たぶん建築家だけでも、ここに書き出した4人どころか2倍

か3倍以上の人数でしょう)、そして、その誰一人として、このサン・ロレンツオ教会堂

とメディチ家礼拝堂の最終的な姿を眼にしていないのです。(だって、正面のファサード

は2015年の今現在でも、まだ未完成? 工事中? のままなんですから、、。)




未完成? 工事中? の正面ファサードの壁。






                    
           メディチ家礼拝堂(Cappella mediceo) その8につづきます。




追記   日本建築でこういう建物ってあるんでしょうか? 僕にはすぐには思い浮かび

     ません、、、。









コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする

メディチ家礼拝堂(Cappella mediceo) その6

2015-11-17 14:21:28 | 日記

彰国社の西洋建築史図集にはもうひとつ、「ミケランジェロのロレンツオ図書館前室」

Michelangelo Laurentian Libraryという不思議な階段の写真が、「メディチ家礼拝堂、

サン・ロレンツオ教会堂」の写真の下にあります。こんな階段です。







この階段がイタリアのどこの街の、どの建物の、どの場所にあるのか今まで僕は全然判っ

ていませんでした、、、。(お恥ずかしい限りでして、、、。)


これはローマにあるパラッツォ・ファルネーゼという建物なのですが





長い事、ミケランジェロの階段は、もしかしてこの建物の中にでもあるのかな? くらい

に考えていたのです。(ミケランジェロが設計に関与していたようですし、階段室の壁面

の窓の装飾と、パラッツォ・ファルネーゼの窓の上のペディメントが何となく似ているよ

うに感じていたものですから、、、。)



ミケランジェロの階段と階段室の平図面です。







同じく断面図です。







でも「ロレンツオ(Laurentian)」ってくらいですから、やっぱりサン・ロレンツオ教会堂

の中にあったんです、、、。


この図のどこだと思います?






正解は、この図を見るとわかります。






これが、図書館と階段室の平面図です。わかりますよね。





ブルネレスキの古聖器室の右の、もともとのサン・ロレンツオ教会堂が凹んでいた場所

に、囲碁で言う「あて込んだ」ように、無理くり作ったように僕には見えてしまいます。

この階段室の中にクロイスターcloister(中庭の回廊)以外の、どこからどうやったら

入れるのかさえ、僕には図面からは読み取れないくらいなんです。



階段の上から下を見た写真です。





右のドアはクロイスターに出れますが、左のドアはおそらく付属室か何かで行き止まりで

しょう。とにかく、こんなスケールアウトな階段を無理くり作ってしまって、降りて目の

前はいきなり壁ですから、これがJRの駅舎かホームなら人身事故必至です、、、。



 

 


                             メディチ家礼拝堂(Cappella mediceo)その7 につづきます。




追記  パラッツォ・ファルネーゼは、現在イタリアのローマにあるフランス大使館です

    ので(三色旗がさがっています。)警備は相当厳重になっているはずです。



追記の追記  囲碁の場合、「あて込みの手」は、一般的には「愚形」「愚手」とされ、指導碁

       などでは上手から指摘されてしまいそうです。ですがプロ同士の打碁では

       稀に「あて込みの手」が「妙手」となる事があり、「場合の妙手」などと言われ

       たりします。ミケランジェロの階段室と階段が「場合の妙手」かどうかは、

       難しいところです、、、。



       第15期本因坊リーグ戦 木谷(黒)--坂田(白) 白94手目でしょうか?

       http://www.kihuu.net/threadno/k00000021712


       クリックして白94手目を探してみて下さい。

















コメント
  • X
  • Facebookでシェアする
  • はてなブックマークに追加する
  • LINEでシェアする