大文字屋の憲ちゃん (当面は 石巻 地震) 

RIP 親父 けんちゃん 石巻 地震

石巻往還記 後編    to 石巻 地震がありましたが、大文字系は無事です。(89)

2011-04-16 06:32:18 | 日記

4月2日

5:30
 起床。 前日の段階でデジカメのバッテリーが「残りわずか」の表示が出たので、駅前の市役所に充電に向かった。前の晩早く寝たのは、疲労もあったが充電のために早起きするためでもあった。

電気の復旧状況としては、立町や中央3丁目までは電気が通じているし、日和山や泉町あたりも復旧しているが、中央1、2丁目はまだである。川岸に近いために津波で電柱が倒れていたり、引き千切られていたりするし(電柱がである)、建物の受けたダメージが大きい分、通電した場合の漏電の心配もあって、この地区の停電復旧にはもう少し時間がかかるようである。

市役所では携帯の充電等に利用できる設備があると聞いていたので、それを使ってというわけである。実は今回の帰省に備えて、バッテリーのスペアを一つ用意はしていたのだが、一日でこれほど消耗するとは思っていなかったし、写真撮影は2日目が本格的になると予想していたので、消耗したバッテリーを早めにチャージしておこうというわけである。(ちなみに前日は200枚程度撮っていた。バッテリーはフル充電するのに4時間かかる。フル充電バッテリーで撮影可能な枚数はおよそ200枚。こんなに撮るとは今まで経験がないが、コンデジのバッテリーがこんなに早く切れるとは予想外だった。)

道々、街の様子を撮りながら駅に向かった。寿町、立町、穀町、四釜商店(女川の淳こちゃんの幼馴染みの酒店)、駅前の通り、そして市役所である。川から少し距離がある立町も、1階は、ほとんどの店が大きな被害を受けており、営業再開までにかなり時間がかかりそうである。道路には汚泥と瓦礫がかなり残っていたが、重機が進んでいるところまではきれいになくなっていた。これが少しずつ進んでいくのであろう。

四釜商店は建物は残っていたが、少し傷みがあるような張り紙がされていた。

駅前には、炊き出しで使われたらしい使い捨ての食器のゴミがたくさんあった。市役所が避難所になっていた影響だろうか。ただ、この辺りは、整骨院が営業再開を予告していたり、閉店している飲食店が「絶対に! また営業します!! …石巻ガンバロウ!」とか「復興の応援歌…小林旭のダイナマイトが150tのメロディで…」といった貼り紙が見られ、エネルギーを感じさせた。

市役所は基本的に24時間オープンしている。1階受付が充電スペースである。富山のライオンズクラブからの「頑張れ! 石巻」の花鉢が飾られていた。市役所内には安否確認を求めるビラや「デマに注意」のビラ、被害状況をまとめた地図、被災者への種々の証明書発行に関する注意、…etcとにかく被災に関する様々な書類が掲示されていた。

8:00
 6時から2時間近く充電(寒かった)。市役所の2階も見て回った。職員が部署ごとにミーテンィングをしているのが目についた。彼らの中にも被災して家族や家を亡くした方がいらっしゃるだろうし、ITが崩壊状態の中で膨大な量の情報処理をこなしているであろうから、心身の負担は大変なものであろう。大事にしてほしいと思う。

市役所を出て鋳銭場の方面へ。菓子屋「まめや」の建物はしっかり残っていた。千石町あたりになると、ホテルの袖看板が地面に落っこちていたりして、被害が目立った。グランドホテルは外壁のはがれ落ちているところや、敷地内の地面に段差ができているところなどがあった。もはや避難所ではなくなっており、閉鎖されていた。

あとで鈴木克くんに聞いたところでは、水道の復旧が完全でないことが大きいという。まだ水道の圧が十分ではないため、上階まで水が通らない。それさえあればすぐにでも営業を再開したい。とりわけ復興のためにこの地を訪れる人たちの宿泊施設として稼働したいというホテル側の意向ということであった。

鈴木くんの家の周りを散策した後、立町と中央3丁目の間の通りを抜け、寿町を通ると、前からキクちゃんが歩いてきた。「駅に行くの?」と聞くと「トイレに行ってくっから。」水道が通じていないので、小はともかく大は駅前のトイレか、最近は旧丸光跡の自衛隊の簡易トイレを使う必要がある。キクちゃんとしては行き帰りの途中に炊き出しがあったり、知り合いと会って情報交換できたりするので、駅前まで行くらしい。すれちがって、50mぐらい過ぎてから、「おかあさーん」と呼んで振り返ったところを写真を2枚撮った。

9:00
 帰宅して朝食をとっていると、9時半過ぎぐらいだろうか鹿島台の正志さん一家がいらした。昨日来たので、今日は来ないのでは?と言っていたので、みなびっくり。この日もお手伝いに来たとのことで、あわてて外に出て、昨日の続きに入った。昨日かなりのところまで片付けが進んでいたので、この日は一番奥の冷蔵庫のところまで汚泥と瓦礫の撤去が進んだ。よしひこさんと私で水を吸ってグダグダになった段ボール、それに入っていた売れ残って長年置かれていたため缶が腐食して中身が漏れている缶詰やら、何でこれがあるんだという紹興酒やらワインやら、いろんなものを片付けながら、汚泥を土嚢袋に詰め、何とか倉庫の奥の方まで片づけた。それがちょうどお昼ぐらいであったが、鹿島台の皆さん、この日は午後から予定があるとのことで、食事はとらずに帰られるという。そして今日も差し入れをいただいた。うどんである。

キクちゃんは駅までトイレに行ってから帰ってきたのが11時頃だったので、忠典が「何やってだの?」とちょっと怒っていたが、キクちゃんは途中で知り合いに会って、誰かが亡くなった情報があったため、話し込んでいたのであり、正志さんが来ることも知らなかったのだから、責める筋合いではないのだ。ただ正志さんたちが帰ると言っている時に、2階から「あら、お昼食べていがい。」と言って、一向に降りてこないのはどうかと思った。忠典が「何だい、帰るんだがら降りてきたらいいっちゃ」と言うと、妹思いの正志さん、「いや、司令塔は上にいるもんだ。」これを聞いたキクちゃん、「アーハッハハ、司令塔は上にいるもんだ、が。アーハッハハ。」と一人バカ受けしているのを見て、忠典、「何だい、あんだだけだっちゃ、ウゲでんの。」とツッコンでました。でも天然のキクちゃんにツッコんでも無駄で、キクちゃんの「司令塔は上にいるもんだ、が。アーハッハハ。」は何度も繰り返されるのでした。

そういうわけでこの日も記念撮影をして正志さん一家はお帰りになったのである。お陰様で倉庫は汚泥と瓦礫撤去はほぼ完了です。作業も楽しかったです。本当にありがとうございます。

14:00
 お昼を食べて、2時頃から写真を撮りに外出した。

まずは住吉公園に向かう。宮城交通跡地から川沿いにある遊歩道を歩く。元の姿が記憶にないのでその時は気づかなかったが、鉄の手すりの根本が水没しているのは、地盤が下がったかららしい。カモメが一羽、散歩していた。

すぐ先が住吉公園。橋が架かった小さな島は「雄島」といい、写真を撮りながらそちらに渡ろうとすると、前を歩いていた警察(機動隊)と思しき二人の方から、「地元の方ですか。」と声をかけられる。「現在の住まいはちがいますが、ここの出身です。」と答えると、「この島はこんなに下がっていましたか。」と言う。たしかに見ると、川の中心側が水没している。「そう言えば、こんなに低くはなかったですね。昔よく遊んだから分かります。」と言った。「そうですか。やはり地盤が沈下したのかもしれません。大潮(おおしお)になると危ないですから、気を付けてください。」私は「ありがとう。警察の方ですか。」と訊くと、「山口県警です。」。日本全国から来ているのだなとあらためて感じる。

私が行った時はかなり川の水位が高かった。陸地と雄島の間はよく底が見えていたものだが、この日は全く見えなかった。東屋(あずまや)の屋根は柱ごと引きちぎられてなくなっていた。気が付くと、先刻の機動隊の人が雄島の川寄りの水に浸かったあたりで靴や手を洗っていた。

公園と神社を見る。あたりには瓦礫が積みあげられている。本殿は無傷に見える。社務所らしき建物はかなり破壊されていた。鐘楼は無事のようだ。かつてあったブランコは見当たらず、代わりに災害用トイレが二つ設置されていた。このあたりの松の木は、雄島のものも含めて、元の向きのままのものは少ないのでないかと思えた。鐘楼の陰に渡島の東屋の屋根が残っていた。

住吉公園から橋通り方向に引き返し、内海橋の袂(たもと)から川沿いを門脇方面に向かう。石巻商工信用組合のビルの二階の窓にクルーザーらしき船が船首を突っこんでたてかけたような形のまま放置されていた。さらに進んで門脇1丁目あたりで大きな漁船が乗り上げ道をふさいでいた。何台も車がそちらに向かっては引き返してきていた。私も通れないので、広小路にいったん戻り、佐藤外科の方に向かう。滝川さんの前にあった大きな船は撤去されていた。しばらく行くと、ネットでサクサクおからクッキーを販売していた釜屋さん(お菓子屋)が見えた。建物は残っていたが内部は完全に破壊されていた。この店も寄ろうと思っていただけにとてもとても残念だ。営業再開できるだろうか。復活を願う。さらに行くと、NTTのビル。その脇の角にあった「二色餅や」さんの建物がなくなっていた。さらに進むと、かつてお世話になった恵比寿内科・小児科があるはずだが、瓦礫や船が道路を塞いで通れないので、また川岸に出た。

門脇1丁目から2丁目の川岸の一帯は、汚泥が川側の端に寄せて積みあげられていて、ところどころでは冠水していた。そこを通る車は多少水に浸かりながらの通行を余儀なくされた。川岸の家や商店はことごとく浸水しているわけだが、3週間経過したにしては片付けが進んでいないところが多いという印象を持った。おそらく水辺だけに、再度の津波や浸水を恐れて、なかなか作業をしに戻ることが難しいのかもしれない。ボランティアの人達が泥かき作業をしている姿も目立った。この日はキリスト教系の団体が目立った。女性も力作業に従事していた。右手には、一周忌に写した「山形みそ」の煙突がまだ立っていた。

門脇1丁目の川沿いは、川沿いの割には建物が残っているという印象が強い。鉄筋コンクリートではない、木造や鉄骨と思われる2階建ての住居や仕舞屋(しもたや)や作業所が、建物自体は残っているケースが多い。もちろん1階部分は向こうが見えるぐらいにさらわれているのだが。これはおそらく、河口付近から押し寄せた波と瓦礫が、いったん日和山や門脇2丁目付近で堰き止められ、それが川幅の広いこのあたりに流れこむ時に、ドップラー効果のように迂回したえと考えられる。建物が立てこんでいることも、孤立して波の直撃を受けないで済むというふうに良い方に作用したのではないか。

門脇2丁目あたりにくると、日和大橋が見えた。かなり渋滞しているのが遠目にもわかった。このあたりを右に曲がると称法寺に通じる通りだというあたりで右に曲がった。

そこはかつての門脇ではなかった。

まず、かつては建物が視界を遮って遠くまで見通すことができなかったのに、きれいに遠くまで見えるのである。日和山に登ることのできる、祠のある階段もきれいに見える。かつての神秘的な通り道があっけらかんとむきだしにされた。

そして、門脇1丁目と2丁目を結ぶ道路はうず高い瓦礫で完全に通れなくなっていて、自衛隊が重機で撤去作業していた。しかし、そこの道を通すだけでもかなりの日数が必要に思われるほどの瓦礫の量だった。瓦礫といっても、その中には流されてきた家が数軒、車も数台、その他もろもろがぎっしり、おそらく数十メートル分厚い壁のよう立ちはだかっているといった状態である。

あまりの瓦礫の量に、いろんなものを通り越して言葉がない。

かつて斎藤商店さんや岩間文七商店さんがあったあたりを通り過ぎる。土台だけが残っていて、建物が残っているところはほとんどない。建物は破壊されて瓦礫と化しているか、ある程度原型をとどめているものがいろんなものをなぎ倒し巻き込みながら日和山の根っこあたりに押しこめられている。

左手に、瓦礫の中を地面を深く2mぐらい掘って作業している重機があった。近くでは、その家の持ち主なのであろうか、若い夫婦が、そこから少し離れて自衛隊員が、作業を見守っていた。

西光寺の前にくる。山門はなくなっていた。正面の石畳で西光寺とわかる。石畳には小さな花鉢が数個置かれていた。

左に曲がって称法寺に向かう。門と思しき場所に着く。門のすぐそばに、どこかの女の子や男の子を写した写真のアルバムが瓦礫に埋もれてあった。置かれていたのか、ただそこにあったのか分からなかったので、手を触れなかった。今にして思えば持ち帰ればよかった。雨風にさらされて傷んだり飛散したりするおそれがあるからだ。ああいうものは市役所に震災遺失物として引き取ってくれるところがあるというのは後で知った。

称法寺の境内に入る。瓦礫の中に道が作られていて、瓦礫の狭間を通るような形で本堂に近づいた。本堂は以前に石巻在住の方のブログに掲載されていた通りしっかり立っていた。ただ、内部は想像していた以上に破損しているように見えた。建物の外枠は大丈夫だが、中は相当いたんでいるだろう。瓦礫がぎっしり詰まっているような状態である。本堂の柱と柱の向こうに、何かを探しているらしい数人の機動隊員の姿が見えた。

左手の墓と本堂との間にしきりのように立っていた塀のところで、海側から打ち寄せられた瓦礫が堰き止められたようになってうず高く重なっていた。だからこちらからは墓へは行けない状態になっていた。ご神木のところへ隣家が寄りかかっていた。右手の僧坊や食堂や庫裏は建物は残っているが、やはり1階の損傷はかなり激しいように見えた。

いったん元の通りに戻り、南側の通りに出て海側から墓地に入る。瓦礫と車と墓石が散乱していた。その様子は説明するより写真を見ていただいた方が早いであろう。一応、佐藤家の墓を探してみたが、とても私一人で探せるような状態ではなかった。

360度、視界が広がる。そこは、知っているけれど見たことのない光景であった。

広い場所に置かれると身動きが取れなくなる猫の気持ちが、少しは分かったような気がする。

西光寺に戻り、本堂と鐘楼の屋根があることを確認する。しかし瓦礫の山に阻まれて近づくことはできなかった。日和山へ登る階段のあたりで西光寺の墓地の一部を撮影して、日和山に登った。

日和山には、被害を受けた門脇の様子を見ようと人が集まっていた。石段には犠牲者追悼の花が供えられていた。私と同じようにカメラで被害の様子を撮影している人も多かった。私は日和山から門脇のようすをそれなりにカメラに収めたが、現場を近く見た感覚から、山の上から写したものにはあまり意味が感じられなかった。それよりカメラを回している人たちの方を撮ってしまった。自分自身を写すように。

中瀬のようすは日和山から見て、はじめてそのありさまが分かった。元々建物が密集していたわけではないが、それにしてもそこにあったものがなくなってしまっていた。萬画館も建物は残っているが、かなり動いたようなので、あのままでは使えまい。復活させる声もあるが、お金がかかることだけに、どうなるか。私はまだ行ったことがなかった。もし復活したならば、是非行きたいと思う。だから、個人的には復活させてほしいと思う。駅前からのあのイメージ造りは、やはりなかなかユニークだ。

日和山から釜工業港の方面も撮ったが、あまりようすがとらえきれなかった。門脇のようすは分かったが、南浜町あたりのようすはまだ私はつかめていない。

鹿児神社前には救援物資だろうかトラックが停まって荷卸しをしていた。茶店はふつうに営業していた。

16:00
 撮影中に、とうとうデジカメのバッテリーが切れてしまった。スペアも使い切ったので、充電をしにまた市役所に行くことに。

18:50
 市役所で1.5時間ほど充電。しかしフル充電にはバッテリー1個につき4時間かかる。全然足りない。大文字屋の夕食時間になるので、帰宅。翌朝また早起きして充電に来ることする。

19:00 
 7時過ぎに大文字屋に戻り夕食をとる。翌日の予定を確認する。翌3日はキクちゃんが仙台のモコちゃん宅に行く予定。私はまだ撮影したいところもあったし、山上くんや坂本くんと会う約束もあったので、朝は一緒に出て別行動ということに。女川のおばちゃんおんちゃんに本当に会いたかったが、お預けである。


この日の夕飯のメインは鹿島台の差し入れの「うどん」である。配給のおにぎりやパン、昨日の差し入れのおひたしやサラダもあり、カレーも作ってあったので、おかずは十分である。うどんをふつうのおつゆで食べるか、カレーうどんで食べるか、恵美ちゃんが決を採った。最初につゆで食べられるようにして、あとお好みでカレーうどんで食べたい人はそうすればという話になった。私は最初からカレーうどんである。というか私だけだったか……。やや細めのうどんは食べやすく美味しかった。

この晩は9時過ぎに就寝。






4月3日

7:00
 起床。寝坊した。深夜1:30頃になぜか目覚め、3:30頃まで眠れなかった。それでも市役所まで行って数十分充電。

市役所から立町、小柳町、マルシン質店の前を通る。こういう裏の細い道ほど、手が届いていない。瓦礫とひっくり返った車と激しく損傷した民家が野ざらしになっている。角のタバコ屋さんから立町に出る細い道は瓦礫で通り抜けできなかった。

寿町、橋通りと出て、旧ホシノ洋品店があった敷地のテナント内の現在は集会所になっているところに寄る。ここは毎日8時になるとアイトピア(中央商店街)のミーティングが行われるのだ。物資の配給やボランンティアカード申請などもこの時行われる。大文字屋からはキクちゃんが来て、その他にも京屋さん、もりやさん、秀丸屋さん、春潮楼さん、等々いらしていた。(30~40名)ここで「まるみ屋」の英明くんにも会った。少し疲れているように見えたが、「おお」とお互い挨拶した。(ポッポとはもう少し話をしたかった。)この日は、生協の店長さんから配給と挨拶の言葉があった。生協もアイトピア店は大きな被害を受けて再開の見通しは立っていないが、まずは蛇田店の営業再開に全力を挙げている。アイトピア店も再開できるようにがんばっているというような話があった。みなさんの元気と熱気を感じた。

8時半頃帰宅。朝食を済ませ、9時過ぎ、坂本くんのいる公民館まで車で乗せていってもらう。車は仙台のモコちゃん家に向かう。

公民館には坂本くんに会うことが目的で行った。公民館に入ると、受付に坂本くんはいた。ちょうど安否確認に訪れた人の対応をしていたところであった。ひと段落したところで挨拶。館内を案内をしてくれた。

中央公民館は石巻教育委員会の事務所があって、坂本くんの職場であるが、震災後に避難所になっていたため、彼も本来の業務ではなく、避難所の対応に追われることになった。そもそも彼自身、3月11日の地震の時には、ニュージランド出張のために成田エクスプレス車中にあり、そこで地震に遭い、列車を降ろされ、西船橋まで歩かされ、そこで宿が見つからないので(都内にも帰宅難民が多数いたわけだが)、船橋に宿があるかもというので移動したが結局なく、その晩はスナックで夜を明かし、翌日から何とかカプセルホテルに入ることができ、それからは、昼は永田町の都道府県会館で情報収集、夜はカプセルの生活を1週間ほど続け(その間に一度私も都内で会ったが、何しろ移動手段が全くなかった)、その後、小田原の弟さんの家に身を寄せ、それから新潟経由仙台行のバスのチケットを入手、日本海経由で仙台入り、仙台からはたまたま教え子の親御さん運転の新聞輸送トラックに便乗することができ、20日に帰石したのである。その時の彼からのメールである。

「夕べ新潟から高速バスで仙台に着き夜中前任校保護者が新聞配送の仕事トラックで石巻まで来ました。新潟仙台はガソリンスタンド状況以外は災害とは無縁のようでしたが石巻市内は想像以上の凄まじいものでした。道路脇の車の山の先には消えてしまった街が埋め立て地のようでした。家族親類は無事で自宅も玄関物置の浸水程度でした。車のエンジンはやられましたが付近の惨状からはよくあの程度で収まったと言う感じでした。職務につきましたが生涯学習関係業務は一時停止し避難所運営に当たっています。先が見えませんが命あることに感謝し頑張りたいと思います。」

公民館内には大ホールだけでなくいくつもの会議室があり、それらの部屋にも分散して皆さん生活していた。館内には日本中から届いた被災者への激励の言葉(とりわけ子供たちの手製のカード)が掲示されていた。

いったん公民館を後にして日和山を登る。まだ撮りたいと思っていたスポットがあったからだ。最初にサトウ商店と金兵衛茶屋、それと公園内のアヒル舎(鹿はなぜかいなかった)、工房かざぐるまさん、それから東側の東屋のあるあたりから、中瀬を撮った。ガンジの実家の前の坂を下り、正月帰省の際に撮った中央1丁目の通りを撮った。WADA理髪店は前日通った時には、すでにお客さんを散髪していた。中村旅館ははげしく損傷していた。北条勉くんの実家である新田薬局に寄ると、誰もいなかったが、2階か公民館避難所にいるという貼り紙がしてあり、声をかけても返事がなかったので後でもう一度寄ることに。魚長さんや鳥そうさんを撮った後、中村旅館さんの横道に入り、その先が建物が崩壊して通れなかったので、水沢旅館さんを右に曲がって、かつて「ちゃきん(茶巾)や」のあった通りを撮る。この辺の、旧市街だが人通りの少ないところはやはり片付けが遅れているようであった。川寄りの菊田旅館さんの通りに入り、途中倒れた家が道を塞いでいたので引き返し、二色餅やさん、林そろばん塾さん、成田花勝園さん、永厳寺前から日活パール、蛇の目寿司、千葉肉屋さん、そこからお不動さんのある通りに入り、お不動さんに山上くんを訪ねたが不在だったため、携帯番号を渡してもらうように炊き出しの人に託し(お不動さんは常時給水所にもなっているらしく自衛隊員が待機していた)、その後山上くんの自宅にも寄ってみたが留守だったので、永厳寺の境内に。ここではボランテイアの方々が井戸水で靴を洗っていた。こういう時に井戸水は役立つ。こちらは本堂に津波の被害は見られない。山門に近い建物には多少損傷が見られた。ここから石巻小学校裏に出て、泉町の坂を羽黒山寄りに20mほど登って、恵美ちゃんが車がぷかぷか浮いているのを見たあたりを撮ろうと思ったところでまたバッテリー切れである。ちなみにこのあたりは、民家のようすを見ても水はほとんど来なかったようである。

12:00
 充電をしに再度中央公民館を訪れる。坂本くんに許可をもらいデジカメの充電をする。館内の一般開放のPC(インテル社提供…今回の災害あっての提供かどうかは不明)を使えるとのことなので、充電の間にブログを更新することができた。さらに「配給余ってっから」と言って、坂本くんはパン3個とジュース1本を差し入れてくれた。何か至れり尽くせりである。

充電中に山上くんから携帯に電話が入り、携帯番号が交換できたということで、何かあったらお互いに連絡を取り合いましょうと話した。また北条さんが避難所にいないかどうか公民館の事務所に問い合わせたところ、名簿に名前はあるが、不在とのこと。

14:00
 2時間後、これならあと100枚ぐらい撮れるだろうということで出かけようと思ったが、公民館にあった「石巻かほく」の記事を見ているうち撮っておきたくなり、4月3日から3月11日に遡(さかのぼ)る形で撮影した。この写真はPCで拡大表示すれば読むことができる。たとえば、→http://gallery.nikon-image.com/album/2343202/photo/20647536/large/?at=DnKJQ1bCleLefKVQ2ofu%2Fakp%2BInqaQyM%2FSx7yFlHBXYbYlwXwDUkKtOGSzb0YQJn

後で気づいたのだが、私の使っている Nikon coolpix S8000 は、1400万画素超で、これは裏面Cmosセンサーで夜景撮りに強い新製品S8100やS9000よりも上である。他の写真でもそうだが、非常に高精細で細かいところまでよく見える。おそらく解像度だけなら一眼に近いレベルではないかと思う。だから私はS8100に買い替える気にならず、買い替えるとしたら、同じ画素数で裏面Cmosが付いたものか、一眼しかないということになる。

 石巻かほくを撮った分さらに1時間程充電し公民館を出る。坂本くんんの姿が見えなかったので、メールでお礼をしておいた。

15:00
 なぜか再び日和山へ。サトウ商店へ、石巻焼きそばを食べにである。石巻に来て、これを食べないと、とこんな時だが思った。もちろん店が開いていることが確認できたからだが。ところが行ってみると、「売り切れ閉店」。隣の金兵衛茶屋も閉まっている。それだけ人が出ているということである。

それではちょっと見て行こうと思い、以前に寄れなかった工房かざみどりへ。ラッキーなことに「コーヒー無料サービス」である。シュークリームが美味しいので有名なこのお店。(ネット通販であるが。)店内では、別に開いている「クレイアート」や砂糖やメレンゲで作るとういう「シュガーデコレーション」の教室の作品を展示している。商品ではないのだそうだ。くわしくは→http://gallery.nikon-image.com/album/2343202/photo/20647611/large/?at=iB2560GtGloEPvCB1VC6t%2FU0MvUbeXS0Zaizfxwsc9bKL0hPYguA60uq%2FBxAyfXc

せっかくだから焼き菓子を買い(「コーヒー無料だからって買わなくてもいいんですよぉ」とママさん)、店内の作品を撮影する。店主のパティシエがメレンゲを作りながら、日和山から見た津波のようすを語ってくれた。「…黒い水の塊(かたまり)が、どんどん町を飲み込んでいくんですよ。あれは忘れられない。…」

すると、店先に「あのお尋ねしたいんですが…」と一人の婦人が現れる。「このあたりに○○さんという方が、知人の家に避難していると聞いたんですけど、ご存知ないでしょうか。」聞けば、探している人とは友だちなのだが、門脇に住んでいて、津波後一時門脇中に避難していたのだが、その後日和山の知人の家に移った」と「茶飲み話で聞いたようなもんなんですけど」と言いながら、説明してくれた。かざみどりのママさんが、「それじゃあ、ちょっと近所を聞いてきますね。」と言って出て行った。見つかるといいなと思いながらコーヒーを飲んでいたが、しばらくしてママさんが、「いらっしゃらないみたいですね、全部聞いたわけじゃないですけど。」と帰ってきた。情報の確度が定かではなかったが、安否確認の方法に詳しくないようだったので、婦人に声をかけ、情報の内容を確認すると、茶飲み話というわけではなく、門脇中の避難所で職員の方からきちんと聞いた話であることがわかった。「インターネットで調べられますから、調べてみますよ。」「インターネットって何ですか。」「えーと、コンピューターとコンピューターをつなげて情報をやりとりできるようにしたものです(汗)。」とりあえず携帯でgoogle person finder に当たってみたが、ヒットしない。探している方のお名前も分かっているので、婦人の連絡先と私の連絡先を交換し、「門脇だったら石巻小学校が避難所になっている場合も考えられますから、そちらも私が見てきますから。それで、ネットで調べてわかり次第連絡します。」ということで別れた。

結局、私が自宅に戻った翌日に、person finder に情報が入り、探している方はお子さんの家にいらっしゃることがわかり、このご婦人と連絡をとることができた。ご婦人は「最近の機械はよく分からないですけど、こんなに便利なものかと本当に感心しました。」とおっしゃっていた。私も同感で、ネットの力には感心というか驚いている。

公民館に寄った後、石巻小学校を撮り、新田薬局に再度寄ると、北条くんのご長男さんがいらっしゃった。聞くと北条くんは仙台でご無事とのこと。それはよかったのだが、こちらも1階は被害が大きいので、お見舞いを申し上げて辞去した。

16:00
 これで、ようやくするべきことが終わった。仙台へは17:00発のバスに乗る予定だったが、石巻大橋の向こうにあるバス乗場まであと一時間、ちょっと間に合うかどうか不安があったが、距離にして4kmもないだろうから大丈夫だろう。寿町から、住吉公園を川沿いに北進し、川べりの道の陥没箇所を撮影しながら、石巻線の遮断機の棒が折れた踏切を渡り、30年前とはだいぶ様変わりした石巻大橋付近を歩いて、消防署脇のだだッ広いバス乗場に到着した。

17:00
 バス乗り場にはすでに40人程度並んでいて、乗れるかどうか微妙な感じだったが、バスは補助席を全部降ろしてしかも満員という小学校の遠足以来の状態で出発した。途中渋滞があり、到着は20:00近くになったが、23:00の夜行バスには十分余裕の時間である。

これ以降のことは、今回の帰省に本質的なものは含まれていない。これで今回の帰省は終わった。

これ以降のこと、この帰省の感想については、エピローグとして後日載せたいと思います。

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